陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

たとえ気取ってたとえてみても

2007-09-23 22:32:50 | 
ちょっと前の表現だけれど、わたしは「カリスマ美容師」という言葉を初めて見たとき、思わず笑ってしまった。
「カリスマ」という語には、人間をはるかに超えた資質を持つ偉大な存在である、というニュアンスがあるし、一方、「美容師」というときわめて身近な存在だ。「月」と「すっぽん」というと、美容師さんに失礼かな、けれど、カリスマという言葉は、たとえば「皇帝」のようなニュアンスをつれてくるものだ。カリスマ性のある美容師、というのが、世界にただひとり、美容業界に皇帝のように君臨している人を指しているならいざ知らず、仮に勝れた技術をもっていたとしても、「カリスマ」と引き合うような言葉ではない。

そういうものすごく意味内容のちがうものを強引に結びつけているところがおもしろかったし、この言葉を作った人の、そう呼ばれる一群の美容師に対する皮肉な視線を感じたのである。

実際にその言葉は、皮肉なニュアンスというよりは、そう呼ばれる人はメディアで脚光を浴びるように働いた。「カリスマ美容師」という肩書きがついた人は、頻繁にTVや雑誌でとりあげられ、大勢の女性がずいぶん余分なお金を払って、そういう人に髪を切ってもらったわけだ。

ところがあらゆる言葉がまたたくまに手垢にまみれ、くすんでしまうように、その言葉もあっというまに古くなり、「カリスマ美容師」も脚光を浴びることもなくなってしまう。

この現象は、わたしたちにつぎのことを教えてくれる。
言葉が現実を作りだし、さらに現実は言葉を置き去りにして変わっていく。

いや、こういった方がいいのかもしれない。そんな美容師は、そうした言葉とは無関係に、昔からいたし、あるいは、いまもいるのだろう。つまり、言葉によってわたしたちの物の見方が変わり、その言葉を置き去りにして、わたしたちの見方はさらに変わっていくのだ、と。


新しいレトリックというのは、わたしたちの物の見方を変えてしまう。
昨日も見た「頭ならびに腹」の冒頭の文章をもういちど見てみよう。

「沿線の小駅は石のように黙殺された。」というのは、レトリカルな表現である。
特急は沿線の小駅を通過した、と言えばいいところを、わざわざそんな気取った表現で言っているのだから。

ところが沿道の小駅にいると仮定してみよう。目の前をすごい勢いで電車が通過する。ここだって駅なのに。自分だって電車を待っているのに。「黙殺される」というのは、駅で待っている人から見れば、その通りに実感される言葉なのである。
「特急が全速力で通過する」というのが平叙文であるとすれば、これは事態を俯瞰している誰ともつかない人の文章であって、駅にいる人から見れば「石のように黙殺される」というのは現実的な表現なのである。

「石のように黙殺された」「沿線の小駅」は、駅のことを言っているだけではなく、そこで待つ人のことも指している(このような比喩を「換喩」という)。
特急電車が人のように擬人化されているのに対し、駅で待つ人は「小駅」という換喩によって、「もの」としてあらわされているのだ。

特急は、機械文明の象徴として登場する。
人間は、人間は「満員」という一語に押しこめられ、さらに「駅」という換喩であらわされることで、従来の人間の位置、つまり主人公から転落し、そのかわりに特急に代表される機械が世界の主人公となることが、この一文で暗示されているのだ。明るい機械文明の世界では。

 真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。

というのは、きわめてレトリカルな表現と考えられてきた。だが、「新しい世界」では、現実的な表現とも言える。

わたしたちがこの横光の文章に何の新しさも感じないのは、このレトリックが古くなってしまったというより、「新しい文明社会では機械が人間に換わって主人公となる」というものの見方の方が、いまのわたしたちにとって古くさいものになってしまったからなのである。

改めて思う。
言葉は事実を表現するものではなく、事実に対するわたしたちの見方を表現するものだということを。

(もう少し「機械」の表現について明日も続けます)