支え合うという働き方 コロナの時代に考える
2021年4月30日 中日新聞
通勤電車に毎日揺られることも会社帰りの一杯も、ひと昔前のことのように思えてなりません。
コロナ禍での生活が日常になりつつあります。何が本当に大切なのか。そう考える機会も増えました。それはコロナ禍以前の日常の歪(ゆが)みを浮き彫りにします。コロナ禍自体が歪みの産物ではないか。そうした意見も聞こえます。
新自由主義の弊害拡大
例えば、自然との関係です。野生動物を宿主としがちなウイルスがなぜ、人間に感染したのか。無軌道な森林開発など生態系破壊のツケが指摘されています。
医療危機が叫ばれています。日本ではこの四半世紀で保健所の数が約四割も減り、感染症病床も二十余年で約五分の一にまで削減されていたことを知りました。
感染の拡大後、廃棄物の収集員やスーパーの店員さんなどエッセンシャルワーカー(不可欠な労働者)の人たちへの罵声が問題になりました。ともに社会を支え合っているという共同体意識の衰退があらわになったともいえます。
生態系を無視し、人のみが生きられるはずがありません。相次ぐ新たな感染症の登場は自然から人間への警告にも映ります。
公的な保健や医療サービスの縮小は、民主主義のあり方にもかかわるように思えます。私たちの多くは選挙にこそ足を運びますが、行政を監視し、ときに自分も参加するという自治意識が弱い。気づけば、セーフティーネットは破れかけていました。
貧困化や格差の拡大で、社会の主流だった中間層が細り、「お互いさま」という言葉は死語になりつつあります。店員さんらへの心ない対応はその表れでしょう。
いずれの現象もあらゆることを市場の論理に委ねる新自由主義の思想と無縁ではありません。
労働者協同組合の挑戦
コロナ禍を機に、こうした流れにあらがえないものか。働き方を通じて、それに挑もうとしている人たちがいます。労働者協同組合(労協)を営む人びとです。
日本ではなじみが薄いですが、欧州では半世紀以上の歴史があります。特色は地域に根差し、生活圏の問題解決を仕事にしていること。雇う、雇われるの関係ではなく、株主と社長と労働者を同時に担う人たちの集団という点です。
組合の参加者はそれぞれ出資金を払い、事業内容などは一人一票の直接民主制で決め、ともに働いて報酬を受け取ります。成功も失敗も責任は分かち合います。
従来はNPOなどの形で営まれていましたが、昨年十二月に労働者協同組合法が成立(施行は二年以内)したことで、NPOでは無理だった出資が可能になり、事業分野も拡大していきそうです。
具体的にどんな仕事をしているのでしょうか。介護から仕出し弁当の製造・販売とさまざまな例があります。地域の病院で清掃から警備、電話交換までを一手に引き受ける団体もあれば、坂道の多い地区で、居住する高齢者らの買い物や病院通いの送迎サービスを担っているグループもあります。
地球の裏側の森林破壊には思いが及びにくくても、生活圏の環境破壊や健康には敏感になれます。雇われではなく、事業の出資者になったら発言したくなるでしょう。地域づくりが主眼なので民間企業では働きにくい人も、ともに働けるよう意識しています。
現場の報告からはこんな声が聞こえます。地産の無農薬野菜で弁当をつくっている人は「購入者に『体調が良くなってきた』と言われることが喜び」と話します。保育園で働く人はこう語ります。「保育の方法も皆で考える。上からの命令に従うのではなく、自由に意見を言える空気がある」。障害者の人たちと働く人は「彼らの成長が自らの励みになる」と笑みをこぼします。
課題はあります。一つは報酬の問題です。労協からの収入だけで暮らせている人もいますが、「有償ボランティア」の域を出ない事業も少なくありません。サービスや物品の価格設定も重要です。世界的な成功例として知られたスペインのモンドラゴン協同組合グループの家電製造組織は、アジアからの低価格製品の流入もあって、二〇一三年に破綻しています。
感染症は世界史の節目
それでも環境や思いやりという人間を大切にする働き方には、効率や自己責任に縛られた新自由主義にはない可能性があります。
振り返れば、十四世紀のペストの流行は封建社会崩壊の一因となりました。スペイン風邪が流行した第一次世界大戦後、ファシズムと恐慌を経て、世界は資本主義圏と社会主義圏に二分されました。
感染症は、歴史を画すことが少なくない。昨今の自殺者の増加は残念なことですが、非正規雇用など新自由主義政策の歪みを可視化しました。コロナ禍も時代が転換する予兆かもしれません。