アフガン誤算、最後まで 若い米兵犠牲、報復で子ども巻き添え (2021年8月31日

2021-08-31 16:02:33 | 桜ヶ丘9条の会

アフガン誤算、最後まで 若い米兵犠牲、報復で子ども巻き添え

アフガン誤算、最後まで 若い米兵犠牲、報復で子ども巻き添え

2021年8月31日 (中日新聞))
 アフガニスタン駐留米軍撤退は三十一日の完了直前で混迷を極めた。二十六日の首都カブールでの自爆テロで死亡した米兵十三人は、二〇〇一年九月十一日の米中枢同時テロを直接記憶していない若い世代ばかり。「次世代を戦地に行かせない」。撤退にこだわったバイデン米大統領の願いとは裏腹の悲劇。報復攻撃で子どもが犠牲となる大誤算も続き、暴力の連鎖が長期化する懸念は強い。

失態

 「アフガンの質問には答えない」。バイデン氏は二十九日、首都ワシントンで大型ハリケーンについて演説した後、記者の質問を遮って、いら立ちをあらわにした。
 その直前、バイデン氏は東部デラウェア州の空軍基地で、カブールの空港付近で起きた自爆テロで死亡した米兵の遺体の帰還に立ち会っていた。犠牲となった米兵は最年長でも三十一歳。残り全員が二十代だ。二十年前の同時テロ直前に生まれた最年少の二十歳が五人いた。
 「次世代の米国人を派兵することはできない」。撤退で「米史上最長の戦争」を終わらせる決意を示してきたバイデン氏。自らの決断に伴う国外退避作戦中に、あどけなさを残す若い米兵が命を奪われる失態を犯した。

裏切り

 戦争の最後に遺族となった人たちの怒りは政権に向く。「バイデンは息子を裏切った。そうとしか言いようがない」。死亡したカリーム・ニクイ海兵隊上等兵(20)の父は米メディアにぶちまけ、空港周辺の警備をイスラム主義組織タリバンに委ねていたと米軍上層部も批判した。
 ライリー・マクコラム海兵隊上等兵(20)は初の海外派遣中。妻は第一子を妊娠中で、来月父親になるはずだった。ワシントン・ポスト紙は「(犠牲者の大半が)9・11の時は赤ちゃんで、戦争下にない米国を知らない」と指摘した。

恨み

 同時テロ後に始まった米軍のアフガン駐留は最後まで失敗続きだった。四代の大統領の下、二十年間で国に殉じた米兵は二千四百人以上に達する。
 巨費を投じて訓練したアフガン政府軍は四月の米軍撤退表明後、タリバンの攻勢に遭い次々と投降。撤退期限前の八月十五日には首都が陥落した。民主政権は一瞬で瓦解(がかい)し、タリバンが実権を再び握った。
 この結果、タリバンは米軍や政府軍が残した軍用機や最新鋭兵器を手に入れた。米野党共和党下院議員は「タリバンを防ぐ名目で米国の納税者を犠牲にして準備した武器が、そっくりタリバンに渡った」と憤る。総額八百五十億ドル(約九兆三千億円)に達する計算という。
 バイデン政権は自爆テロ後「追い詰め、代償を払わせる」との言葉通り翌日に過激派組織「イスラム国」(IS)系勢力の「ISホラサン州」に無人機攻撃を実施。続いて二十九日にもISホラサン州による自爆テロを阻止しようと車両を無人機で空爆したが、子どもを含む市民も巻き添えに。人権重視を掲げてきたバイデン氏の痛手は大きい。
 「撤退は米国を危険にさらすことになる」。共和党重鎮ロムニー上院議員は二十九日のCNNテレビで政権を激しく批判した。置き去りにされ、タリバンの恐怖にさいなまれる元協力者。空爆に巻き込まれる民間人…。米国への恨みは撤退後も積み重なる。バイデン氏の決断は新たな火種を生んでいる。 (ワシントン・共同)

自衛隊あすにも撤収

 政府は、タリバンが実権を掌握したアフガニスタンからの退避支援のため派遣した自衛隊を来月一日にも撤収させる方向で調整に入った。隣国パキスタンの拠点に航空自衛隊輸送機を待機させていたが、八月末のアフガン駐留米軍撤退後は首都カブールの空港の安全確保ができず、活動は難しいと判断した。政府関係者が三十日、明らかにした。
 近く国家安全保障会議(NSC)を開催し、菅義偉首相らが方針を確認。陸上自衛隊の派遣部隊や空自輸送機のC2とC130の計三機は日本に引き揚げる方向だ。
 政府関係者によると、アフガン国内には即時の出国を希望しなかった少数の邦人や、輸送対象の日本大使館や国際協力機構(JICA)のアフガン人職員と家族が最大で計約五百人残っている。

 

 アフガニスタン駐留米軍撤退は三十一日の完了直前で混迷を極めた。二十六日の首都カブールでの自爆テロで死亡した米兵十三人は、二〇〇一年九月十一日の米中枢同時テロを直接記憶していない若い世代ばかり。「次世代を戦地に行かせない」。撤退にこだわったバイデン米大統領の願いとは裏腹の悲劇。報復攻撃で子どもが犠牲となる大誤算も続き、暴力の連鎖が長期化する懸念は強い。

失態

 「アフガンの質問には答えない」。バイデン氏は二十九日、首都ワシントンで大型ハリケーンについて演説した後、記者の質問を遮って、いら立ちをあらわにした。
 その直前、バイデン氏は東部デラウェア州の空軍基地で、カブールの空港付近で起きた自爆テロで死亡した米兵の遺体の帰還に立ち会っていた。犠牲となった米兵は最年長でも三十一歳。残り全員が二十代だ。二十年前の同時テロ直前に生まれた最年少の二十歳が五人いた。
 「次世代の米国人を派兵することはできない」。撤退で「米史上最長の戦争」を終わらせる決意を示してきたバイデン氏。自らの決断に伴う国外退避作戦中に、あどけなさを残す若い米兵が命を奪われる失態を犯した。

裏切り

 戦争の最後に遺族となった人たちの怒りは政権に向く。「バイデンは息子を裏切った。そうとしか言いようがない」。死亡したカリーム・ニクイ海兵隊上等兵(20)の父は米メディアにぶちまけ、空港周辺の警備をイスラム主義組織タリバンに委ねていたと米軍上層部も批判した。
 ライリー・マクコラム海兵隊上等兵(20)は初の海外派遣中。妻は第一子を妊娠中で、来月父親になるはずだった。ワシントン・ポスト紙は「(犠牲者の大半が)9・11の時は赤ちゃんで、戦争下にない米国を知らない」と指摘した。

恨み

 同時テロ後に始まった米軍のアフガン駐留は最後まで失敗続きだった。四代の大統領の下、二十年間で国に殉じた米兵は二千四百人以上に達する。
 巨費を投じて訓練したアフガン政府軍は四月の米軍撤退表明後、タリバンの攻勢に遭い次々と投降。撤退期限前の八月十五日には首都が陥落した。民主政権は一瞬で瓦解(がかい)し、タリバンが実権を再び握った。
 この結果、タリバンは米軍や政府軍が残した軍用機や最新鋭兵器を手に入れた。米野党共和党下院議員は「タリバンを防ぐ名目で米国の納税者を犠牲にして準備した武器が、そっくりタリバンに渡った」と憤る。総額八百五十億ドル(約九兆三千億円)に達する計算という。
 バイデン政権は自爆テロ後「追い詰め、代償を払わせる」との言葉通り翌日に過激派組織「イスラム国」(IS)系勢力の「ISホラサン州」に無人機攻撃を実施。続いて二十九日にもISホラサン州による自爆テロを阻止しようと車両を無人機で空爆したが、子どもを含む市民も巻き添えに。人権重視を掲げてきたバイデン氏の痛手は大きい。
 「撤退は米国を危険にさらすことになる」。共和党重鎮ロムニー上院議員は二十九日のCNNテレビで政権を激しく批判した。置き去りにされ、タリバンの恐怖にさいなまれる元協力者。空爆に巻き込まれる民間人…。米国への恨みは撤退後も積み重なる。バイデン氏の決断は新たな火種を生んでいる。 (ワシントン・共同)

自衛隊あすにも撤収

 政府は、タリバンが実権を掌握したアフガニスタンからの退避支援のため派遣した自衛隊を来月一日にも撤収させる方向で調整に入った。隣国パキスタンの拠点に航空自衛隊輸送機を待機させていたが、八月末のアフガン駐留米軍撤退後は首都カブールの空港の安全確保ができず、活動は難しいと判断した。政府関係者が三十日、明らかにした。
 近く国家安全保障会議(NSC)を開催し、菅義偉首相らが方針を確認。陸上自衛隊の派遣部隊や空自輸送機のC2とC130の計三機は日本に引き揚げる方向だ。
 政府関係者によると、アフガン国内には即時の出国を希望しなかった少数の邦人や、輸送対象の日本大使館や国際協力機構(JICA)のアフガン人職員と家族が最大で計約五百人残っている。

 


『当たり前」を疑い続ける 週のはじめに考える (2021年8月29日 中日新聞))

2021-08-29 11:03:18 | 桜ヶ丘9条の会

「当たり前」を疑い続ける 週のはじめに考える

2021年8月29日 
 フランス革命期を舞台にした、約四十年前のアニメ「ベルサイユのばら」第一話を最近、見直してちょっと驚きました。
 近衛隊長になるのを拒んだ主人公オスカル(当時十四歳)の顔を、父親のジャルジェ将軍は目いっぱい平手打ちするのです。父親に突き飛ばされ、階段から転げ落ちる場面もありました。
 親などの体罰が法律で禁止された現代の目で見ると、随分乱暴に見えます。ただ放映当時に違和感を持った記憶はありません。家でも学校でも体罰が珍しくなかった時代だったからでしょう。
 ある時期の「当たり前」が通用しなくなる事例は近年、増えているようにも思います。一九九〇年代に放映が始まり、日本でも人気となった米国の連続ドラマ「フレンズ」の主要登場人物男女六人はすべて白人。多様性の欠如が指摘されています。

見えない偏見の罪深さ

 他者を傷つける可能性のある「当たり前」が時を経て「当たり前」ではなくなることは社会の成熟の表れでもあります。今の「当たり前」の中にも、「当たり前」にしていてはいけない事柄はまだ残っているのではないでしょうか。
 「理系は男性」という、無意識の偏見もその一つです。文部科学省の学校基本調査によれば、二〇二〇年度、理学・工学を専攻する大学生は、男子が約三十八万人に対し、女子は約八万人と大きな開きがあります=グラフ。
 親や教員の無意識の偏見が女子の進路選択に影響を及ぼしている可能性が指摘されています。身近に理系の女性のお手本がいないことも影響しているようです。
 「世界を変えた50人の女性科学者たち」(創元社)を読むと、男性優位の研究者の世界で分厚い扉をこじ開けてきた女性研究者たちの苦闘がしのばれます。
 ノーベル物理学賞を受賞した、マリア・ゲッパート・メイヤー(一九〇六〜七二年)が、米国で常勤の教授の職を得たのは五十代になってからでした。それまで無給だったり、無給同然の報酬の時期が長かったといいます。研究室やトイレの使用が許されず、地下室で放射化学の研究を続けた物理学者や、出版社の判断で共著に名前が出されなかった産業技術者もいます。
 これから未来を決める女の子たちにも読んでほしいと、ポップなイラストがちりばめられたこの本には、先駆者たちの力強い言葉も記されています。
 世界共通のプログラミング言語COBOL(コボル)を生み出した米国の科学者グレース・ホッパー(一九〇六〜九二年)は「最も有害な決まり文句は、『われわれはいつもこのやりかたでやってきた』です」と講演などで、変わる勇気を促しました。

ガラスのいばら除去を

 ようやくではありますが、変化の足音は近づいているかもしれません。政府はイノベーションを創出する人材育成のための具体策づくりに着手しています。高校段階で多くの生徒が文系を選択し、理数の学びから離れる文理分断が課題の一つと位置付けられています。とくにその傾向が顕著な女子にとっての障壁を取り除くことが重要になります。
 今月開かれた具体策づくりに向けた有識者の会合で、ジャズピアニストで数学研究者の中島さち子さんは、経済格差やジェンダー格差などの解消に国が取り組む重要性を指摘しました。格差によって十分な力が発揮できない人たちの中にある「眠っている創造性」に着目した発言でした。
 研究者に限らず、この国では多くの領域で女性の進出が遅れています。国の政策立案に加え、一人一人の心の中の「当たり前」が、女性の可能性を狭めるガラスのいばらをつくりだしてはいないか、見つめ直す時期が来ているように思います。
 今年春にフジテレビ系列で放映された連続ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」で主人公の建築家大豆田とわ子は、悩みごとが多い夜は数学の問題を解いていました。そんなドラマなどが増えていくこともいばらを取り除く一助になるかもしれません。性別に縛られず、だれもが好きなものに支えられ人生を過ごしていける社会が普通となるよう願っています。

 


学術会議問題 任命拒否文書開示せよ (2021年8月25日 晴 中日新聞))

2021-08-26 11:03:54 | 桜ヶ丘9条の会

学術会議問題 任命拒否文書開示せよ

2021年8月25日 05時00分 (8月25日 05時00分更新)
 日本学術会議の会員への任命を菅義偉首相に拒否された学者らが行政不服審査法により、政府に審査請求をした。拒否の理由を示した文書は本来、あるはずだ。開示に向けた速やかな対応を望む。
 学術会議の会員は法律で独立性を保障され、首相は推薦に基づき任命するにすぎない。だが昨年十月、形式だったはずの任命権を首相が持ち出し、六人の学者の任命を拒否。露骨な介入をした。
 憲法では「学問の自由」が保障されている。単純に「研究をする自由」ではなく、研究者の身分保障や政治的干渉からの保護などを定めた規定だ。それゆえ憲法学者などからも強い批判が起きた。
 六人の任命拒否には何か特別な理由があるはずである。なのに首相は「総合的、俯瞰(ふかん)的観点からの判断」などとあいまいな説明に終始し、明確な根拠が示されないまま今日に至っている。
 もっとも昨年十二月に国会審議の過程で杉田和博官房副長官と内閣府のやりとりを示す文書の一部が出された。「外すべき者(副長官から)」と書かれた文書だったが、それ以外は黒塗りで、理由も示されていなかった。
 当事者の六人らは今春、任命拒否の根拠や経緯が分かる文書などを開示するよう内閣官房や内閣府に求めた。だが、「不開示」や「文書不存在」の通知を受けた。そのため、今回、行政不服審査法に基づいて審査請求をした。
 今後は総務省の情報公開・個人情報保護審査会で、不開示決定の是非について審査が行われる。開示を求めているのは当事者なので、個人情報保護にも該当せず、開示すべき文書に当たろう。
 政府が文書を隠蔽(いんぺい)している可能性さえある。元裁判官や元検察官が入る同審査会は公正な目で判断し、早く結論を出してほしい。
 そもそも憲法上も疑義が持たれる決定で、その根拠となる文書を示さないことは、民主主義や法治国家の原則にも反する。それほどの重大事だ。
 本来ならば首相が進んで説明すべきだ。理由を言えないなら前例のない任命拒否をすべきでなかった。撤回すべきである。
 六人の中には安保法制などに反対した人もいる。仮に反政府的な言論が拒否理由ならば、戦前の思想警察さえ想起させる。言論封殺につながりかねず、到底うやむやにしてはいけない。

 


コツ箱の中、紙切れだけ 遠藤昭敏さん(2021年8月24日 火

2021-08-24 10:40:56 | 桜ヶ丘9条の会

語りつなぐ わたしの戦争体験> (2)骨箱の中、紙切れだけ 遠藤昭敏さん(87)=川辺町

2021年8月22日 (中日新聞)
 
 私には十歳違いで兄のように慕っていた叔父がいました。元船乗りで、ハイカラな人でしたが、一九四四(昭和十九)年五月十二日に出征しました。
 中川辺駅(川辺町)で、歓呼の中、大勢の人に送られ、到着した岐阜市では、県内各地から集まった出征兵と一緒に「凱旋(がいせん)道路」(現・金華橋通り)を行進しました。
 小学五年生だった私は沿道から手を振りましたが、叔父の顔に笑顔はありません。すでに日本の戦況は悪く、叔父は出征前から「勝てっこない」と。お国のために命をささげる覚悟があったのでしょう。これが最後のお別れになりました。
 広島県の大竹海兵団に入った叔父はその後、駆逐艦「桑」に乗船。四四年十二月二日、フィリピンのレイテ島・オルモック湾で敵の攻撃に遭い、艦は沈没、戦死しました。二十一歳でした。
 その後、戦死の公報が入り、四六年七月、親戚と一緒に本願寺岐阜別院(岐阜市)に遺骨を引き取りに行きました。到着した岐阜駅のトタン屋根は所々、穴が開いていて内側から空が見えました。色は真っ赤にサビついていました。
 別院から見る景色は一面焼け野原で、残っているまともな建物は、(被災した)百貨店の「丸物」くらい。あとはバラック小屋でした。別院では仏前に何十もの遺骨箱が並んでいました。叔父の骨箱の中身は、「遠藤進」と名前が書かれた紙切れ一枚だけが入っていました。
 人の一生をむごいことにする戦争はもうこりごり。こんな悲惨な経験を二度と子や孫たちにさせたくありません。 (聞き手・渡辺大地)

 


封印された核の恐怖 (中日新聞 2021年6月23日)

2021-08-23 14:26:08 | 桜ヶ丘9条の会

第2章 封印された核の恐怖 1945~52

2021年2月1日 

東京電力福島第一原発事故は、原発の「安全神話」を根底から覆しました。事故当時、約50基もの原発が稼働していた日本。世界唯一の被爆国でありながら「原発大国」へと変貌を遂げたのはなぜでしょうか。2012年8月~13年6月までの長期連載では、戦後政治に多大な影響を与え、今も日本外交の基軸をなす日米関係を手がかりに、未公開資料や100人以上の証言などから、その謎を解き明かしました。加筆し書籍化もされた「日米同盟と原発」の原稿を掲載します。本文中の肩書きや括弧内の年齢は当時です。「現在は……」などと断りを入れてあ

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月、広島、長崎に相次いで投下された米軍の原爆。人類が初めて経験した「核の恐怖」はその破壊力はもちろん、何十年にもわたって人々を苦しめる深刻な放射能汚染だった。ところが、日本は戦意喪失を恐れ、また米国も国際的な非難を避けようと、大量被ばくの実態を公にしようとしなかった。原子力の隠蔽(いんぺい)体質は「平和利用」と名を変えた60余年後の東京電力福島第1原発事故でも繰り返される。終戦から米軍占領期までの戦後日本が広島、長崎の悲劇とどう向き合い、その後の原発開発へ歩みを進めたのかを検証する。
 

る年齢は、取材時点です。敬称は省きました。

 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月、広島、長崎に相次いで投下された米軍の原爆。人類が初めて経験した「核の恐怖」はその破壊力はもちろん、何十年にもわたって人々を苦しめる深刻な放射能汚染だった。ところが、日本は戦意喪失を恐れ、また米国も国際的な非難を避けようと、大量被ばくの実態を公にしようとしなかった。原子力の隠蔽(いんぺい)体質は「平和利用」と名を変えた60余年後の東京電力福島第1原発事故でも繰り返される。終戦から米軍占領期までの戦後日本が広島、長崎の悲劇とどう向き合い、その後の原発開発へ歩みを進めたのかを検証する。
 

 

死の街ヒロシマ

 広島の原爆投下から二日後の一九四五(昭和二十)年八月八日。戦時中、陸軍の要請で原爆開発「ニ号研究」を指揮した理化学研究所の仁科芳雄(54)は東京・羽田から軍用機で、広島に飛んだ。陸軍中佐、新妻清一(35)ら軍の技術将校も同行した。
 米大統領トルーマンは投下直後、米国民に向けた声明で、世界初の原爆使用を宣言。仁科らは出発前、旧知の記者を通じて、その内容を知らされた。日本の科学技術では到底無理だった原爆開発に、米国は本当に成功したのか。仁科らの任務は現地で、それを確かめることだった。
 広島の上空に差しかかったのは八日夕。低空で二、三周旋回した。窓の下に西日に照った街が広がった。市中心部は焼け果て、二キロ先の家屋まで爆風で壁がえぐられていた。
 ニ号研究で仮定した原爆の威力とほぼ一致するすさまじさだった。広島入りする前、ある程度の覚悟を決めていた仁科ですら、その惨状に息をのんだ。飛行場に降り立つと、顔や腕に包帯をした警備兵が並んでいた。「市の中心上空にピカッと大閃光を放ったものがあり、それと同時に光の方向に向かっていた人は露出部をやけどした」。彼らは投下直後の様子をそう語ったという。戦後の四六年に発行された雑誌『世界』への寄稿文で、仁科は当時の模様をこう振り返っている。「死の街の様相を呈していた」
 仁科は八日のうちに、鈴木貫太郎内閣の書記官長、迫水久常(43)に電話で報告した。「残念ながら原子爆弾に間違いありません」
 仁科の関心はむしろ、原爆の放射能が人体に与える影響にあった。ニ号研究でも、研究者は定期的に耳たぶから血液を採取し、白血球の数値に異常がないか調べていた。
 「もし、軍人や患者の白血球の数値が低下していたら、危ない。すぐに別の場所に移しなさい」。仁科は将校にそう指示し、広島まで送り届けたパイロットには「あなたは早く引き返しなさい」と忠告した。
 だが、第一人者の仁科が原爆と認めたにもかかわらず、当時の内閣や軍部はその事実を握りつぶした。放射能による被ばくを隠すためだった。投下後も何十年にもわたり人間を苦しめる原爆。そんな「大量殺りく兵器」で攻撃を受けたことが分かれば、国民はおびえ、戦意を失うのではないか、と恐れた。
 そう思っていたやさきの九日、今度は長崎に原爆が落とされた。
 仁科とともに広島入りした陸軍中佐、新妻ら軍部は翌十日、ひそかに報告書をまとめている。広島の被害状況などから「原子爆弾ナリト認ム」と明記した上で「放射能力ガ強キ場合ハ人体ニ悪影響ヲ与フルコトモ考ヘラレル。注意ガ必要」と、放射能の危険性をはっきり指摘していた。
 その新妻が手書きした報告書の草案が、広島平和記念資料館に保管されていたことを本紙は突き止めた。草案によると、爆弾はその威力やフィルムが放射線で感光していたことなどを根拠に原子爆弾と認めた上で「ベータ線ノ作用アル疑アリ」と、拡散した放射能による被ばくの危険性を指摘してあった。ところが「人間ニタイスル被害ノ発表ハ絶対ニ避ケルコト」との一文が盛り込まれ、公表を控えるよう指示していた。広島市立大広島平和研究所の高橋博子講師は「非公表の指示は軍部の意向だと思う。国民の戦意喪失や広島への救援活動の停滞を恐れたのだろうが、まさか文書で残っていたとは。原爆投下直後の大本営の情報統制を裏付ける資料」と話している。
 結局、報告書の存在は戦争が終わるまで公になることはなかった。
 大本営は八月十五日の終戦まで、広島、長崎の爆撃を「新型爆弾」によるものと言い、原爆を隠し続けた。検閲下の新聞紙上で、長崎に続く今後の対処法として、やけどや爆風への注意を呼び掛けたが、放射能には触れずじまい
 こうした軍部の対応を科学者、仁科はどう見ていたのか。
 仁科の次男で、現在は八十歳の名古屋大工学部名誉教授(原子力工学)の浩二郎は当時、中学生。玉音放送が流れた十五日、広島、長崎の調査を終えて理研に戻った仁科が「『軍人は何度言っても、原爆だと認めようとしなかった。閉口した』と話していた」と証言する。
 仁科は八日間の現地調査の間、被ばくの危険性が高い爆心地付近にあえて足を運び、鉄の破片や小石を拾い集めた。放射能汚染を調べるサンプルだった。
 被ばくの症状や田んぼの土壌汚染、変死した川魚など科学者の視点で現場を見つめ、大学ノート二冊に手書きした。ノートは原爆直後を知る貴重な資料として、今も仁科記念財団(東京都文京区)に眠っている。
 日本の原爆開発を担った仁科が調査に没頭したのは果たして知的好奇心か、罪滅ぼしか─。生前、誰にも話していないが、次男、浩二郎は「父は死を覚悟していたはず。科学者の責任がそうさせたのだろう」と推測する。

悲劇は「日本の宣伝」

 「核の恐怖」を隠そうとしたのは、原爆を投じた米国も同じだった。
 広島の原爆投下からちょうど一カ月たった一九四五(昭和二十)年九月六日。東京・帝国ホテルの一室で、米軍将校らが海外の報道陣を対象に、広島の状況に関する非公式の説明会を開いた。戦争が終わり、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の支配下に入っていた。
 説明会で、主に発言したのは米原爆開発「マンハッタン計画」の副責任者、米軍准将トマス・ファレル(53)だった。ファレルは「原爆で死ぬべき者は全員死んだ。現時点で放射能に苦しむ者は皆無だ」と述べ、放射能の影響が長期に及ぶことはない、と強調した。
 広島の現地ルポを報じたオーストラリアの記者が原爆投下から数週間後に市内の川で魚の群れが死んだという目撃談をぶつけると、ファレルはこう反論した。「君は日本の宣伝の犠牲になったのかね」
 戦争が終わると、日本は一転して広島、長崎の原爆を公式に認め始めた。
 終戦翌日の四五年八月十六日付の新聞は「爆発後、相当の期間、かなり強力なベータ線及びガンマ線などの放射線が存在する。……ある程度以上強い場合には人体に影響を与えることも考えられる」という仁科芳雄の談話を掲載した。広島で被ばくした劇団女優が頭髪をなくし、ついに死を迎えたという記事も。日本国内で米国の「非人道性」を糾弾する論調が高まっていた。
 ファレルは、帝国ホテルでの説明会から六日後の九月十二日に開いた記者会見でも「現時点で危険な量の残留放射能は測定できない。放射能で傷害を負った人は爆発時の照射の影響を受けただけだ」と、繰り返した。
 米国にとって、予期せぬ結末だったからではない。それどころか、米国は原爆投下前から放射能の影響を分析していた。それを裏付ける文書が米公文書館に残っている。
 「戦争兵器としての放射能」と題された四三年七月二十七日付の公文書。戦時中、機密扱いだったこの文書には、マンハッタン計画の一環として、主要科学者たちが放射能の毒性を検討している様子が書かれている。
 科学者らは「大量に使われるほど大きな傷害を与える」「(攻撃を受けたら)全軍を避難させ、すぐ爆心地の放射線量を測る必要がある」など、まるで自ら言い聞かせるかのように放射能の恐ろしさを語っている。
 報道などを通じ、明らかになりつつあった広島、長崎の悲劇。GHQは四五年九月十九日、「プレスコード(新聞規制)」を敷き、原爆報道を厳しく制限した。米国内でも一部の科学者らが核の残虐性に批判の声を上げており、国際的な非難に広がることを恐れた米国は情報統制を一段と強めた。
 ファレルの上司で、マンハッタン計画責任者の米軍准将レスリー・グローブス(49)が四六年六月十九日に陸軍長官パターソンに送った公文書にはこう書かれてある。
 「(米国の)医師団による分析が完了するまで、放射能については公式声明を出さないでほしい。強調した表現は、扇情的な報道につながる」
 GHQのプレスコードは、占領期の終わるサンフランシスコ講和条約発効の五二年四月まで続いた。その間、広島と長崎の被ばく者たちの苦しみは、世間の目から遠ざけられた。

20万人以上の「実験」

 一九四五(昭和二十)年九月、日本は復興への道を歩み始めた。焼け跡に闇市が出始め、バラック小屋が並んだ。東京では国民学校が再開。歌手並木路子(23)の「リンゴの唄」がはやり、みんなが口ずさんだ。だが、原爆で街じゅうが焼き尽くされた広島と長崎だけは別だった。
 現在九十五歳の肥田舜太郎は当時、広島市駐在の軍医。原爆投下時、市郊外で往診中だった。爆心地から北に七キロ離れた山あいの村を拠点に被ばく者の治療にあたった。
 押し寄せた人波は皮膚を垂らし、口から黒い血をこぼしていた。「ただ死んでいくのを見ていただけ。正直、何もできなかった」と、当時を振り返る。
 当初はやけどで息絶える人が多かった。投下の四日目から様子が変わる。目尻や鼻から血を流し、頭をなでると毛が抜けた。「どうなってるんだ」。途方に暮れた肥田がさらに驚いたのは、その一カ月後。同じ症状でも「わしは原爆にあっとらん」と訴える患者が続いた。
 大本営が国民の戦意喪失につながるから、と原爆の事実を隠したのが原因だった。「『どうして私は死ぬんですか』と聞きながら死んでいく。一人一人の死がこたえたね」と肥田は振り返る。放射能の危険性をまったく知らされず、投下後、身内の安否確認や救助のため市内に入った人たちが「死の灰」を浴び、体内に取り込んでいた。
 投下二日後に広島市に戻った現在八十三歳の高橋昌子もその一人。当時十六歳の女子高校生だった。
 祖母の看病で岡山県にいた高橋は、姉を捜しに爆心地近くの実家に帰ると、台所で姉は真っ白な骨になっていた。指をやけどしながら骨を拾い集めた。「はあー」ともらしたため息の後、放射性物質を含んだ粉じんなどを吸い込み、内部被ばくした。
 一カ月後に異変が生じた。高熱、じんましん、下血……。治まっては再発する原因不明の症状が三十年近くも続いた。健康診断で訪れた病院で問診を受け「あなたは被ばく者です」と告げられた時、五十歳を過ぎていた。診察を担当したのは、広島での体験から被ばく医療に携わってきた肥田だった。
 高橋は言う。「体の不調は体質だと言い聞かせてきた。何も知らされずに生きてきたのが悔しくて、涙が止まらなかった」
 高橋のように原爆投下後、爆心地付近を訪れた「入市被ばく者」は広島、長崎で十万人以上ともいわれる。爆心地から十キロ以上も離れた場所で放射性物質を含んだ「黒い雨」を浴びて被ばくした人も。
 広島原爆から七年後の五二年、高橋の元をジープに乗った二人組の米国人が訪れている。復員した男性との間に長男をもうけたばかりだった。
 通訳の日本人は「ABCCの調査です」と告げただけ。ABCCは全米科学アカデミーが四六年、日本に設立した原爆傷害調査委員会の通称だった。
 言われるままに、布団に横たわると、米国人は太い注射器で母子の血を抜き取った。手土産代わりにせっけんを枕元に置くと、採血液を大事そうに抱えて立ち去った。「体の不調のことが分かるかも」。貧しくて医者にかかれなかった高橋は期待した。だがその後、今に至るまで何の連絡もない。
 
 ABCCは広島や長崎で被ばくした人たちの健康状態や胎児への遺伝的な影響を調べていた。学術研究が目的とされたが、実際は米国の核兵器研究のデータ集めの側面が強かった。資金提供を申し出たのは、原子力のエネルギー利用などを目指す米政府の原子力委員会だった。
 当時、ABCCの日本人スタッフだった現在八十一歳の山内幹子は「米国人の上司から正確な調査が最優先だと教え込まれた。核爆弾の殺傷能力を研究するのが目的でした」と打ち明ける。
 ワシントンの米公文書館に五〇年十一月に開かれた米原子力委の議事録がある。生物医学部長シールズ・ウォーレンは「われわれは、広島と長崎から二十万人以上の実験結果を得ることができた」と発言している。
 
 ABCCの調査結果は、日本の被ばく医療に役立つことはなかった。軍医として原爆治療にあたった肥田は戦後、民間医師の立場で被ばく患者の救済に取り組んできた。「米国が治療やデータ公表に前向きだったら、被ばく者医療の質は格段に向上していたはずだ」と言い切る。
 肥田は、いつ発症するかわからない内部被ばくこそ核がもたらす大きな罪と考える。深刻な放射能汚染を引き起こした福島第一原発事故もそう。
「ただちに健康被害はありません」と繰り返す政府高官の姿を見て「危険性を隠そうという論理は原爆も原発も同じ」と憤る。
 福島事故後、九十歳を超える肥田は全国百五十カ所以上を回り、低線量被ばくの危険性を訴えている。「広島、長崎の悲劇を福島で決して繰り返してはならない。それが医師としての私の務め」と話している。