支え合うという働き方 コロナの時代に考える (2021年4月30日 中日新聞)

2021-04-30 17:14:41 | 桜ヶ丘9条の会

支え合うという働き方 コロナの時代に考える

2021年4月30日 中日新聞
 通勤電車に毎日揺られることも会社帰りの一杯も、ひと昔前のことのように思えてなりません。
 コロナ禍での生活が日常になりつつあります。何が本当に大切なのか。そう考える機会も増えました。それはコロナ禍以前の日常の歪(ゆが)みを浮き彫りにします。コロナ禍自体が歪みの産物ではないか。そうした意見も聞こえます。

新自由主義の弊害拡大

 例えば、自然との関係です。野生動物を宿主としがちなウイルスがなぜ、人間に感染したのか。無軌道な森林開発など生態系破壊のツケが指摘されています。
 医療危機が叫ばれています。日本ではこの四半世紀で保健所の数が約四割も減り、感染症病床も二十余年で約五分の一にまで削減されていたことを知りました。
 感染の拡大後、廃棄物の収集員やスーパーの店員さんなどエッセンシャルワーカー(不可欠な労働者)の人たちへの罵声が問題になりました。ともに社会を支え合っているという共同体意識の衰退があらわになったともいえます。
 生態系を無視し、人のみが生きられるはずがありません。相次ぐ新たな感染症の登場は自然から人間への警告にも映ります。
 公的な保健や医療サービスの縮小は、民主主義のあり方にもかかわるように思えます。私たちの多くは選挙にこそ足を運びますが、行政を監視し、ときに自分も参加するという自治意識が弱い。気づけば、セーフティーネットは破れかけていました。
 貧困化や格差の拡大で、社会の主流だった中間層が細り、「お互いさま」という言葉は死語になりつつあります。店員さんらへの心ない対応はその表れでしょう。
 いずれの現象もあらゆることを市場の論理に委ねる新自由主義の思想と無縁ではありません。

労働者協同組合の挑戦

 コロナ禍を機に、こうした流れにあらがえないものか。働き方を通じて、それに挑もうとしている人たちがいます。労働者協同組合(労協)を営む人びとです。
 日本ではなじみが薄いですが、欧州では半世紀以上の歴史があります。特色は地域に根差し、生活圏の問題解決を仕事にしていること。雇う、雇われるの関係ではなく、株主と社長と労働者を同時に担う人たちの集団という点です。
 組合の参加者はそれぞれ出資金を払い、事業内容などは一人一票の直接民主制で決め、ともに働いて報酬を受け取ります。成功も失敗も責任は分かち合います。
 従来はNPOなどの形で営まれていましたが、昨年十二月に労働者協同組合法が成立(施行は二年以内)したことで、NPOでは無理だった出資が可能になり、事業分野も拡大していきそうです。
 具体的にどんな仕事をしているのでしょうか。介護から仕出し弁当の製造・販売とさまざまな例があります。地域の病院で清掃から警備、電話交換までを一手に引き受ける団体もあれば、坂道の多い地区で、居住する高齢者らの買い物や病院通いの送迎サービスを担っているグループもあります。
 地球の裏側の森林破壊には思いが及びにくくても、生活圏の環境破壊や健康には敏感になれます。雇われではなく、事業の出資者になったら発言したくなるでしょう。地域づくりが主眼なので民間企業では働きにくい人も、ともに働けるよう意識しています。
 現場の報告からはこんな声が聞こえます。地産の無農薬野菜で弁当をつくっている人は「購入者に『体調が良くなってきた』と言われることが喜び」と話します。保育園で働く人はこう語ります。「保育の方法も皆で考える。上からの命令に従うのではなく、自由に意見を言える空気がある」。障害者の人たちと働く人は「彼らの成長が自らの励みになる」と笑みをこぼします。
 課題はあります。一つは報酬の問題です。労協からの収入だけで暮らせている人もいますが、「有償ボランティア」の域を出ない事業も少なくありません。サービスや物品の価格設定も重要です。世界的な成功例として知られたスペインのモンドラゴン協同組合グループの家電製造組織は、アジアからの低価格製品の流入もあって、二〇一三年に破綻しています。

感染症は世界史の節目

 それでも環境や思いやりという人間を大切にする働き方には、効率や自己責任に縛られた新自由主義にはない可能性があります。
 振り返れば、十四世紀のペストの流行は封建社会崩壊の一因となりました。スペイン風邪が流行した第一次世界大戦後、ファシズムと恐慌を経て、世界は資本主義圏と社会主義圏に二分されました。
 感染症は、歴史を画すことが少なくない。昨今の自殺者の増加は残念なことですが、非正規雇用など新自由主義政策の歪みを可視化しました。コロナ禍も時代が転換する予兆かもしれません。 

 


民主主義は生き残るか コロナの時代に考える (2021年4月29日 中日新聞))

2021-04-29 09:39:04 | 桜ヶ丘9条の会

民主主義は生き残るか コロナの時代に考える

2021年4月29日 中日新聞
 新型コロナウイルスの感染拡大は、私たちの暮らしのみならず、国際関係にも大きな影響を与えています。顕著になったのは「新冷戦」にも例えられる米中間の対立です。選挙による「民主主義」と共産党一党支配の「専制主義」が優位性を争う中、民主主義は生き残ることができるのでしょうか。
 歴史を少しだけ振り返ります。世界はかつて資本主義と共産主義の二つの陣営に分かれ、激しく対立していました。冷戦と呼ばれたこの対立は一九八九年、それぞれを率いた米国とソビエト連邦(ソ連)によって終結が宣言され、その二年後、ソ連は崩壊します。

政治体制巡る米中対立

 冷戦終結後は一時、資本主義陣営を率いた米国の一極時代を迎えますが、無謀なイラク戦争や、リーマン・ショックなど資本主義を巡る混乱でその優位性は薄れていきます。代わりに台頭したのがかつて東側陣営だった中国です。
 中国は資本主義諸国の疲弊を横目に、経済的な力をつけ、それに伴い、軍事力も増強します。「中華民族の偉大な復興」を掲げる習近平体制の下、その傾向はより顕著になりました。東シナ海や南シナ海では、中国の海洋進出が周辺国との間で緊張を高めています。
 バイデン米政権は、軍事力を増した中国が「六年以内に台湾を侵攻する恐れがある」との警戒感も強めています。
 菅義偉首相とバイデン米大統領との初の日米首脳会談後に発表された共同声明では、五十二年ぶりに台湾問題に言及しました。
 かつてない緊張の高まり、米中「新冷戦」の到来です。
 米中は軍事や経済に加え、政治体制を巡る対立も深めています。
 バイデン大統領は三月、就任後初の記者会見で、米中関係を「二十一世紀における民主主義の有用性と専制主義との闘いだ」と位置づけ、中国との競争を制することに力を注ぐと強調しました。

自由・人権どこまで制限

 米中対立の火に油を注いだのが新型コロナウイルスです。発生源を巡る論争に加え、米中両国の初期の感染対策が正反対で、感染者数に大きな違いが出たからです。
 発生当初、米国のトランプ政権は自由を重んじてマスクすら推奨せず、一方、中国は武漢を二カ月半にわたり都市封鎖しました。
 米ジョンズ・ホプキンズ大学の集計によると、新型コロナの死者は米国で五十七万人を超えたのに対し、中国では五千人弱にとどまります。習国家主席は「共産党の指導と、わが国の社会主義制度の明らかな優越性を示した」と、体制の優位を宣伝しています。
 確かに、民主主義国家では感染対策を講じるにも自由や権利に十分配慮することが必要です。中国のような非民主国家では、個人の権利よりも公衆衛生優先の強硬策を採ることができます。
 実際、民主主義下で感染抑え込みに成功したのは、ニュージーランドや台湾などごく一部です。
 でも、民主主義より専制主義の方が優れた政治制度とは思えません。いくら感染を抑え込み、経済的に台頭しても、個人が尊重されず、自由や人権が軽視される社会が健全とは言えないからです。
 専制国家、旧東独出身のメルケル独首相の演説から紹介します。
 「私たちは民主主義国です。何かを強いられるのではなく知識を共有し、活発な参加を促すことで繁栄します。これは歴史的な仕事です。私たちが力を合わせ、立ち向かうことでのみ克服できます」
 黒人初の米副大統領となったハリス氏はこう訴えました。「米国の民主主義は決して保障されたものでなく、私たちの意志があってこそ強くなります」
 確かに民主主義は完璧な制度ではなく、人類史に登場した他の政治制度より少しましなだけかもしれません。だからこそ、より良くするための努力が必要なのです。
 民主主義に関する気になる報告があります。スウェーデンの調査機関V−Demによると二〇一九年時点のデータですが、民主主義の国・地域は八十七に減り、非民主主義の国・地域は九十二に増えました。民主国家の数が非民主国家を下回るのは十八年ぶりです。

力合わせて良い制度に

 新型コロナを巡る民主主義国家の苦境や中国の経済的台頭は、これから民主化を目指す人々をためらわせるかもしれません。そうならないよう民主主義国の私たちが奮起して自由や人権を守りながら感染を抑え込み、豊かに生きる姿を示さなければならないのです。
 民主主義は生き残るか、ではなく、民主主義を生き残らせるためにどう行動すべきか。コロナの時代は私たちにそう語りかけます。
    ◇    ◇
 コロナ禍は一年以上続き、感染は依然拡大が続きます。私たちはこの「コロナの時代」をどう生きればいいのか。読者とともに、さまざまな視点から考えます。 

 


子どもの権利条約根拠に画期的判決 日照権訴訟で名古屋地裁 (2021年4月28日 中日新聞)

2021-04-28 11:19:39 | 桜ヶ丘9条の会

子どもの権利条約根拠に画期的判決 日照権訴訟で名古屋地裁

2021年4月28日 
 マンション建設か、子どもの権利か−。幼稚園の日照権を巡って名古屋地裁で争われた訴訟で先月、ある画期的な判決が下された。子どもの権利条約の理念である「児童の最善の利益」を基に、「(不動産会社が)日照について配慮するべき義務を十分尽くすことを怠った」と認めたのだ。同条約は日本も一九九四年に批准しながら、長らくたなざらし同然だったが、判決はこの条約の意味する重みに改めて光を当てた。 (塚田真裕)
 三月三十日、名古屋地裁の一号法廷。緊張した面持ちで小学生十人が長いすに陣取った。訴訟を起こした原告の元園児だ。唐木浩之裁判長は児童らを見据え、判決を告げた。「被告は原告に二百五十九万円を支払え」。慰謝料の支払いやマンションの取り壊しは認められなかったが、子どもたちは会見で手をたたいて喜びを表した。
 この判決に関係者が注目するのは、子どもの権利条約を判断の根拠の一つにしたことだった。
 唐木裁判長は判決理由で、「わが国も児童の最善の利益を考慮した施策を実施する責務を負っている」と条約批准を基に指摘。児童福祉法も引用し、「児童には最善の利益が保障されなければならないとの趣旨は、日照阻害が我慢の限度を超えるかを判断する際にも考慮するべきだ」との考え方を示した。
 その上で、マンション建設により「園児らが園庭でのびのびと遊べる環境を著しく阻害している」と認定。園側が午前中の日照だけでも確保しようと二階建ての牧師館を撤去したことに触れ、「午前中の日照の改善がなかったら我慢の限度を超えていた」と結論付けた。
 原告弁護団の川口創弁護士は「子どもたちの声を受け止め、子どもたちを真ん中に置いた判決」。子どもの権利条約総合研究所代表の荒牧重人・山梨学院大教授(憲法・子ども法)も「判断の実質的根拠に条約をうたった判決は知る限り初めて。児童の最善の利益との理念に照らして実態を見据え、結論を導いた画期的判決」と評価する。
 日本の裁判で子どもの権利条約に触れるのは極めてまれだ。過去には国連から四回にわたり「条約が社会に浸透していない」と勧告を受け、裁判所も「条約が国内法より優位し、直接適用できるにもかかわらず、その例がほとんどない」と名指しで批判されている。
 そのような流れの中で、名古屋地裁判決が条約を重視した背景には、児童の「最善の利益」という理念を取り入れた二〇一六年の児童福祉法の改正がある。「国内法に明記されたおかげで、裁判で使いやすくなったのではないか」。そう話す荒牧教授は今後、子どもの権利条約の理念や規定を議論する場が増えていくことを期待する。「少年法改正論議や自民党の子ども庁構想でも、大人目線での健全育成ではなく、子どもの最善の利益を基に議論されることが求められている」
 子どもの権利条約に詳しい早稲田大の増山均名誉教授(教育学)は今回の訴訟の意義について「子どもにとって何が最善かとの視点で話し合う環境があることが重要だ。判決を引き出した園や保護者の取り組みは称賛に値する。児童の最善の利益が法廷で議論されたことは、今後につながる重要な出発点だ」と語った。
 判決にはもう一つ、画期的要素がある。周囲の日照を確保するため、建築基準法が定める日影規制が適用されない商業地域でも、日照への配慮が必要との判断を示した点だ。
 高度経済成長期の一九六〇年代、高層ビルが増え始め、日照阻害が司法の場で争われるようになった。七二年に最高裁が不法行為の成立を認め、日照権が確立。社会問題化したことを受け、国は七六年、中高層建物により生じる日影を一定時間内に抑えることで周囲の住環境を守る日影規制を建築基準法に規定、対象区域と許容される日影時間は各自治体が条例で定めた。
 日照権の生みの親とされる弁護士の五十嵐敬喜・法政大名誉教授(都市政策)は「用途地域は大まかな区分。はみ出た部分を調整するのが民法であり、自治体の紛争予防条例だった」と解説する。だが開発競争を背景に企業側の力が強くなると、紛争予防条例を根拠に建築を認めない自治体を企業側が提訴する例もあり、「自治体側が尻込みして、条例は形骸化した」。
 今回の訴訟の舞台となった地区も商業地域だったが、判決は「園庭の日照に与える影響について十分な配慮が必要だった」と指摘。紛争予防条例による協議を「単なる説明にとどまらず、(よりよい方法を)話し合うことを必要とする規定」と位置付け、これが十分に尽くされていないと判断した。不動産会社側が提出した協議報告書も「不十分」としており、これを受理して建築を許可した市の姿勢も問題視したことになる。五十嵐名誉教授は「日影規制が本来の意味を取り戻す可能性を示した判決だ」と評価した。

長方形に切られた空

 名古屋教会幼稚園は、官庁街とオフィスビルが集まる名古屋市中心部にある。園庭の南側には、手を伸ばせば届く距離で十五階建てのマンションがそびえ立つ。午後一時に園庭を訪れると、陽光はなく、見上げると、空が長方形に切り取られていた。
 ビル風も深刻だ。風の強い日はポケットの中が砂まみれになるほど。石原ゆかり園長(60)は「以前の三分の一は外遊びができなくなった」とビルを見やる。最初は「外で遊びたい」と言っていた子どもたちも、風の強い日は外に出たがらなくなった。「外遊びをあきらめることに慣れてしまった」と目を伏せた。

 裁判の経緯 大阪市の不動産会社「プレサンスコーポレーション」が名古屋市中区に計画した15階建てマンションを巡り、北側に隣接する名古屋教会幼稚園の園児ら18人と、園を運営する教会が2018年7月、高層階の取り壊しや慰謝料など約2200万円を求めて名古屋地裁に提訴。判決は、慰謝料の支払いや取り壊しは認めなかったが、日当たりを良くするために園が行った牧師館撤去の費用259万円の支払いを命じた。原告、被告とも控訴せず、判決は確定した。

 子どもの権利条約 1989年に国連総会で採択され、子どもを保護対象ではなく、独立した人格と尊厳を持つ権利主体と位置付けた。一般原則として、生存と発達の権利、差別禁止のほか、子どもの意見表明権や、最善の利益の尊重をうたう。子どもの権利委員会は、締約国の条約の履行状況を審査する。

 


共生へ 本格帰国から40年、中国残留孤児の今 (2021年4月21日 中日新聞))

2021-04-27 09:17:47 | 桜ヶ丘9条の会

共生へ… 本格帰国から40年、中国残留孤児の今

2021年4月21日 中日新聞
 中国残留孤児の帰国が一九八一年に本格化して四十年。孤児の平均年齢は八十歳近くになった。だが、中国語に対応できる高齢者施設は少なく、文化や習慣の違いから孤立して晩年を過ごす人もいる。日本で生きるとはどういうことか。「共に生きる」ことの意味を考えた。 (木原育子)
 「上(シァン)、下(シャァ)、左(ゾゥオ)、右(イォウ)」。扉を開けると、中国語の元気な掛け声が聞こえてきた。お年寄りが輪になり、ゆったりと身体を動かしている。
 東京都江戸川区の中国残留邦人専門デイサービス「一笑苑(いっしょうえん)」。飛び交う言葉や掲示物は全て中国語。中国の流行歌が流れ、介護スタッフもほとんどが中国人だ。
 所長の佐々木弘志さん(54)は「年を取るほど、慣れ親しんだ第一言語や味覚に戻る傾向は強い。無理のない環境で楽しく過ごしてほしい」と目を細める。昼食は中華料理が提供され、家庭料理の定番という蒸しパンやギョーザが並ぶ。食後の麻雀(マージャン)も日常の風景だ。
 戦争末期の混乱で旧満州(中国東北部)に取り残された子どもや女性たちの帰国が本格化したのは一九八一年から。帰国した時、孤児の多くはすでに四十代、五十代になっていた。
 「やっと笑えるようになったかな」。妻の付き添いでデイサービスに訪れていた清野(せいの)明さん(80)が片言の日本語で語ってくれた。
 父は終戦間近に召集され、四五年八月十三日に中国で戦死。対日参戦したソ連軍の侵入で、四歳だった清野さんは母と二歳の妹と山に逃げた。「妹は下痢をした後、山の中で亡くなって…。悲しむ間もなく、ただ逃げ惑うだけでした」
 戦後、母は中国人と再婚し、清野さんは養父に大切に育てられ小児科医に。帰国すれば医師免許は無効になるが、八五年に家族と日本に帰る決断をした。
 三陸海岸沿いの岩手県野田村に暮らし、九〇年に鍼灸(しんきゅう)接骨院を開業。だが、二〇一一年の東日本大震災で自宅も店も津波にのまれた。
 「高台で、津波から逃げる大勢の人を見ました。山の中でソ連兵から逃げ惑う人々の姿とどうしても重なって…」。封印したはずの戦争の記憶がよみがえる。「自然災害は人間の力で全面的に防ぐことは不可能だが、戦争は人為的な災害。話し合えば必ずなくなる」
 今は、東京にいる娘の近くに住む。「戦争さえなければ中国で生まれていない。震災さえなければここにいない。多くの人に助けられて、ようやく憩いの場所にたどり着きました」
 小野春子さん(81)は五歳で終戦を迎えた。家族の中で体が弱かった小野さんだけが帰国できず、中国の養父母に育てられた。一九九七年に帰国したが、父は亡くなり、母は再婚して別の家族があったため、娘と認めてもらえなかった。
 中国で撮った日本の両親が写った白黒写真が、かつて家族だった唯一の証し。中国では「日本人」、日本に戻れば「中国人」とののしられた。孤独を味わうこともあったが、そんな時は写真に語りかけてきた。「私、ここにいるよって」
 長い年月を経て、ようやく自分の人生を少し肯定できるようになった。「つらかった分、多くの人のご縁と優しさもいただいた人生です」

孤立する晩年 言葉の壁

 一笑苑を開いた佐々木さんは残留邦人二世。二十八歳の時、家族で母の故郷、日本に来た。運送会社で働いていたが、二〇〇八年のリーマン・ショックで一変。転職を考えていた時、一人暮らしの一世の女性高齢者宅を訪ねた時のことが頭に浮かんだ。
 女性は日本語が話せないため、足腰が不自由なのに助けを呼べず、九十九円のうどんばかりを食べて数日間過ごしていた。中国語が話せる佐々木さんが訪れると、「つらいことが伝わらないことがつらい」と泣きだした。ぽたぽたと落ちる涙に「戦争で苦労した世代に、晩年までつらい思いをさせてはいけない」と強く思ったという。
 一一年に横浜で中国残留邦人専門の介護事業所を開業。埼玉や大阪などの七施設に広げた。当初は施設として借りる場所を見つけるのも苦労したが、今では地域の夏祭りに呼ばれるほど溶け込む。
 だが、一笑苑のような施設はまだ少ない。厚生労働省によると、全国で八万に上る介護事業所のうち、中国語に対応できるのは三百八十カ所ほど。運営の多くは二世が担っている。
 「施設でコミュニケーションが取れず、孤立して居づらさを感じる人は多い」。中国帰国者支援・交流センター(東京)の馬場尚子(しょうこ)所長代理は語る。厚労省は一七年から、介護事業所に出向いて中国語で話し相手になる「語りかけボランティア」をスタート。センターが事業を担っているが、「ボランティアの半分は中国残留邦人の二、三世。介護事業者側や帰国者自身にも周知し、介護制度の利用の壁を低くしていきたい」と見据える。
 〇一年に始まった国家賠償訴訟を機に、〇八年に改正中国残留邦人支援法が施行され、残留邦人と配偶者に生活支援給付金が支給されるようになった。原告団を母体に結成されたNPO法人「中国帰国者・日中友好の会」理事長の池田澄江さん(76)と監事の高橋カツさん(78)は「支援法のおかげで生活できている」としつつ、こう続ける。
 「それで終わりではない。年を取るごとに『私たちの人生は何だったのか』との思いは強まる。戦争の教訓として残留孤児の存在を生きている限り訴え続けたい」
 旧満州のハルビン出身で、川崎医療福祉大の姜波(きょうは)教授(異文化理解)は「一世は支援法で生活が保障されるが、二世は一世ほど支援はなく、健康問題や言葉の壁など不安も多い」と指摘して、訴えた。「中国残留邦人について、日本社会の理解はまだ足りていない。多様な背景を持った人がいることを認め合って初めて共生社会といえる」

 中国残留邦人 第2次世界大戦末期、旧満州に肉親と離別するなどして残った中国残留孤児を含む日本人。厚生労働省によると、1972年の日中国交正常化以降に本格的な調査が始まり、2818人が残留孤児と認定され2557人が日本に永住帰国した。中国人の妻となった「残留婦人」らを含めると6724人が帰国。このうち3割を超える2201人が介護サービスを受けている。

外国人移住者の高齢化も課題

 高齢化の問題は、日本に移り住んだ外国人にも訪れている。法務省によると、在留外国人は二〇二〇年六月現在で二百八十八万人で、六十五歳以上は十八万人を超える。
 国士舘大の鈴木江理子教授は「日本では『労働力』という側面で外国人が捉えられることが多いが、現実には出産や育児、教育、そして介護といったライフサイクルに伴う課題がある。労働者もやがて老いていくという認識の下、支援策が必要だ」と指摘する。
 一九年四月には外国人労働者受け入れを拡大する改正入管難民法が施行され、同十月時点の外国人労働者は百六十五万人(前年比13・6%増)と最多を更新。鈴木さんは「受け入れ後の政策や環境整備が今後の課題だ」と話す。

衆参で自民3 政権批判と受け止めよ (2021年4月26日 中日新聞))

2021-04-26 21:33:40 | 桜ヶ丘9条の会

衆参で自民3敗 政権批判と受け止めよ

2021年4月26日 中日新聞
 二十五日に投開票が行われた衆参三選挙区での補欠選挙と再選挙は、いずれも野党系候補が勝利した。自民党は不戦敗を含めて全選挙区での敗北となり、菅政権への厳しい民意が反映された形だ。
 昨年九月に就任した菅義偉首相(自民党総裁)にとって初の国政選挙。自民党は公認候補を擁立した参院広島選挙区の再選挙と参院長野選挙区で敗れ、衆院北海道2区の補欠選挙では候補者擁立を見送った。首相にとって不戦敗を含む三選挙での自民敗北は、今後の政権運営や、十月に任期満了となる衆院の総選挙に向けて大きな痛手となるに違いない。
 特に、参院広島は大規模買収事件で有罪が確定した河井案里前参院議員の当選無効、衆院北海道2区は鶏卵汚職事件で収賄罪で在宅起訴された吉川貴盛元農相の議員辞職に伴う選挙である。
 いずれも、離党したものの自民党議員による「政治とカネ」の問題が発端であり、自民党内に残る旧態依然の金権体質が、選挙の主要争点になった。
 自民党は参院広島再選挙で、経済産業省の官僚出身者を擁立。地元の岸田文雄前政調会長ら党幹部が現地入りして必勝を期したが、有権者の支持は得られなかった。
 立憲民主党の羽田雄一郎元国土交通相の死去に伴う参院長野補選では元衆院議員を擁立して臨んだが、強固な地盤は崩せなかった。
 首相をはじめ自民党は、政治とカネの問題を巡る厳しい世論を深刻に受け止めるべきである。
 新型コロナウイルスの感染拡大が止まらず、感染拡大防止や医療態勢の逼迫(ひっぱく)解消に向けた有効な手だてを講じられない政権に対する不信感も、与党・自民党への厳しい判断につながったのだろう。
 三つの国政選挙は、衆院選や七月四日投開票の東京都議選の行方を占う前哨戦とも位置付けられ、発足半年の菅政権の政権運営や政治姿勢を問う選挙でもあった。
 不戦敗を含む全敗を受けて、自民党内で菅氏の下では衆院選は戦えないとの意見が出てくれば、首相交代論が一気に高まり、九月に行われる党総裁選での菅氏再選は難しくなるかもしれない。
 一方、野党側にも課題を残した選挙でもあった。立憲民主、共産、国民民主、社民の野党各党は三選挙区とも野党「統一候補」を立てて臨み、勝利したが、共産党の協力を巡って陣営内に亀裂も残した。次期衆院選で野党共闘を進めるには、選挙態勢の立て直しが急務となるだろう。