集団自決を風化させない 沖縄の生存者ら平和願い語る (2019年9月12日 中日新聞)

2019-09-12 08:53:11 | 桜ヶ丘9条の会
集団自決を風化させない 沖縄の生存者ら平和願い語る 
2019/9/12 中日新聞

 太平洋戦争の沖縄戦で起きた住民の集団自決。「なきことにしてはいけない」と風化に抗(あらが)い、なぜ起きたのか、理由を解きほぐそうとする人たちがいる。軍から米兵への恐怖と憎悪を植え付けられた住民は投降できず、女性の貞操は命より大切とされ、家長の手で殺されるケースが相次いだ。慶良間諸島の渡嘉敷、座間味の両島の集団自決の現場を巡り、体験者らに話を聞いた。

◆渡嘉敷島

 沖縄本島の西、コバルトブルーの海に浮かぶ南北九キロの渡嘉敷島。「北山(にしやま)」と呼ばれる丘に「集団自決跡地」と刻まれた石碑が立つ。「この地で三百三十人が亡くなった。日本軍が守ってくれると信じ、多くの人が集まっていた」。当時六歳で自決を免れた吉川嘉勝(よしかわよしかつ)さん(80)は振り返る。
 島は一九四五年三月、米軍の上陸と激しい砲弾に見舞われた。「住民は北山に集まれ」。隊長の命令と聞かされ、二十八日昼、吉川さん一家を含む数百人が雑木林に集結した。「天皇陛下万歳」の声の後、あちこちで手榴弾(しゅりゅうだん)が爆発し、一帯は光と悲鳴に覆われた。
 役場職員だった当時十六歳の兄は手榴弾を持っていた。三十人ほどで円陣を作り、地面にたたきつけたが爆発しない。不発弾とみて、親族の男性が小さな子をおぶって立ち去ろうとした。それを見た母が「手榴弾やしてぃれー(捨てなさい)。やさ 死ぬしやいちやてぃんないさ(死ぬのはいつでもできる)」と叫んだ。一家は自決を免れたが、逃げる途中で父が頭に敵弾の直撃を受け即死した。
 駐留していた日本軍が、自決用として島の青年たちに手榴弾を配っていたと、後に分かった。日本軍の壕(ごう)と自決場の距離はわずか二百メートルだったのに、住民を助けることはなかった。「島に日本軍がいなければ集団自決は起きなかった」と吉川さんは憤る。
 背景には、沖縄の第三二軍が慶良間の島々を海上特攻の秘密基地としたことがある。四四年九月、渡嘉敷島に特攻と基地建設の部隊が配備され、陣地構築などに動員された島民も軍の機密を共有した。吉川さんは「住民を投降させずに『玉砕』させるのが、軍には得策だったろう」と話す。
 集団自決を生き延びた島民たちの中には、家族を手にかけた「加害者」がいた。戦後、教員の道に進んだ吉川さんも長く体験を語れなかった。公の場で口を開くきっかけは、沖縄戦の集団自決の記述について、軍の強制性の排除を求めた二〇〇六年度の高校日本史教科書への国の検定意見だった。
 日本軍が集団自決を命じたとする作家大江健三郎さんの「沖縄ノート」などの記述をめぐり、慶良間諸島の当時の守備隊長らが名誉を傷つけられたとして、出版差し止めなどを求めた訴訟も当時続いていた。「島民の沈黙を利用し、歴史をなきものにしようとするのは許せない」との思いから、検定意見の撤回を求め、十一万人が集まった〇七年九月の県民大会で体験を証言した。
 吉川さんは今も渡嘉敷島の平和ガイドを務め、講演回数は四百回を超えた。改憲勢力が力を増し、自衛隊の攻撃型配備が進む現状を憂える。「集団自決を風化させず未来につなげる努力を、平和で在り続けるためにしていきたい。沖縄には世界の人と親しくしようという琉球王国からの『万国津梁(しんりょう)』の思想がある。個人を犠牲にしても、相手国を滅ぼしても日本を守ろうとする『愛国』は違うんじゃないか」

◆座間味島

 同じ慶良間諸島の座間味島でも、家族単位の集団自決は相次いだ。小川が流れる森の斜面を登ると、かつて日本軍の食料庫として使われ、自決現場の一つとなった「整備中隊の壕」の跡がある。暗くぽっかりと浮かぶ空間の中に入ると、土の壁がぼんやりと見え、頭上を水がしたたり落ちた。
 沖縄戦当時二十歳だった宮村文子さん(93)=座間味村=は家族を捜して逃げ込んだこの壕で、自決を目の当たりにした。大人の男性しかいないのが不思議だったが、暗い壕内を見渡すと、子どもを含む十数人の遺体が並べられ、男性たちが妻子の首をロープでつるし上げたと分かった。「遺体の腕は腐敗でプクプクとふくらみ始めていた。怖いとは思わない。むしろ死ねて良かったね、とうらやましかった」と当時を振り返る。
 「集団自決の場には必ず女性がいた。家父長制に基づく当時の沖縄女性の貞操観が背景にある」。集団自決の構造をこう読み解くのは同島出身の女性史家、宮城晴美さん(69)だ。戦後生まれの宮城さんは、祖父が家族に手をかけた集団自決の遺族でもある。
 米軍の上陸後、家族の壕に隠れていた宮城さんの祖母=当時(43)=は、銃口を向ける米兵の姿を見てパニックになった。「早く殺して」と自分と三人の子どもを殺すよう祖父をせき立てた。祖父はカミソリとロープで家族ののどを切りつけて絞め、自らの首も切った。おじの邦夫さん=同(11)=が息絶えたが、他の家族は重傷を負いながらも命を取り留めた。「男性は『生きて虜囚の辱めを受けず』と教えられ、妻子を残しては死ねない。集団自決で家族を殺(あや)める役割を担ったのは主に家長の男性だった」と宮城さんは話す。
 女性もまた特異な状況に置かれていた。宮城さんの母親の初枝さん(故人)は、女子青年団の一員として日本軍の弾薬運びを手伝い、祖父一家と別行動を取った。手元には「日本女性として立派な死に方をしなさい」と軍曹から手渡された手榴弾があった。
 山中で妹や友人と君が代を斉唱して手榴弾をたたいたが、不発弾だったために生き延びた。「母たちは『敵に捕まれば辱めを受け殺される』と日本軍から聞かされていた。当時の沖縄で女性の貞操と命は同じ価値を持った」と宮城さん。
 「一部地域には貞操観念弛緩(しかん)しある所あり」。こう記し、兵隊への規律を促す四四年の日本軍の会報には、沖縄女性に対する日本の差別観も表れているという。明治政府が琉球国を日本に組み入れた十九世紀後半の「琉球処分」以降、沖縄では女性の手の甲のハジチ(入れ墨)や男女の野外交遊「モウ遊び」が禁じられ「風俗改良」が行われた。日中戦争のころには方言の撲滅や日本名への改名などの「同化政策」も進んだ。
 座間味、渡嘉敷の各島には四四年十一月、朝鮮出身の女性たちが連れられ、日本軍の慰安所ができた。「島の女性は『淑女』と『慰安婦』に分断された。天皇制や集落といった疑似的な集団を含む家父長制の下、島の女性は二重三重の圧力をかけられ、貞操を守るための自死に追い込まれた」と宮城さんは考える。
 母が残した手記や島民への聞き取りを基に研究を続け、ジェンダーの視点から座間味の集団自決の実相を解き続けている。「日本の兵隊に恥ずかしくないよう国につとめ、日本化を目指した母たちにとって、自決もまた民度の高さを表すものだった。集団自決を生き抜いた人々には語れない戦後があり、沖縄の日本化は復帰運動へと続いた。歴史はつながっている。断ち切ってはいけない」
 (安藤恭子)