語り続けて、いつまでも 伊勢湾台風から60年 (2019年9月26日 中日新聞)

2019-09-26 07:57:16 | 桜ヶ丘9条の会
語り続けて、いつまでも 伊勢湾台風から60年 
2019/9/26 中日新聞
 東海地方などで五千人以上が犠牲になった伊勢湾台風の上陸から、二十六日で六十年。体験を語り続けることが悪夢を繰り返さない方策の一つでもある。
 <ちょろちょろどろ水が入ってきたとたん、タタミがふわっとうきだしてきました。おとうさんが、みんなをかかえて、台所へ行きました。その時、妹の節ちゃんが「おとうちゃん、こわい」とさけびました。その声が終わりになるとは思いませんでした>

涙、涙の作文


 名古屋市南区柴田町の元学習塾経営加古美恵子さん(70)は、小学校四年生で伊勢湾台風に遭い、一家六人のうち両親と妹ら五人を失った。引用させていただいたのは、濁流の記憶と、自分だけが奇跡的に助かったいきさつを被災直後に「涙、涙で一気に書いた」(加古さん)という作文である。
 <おとうさんは、私たちをだきかかえて、何もつかまらずに、ながれていきました。ふと気がつくとおかあさんがいません。私は「おかあちゃんがいない。材木の下になった」とさけびましたが、どうしようもありません>
 伊勢湾台風では、最高三・八九メートルの高潮が押し寄せて、堤防が決壊。名古屋港の貯木場三カ所から数十万トンの木材が流出し、洪水とともに住宅街を襲って被害を増した。当時の新聞には「木材は、水車のように縦に回って家々を襲った」とある。
 <私は、二度しずみました。二度目に、思わず妹につかまっていた手をはなしてしまいました。しばらく流されていってそばを流れていた材木にしがみつきました。それから「おとうちゃーん、おかあちゃーん」と父母をよびましたが、何も返事がありません>
 十五年ほど前から、毎年九月二十六日に母校の同市立白水(はくすい)小学校に招かれ、台風の体験を話している。「家族を失い、思い出したくない一夜です。でも、誰かが語り継がねば、の思いで」。作文にはないが、流されるとき濁流は大きな渦を巻いていたという。
 <ふと気がつくと、私がつかまっている材木にもうひとり男の子もつかまっていました。(一キロほど一緒に流された後)北の方にトラックがあり、のっている人がかいちゅう電とうでてらしていました。「助けてー」とさけびトラックにとびのると、おとうさん、おかあさん、妹たちの事が思い出されてなけてきました>
 男の子とは、トラックにたどり着いた際に、はぐれた。「私は、運が良かったのでしょうか」と加古さんは自問自答する。「みんなの分も頑張らないと、と一生懸命生きてきた」。きょう二十六日も、白水小で体験を語る。

スーパー伊勢湾台風


 これを「社会が未発達だった六十年前の出来事。今はそんなことは起きない」と見なすことはできるのだろうか。答えは「否」のようである。
 国土交通省中部地方整備局は、日本で最大規模の台風(一九三四年室戸台風、上陸時九一〇ヘクトパスカル)が伊勢湾台風と似た経路をたどる「スーパー伊勢湾台風」が来襲しうると想定。同局などによる「東海ネーデルランド高潮・洪水地域協議会」(TNT)は、死者最大二千四百人、被害額は二十兆円にのぼると予想する。
 被害は伊勢湾台風と同じく、海抜ゼロメートル地帯が中心になる。伊勢湾岸で三百三十六平方キロあり、九十万人が住んでいる。東京湾岸に百十六平方キロ(百七十六万人)、大阪湾岸にも百二十四平方キロ(百三十八万人)あり、東京圏や大阪圏にスーパー伊勢湾規模の台風が来れば、甚大な被害が予想される。
 伊勢湾台風を契機に名古屋港には沖合の高潮防波堤などが整備された。大同大の鷲見哲也教授(流域水文学)は「伊勢湾並みなら高潮は何とかガードできそう。しかしスーパー伊勢湾では守り切れない」と話す。「貯木場は移設されたが、路上や駐車場、港で輸出を待つ自動車が濁流に乗り“凶器”になり得る」と危惧する。

行政は早めの手を打て


 避難が大切。しかし、六十年前の加古さんたちに、適切な避難勧告・指示は出なかった。もっと早く避難できれば、犠牲者は減らせただろう。名古屋南部の惨状を把握できていなかった行政の初動の遅れである。実際、愛知県碧南市の碧南干拓地では、日没までに全住民四百五十五人が避難し犠牲者はなかった。TNTはスーパー伊勢湾の場合「上陸九~十二時間前に避難指示」を求めている。
 今月、千葉県などを襲った台風15号による強風では、大規模な停電や行政の初動の遅れなどで、住民の不自由な生活が長期化している。水害が猛威をふるった伊勢湾台風との対比は難しいが、六十年たっても課題は同じに見える。早め、早めの手を打つことだ。