亡父の戦争体験 腹話術で語り継ぐ女性
沖縄戦犠牲者の遺骨が眠る沖縄本島南部の土砂を辺野古新基地の埋め立てに使う計画を、複雑な思いで見つめる人がいる。神奈川県藤沢市の柳川たづ江さん(66)。元日本兵だった父が大事にしてきた沖縄慰霊の旅に百回以上付き添い、父が亡くなってからは父の体験を腹話術の人形とともに語り継いできた。柳川さんは「沖縄の思いを大切にする国であってほしい」と願う。 (安藤恭子)
父の涙を見たのは初めてだった。
一九八一年、沖縄県南城市の自然洞窟「糸数アブチラガマ」。二十五歳だった柳川さんは、初めて父の慰霊の旅に同行した。
「おーい会いに来たぞ。俺だけ生き残って悪かった。今度生まれてくる時には、戦争のない平和な時代に生まれ変われよー」。ガマの闇に向かい、父は泣きながら叫んでいた。
「親が死んでも、妻が死んでも泣かない。感情をあらわにしない人でした」。ガマの中で感情を押し隠せない父の姿は、柳川さんの脳裏に深く刻まれた。「父が痛みを共有できる場は、きっと沖縄しかなかった」と今は思う。
旧陸軍分隊長として沖縄戦に加わった父の日比野勝広さん(故人)=愛知県出身=は四五年五月、山中で右腕を撃たれて破傷風となり、南部へと逃れた。野戦病院となったガマに多くの負傷兵と置き去りにされた。腐った傷口にはうじが食い込み、けいれんに苦しんだ。白骨化していく友の屍(しかばね)と横たわり、三カ月後、米兵に救出された。ガマにいた百数十人の兵隊のうち生き延びたのは七人だった。
「地上で野ざらしになるよりはガマの奥深く眠ることをせめてもの幸せ」。勝広さんの手記の一部だ。この悲惨な体験は、生涯ずっと影を落とした。
郷里の愛知県に戻り人形職人となった勝広さんの末娘として柳川さんは生まれた。幼いころから勝広さんは急に「今日な」と話しだすことがあった。「(激戦地の)嘉数に着いた」「中隊長が死んだ」。成長し、それが父の戦争トラウマ(心的外傷)であることに気付いた。「戦後もずっと一人、沖縄の戦場をさまよっているように見えました」
父は暗闇や静けさが苦手だった。夢にうなされ、わーっと叫ぶこともあった。結婚して実家を離れた柳川さんは、日課だった晩年の勝広さんとの電話で「今日は一日中、この人さし指で何人を殺してきたのか、ずっと考えていたわ」と打ち明けられたことがある。ガマを出て捕虜となり、米兵も同じ人間と気付いた。「あの人たちにも家族がいただろうに。ばかなことをしたもんだ」と父は悔やんだ。
慰霊の旅の際には、ガマからの住民追い出しや方言を理由とした殺害など、沖縄戦における日本兵の加害性への批判が、講演した勝広さんに向けられることもあった。「泣く赤ちゃんを『殺せ』と言った日本兵もいる。でも末端の兵隊の命も結局、切り捨てられていったのが沖縄戦の事実。加害と被害の両方を知って、戦争の実相となるのではないか」と柳川さんは思う。
戦後、人形職人の父はガマ近くの三つの幼稚園にひな人形を贈り、平和を託した。ガマで命を助けられた住民や元ひめゆり学徒隊の女性たちとも交流を続け、二〇〇九年に八十五歳の生涯を閉じた。柳川さんら四人の娘は亡くなる前年、父の手記をまとめた本を自費出版したのを機に、それぞれ父の沖縄戦を語り継いでいる。
「国の責任で収集を」
柳川さんは一七年から子どもたちにも分かりやすく伝えたいと、趣味を生かして腹話術人形ふくちゃんとの掛け合いも取り入れた。
年間二十回超だった講演は、コロナ禍で五、六回に減った。それでも、父自身は公で語ることができなかった自らのトラウマや、人を殺したことへの自責の念も戦争の一面として、娘の立場から伝えている。
中学生以上の講演では、一九七四年のアブチラガマに残されたままの遺骨の写真を示すことがある。戦後間もなく、南部一帯に散らばる遺骨を住民が収集し、その上に家を建てた。今も民間のボランティアが遺骨を集め続けている実態を踏まえ、「お国のためにと死んでいった遺骨は、国の責任で収集するべきだ」と訴えてきた。
そんな中で持ち上がった辺野古新基地に南部の土砂を使う計画。父なら何と言うだろうか。きっと「たくさんの人が死んだ所だでねえ」と言って、後は口をつぐむのだろう。
柳川さんは「人の尊厳の問題であり、民主主義の問題」と受け止める。選挙で基地に反対する知事を誕生させ、住民投票でも反対の民意が示されたのに、国は工事を強行している。「遺骨の問題もその延長線にある。ずっと沖縄の選択は無視され続けてきた」
神奈川県にも米軍基地はある。藤沢の自宅でも、米軍機の音が夜中までやまない現状を、沖縄と重ね合わせる。腹話術人形のふくちゃんを手に言う。「子どもだってきっと『なんで沖縄の人たちが嫌だって言っているのに急ぐの。勝手に基地を造ったらまずいじゃん』って言うでしょうね。沖縄の思いを大切にする国であってほしい」と願う。
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中止求め意見書次々 全国25の地方議会
太平洋戦争末期の沖縄戦の激戦地だった沖縄本島南部の土砂を埋め立てに使わないよう求める意見書は、十七日現在で少なくとも全国二十五の地方議会で可決されている。
沖縄戦では住民を含む二十万人超が犠牲となり、県の推計ではまだ約二千八百人の遺骨が収集できていない。
だが昨年四月、沖縄県名護市辺野古で進む米軍新基地建設を巡り、埋め立て予定地の軟弱地盤の改良工事に使う土砂の採取地として、防衛省が本島南部の糸満市と八重瀬町を追加した。
この計画に反発し、今年四月に沖縄県議会が、遺骨が眠る本島南部の土砂を埋め立てに使わないよう求める意見書を全会一致で可決。同様の意見書は沖縄県外にも広がり、金沢市議会や東京都小金井市議会など、各自治体の六月定例会までに少なくとも全国二十三の地方議会で可決された。
この動きは九月定例会でも続き、山形県三川町議会、同県上山市議会で意見書が全会一致で可決された。
沖縄に配属された旧陸軍歩兵第三二連隊には山形県出身者も多く、同県出身の将兵七百七十六人が犠牲になっている。三川町議会の意見書では「遺族の元には遺骨の代わりに戦没地の土砂が御霊石として届けられた」とし、犠牲者の血肉が染みた土砂の採取をしないよう強く要請。同時に、遺骨収集を「国の責務」と定めた二〇一六年成立の戦没者遺骨収集推進法に基づく、速やかな遺骨収集を求めた。 (中山洋子)