ちゅーとはんぱやなー 大晦日に考える
2020年12月31日 中日新聞
今時分、山里などを歩くと、木守柿(きもりがき)を目にすることがあります。柿の木に一つ、二つ取り残された実のことです。わざわざそうする風習は、来年もたくさんなってくれよ、という祈りだとも、人間の分は取った、あとは鳥の分、という意味であるともいわれます。
柿は秋、ですが、木守柿となると冬の季語。<染の野は枯に朱をうつ木守柿>森澄雄。冬枯れのモノトーンの中に映える、ぽつり残った柿の実の色。なかなか趣のある眺めです。
「木守柿」というやさしさ
元来、人間には極端を避けようとする傾きがある気がします。白か黒か、ゼロか百か、というような極端な選択肢は息が詰まりますし、完璧や完全というのも、ある種、極端な状態で、少し居心地が悪い。むしろ、やり残しや破調や弱点がある方が落ち着くことさえ。木守柿に、ほのとした優しさを感じるのも、すべての実をもいでしまう極端、完全な収穫ではないからなのかもしれません。
完璧や完全は不吉、極端さには魔が宿る、という考えは古くからあったようで、例えば日光東照宮の陽明門には逆柱(さかばしら)があります。木をわざわざ逆さまに使った柱で、あえて未完を装い、「魔除(よ)けの逆柱」と呼ばれています。京都・知恩院の御影堂の屋根にもあえて「葺(ふ)き残し」たような四枚の瓦。やはり極端の手前、未完でとどめるという考え方です。同じ伝で、精緻に、規則的に敷かれたタイルを一部だけあえていびつにするという例は確かどこか欧州の王城にもあったと記憶します。
しかし、このごろ世界は逆に行っていないでしょうか。極端な考えや言動が幅を利かせ、不寛容で対立的で息苦しい空気をつくり出している。そんな気がします。
宗教の「原理」主義もある種の極端なら、トランプ米大統領を熱狂的に支持する「極」右や、白人「至上」主義も無論、極端。極端は英語で言えば、extremeでしょうが、extremismは過激主義と訳されます。蓋(けだ)し、人種であれ、宗教であれ、政治信条であれ、自分と異なる者を否定し、理解しようとしない極端な価値観は、やすやすと過激な行動へとつながっていきます。
しかし、例えば過激なイスラム勢力によるテロが起きると、イスラム教徒を丸ごと危険視するというのも極端な思いこみ。極端な不安や不愉快は憎悪に近づきます。わが国の最近の例なら、かの「自粛警察」がその類いでしょうか。
極端のスパイラル
世界を席巻したポピュリズム政治も、それ自体、複雑微妙な問題に、あたかも魔法の解決策のように極端な策を示す手法と言えましょう。すっぱり分かりやすいところが最大の武器。“第一人者”トランプ氏の四年を振り返れば「脱退」や「破棄」や「制裁」や「締め出し」と、とにかく極端な対応のオンパレードでした。面倒でも異論を傾聴し、議論によって妥協点を見いだす姿勢には欠けていました。揚げ句、極端な敵・味方の色分けで、米社会に深刻な分断を生じさせたことも見逃せません。
もっとも、ポピュリズム政治を勢いづけたのもまた極端さかと。多くの人々を置き去りにした極端なグローバル主義が一例。あるいは、たとえ正しいことでも、極端に厳格な“超意識高い系”の主張は、人々を引きつけるより遠ざける面がある気がします。そんな人々が、その逆を訴える、これまた極端だが、分かりやすい主張に魅入られる。そして極端さが受けると政治はさらに極端へ…。極端のスパイラルです。
そろそろ、ならば何事もいいかげんでいいのか、と突っ込まれそうです。そういえば、お笑いコンビ・ちゃらんぽらんにも、「ちゅーとはんぱやなー」というギャグがありましたっけ。
確かに、辞書も「物事の完成まで達しないこと」「どっちつかずで徹底しないさま」と。でも、あの逆柱や葺き残しの瓦がわざわざ「中途半端」にすることで、魔除けたり得ているのは示唆的です。「極端」な考えや姿勢が不寛容、ひいては対立や分断につながりやすい「不吉」だとすれば、それを避ける中途半端こそ「吉」。何だか「ちゅーとはんぱやなー」が、魔除けの言葉に思えてきます。
新年早々、「ミスター極端」もホワイトハウスを去ります。これを潮に、あれこれの極端さが少し中途半端になってくれれば、世界はその分穏やかになりましょう。
「どっちつかず」で乗り切る
さて、コロナに右往左往した今年も今日でおしまい。もう一つ寝るとお正月ですが、新年も当面は極端な制限と極端な緩和の間…どっちつかずの中途半端で我慢強く対応していくほかなさそうです。一日でも早く、トンネルの出口が見えてきますように。そう強く念じつつ、二〇二〇年の筆をおくことにします。よいお年を−。