沖縄の思い 尊厳どこへ 辺野古で遺骨入り土砂使用計画 (9月2日 中日新聞)

2021-09-30 11:22:37 | 桜ヶ丘9条の会

亡父の戦争体験 腹話術で語り継ぐ女性


 沖縄戦犠牲者の遺骨が眠る沖縄本島南部の土砂を辺野古新基地の埋め立てに使う計画を、複雑な思いで見つめる人がいる。神奈川県藤沢市の柳川たづ江さん(66)。元日本兵だった父が大事にしてきた沖縄慰霊の旅に百回以上付き添い、父が亡くなってからは父の体験を腹話術の人形とともに語り継いできた。柳川さんは「沖縄の思いを大切にする国であってほしい」と願う。 (安藤恭子)
 父の涙を見たのは初めてだった。
 一九八一年、沖縄県南城市の自然洞窟「糸数アブチラガマ」。二十五歳だった柳川さんは、初めて父の慰霊の旅に同行した。
 「おーい会いに来たぞ。俺だけ生き残って悪かった。今度生まれてくる時には、戦争のない平和な時代に生まれ変われよー」。ガマの闇に向かい、父は泣きながら叫んでいた。
 「親が死んでも、妻が死んでも泣かない。感情をあらわにしない人でした」。ガマの中で感情を押し隠せない父の姿は、柳川さんの脳裏に深く刻まれた。「父が痛みを共有できる場は、きっと沖縄しかなかった」と今は思う。
 旧陸軍分隊長として沖縄戦に加わった父の日比野勝広さん(故人)=愛知県出身=は四五年五月、山中で右腕を撃たれて破傷風となり、南部へと逃れた。野戦病院となったガマに多くの負傷兵と置き去りにされた。腐った傷口にはうじが食い込み、けいれんに苦しんだ。白骨化していく友の屍(しかばね)と横たわり、三カ月後、米兵に救出された。ガマにいた百数十人の兵隊のうち生き延びたのは七人だった。
 「地上で野ざらしになるよりはガマの奥深く眠ることをせめてもの幸せ」。勝広さんの手記の一部だ。この悲惨な体験は、生涯ずっと影を落とした。
 郷里の愛知県に戻り人形職人となった勝広さんの末娘として柳川さんは生まれた。幼いころから勝広さんは急に「今日な」と話しだすことがあった。「(激戦地の)嘉数に着いた」「中隊長が死んだ」。成長し、それが父の戦争トラウマ(心的外傷)であることに気付いた。「戦後もずっと一人、沖縄の戦場をさまよっているように見えました」
 父は暗闇や静けさが苦手だった。夢にうなされ、わーっと叫ぶこともあった。結婚して実家を離れた柳川さんは、日課だった晩年の勝広さんとの電話で「今日は一日中、この人さし指で何人を殺してきたのか、ずっと考えていたわ」と打ち明けられたことがある。ガマを出て捕虜となり、米兵も同じ人間と気付いた。「あの人たちにも家族がいただろうに。ばかなことをしたもんだ」と父は悔やんだ。
 慰霊の旅の際には、ガマからの住民追い出しや方言を理由とした殺害など、沖縄戦における日本兵の加害性への批判が、講演した勝広さんに向けられることもあった。「泣く赤ちゃんを『殺せ』と言った日本兵もいる。でも末端の兵隊の命も結局、切り捨てられていったのが沖縄戦の事実。加害と被害の両方を知って、戦争の実相となるのではないか」と柳川さんは思う。
 戦後、人形職人の父はガマ近くの三つの幼稚園にひな人形を贈り、平和を託した。ガマで命を助けられた住民や元ひめゆり学徒隊の女性たちとも交流を続け、二〇〇九年に八十五歳の生涯を閉じた。柳川さんら四人の娘は亡くなる前年、父の手記をまとめた本を自費出版したのを機に、それぞれ父の沖縄戦を語り継いでいる。

「国の責任で収集を」

 柳川さんは一七年から子どもたちにも分かりやすく伝えたいと、趣味を生かして腹話術人形ふくちゃんとの掛け合いも取り入れた。
 年間二十回超だった講演は、コロナ禍で五、六回に減った。それでも、父自身は公で語ることができなかった自らのトラウマや、人を殺したことへの自責の念も戦争の一面として、娘の立場から伝えている。
 中学生以上の講演では、一九七四年のアブチラガマに残されたままの遺骨の写真を示すことがある。戦後間もなく、南部一帯に散らばる遺骨を住民が収集し、その上に家を建てた。今も民間のボランティアが遺骨を集め続けている実態を踏まえ、「お国のためにと死んでいった遺骨は、国の責任で収集するべきだ」と訴えてきた。
 そんな中で持ち上がった辺野古新基地に南部の土砂を使う計画。父なら何と言うだろうか。きっと「たくさんの人が死んだ所だでねえ」と言って、後は口をつぐむのだろう。
 柳川さんは「人の尊厳の問題であり、民主主義の問題」と受け止める。選挙で基地に反対する知事を誕生させ、住民投票でも反対の民意が示されたのに、国は工事を強行している。「遺骨の問題もその延長線にある。ずっと沖縄の選択は無視され続けてきた」
 神奈川県にも米軍基地はある。藤沢の自宅でも、米軍機の音が夜中までやまない現状を、沖縄と重ね合わせる。腹話術人形のふくちゃんを手に言う。「子どもだってきっと『なんで沖縄の人たちが嫌だって言っているのに急ぐの。勝手に基地を造ったらまずいじゃん』って言うでしょうね。沖縄の思いを大切にする国であってほしい」と願う。

中止求め意見書次々 全国25の地方議会

 太平洋戦争末期の沖縄戦の激戦地だった沖縄本島南部の土砂を埋め立てに使わないよう求める意見書は、十七日現在で少なくとも全国二十五の地方議会で可決されている。
 沖縄戦では住民を含む二十万人超が犠牲となり、県の推計ではまだ約二千八百人の遺骨が収集できていない。
 だが昨年四月、沖縄県名護市辺野古で進む米軍新基地建設を巡り、埋め立て予定地の軟弱地盤の改良工事に使う土砂の採取地として、防衛省が本島南部の糸満市と八重瀬町を追加した。
 この計画に反発し、今年四月に沖縄県議会が、遺骨が眠る本島南部の土砂を埋め立てに使わないよう求める意見書を全会一致で可決。同様の意見書は沖縄県外にも広がり、金沢市議会や東京都小金井市議会など、各自治体の六月定例会までに少なくとも全国二十三の地方議会で可決された。
 この動きは九月定例会でも続き、山形県三川町議会、同県上山市議会で意見書が全会一致で可決された。
 沖縄に配属された旧陸軍歩兵第三二連隊には山形県出身者も多く、同県出身の将兵七百七十六人が犠牲になっている。三川町議会の意見書では「遺族の元には遺骨の代わりに戦没地の土砂が御霊石として届けられた」とし、犠牲者の血肉が染みた土砂の採取をしないよう強く要請。同時に、遺骨収集を「国の責務」と定めた二〇一六年成立の戦没者遺骨収集推進法に基づく、速やかな遺骨収集を求めた。 (中山洋子)
 

 


中日春秋 2021年9月29日 中日新聞

2021-09-29 11:42:14 | 桜ヶ丘9条の会

 

近代的な医学が定着する前、人は恐ろしい感染症だった疱瘡(ほうそう)をつかさどる「疱瘡神」に、疫病の退散を祈った。コレラが流行すれば、コレラ祭りなるものを催し、病が去るのを願ったという。現代において、病気とは<“征服”し“排除”するもの>であるけれど、かつては<なだめ、鎮めるもの>であったと、医学史家の立川昭二さんが『病(やま)いと人間の文化史』に書いている
▼神仏頼みの時代が再来したわけではないが、征服し、排除すべきものに思えていたコロナ感染症が、近ごろ、なんとかなだめ、鎮めるものへと、印象を変えたようにも感じる
▼新型コロナウイルス対策の緊急事態宣言が、まん延防止等重点措置とともに、月末でいっせいに解除されることになった。長かった
▼今年を振り返れば、第三波で首都圏などに二回目の宣言が出されたのが一月。当時は、いずれワクチン接種が進むと、終わりも見えてくるように思えた。宣言や重点措置が断続的に続いて、この第五波では接種を完了した人の感染も報告されている
期待した集団免疫が、遠のいたように見える中での宣言解除である。なだめ、鎮めるための策を忘れれば、第六波は簡単に訪れよう
▼秋である。昨年も大いに楽しむことはできなかったいい季節だが快晴とはいくまい。<生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉(とんぼ)>夏目漱石。排除はまだと思いつつの秋だろう。
 

 


緊急宣言を解除 「第6波」に備えねば 水 晴

2021-09-29 10:25:26 | 桜ヶ丘9条の会

緊急宣言を解除 「第6波」に備えねば

2021年9月29日 中日新聞
 新型コロナウイルス感染症を巡り、十九都道府県に発令中の緊急事態宣言と八県のまん延防止等重点措置が三十日で解除される。
 新規感染者の減少が続くが、これからインフルエンザなど感染症が広がりやすい冬を迎える。警戒を緩めず、「第六波」到来も想定した備えを急がねばならない。
 これまでも宣言などの解除後には感染再拡大を繰り返してきた。今回も店舗の営業時間や行動などの規制を一気に緩和すれば、再び拡大しかねない。地域の感染状況に応じて対応すべきだ。知事は慎重に判断してほしい。
 七月以降の「第五波」では急激な感染拡大に医療態勢が追いつかない医療の逼迫(ひっぱく)を経験した。
 感染力が強いデルタ株が感染者を急増させ、病床不足による自宅療養者は全国で一時十三万人を超えた。入院できず、自宅で容体が急変したり、若い世代でも亡くなる事例があった。
 次の感染拡大に備え、医療態勢の強化を急がねばならない。
 病床の確保は必要だが、大幅な上積みは見込めない。このため、厚生労働省は入院できない患者を受け入れる臨時の医療施設の整備や、自宅療養者への健康観察の強化を自治体などに求めている。
 その際、看護師などの確保が欠かせない。患者急増に対応するには、限られた曜日や時間でも従事できるよう調整が必要だ。各自治体は地域の医療機関や看護協会などとの協議を進めてほしい。
 軽症・中等症を重症化させないために有効とされる抗体カクテル療法などを、外来や自宅でも行える態勢も整えたい。それは自宅療養者の安心にもつながるだろう。
 厚労省の専門家会議は新規感染者の減少理由について、緊急事態宣言などの発令で人出が減った▽ワクチン接種が進んだ高齢者への感染が広がらなかった▽医療の逼迫を目の当たりにした多くの人が感染リスクの高い行動を避けた−ことなどを挙げる。
 東京では若者向けワクチン接種会場に希望者が殺到するなど、感染の深刻化に伴って、社会に危機感が広がったことも、感染拡大を抑える方向に働いた。
 しかし、菅義偉首相は楽観論に終始し、国民との危機感共有は不十分だった。感染再拡大を避け、私たちの命と暮らしを守るためにも、国民の理解と協力を得る労を惜しまない政権の誕生を望む。
 

 


押富さんが挑んだバリアー (3)恐怖の体験 安藤明夫(編集委員) 晴 中日新聞

2021-09-28 15:40:12 | 定年後の暮らし春秋

押富さんが挑んだバリアー (3)恐怖の体験 安藤明夫(編集委員)

2021年9月26日 中日新聞

今年四月に三十九歳で亡くなった押富俊恵さん(愛知県尾張旭市)は、作業療法士の在職中に重症筋無力症を患い、支援する側の立場も理解する重度障害者だった。彼女が目指した「弱者が生きがいを持てる」社会を考える。

 「死にたくなければ一生食べるな。食べたいなら声はあきらめろ」
 押富俊恵さんが主治医からこんな言葉をぶつけられたのは、二十七歳の時だった。
 重症筋無力症に合併した誤嚥(ごえん)性肺炎や敗血症で、入退院を繰り返してきた。誤嚥をなくすには、唾液が気道に入るのを防ぐ喉頭(こうとう)気管分離手術をするか、胃ろうからの栄養補給だけで、体力の低下を覚悟するしかない。医師が勧めたのは分離手術だが、空気が声帯を通らなくなるため、話す力を失ってしまう。
 押富さんは「そんな重大なことを突然言われても」と戸惑った。看護師たちも相談に乗ってくれず、一人で考えた末、手術を断った。話せないと復職の夢も絶たれるし、意思を伝えられなくなることに「恐怖の体験」があったからだ。

患者の尊厳は口先?

 院内で痰(たん)がのどに詰まって意識不明になり、救命のために気管切開した後のこと。まぶたが下がって目が開かず、人工呼吸器に妨げられて声も出ず、全身の脱力で筆談もできなくなった。神経難病の世界では、意識も感覚もあるのに伝える手段がないことを「完全な閉じ込め状態」と呼び、患者たちが恐れているが、それに近い状態に陥ったのだ。その時、医療者たちは押富さんへの関心をなくした。
 医師は声をかけることもなく、黙って点滴の針を刺した。看護師たちは押富さんの体を拭きながらプライベートな雑談を始めた。作業療法士も黙々と関節をほぐして帰っていった。
 すぐに回復できたが、不信感が残った。「命を守ることが最優先」「信頼関係が大事」と言っている医療者が、患者の尊厳を大切にしているのだろうかと。
 押富さんにとっては、入院中は患者だが、家に帰れば生活者として充実した時間があった。
 歩行や嚥下(えんげ)のリハビリに全力投球する一方、誤嚥を防ぐ「おいしい嚥下食」のメニューを考え、母たつ江さん(69)に作ってもらった。趣味の手芸にも打ち込んだ。二〇〇九年、二十八歳の夏には、高校の仲間の結婚式に酸素ボンベなしで松葉づえを使って出席し、おしゃべりや食事を楽しんだ。

医師の涙に手術決意

 だが、また再発して別の病院に緊急入院した。一時は生死の境をさまよう重症だった。
 担当した医師はやはり分離手術を勧めた。「敗血症を繰り返すたびに救命の可能性が下がる。今のうちにやるほうがいい」。前の病院とは違い、丁寧な説明だった。付き添ったたつ江さんは、医師の涙を覚えていた。文字盤を使い「ほかにほうほうはないの(か)」と泣きながら訴える押富さんに、説得する側の目も真っ赤だったのだ。
 一週間考え、イエスの返事をした。「医療職の関わり方が患者の決意を後押しするのだと、身をもって学びました」と一三年の「作業療法ジャーナル」の連載で書いている。
 そして、奇跡が起きた。
 体調が回復してきたある日、ベッド上で「口パク」のように舌や唇を動かしているうち「口やのどにある空気を使って音が出せるかも」と、ふと思った。空気を吸い込めないから、大きな音は出せないが、看護師を相手に練習するうち、だんだん思うような響きを出せるようになって、意味のある声に変わっていった。この独自の発声法、多くの患者の福音になりそうだが、うまく説明できないという。昨年九月に、私がやり方を尋ねたとき「懸命なリハビリというより、気楽に気長に続けることで、今に至ります。いろいろな方法で呼吸器を着けていても話す方はいますが、私みたいな方法で話す人はまだ会ったことがないですし、医師も不思議がっていますよ。たぶんすごく稀(まれ)です」と返事のメールをもらった。
 この「気楽に気長に」がポイントかもしれない。
 一二年のブログでは「声と呼べない口パクのようなもの」と記し、併用する文字盤では気持ちが伝わりにくいと嘆いていた。
 それが一五年になると「パソコンって言うと、50%近い確率で『ばんそうこう?』って聞き返される」「今日は『血、止めているの』って言ったら、シートベルトだと思われた」と聞き間違いをされた体験をおもしろがっていた。
 一九年に私が知り合った時には、声量はないが明瞭で聞き直す必要のない精度だった。講演では文字をスライドに映して読み上げていたが、なくても十分に伝わると思えた。
 二〇年に押富さんをインタビューした湘南医療大教授の田島明子さん(作業療法学)は「楽しむことに何よりも価値を置き、そのためにとことん頑張れる人」と評する。市民団体を立ち上げ、障害者と健常者が集う「ごちゃまぜ運動会」などのイベントを企画し、地域でのつながりを広げていったのも、電動車いすで遠方まで講演に出掛けたのも「楽しいから」。
 楽しむために努力を重ね、発声障害のバリアーを乗り越えたのだ。
 
 

 


押富さんが挑んだバリアー (3)恐怖の体験 安藤明夫(編集委員) 晴 中日新聞

2021-09-28 15:31:19 | 桜ヶ丘9条の会

押富さんが挑んだバリアー (3)恐怖の体験 安藤明夫(編集委員)

2021年9月26日 中日市新聞

今年四月に三十九歳で亡くなった押富俊恵さん(愛知県尾張旭市)は、作業療法士の在職中に重症筋無力症を患い、支援する側の立場も理解する重度障害者だった。彼女が目指した「弱者が生きがいを持てる」社会を考える。

 「死にたくなければ一生食べるな。食べたいなら声はあきらめろ」
 押富俊恵さんが主治医からこんな言葉をぶつけられたのは、二十七歳の時だった。
 重症筋無力症に合併した誤嚥(ごえん)性肺炎や敗血症で、入退院を繰り返してきた。誤嚥をなくすには、唾液が気道に入るのを防ぐ喉頭(こうとう)気管分離手術をするか、胃ろうからの栄養補給だけで、体力の低下を覚悟するしかない。医師が勧めたのは分離手術だが、空気が声帯を通らなくなるため、話す力を失ってしまう。
 押富さんは「そんな重大なことを突然言われても」と戸惑った。看護師たちも相談に乗ってくれず、一人で考えた末、手術を断った。話せないと復職の夢も絶たれるし、意思を伝えられなくなることに「恐怖の体験」があったからだ。

患者の尊厳は口先?

 院内で痰(たん)がのどに詰まって意識不明になり、救命のために気管切開した後のこと。まぶたが下がって目が開かず、人工呼吸器に妨げられて声も出ず、全身の脱力で筆談もできなくなった。神経難病の世界では、意識も感覚もあるのに伝える手段がないことを「完全な閉じ込め状態」と呼び、患者たちが恐れているが、それに近い状態に陥ったのだ。その時、医療者たちは押富さんへの関心をなくした。
 医師は声をかけることもなく、黙って点滴の針を刺した。看護師たちは押富さんの体を拭きながらプライベートな雑談を始めた。作業療法士も黙々と関節をほぐして帰っていった。
 すぐに回復できたが、不信感が残った。「命を守ることが最優先」「信頼関係が大事」と言っている医療者が、患者の尊厳を大切にしているのだろうかと。
 押富さんにとっては、入院中は患者だが、家に帰れば生活者として充実した時間があった。
 歩行や嚥下(えんげ)のリハビリに全力投球する一方、誤嚥を防ぐ「おいしい嚥下食」のメニューを考え、母たつ江さん(69)に作ってもらった。趣味の手芸にも打ち込んだ。二〇〇九年、二十八歳の夏には、高校の仲間の結婚式に酸素ボンベなしで松葉づえを使って出席し、おしゃべりや食事を楽しんだ。

医師の涙に手術決意

 だが、また再発して別の病院に緊急入院した。一時は生死の境をさまよう重症だった。
 担当した医師はやはり分離手術を勧めた。「敗血症を繰り返すたびに救命の可能性が下がる。今のうちにやるほうがいい」。前の病院とは違い、丁寧な説明だった。付き添ったたつ江さんは、医師の涙を覚えていた。文字盤を使い「ほかにほうほうはないの(か)」と泣きながら訴える押富さんに、説得する側の目も真っ赤だったのだ。
 一週間考え、イエスの返事をした。「医療職の関わり方が患者の決意を後押しするのだと、身をもって学びました」と一三年の「作業療法ジャーナル」の連載で書いている。
 そして、奇跡が起きた。
 体調が回復してきたある日、ベッド上で「口パク」のように舌や唇を動かしているうち「口やのどにある空気を使って音が出せるかも」と、ふと思った。空気を吸い込めないから、大きな音は出せないが、看護師を相手に練習するうち、だんだん思うような響きを出せるようになって、意味のある声に変わっていった。この独自の発声法、多くの患者の福音になりそうだが、うまく説明できないという。昨年九月に、私がやり方を尋ねたとき「懸命なリハビリというより、気楽に気長に続けることで、今に至ります。いろいろな方法で呼吸器を着けていても話す方はいますが、私みたいな方法で話す人はまだ会ったことがないですし、医師も不思議がっていますよ。たぶんすごく稀(まれ)です」と返事のメールをもらった。
 この「気楽に気長に」がポイントかもしれない。
 一二年のブログでは「声と呼べない口パクのようなもの」と記し、併用する文字盤では気持ちが伝わりにくいと嘆いていた。
 それが一五年になると「パソコンって言うと、50%近い確率で『ばんそうこう?』って聞き返される」「今日は『血、止めているの』って言ったら、シートベルトだと思われた」と聞き間違いをされた体験をおもしろがっていた。
 一九年に私が知り合った時には、声量はないが明瞭で聞き直す必要のない精度だった。講演では文字をスライドに映して読み上げていたが、なくても十分に伝わると思えた。
 二〇年に押富さんをインタビューした湘南医療大教授の田島明子さん(作業療法学)は「楽しむことに何よりも価値を置き、そのためにとことん頑張れる人」と評する。市民団体を立ち上げ、障害者と健常者が集う「ごちゃまぜ運動会」などのイベントを企画し、地域でのつながりを広げていったのも、電動車いすで遠方まで講演に出掛けたのも「楽しいから」。
 楽しむために努力を重ね、発声障害のバリアーを乗り越えたのだ。