危機にある国会の統制 安保法施行4年 (2020年3月28日 中日新聞)

2020-03-31 09:30:36 | 桜ヶ丘9条の会

危機にある国会の統制 安保法施行4年 

2020/3/28 中日新聞

 安全保障関連法の施行から、あす二十九日で四年。安倍政権は国会での審議や議決を経ず、自衛隊の中東派遣を決めた。国会による文民統制は瀕死(ひんし)の危機にある。

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 先月二日、安倍晋三首相は神奈川県横須賀基地での護衛艦「たかなみ」の出国行事に出席し、乗組員約二百人を前に訓示した。

 「(自衛隊が派遣される中東海域は)年間数千隻の日本関係船舶が航行し、わが国で消費する原油の約九割が通過する大動脈・命綱と言える海域だ。日本関係船舶の安全確保は政府の重要な責務であり、必要な情報収集を担う諸官の任務は国民の生活に直結する、極めて大きな意義を有する」

 

自衛隊、重責担い中東へ

 

 今回、派遣されたのは「たかなみ」と、P3C哨戒機二機。

 今月十三日の防衛省発表によると「たかなみ」は二月二十六日から二十九日までの間、オマーン湾とアラビア海北部の公海で約五百隻の船舶を確認。海賊対処を兼務するP3C哨戒機は一月二十日から二月二十九日までの間、アデン湾とアラビア海北部西側の公海で約二千五百隻の船舶を確認した。

 ともに、自衛隊への救援要請など特段の異常は確認されなかったが、米・イランの対立により緊張が高まる海域だ。

 トランプ米政権が提唱した有志連合軍には加わらない、日本独自の派遣だとはいえ、他国の派遣軍に、船舶の航行情報などの「軍事情報」を提供する関係にある。

 自衛隊の海外派遣は、国家として重い意思表明だ。首相が出国行事に出席し、訓示して隊員を送り出したことがその証左だろう。

 にもかかわらず、国会承認の必要がない防衛省設置法の「調査・研究」を根拠とした。国民の代表で構成する国会の審議や議決を経ない閣議のみの決定だ。国会の関与が十分とはとても言えない。

 

「調査・研究」を根拠に

 

 自衛隊は憲法上「軍」ではないが、世界有数の「武力」を有する実力組織である。その活動には慎重を期さねばならない。それを担保する仕組みが、主権者たる国民の代表で構成する国会が、実力組織を統制する文民統制(シビリアンコントロール)である。

 国会は、自衛隊組織の在り方を法律や予算の形で議決し、活動の是非も決める。自衛隊の指揮監督権は首相が有し、隊務は防衛相が統括しているが、自衛隊の活動はすべて国会の統制に服する形だ。

 日本への武力攻撃に反撃する防衛出動も原則、事前の国会承認を必要とする。自衛隊を国会の統制下に置く意味はそれだけ重い。

 特に、災害派遣を除く海外派遣は、その都度、法律をつくり、国会での審議や議決を経てきた。

 国連平和維持活動(PKO)協力法や、インド洋で米軍などに給油活動するテロ対策特別措置法、イラクでの人道支援や多国籍軍支援を行うイラク復興支援特措法、アデン湾で外国籍を含む船舶を警護する海賊対処法である。

 国会が認めなければ、自衛隊は海外で活動できない仕組みだ。

 国会による文民統制が、戦後日本の民主主義体制で採用されたのは、かつて軍部の独走を許し、国内外に多大な犠牲を強いた先の大戦の反省からにほかならない。

 安倍政権は今回、新規立法によらず、自衛隊を調査・研究規定で派遣したことについて、国民の権利義務にかかわらず、実力の行使を伴わないため、と説明する。

 しかし、この手法は拡大解釈の危険性を秘める。米中枢同時テロが発生した二〇〇一年、当時の小泉純一郎内閣が法律に定めのない米空母護衛を、この規定を根拠に行ったことがある。

 調査・研究規定に基づく派遣決定は、国会審議を回避することで野党の反対や批判を避け、政府の判断だけで自衛隊を運用する狙いがあると疑われても仕方がない。

 国会を軽視し、回避する傾向は安倍内閣で顕著になっている。

 歴代内閣が違憲としてきた「集団的自衛権の行使」の容認に転じた安倍内閣の閣議決定も、長年の国会審議などを通じて確立した政府見解を顧みず、一内閣の一存で決めたものである。この閣議決定が、他国同士の戦争への参加に道を開く安保法の根拠となった。

 

平和主義の根幹蝕む

 

 調査・研究規定に基づく自衛隊の中東派遣は、憲法解釈の変更や安保法の成立強行から続く、安倍内閣の国会軽視の表れでもある。

 首相が総裁として率いる自民党は、国会に代わり、内閣に法律と同じ効力を持つ政令の制定権を一時的に与える「緊急事態条項」を設ける改憲案を打ち出した。そこにも国会軽視の地金がのぞく。

 国会による文民統制は、専守防衛や非核三原則などとともに憲法九条の平和主義の根幹を成す。その文民統制が失われれば、戦後日本の平和主義も蝕(むしば)まれることになる。憲法の危機にほかならない。


あっても、なくても 原発銀座の50年 (2020年3月30日 中日新聞)

2020-03-30 09:04:11 | 桜ヶ丘9条の会

あっても、なくても 原発銀座の50年 

2020/3/30 紙面から

 時事ネタで人気のお笑いコンビ、ウーマンラッシュアワーの村本大輔さんは、こう切り出した。昨年暮れにフジテレビ系で放映された「THE MANZAI」のひとこまだ。

 <おおい町の隣は、高浜町ね。高浜町には疑惑だらけの高浜原発がありまして、その隣には美浜原発がありまして、その隣には敦賀の『もんじゅ』があったんです。でも、おおい町には夜の七時以降は開いてる店がほとんどない。真っ暗になる。これ叫ばせてください。電気はどこへ行く~>

 ここで客席、大爆笑。

 <地元の人間にしてみれば原発があっても怖いし、なくても怖い。あったらあったで地震があったら怖い。なかったらなかったで経済が回らないから怖いですよね>

 ふるさとの本音を代弁するかのようなマシンガントークが続く。客席は何度も笑いに包まれる-。 「原発銀座」と呼ばれる福井県の若狭湾沿岸部は、世界に類のない原発の密集地。村本さんが言うように、関西電力の大飯、高浜、美浜、日本原子力発電の敦賀、そして日本原子力研究開発機構の実験炉「もんじゅ」と「ふげん」-。廃炉が決まったものも含めて、計十五基の原子炉が湾内にひしめく、まさに「銀座」の様相だ。

 ヘリコプターで高度千五百メートルから見下ろした。複雑な海岸線。もやの中、岬の陰に身を隠すように、原子炉が立ち並ぶ。

 美浜、もんじゅ、敦賀の三カ所は、一枚の写真に納まるほどの近さにあった。

 

「平和利用」に誘われて

 

 運転開始から、今月で五十年が経過した。

 一九五三年、アイゼンハワー米大統領の「アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)」演説をきっかけに、唯一の被爆国日本にも原子力ブームが巻き起こる。

 福井県は五七年、産学官の代表による「福井県原子力懇談会」を組織して原発誘致に乗り出した。

 繊維に代わる新しい“地場産業”がほしかった。太平洋側の発展に「追いつけ追い越せ」の機運もあった。

 核分裂同様、原発立地も連鎖する。原発が立地されると、見返りに電源三法交付金など「原発マネー」が流れ込み、庁舎や保養施設のような、立派なハコモノが建設される。それを見て、近隣の自治体が名乗りを上げる。時あたかも高度経済成長期。電力需要も右肩上がり。若狭の浜辺はこうして「原発銀座」になった。

 だが、やがて期待はしぼんでいった。元福井県原子力安全対策課長の来馬克美さんは書いている。

 「原子炉建設によって道路などのインフラは整備された。また、建設労働者の流入により、一時的に地域経済が潤いもした。しかし、それは土木建設業界が活躍する建設工事の初期までであり、機器設備類の組立や実際の稼働に入る頃には、原子力発電所建設による利益を受けるのは立地市町周辺に限られることが明らかになっていた」(「君は原子力を考えたことがあるか」)

 立地自治体の住民があまねく恩恵を受けたわけでもない。

 村本さんと同じおおい町に生まれた作家水上勉は、こう書いた。

 「人を信じるしかあるまい。関電の技師さんを信じるしかあるまい。原発の安全は人間を信じることだ。ひとつそれがくずれれば、イカ釣り舟も地獄の宴(うたげ)だ」(「若狭がたり」)。多くの人が不安を押し殺し、原発との共存を自らに強いてきたのではなかったか。

 福島第一原発の事故を境に若狭湾の潮目も変わり、うち続く電力会社の不祥事は、地元との信頼関係に、とどめを刺した感がある。

 

「百年」はあり得ない

 

 老朽化した敦賀1号機は廃炉が決まり、2号機直下には大地震を起こす恐れのある活断層の存在が指摘されている。3、4号機の建設予定地は更地のままだ。新増設の見込みはない。原発銀座に「百年」はあり得まい。世界は再生可能エネルギーの時代になった。

 半世紀-。原発の真の受益者は、地方が送る電気を使い繁栄を謳歌(おうか)してきた都会の電力消費者だった。若狭のような供給地の未来をどうするか。消費者もともに考える時。例えば村本さんの原発ネタが、きっかけになればいい。


週のはじめに考える 潮が引いた時にこそ (2020年3月29日 東京新聞)

2020-03-29 10:59:41 | 桜ヶ丘9条の会

週のはじめに考える 潮が引いた時にこそ

 「俺は強い」と普段から威張っているのに、質屋の旦那から「蔵にお化けが出るから見張りを」と頼まれた途端、怖気(おぞけ)をふるい…。

 この噺(はなし)、『質屋蔵』の熊五郎のように、平生はやたらに威勢がいいが、いざとなるとてんでだらしないという、どうにも憎めない人物が落語にはよく出てきます。

 慣用句で言えば、<メッキがはがれる>とか、その結果、<地金が出る>とか。何事であれ、平穏な時には見えにくい「本質」が露呈するのは、危機やピンチの時、ということかもしれません。

 米国の富豪で投資家のウォーレン・バフェット氏が、確かこんな言い方をしています。

 <潮が引くと、誰が海水パンツを履いていなかったか分かる> 

◆「無駄」でなく「ゆとり」

 今、世界は新型コロナウイルスの感染蔓延(まんえん)という、とんでもない引き潮に苛(さいな)まれています。死者は増え続け、人々の暮らしや経済も大混乱という点、ほぼ国の別はないのですが、特に深刻さが目立つのがイタリアです。感染者数は見る見る増えて九万人に迫り、死者数も九千人を超えています。

 要因の一つに挙げられるのが医療費削減。過去五年間で八百カ所近い医療機関が閉鎖されており、医師や看護師も設備も不足して悲鳴が上がっています。「医療崩壊」という怖い言葉も聞かれます。

 二〇一〇年代初頭の欧州債務危機以降、超緊縮財政を余儀なくされ、医療費にも大鉈(なた)が振るわれたわけです。

 政府としては、考え抜いて「無駄」を削ったつもりだったはずです。でも、満ち潮の間はそう見えていたとしても、今、恐ろしい勢いで潮が引いてみれば…。削ったのは「無駄」ではなく急激な変化の衝撃を吸収する「ゆとり」だったと気づかされておりましょう。

 ただ、潮が引いて見えたのは、そういうイタリアの姿だけではありません。

◆ポルタ・フォルトゥーナ

 少し前、テレビでこんな光景を目にしました。家々のバルコニーに人々が出て、みなで歌を歌っているのです。外出が原則禁止になる中、落ち込みがちな気分を変えようと、SNSで誰かが呼びかけたのだといいます。奮闘する医療従事者を称(たた)えようと、みなで一斉に拍手を送る場面もありました。

 彼(か)の国には、誰かがワインをこぼしたら、それを指で顔などにつけ「ポルタ・フォルトゥーナ」と言う習慣があると聞きます。直訳なら「幸運の扉」、まあ「幸運がやってくる」というおまじないみたいなものでしょうか。また、レストランでウエーターが皿を割ったら、励ましの意味で、客が一斉に拍手を送るという粋な風習もあるそうです。

 粗相も不運も前向きに-。あのバルコニーでの“合唱”や拍手はまさに、危機の時になって見えたイタリア人気質の素敵な<地金>のように思えます。一日も早いフォルトゥーナの訪れを祈ります。

 無論、幸運の到来を願うのは、わが国も同じ。特に東京での感染拡大は不気味で、爆発的感染が起きる可能性は消えていません。さまざま影響も出ていますが、最近一つ気になったのは、新卒者の内定を取り消す企業が出ているというニュース。今後の採用を大幅に抑制する、あるいはリストラに踏み切る企業が増えるのでは、という懸念も募っています。

 確かに、あらゆる産業が打撃を受けており、厳しい経営の見直しを迫られる企業も少なくないでしょう。先が見えない不安も生半(なまなか)でない。経営側の苦衷を察します。でも、ここは、せめて株価より雇用を、特に若者たちの未来を守るためぎりぎりの努力をしてほしい。「就職氷河期」の再来は何としても避けるべきです。

 昨今、ESGという言葉が市民権を得つつあります。いわば投資先の企業を選ぶ基準で、環境保護への取り組みを問う「E」=Environmentが話題に上りがちですが、社会的責任を果たしているかを指す「S」=Social、条理を弁(わきま)えた経営をしているかが問題となる「G」=Governanceも重要です。国連の「責任投資原則(PRI)」はESGの視点で投資の可否を決めるという“誓約”のようなものですが、日本を含め、世界中の名だたる企業、機関投資家が続々と署名しています。

◆ESGの「S」と「G」

 このコロナ禍、国民挙げて乗り越えようと必死になっている困難の時にあって、企業がどう振る舞うか。過度に防衛的になるのか、安易に利益や効率に走るのか、それとも、耐えに耐えて社会的存在としての責任を果たそうとしてくれるのか…。まさに「S」、あるいは「G」が問われているようにも思います。

 潮が引いた時、どんな姿だったか-。やがて潮が満ちた時にも、人々はそれを忘れないでしょう。

 
 

中日春秋 (2020年3月27日 中日新聞)

2020-03-27 09:44:24 | 桜ヶ丘9条の会

中日春秋 

2020/3/27 中日新聞

 坪内逍遥の明治期の小説『当世書生気質(かたぎ)』にある学生の会話である。<例のイヂヲツト(愚人)のシクエンス(後談)ハどうなツたか><それに付(つい)て実にリヂキユラスな(をかしい)話があるのさ>

不自然な外来語を得意げに使う気質は開国以来、わが国に存在し続けているようだ。立派な日本語があるのに、カタカナ言葉を多用する。書生のような言葉遣いが広がることを、国語学者の金田一春彦さんは『新日本語論』で、<日本語の危機>と述べている

▼「後談」は「後日談」か。指摘のように日本語で何の不自由もない。オーバーシュート(爆発的患者急増)、ロックダウン(都市封鎖)、クラスター(感染者の集団)…。言われてみれば、こちらもかっこの中の日本語で、十分に思える。新型コロナウイルスに関する言葉遣いについて、河野防衛相が疑問を呈したのを機に、政府に見直しの機運があるという

▼手元の英和辞典でオーバーシュートの項目を引いたが、病気に関する意味は、載っていない。特殊な用法のようである

▼なじみのないカタカナ言葉に危機意識を高める効果があるのかもしれないが、高齢の方の健康が心配な病気である。分かりやすさ以上の価値はあるようには思えない

爆発的な患者の増加や都市の封鎖が必要な事態が、現実の心配になっている。言葉遣いも重みを増している日本の危機である。


補助金一転交付 文化庁は反省と検証を (2020年3月26日 中日新聞)

2020-03-26 09:07:44 | 桜ヶ丘9条の会

補助金一転交付 文化庁は反省と検証を 

2020/3/26 中日新聞

 愛知県が昨年開いた国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」への補助金を不交付とした文化庁が、一転して交付を決めた。こうした混乱に至ったことを同庁は率直に反省し、経緯を検証するべきだ。

 あいちトリエンナーレは、三年ごとの開催。昨年は、従軍慰安婦を象徴する「少女像」などからなる企画展が、「反日」といった激しい抗議を受けてわずか三日で中断する異常な状況となった。

 文化庁は愛知県に補助金七千八百万円を交付する予定だったが、手続き上の不備があったとして、全額の不交付を決定した。芸術家や識者らからは「事実上の検閲」と強い抗議の声が上がった。県側も訴訟を辞さない方針だった。

 だが文化庁は今月二十三日、約千百万円を減額するものの、補助金を交付することを表明。いったん内定した補助金の交付を一方的に取り消し、さらにそれを撤回するという極めて異例な事態だ。

 これを受けて識者からは、今回の決定を歓迎しつつも、どのような論理で不交付を撤回したのか明らかにするよう同庁に求める声が上がった。もっともだろう。

 企画展に対しては、賛否が大きく分かれた。自由な社会において芸術作品に多彩な見方や意見があるのは当然だが、残念ながら否定する人の側には、テロ予告など表現や言論の自由を脅かす言動もあった。そうした状況の下で文化庁がまず行うべきは、有形・無形の圧力や暴力に抗して、表現者の側に立つことではなかったか。

 だが同庁が実際に取ったのは、愛知県側の不備をとがめる対応であり、問題行動を黙認する結果にもなったと言わざるをえない。その点、深い反省を求めたい。

 そもそもなぜ補助金は不交付とされたのか。政府は「文化庁の判断」としてきたが、そこに企画展を問題視した政治家などの介入はなかったのか。逆に、そうした意見に対する同庁の側からの過度な「忖度(そんたく)」はなかったのか。

 同庁が今後、自主的で自律的に施策を遂行するためにも、不交付の決定から撤回までの経緯を検証し、公開することが必要だろう。

 一九六八年の設置から半世紀あまりとなる文化庁。人が人らしく生きる上で大切な文化の営みに関わる官庁だが、一方でこの間、かけがえない歴史遺産である高松塚古墳(奈良県)の壁画の劣化を糊塗(こと)し、信頼を失いもした。今回の問題でも自らを戒め、今後の文化行政に適切に反映させてほしい。