家族の尊厳、司法向き合う ハンセン病賠償  (2019年6月29日 中日新聞) 

2019-06-29 18:49:43 | 桜ヶ丘9条の会
家族の尊厳、司法向き合う ハンセン病賠償 
2019/6/29 中日新聞
 
 ハンセン病元患者家族による初の集団訴訟で熊本地裁は二十八日、患者だけでなく、その家族も隔離政策の犠牲になったと認める画期的な判決を言い渡した。憲法違反の法が肉親の絆を引き裂き、数々の差別を生み出した歴史的事実を認める判決。家族の悲劇に長年向き合おうとしなかった国に、司法とは別に政策による幅広い救済を求める声は強く、誤った政策の犠牲になった旧優生保護法訴訟の原告も国の対応を注視する。

■絶えぬ不条理

 「死のう、死のう」。原告の原田信子さん(75)の耳には、心中を迫る母の声が今も響く。北海道で父母と暮らしていたが八歳の時、父が療養所に入所したのを機に母は失業。差別と貧困に苦しむ日々が始まった。
 十七歳の時に結婚した夫は、父の病気を理解していたはずだったが、酒に酔うと「病気の父親がいるのを嫁にもらってやった」と暴力を繰り返すようになった。絶え間なく降りかかる不条理。「父が悪いわけでもないのに恨むようになっていった」。法廷で複雑な胸の内を吐露した。
 苦しみは差別や貧困、分断にとどまらない。就職や婚姻の拒否で人生の選択肢が制限され、人間としての尊厳が傷つけられた。入所している家族の存在を「死んだ」などと隠し通す後ろめたさも背負った。五百六十一人の原告はさまざまな人権侵害を訴えた。

■法に含まれず

 「控訴しないことに決定した。ハンセン病問題の早期解決、全面的な解決を図りたい」。二〇〇一年五月二十三日。旧らい予防法を違憲とした熊本地裁判決を受け小泉純一郎首相(当時)が、首相官邸で記者団を前に異例の判断を表明した。二日後には謝罪と反省を盛り込んだ首相談話が閣議決定された。
 〇九年には立法による患者救済策として、生活保障や差別解消などを目的としたハンセン病問題基本法が施行された。だが、基本法は患者家族への差別に対する責任や偏見の解消への取り組みは含まず、国は家族の被害から目をそらし続けた。
 今回の訴訟でも国側は、「家族を社会から排除したことはない」「家族への差別解消の義務は負っていない」と繰り返し主張した。

■重なる構図

 国策の過ちによる被害者に対し、政治決断で救済策を講じるよう求める声は多い。成蹊大の渡辺知行教授(民法)は「差別を恐れて声を上げることすらためらう多くの人がいる。名誉を回復するための制度化が必要だ」と訴え、国に被害者らに真剣に向き合うよう促した。
 国による人権侵害の被害救済を司法に求める構図は、旧優生保護法下の強制不妊手術を巡り全国の地裁、高裁で係争中の国家賠償請求訴訟とも重なる。不妊手術強制などの被害に苦しんだ原告や関係者は今回の判決と政府の対応に強い関心を寄せている。旧優生保護法訴訟全国被害弁護団の新里宏二共同代表は今回の判決を「裁判所が被害に向き合った結果」と評価する。
 旧優生保護法訴訟では仙台地裁が五月、損害賠償請求権が消滅する除斥期間を適用し、原告の訴えを退けた。新里氏は、熊本地裁が今回、時効による賠償請求権の消滅を認めなかったことに着目する。「時効の起算などについて柔軟に判断している。今回の判決を参考にわれわれも勝利を目指す」と勢いづいた。



最高裁の判断 なぜ再審の扉を閉ざす (2019年6月28日 中日新聞)

2019-06-28 08:42:57 | 桜ヶ丘9条の会
最高裁の判断 なぜ再審の扉を閉ざす 
2019/6/28 中日新聞
 四十年間も潔白を訴えていた大崎事件(鹿児島)の原口アヤ子さんに再審の扉は開かなかった。最高裁が無実を示す新証拠の価値を一蹴したからだ。救済の道を閉ざした前代未聞の決定に驚く。
 「やっちょらん」-。原口さんは、そう一貫して訴えていた。殺人罪での服役。模範囚で、仮釈放の話はあったが、「罪を認めたことになる」と断った。十年間、服役しての再審請求だった。
 鹿児島県大崎町で一九七九年に起きた事件だった。被害者が酒に酔い、側溝に落ちているのを住民が発見した。三日後に遺体が自宅横にある牛小屋で見つかった。原口さんは隣に住み、被害者の義姉にあたる。親族の計四人が殺人容疑などで逮捕され、八一年に最高裁で確定した。
 そもそも本当に殺人なのかも疑われる事件だ。側溝に転落した際の「出血性ショック死の可能性が極めて高い」からだ。新証拠の鑑定はそう記している。この見方は地裁・高裁も支持している。何しろ確定判決時の鑑定は「他殺を想像させる。窒息死と推定」という程度のあいまいさだった。
 では、絞殺という根拠は何か。実は共犯者とされた親族の自白に寄り掛かっている。供述は捜査段階でくるくる変わる。虚偽自白の疑いとみても不思議でない。
 なぜ自白したか。「警察の調べが厳しかったから」だそうだ。しかも知的障害のある人だった。今なら取り調べが適切だったか、捜査側がチェックされたはずだ。
 最高裁は新鑑定を「遺体を直接検分していない」「十二枚の写真からしか遺体の情報を得られていない」と証明力を否定した。親族の自白は「相互に支え合い信用性は強固」とした。だが、本当に「強固」なのか。過去の冤罪(えんざい)事件では、捜査側が描くストーリーに沿った供述を得るため、強要や誘導があるのはもはや常識である。
 最高裁の判断には大いに違和感を持つ。審理を高裁に差し戻すこともできたはずである。事件の真相に接近するには、そうすべきだった。事故死か他殺かの決着も、再審公判でできたはずだ。再審取り消しは論理自体が強引である。もっと丁寧に真実を追求する姿勢が見えないと、国民の司法に対する信頼さえ損なう。
 「疑わしきは被告人の利益に」は再審請求にも当てはまる。その原則があるのも、裁判所は「無辜(むこ)の救済」の役目をも負っているからだ。再審のハードルを決して高めてはならない。






えらいこっちゃ、大阪 G20サミット、28日開幕 (2019年6月27日 中日新聞)

2019-06-27 08:43:50 | 桜ヶ丘9条の会
えらいこっちゃ、大阪 G20サミット、28日開幕 
2019/6/27 中日新聞

 28、29日に迫った20カ国・地域首脳会議(G20サミット)。開催地の大阪には47都道府県から3万2000人の警察官が集まり、過去最大級の規模で要人らの警護に当たる。その様子は「戒厳令下か」と思うほど。既に市民生活への影響も出ている。おもろく、人懐っこいイメージの大阪の人たち。歓迎ムードの中に、時折うんざりした表情も見せる。
 大阪市が埋め立てた人工島・咲洲(さきしま)。サミットの会場となる展示場「インテックス大阪」(住之江区)の周辺では本番三日前の二十五日、既に厳重な警備が始まっていた。
 会場へつながる全ての道路で一般車両を通さないようにし、近くの駅では警察官が「身分証か通行証の提示を」と呼び掛ける。沿岸では海上保安庁の巡視艇が目を光らせる。
 咲洲には大規模な団地もあり、約二万四千人が暮らす。住民は散歩や買い物へ行くたびに、警察官に呼び止められる。
 「きのう(二十四日)からほんまに厳しくなったわ。こんなん初めてやわ」。身分証明のためにパスポートのコピーを持参してウオーキングしていた近くの森下佐恵美さん(70)は話す。
 記者も駅から徒歩五分ほどの会場に着くまでに、四度、身分証の提示を求められた。
 「過去の洞爺湖や伊勢志摩サミットと異なり、人口密集地での開催。安全と住民の負担軽減の兼ね合いが難しい」。警察庁幹部は警備の苦労を口にする。初の日本開催となるG20サミットは、警備する側にとっても手探りのようだ。
 「すみません、確認したらやはり通れるようです」。検問所の警察官が、自転車に乗って走り去ろうとする滝川友香里さん(38)に駆け寄った。滝川さんは長女(5つ)を幼稚園に送り届け、同じ道を近くの自宅へ戻る際に警察官に制止されたばかりだった。
 「さっきは通行できたのに。おまわりさんによって言うことが違うんですよ。通れる道を尋ねても、『自分は分からないから大阪の警察官に聞いてほしい』と言われるし」と困惑顔だ。一カ月前に派遣されたという警視庁の警察官は「指示が明確でない。正直だいぶグレーゾーンで(警備を)やってます」とぼやいた。

◆歓迎の声も

 不便を強いられても、住民から聞こえるのは不満ばかりではない。
 会場周辺の警備が始まったのは五月。近くに住む中村美智子さん(67)は「最初は怖い感じもしたけど、おまわりさんたち、毎日すれ違うたびに大きな声であいさつしてくれるねん。こないだの仙台の子は、ごみ拾いまでしてくれてたな」と歓迎する。
 開催前日の二十七日からは市民生活への影響がさらに広がる。阪神高速の十路線が三十日まで、早朝から深夜にわたり封鎖され、市中心部の一般道も規制される。大渋滞が予想され、大阪府警は「交通量五割削減」という前代未聞の目標を掲げる。

◆公立校休校

 影響は歓楽街にも及ぶ。西成区の「飛田新地」では、飛田新地料理組合に加盟する百五十九の全料亭が二十八、二十九日に休業する。一斉休業は一九八九年の昭和天皇の「大喪の礼」以来。組合は「営業していて万が一、事故があってはいけないと考えた」と説明している。
 市立の幼稚園、小中高校と府立の全学校は二十七、二十八日を臨時の休みにする。
 会議の前後は多くの路線バスが運休。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンなど観光施設では手荷物検査をする。臨時に休む施設もある。コインロッカーは既に使用停止になっている。
 一方、地元の首長たちはどこか浮かれムード。吉村洋文府知事は十九日の記者会見で「大阪の食材、すばらしいもののPRに活用する。海外メディアも含め三万人が来る」。松井一郎大阪市長も二十日の会見で「大阪や関西の食の魅力、技術力、万博のPRをする」と意気込む。
 阪南大の桜田照雄教授(経営財務論)は二人の狙いを「大阪には世界的会議を開けるほどの力があるとアピールしたいのだろう」。
 咲洲と同じ臨海部の夢洲(ゆめしま)では二〇二五年、国際博覧会(大阪・関西万博)が開かれる。カジノを含む統合型リゾート(IR)の整備構想もある。「今回の警備で住民に不便を与え、国際的会議を開くのにふさわしい所がないから、広域に影響が及んだと印象付ける。そして(警備上隔離できる)夢洲にIRが必要だという論にすり替えるのでは」と桜田教授は指摘する。
 (皆川剛、中沢佳子)

辺野古「政治とカネ」の影 建設業者が容認派に金 (2019年6月25日 中日新聞)

2019-06-25 08:35:48 | 桜ヶ丘9条の会
辺野古「政治とカネ」の影 建設業者が容認派に金 
2019/6/25 中日新聞

 際限なく工費が膨らむ米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設。強行される工事の裏で、政治家と業者の癒着を疑わせる「政治とカネ」の問題が浮上した。県内の選挙で移設が争点となるたび、容認派の候補を支えてきたのは建設業界だった。
 「昨年十二月の辺野古沖の埋め立て第一投は、業界にとっては『待っていました』ですよ。あの日はひそかに祝杯を挙げた」
 元名護市長で、建設業者などでつくる北部地域振興協議会の島袋吉和会長は、工事の進捗(しんちょく)を歓迎する。「これまで選挙応援をするだけで工事が回ってこなかったから、地元業者は干上がっていた」と話す。
 沖縄の自民党衆院議員の政党支部には、衆院選のあった二〇一四、一七年とも、解散から投開票日までの間に企業献金が集中している。多くは県内の建設会社や建設資材の会社だ。
 県内の建設会社幹部は「選挙が近づくと、候補者陣営からファクスや手紙で献金の依頼が来る。振込用紙も同封されている」と証言する。「うちは基地の仕事はないけど、献金はお付き合い。防衛省の仕事をしている会社なら、応援せざるを得ないだろう」
 一四年の衆院選直前、県内の六議員側に献金した沖縄市の建設会社幹部は「業界の将来を考えたら自民党」と話す。この会社は選挙の二カ月前に、辺野古沿岸部の護岸工事を二億九千万円で落札していた。
 一七年の衆院選中に辺野古の受注業者から献金を受けた西銘恒三郎衆院議員の事務所は「うちはもう献金をお願いしていない。政治力に期待して献金する業者もいるだろうが、今は通用しない」と説明する。
 埋め立て着手から半年。県内で恩恵を受けている業者は限られる。辺野古の関連工事で、大手ゼネコンの下請けに入ったことがある建設会社社長は「仕事が取れるなら、もっと寄付してるよ」とこぼす。
 それでも選挙応援するのは、「仲間外れにされるのが怖いから」と名護市で測量業を営む渡具知(とぐち)武清さん(62)は明かす。
 渡具知さんは辺野古移設抗議活動に加わるうちに付き合いのあった元請けから仕事が回ってこなくなった。途中で契約を打ち切られたことも。一八年二月の名護市長選では「渡具知測量を使うな」という話も聞こえてきたという。
 辺野古移設が争点となった二〇一八年の名護市長選。選挙に関わった関係者は「国政選挙以上に建設業界がフル稼働した」。政府・与党は、移設推進派の元名護市議、渡具知武豊氏を総力を挙げて支援。移設阻止を掲げる現職の稲嶺進氏を破り、八年ぶりに反対派から市長の座を奪還した。
 「国家権力が襲いかかってきた」と稲嶺氏。政府は振興策をちらつかせて地元業者の締め付けを図った。県政関係者は「末端の土建業者にまで官邸から『頼むぞ』と電話がかかってきた」と明かす。
 建設業界の献身ぶりは、自民党名護市支部の政治資金収支報告書からうかがえる。支部は渡具知氏の出馬表明直後から、建設業者を中心に約二千万円を集金。辺野古工事の受注業者の献金額は突出していた。自民党県連などからの寄付を合わせた約二千百万円が市長選直前の一七年十二月~一八年一月、渡具知氏側の政治団体や本人に流れた。
 企業献金は政党支部や政治資金団体にはできるが、それ以外の政治団体や政治家個人には禁じられている。建設業者などからの献金が、名護市支部を迂回(うかい)して渡具知陣営の選挙資金になったようにも見える。
 支部に献金した市内の建設会社社長は「県北部では公共工事が減っている。地元じゃ死活問題。辺野古の仕事につなげたくて献金した」と打ち明けた。渡具知市長の後援会は本紙の取材に「支部からの寄付は政党活動の一環と認識している。迂回との懸念は当たらない」とコメントした。
 (中沢誠)



今も苦しみを押し付けている 戦後74年「慰霊の日」沖縄の思い (2019年6月25日 中日新聞)

2019-06-25 08:24:41 | 桜ヶ丘9条の会
今も苦しみ押しつけている 戦後74年「慰霊の日」沖縄の思い 
2019/6/25 中日新聞

 二十三日は沖縄戦の犠牲者を悼む「慰霊の日」だった。地上戦が行われた沖縄では、戦争の惨禍は過去のものではない。目の前で家族を失い、わずか六歳で孤児となった男性はずっと内に秘めていた生々しい記憶を語った。沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園で開かれた沖縄全戦没者追悼式では、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に反対する玉城デニー知事が初出席し、民意に反して工事を強行する安倍晋三首相と同席した。戦後七十四年。沖縄で交錯する思いを聞いた。

◆6歳で孤児になった男性

 二十三日朝、灰色の雨にくゆる摩文仁の丘。沢岻(たくし)正喜さん(80)=那覇市=は、家族の名前が刻まれた平和の礎(いしじ)に、父が好きだった酒や花を供えた。眼下には七十四年前、米軍に投降した海岸が広がる。
 今まで自分の体験の詳細を人に話したことはなかった。家族が亡くなった出来事はあまりに鮮明で、「思い出せば涙がこぼれてしまう」からだ。だが、この日、沢岻さんは礎に「自分だけ生き残ってごめんね。平和な島にしたいね」と語りかけ、目に涙を浮かべながら話し始めた。
 蒸し暑い一九四五(昭和二十)年五月の夜。沢岻さん一家は戦火を避けて古里の西原町を離れ、首里城に近い墓に隠れていた。沖縄独特の、中に人が入れる石造りの墓。その入り口で三歳の妹を抱いて涼んでいた母が突然、艦砲の直撃を受けた。母は大けがを負い、「もう自分はだめだから、この子たちを頼みます」と沢岻さんらを祖母に託し、妹と息を引き取った。
 墓の外にいた母の姉も頭部の半分を吹き飛ばされて即死。祖父と兄、弟も頭や足にけがをした。一帯は日本軍の司令部のそばで、一家は立ち退きを迫られていた。「安全な場所を見つけて、迎えに来るから」。けがの三人にこう言い残し、祖母らと墓を出た。
 米軍の猛攻の中、連日の雨にぬかるむ大地を、南へ向かった。沢岻さんは祖母らともはぐれ、当時十九歳のおばと二人きりに。「照明弾が怖くて、おなかがすいて仕方なかった」。畑のサトウキビで飢えをしのいだが、下痢が続いた。
 六月、アダンの木が茂る摩文仁付近の海岸にたどり着き、岩礁に隠れた。晴れた朝、他の子どもたちと浅瀬でカニや貝をとろうとした時、「パン!」と発砲音がした。銃を構えた米兵たちに囲まれていた。手を上げて捕虜になった。
 防衛隊員として現地召集された父は帰らなかった。墓に残してきた祖父や兄、弟も助からなかった。一緒に逃げたおばは高熱を出し、戦後、亡くなった。
 沢岻さんは、親戚に引き取られたが、小学校から帰ると畑仕事ばかりで勉強や遊びの記憶はない。夜は自分の涙で目が覚めた。「貧しくて、苦しくて。なぜ自分だけ生き残ったのかと、親を恨んだこともあった」
 高校卒業後、銀行に勤めて結婚し、子や孫にも恵まれた。だが、沢岻さんの戦後は終わらない。毎月、移設工事が進む名護市辺野古へ出向き、座り込んでいる。「基地のある所が攻撃の標的となる。今は幸せだけど、孫や次の世代に基地を残すと思うと、いてもたってもいられない」
 移設後は自衛隊の共用も見込まれる。「軍隊の本質は沖縄戦で学んだよ。戦争で自衛隊が守るのは住民じゃない。日本の国だ」と語気を強め、こう続ける。「南西諸島を要塞(ようさい)化し、辺野古を増強し、政権は今もこの小さな島に苦しみを押しつけている。沖縄は本土のちり箱じゃない。だから、私たちは反対し続けるよ。あきらめなければ負けることもないから」

◆黎明之塔

 まだ真っ暗な午前四時五十分。じわっとした蒸し暑さが漂う中、平和祈念公園にある「黎明(れいめい)之塔」には深緑の制服を身にまとった自衛官の一団が姿を見せた。
 まつられているのは沖縄を守備した第三二軍の牛島満司令官。三十人ほどの自衛官は一人一人、塔の前で一礼して献花した。
 報道陣とともに視線を向けていたのは平和活動にいそしむ那覇市の元教諭、与儀喜一郎さん(74)。自衛官の参列は「旧日本軍の美化」と懸念し、毎年監視している。「だんだん来る時間が早くなっている。暗闇に紛れて済ませようとしているのか」といぶかしむ。
 自衛隊側は「参列は個人の判断」と言うが、与儀さんの知人で大阪市生野区の教諭、平井美津子さん(58)は「今まで献花は代表者だけだったが、今年は仰々しい。儀式化の布石のように思えてならない」と疑う。

◆平和の礎

 黎明之塔に近い「平和の礎」には、夜明けとともに多くの遺族が足を運んだ。犠牲者二十四万人余の名が刻まれるこの場所。那覇市の渡嘉敷清次さん(76)は降りだした小雨も気にせず、五人の孫と訪れた。
 三歳の時、米軍の爆撃で母を失った。「あんなつらい思いをこの子たちにさせたくない。そんな気持ちを知ってほしくて一緒に来た。世の中、元号が変わって『令和、令和』って騒ぐけど、一番は平和だよ」
 祖父の名の前で正座し、三線(さんしん)を奏でたのは宜野湾市の鳥越佐代子さん(76)。目元をぬらしながら、命の大切さを扱う琉球民謡を歌い上げた。「今年は雨。涙雨ですよね。三線の音色もいつもより寂しげに響きました」

◆追悼式

 午前十一時五十分からの追悼式は、玉城デニー知事が昨秋の就任後初めて出席した。ウチナーグチ(沖縄方言)や英語も交えて、「平和を希求する沖縄のチムグクル(真心)を世界に発信する」と宣言すると、指笛が響き渡った。
 対照的だったのが安倍晋三首相への反応。普段より早口で「平和で希望に満ちあふれる新たな時代を創り上げる」とあいさつすると「うそつけ!」「ふざけるな!」とやじが飛び、係員が声出し禁止のボードを掲げても「帰れ!」と退場を促す声が上がった。
 追悼式に初めて訪れた宜野湾市の看護師富田真菜さん(25)は「基地問題の映画を見て考えるところがあって来てみた。怒号が飛び交うのにびっくりしたけど、それが沖縄の民意なんだと改めて感じた」と話した。
 公園入り口では首相に抗議する人たちが数十人集まり、「慰霊の日に参加する資格なし」と横断幕を掲げた。向かい側では日の丸を掲げた集団が「政治運動するな」と罵声を浴びせ、警察官が止めに入る場面もあった。

◆魂魄の塔

 追悼式会場から西に約四キロ離れた「魂魄(こんぱく)の塔」付近では、恒例の反戦集会が開かれた。沖縄で最初期の慰霊塔。昨年八月に急逝した翁長雄志前知事の父が建立に関わり、翁長氏自身も選挙のたびに足を運んだ。
 名護市辺野古移設に反対し、カヌーで抗議する南城市の安里邦夫さん(47)は「翁長さんには申し訳なさを感じている。前の前の知事が保守系の人で、途中で手のひらを返した。翁長さんも保守系だから長らく信じ切ることができなかった」とうつむく。
 「『この人なら』と思えたのが昨年の追悼式。膵臓(すいぞう)がんの手術を終えたばかりなのに『私の決意は県民とともにある』と誓ってくれた。私たちができることと言えば遺志を継ぐこと。新基地建設を阻むため、声を上げ続けることが私の使命と思っています」
 (安藤恭子、榊原崇仁)