安倍元首相国葬、急ぎ決断で離れた世論 議論足りず、旧統一教会も潮目 (2022年9月29日 中日新聞)

2022-09-28 09:54:22 | 桜ヶ丘9条の会

 

安倍元首相国葬、急ぎ決断で離れた世論 議論足りず、旧統一教会も潮目 

2022年9月28日 
 安倍晋三元首相の国葬が、国論を二分したまま実施された。岸田文雄首相は吉田茂元首相国葬の際に野党に配慮した歴史的経緯を踏まえず、結果的に「軽視」したまま押し通した。当てにしていた世論の支持は時の経過とともに反対へ傾き、官邸は計算違いを悟る。舞台裏を検証した。
 

安倍晋三元首相の遺骨を手に会場を後にする妻の昭恵さん(右)。左は岸田文雄首相=27日夕、東京都千代田区の日本武道館で(代表撮影)

■81日後の開催

 「まだまだ生きてもらわなければならない人でした。あなたが敷いた土台の上に、全ての人が輝く日本、地域、世界をつくると誓います」。二十七日、東京・日本武道館。首相は悲しみに満ちた表情で、何度も遺影を仰ぎ見ながら弔辞を読み上げた。
 首相経験者の国葬として戦後唯一の前例、吉田氏のケースは死去から十一日後。安倍氏は亡くなって八十一日後の開催だった。これには事情があった。
 七月八日の銃撃事件の動揺が続く中、十日の参院選で自民党は大勝。翌日、麻生太郎副総裁からアドバイスを受けた「国葬」の二文字が首相の脳裏に焼き付いた。十二日午後に官邸の敷地内でひつぎを見送ると、秘書官らに検討開始を指示した。
 官邸筋は「十四日に記者会見の日程が決まっており、実施するならそこで表明するしかなかった」と明かす。
 急ピッチの検討。法令上の要件に加え、会場探しも並行した。およそ二百六十の国・地域・機関から千七百もの弔意が寄せられた。直後に開けば各国要人が来られず、八月は欧米がバカンスに入る−。「収容数を考えれば武道館しかあり得なかった。九月に押さえられる最も早い日程が二十七日だった」(官邸筋)
 首相は七月十四日に国葬実施を表明した。この後、歯車が狂っていく。

■55年前の経験

 「みんな賛成じゃなかったのか」。九月に入り、首相は周囲にこぼした。七月十二日にひつぎを乗せた車が国会前を通過する際、野党議員も手を合わせていた姿が印象に残っていたためだ。
 だが手抜かりがあった。吉田氏国葬に当たり、当時の佐藤栄作首相が閣議決定する前に野党第一党の社会党を説得するよう指示していた事実。
 しかも社会党執行部は、法整備のない国葬実施を容認した上で、これを前例とせず今後は国会の議院運営委員会で協議すべきだと求めていた。
 翻って安倍氏の国葬。官邸は、内閣法制局が内閣府設置法と閣議決定を根拠に実施可能との見解を示したことで安心し「対野党、対国会という発想が全く頭になかった」(首相周辺)。五十五年前の経験は生かせなかった。

■支持率は急落

 参院選直後の共同通信世論調査は内閣支持率63・2%を記録した。しかし十日ほどで雲行きが怪しくなる。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と自民議員の接点が報じられ始め、岸信夫防衛相(当時)や選挙で返り咲いたばかりの井上義行氏の名前があった。岸氏は安倍氏の実弟、井上氏は元首相秘書官だ。
 七月末。内閣支持率が51・0%に急落し、政権内に衝撃が走った。潮目の変化は明らかだった。
 国葬本番が近づくにつれ、報道各社の世論調査は一様に「反対」が拡大。「賛成」は減っていく。首相は最近「エリザベス英女王は理解されて、なんで安倍さんは駄目なのか」と苦悩を漏らした。政府高官は「弔問外交に重きを置きすぎた。旧統一教会問題の広がりを予想できなかったとはいえ、危機管理が足りなかった」と顔をしかめた。

警備2万人 厳戒態勢に

 警視庁は警視総監をトップとする「最高警備本部」を設置し、約二万人を動員した。各国要人の警護に当たるなど東京都心部で厳戒態勢を敷いた。
 会場の日本武道館や迎賓館のほか、各国要人の宿泊施設などの周辺を警戒し、警察関係者によると、元首相銃撃事件後の世論も踏まえ、旧統一教会の関連施設も対象となった。
 遺骨を乗せた車は前後を白バイと警備車両で固め、ルートは通行止めにした上、沿道に数メートル間隔で制服警察官を配置。出発する安倍氏の私邸前では、多数の私服警察官や警備犬が警戒した。武道館周辺には警備用のバスやワゴン車を並べ、不審車両の突入を防ぐ柵を設置した。
 近くの公園での一般向け献花は、不特定多数の人が訪れるためトラブルを警戒。「献花台に水をかけられただけでも駄目だ」と警視庁幹部。周辺では制服警察官を目立つように配置して犯罪抑止効果を狙う「見せる警備」を実践し、国葬の反対派と賛成派の小競り合いにも対応した。
 

比べられる国葬、日英の違いは?

2022-09-27 12:43:37 | 桜ヶ丘9条の会

比べられる国葬、日英の違いは?

2022年9月17日 

比べられる国葬、日英の違いは?

2022年9月17日 
 8日に死去した英国のエリザベス女王の国葬が19日に執り行われる。27日に予定される安倍晋三元首相の国葬と違い、国民から特段の反発はない。死亡の経緯が異なるとはいえ、安倍氏の国葬は実施まで2カ月以上と準備期間が長い。各国に働きかけ、弔問外交の体裁を整えようとしたのか。だが、先行する女王の国葬にはさらに大物たちが…。岸田文雄政権が決めた安倍氏の国葬の意義づけに、改めて疑問が浮かぶ。
 (木原育子、中山岳)

税に厳しい国柄、議会が承認 英国

 十二日正午、皇居周辺。秋晴れの空の下、多くの人がウオーキングや日光浴など、思い思いの時間を過ごしていた。
 ジョギング中の三宅侑子さん(62)に国葬について意見を聞くと、さわやかな表情を曇らせた。「結局、これって誰得(誰の得なのか分からない)の葬儀なんでしょうね」。安倍氏の国葬への苦言だ。「子どもや孫の世代のためにもっと使うべきところがあるはず。岸田さんのやり方は見ていられませんよ」と言い残し、走り去った。
 この話題に顔をしかめた英国出身男性も。「エリザベス女王は国民のために働いてきた。女王の国葬について英国民は誰も異を唱えていないよ」とベンチで昼食をとっていたネイサンさん(30)。北海道ニセコ町のスキーインストラクターで、現在は観光中という。
 英国の国王は、国会招集から宣戦布告まで幅広い権限を持つが、内閣の助言なしに行使できないという難しい立場。ネイサンさんは「女王の影響力は政治面でも大きかったはずだが、彼女は偏らず、政治的分断を生まないやり方を貫いてきた。だから国葬でも批判は起きない。それは安倍さんと決定的に違うところでは」と思いを巡らせる。「日本国民にとって安倍さんの亡くなり方はかなり特異で、衝撃はあるだろうが、それを差し引いても女王と安倍さんが同じ国葬というのは、英国出身者からすると大いに違和感がある」
 短文投稿サイトのツイッターでは「本物の国葬は国民の悲しみとともにある」「英国がするのが本物の国葬」といった書き込みが相次ぎ、「本物の国葬」が一時、トレンドワードにもなった。これに対し「そもそも比べるものではない」などの反論も見られた。
 「政権末期の雰囲気」などとツイートした元東京都知事で国際政治学者の舛添要一氏は「岸田さんは世論を見誤ったのではないか」と推測。「女王と元首相では比較の対象が違うかもしれないが、タイミング的にどうしても比べてしまう。各国のトップクラスが集まる英国の国葬に比べ、安倍氏の国葬は寂しい感じがぬぐえない」と語る。
 関心が高まる英国の国葬だが、どう位置付けられているのだろう。
 英国法思想史が専門の同志社大の戒能通弘教授は「英国は税に対して大変厳しい国柄。国葬は王室や特別な功労者を対象とし、議会での予算審議と承認が必須とされる」と説明する。
 これまで歴代の国王や女王のほか、科学者のニュートン、チャーチル元首相などの国葬を実施してきた。
 ひるがえって日本では、天皇陛下の葬儀は皇室典範で「大喪の礼」を行う定めだが、国葬については明確な定義はない。岸田首相は国会を開かず、安倍氏の国葬の実施を閣議で決定。内閣府設置法が国の儀式を所掌しているので、内閣の会議(閣議)で決められると主張し続けている。
 戒能氏は「英国は国民が主権者という思想が浸透し、国民のコンセンサスが重視される。国民の代表である議会の承認を得ることは当然だと考えている」とし「国会の議論を経ず、閣議決定で決める日本と英国の国葬のあり方は決定的に違う」と指摘する。

閣議決定のみ、巨額税金投入 日本

 エリザベス女王の国葬は死去から十一日後に実施される。女王は高齢で体調に不安を抱えていた。別れを告げ、遅滞なく次期国王を即位させる必要もあった。それと突然の凶弾に倒れた安倍氏の国葬を単純に比較できないが、なぜ準備期間に約二カ月の差があるのか。
 内閣府は「閣議決定された日程に合わせて準備している。警備や会場設営、会計、契約といった事務手続きがある。どういう方々を招待するかの選定もしている」と説明する。ただ、一九六七年の吉田茂元首相の国葬では、死去から十一日後の実施だった。国葬なら一律に時間がかかるとは言えない。
 高千穂大の五野井郁夫教授(国際政治学)は、岸田政権の政治的判断があったとの見方を示す。「岸田首相はもともと、八月半ば以降に内閣改造して支持率を上げ、国葬も世論の支持を得て実施するつもりだったのだろう。それが旧統一教会の問題が表面化して内閣改造を前倒ししたものの、国葬に対する世論の反対も高まって今に至っている」
 政府は国葬の理由に、弔問外交も挙げている。岸田首相は八日の閉会中審査で「安倍元総理が培った外交的遺産を受け継ぎ、発展させる」と述べ、参列予定の米国のハリス副大統領、カナダのトルドー首相、インドのモディ首相、オーストラリアのアルバニージー首相らの名を挙げた。
 これに対し、五野井氏は「現職の首脳級の参列者は一部にとどまり、特に欧州諸国からは少ない。顔触れを見ても、日米豪印でつくる『クアッド』諸国とは弔問外交をせずとも会談を設けられる。国葬の理由として弔問外交は後付け感が否めず、大半の国とは形式的なものになりかねない」と指摘。「これは安倍氏個人への評価と言うわけでなく、国際社会での日本の地位が低下していることを物語っている」と述べる。
 一方、エリザベス女王の国葬では、米国のバイデン大統領が参列の意向を示しているほか、各国首脳や王室関係者が集まると見込まれる。日本からは天皇、皇后両陛下が参列される。元外務省国際情報局長の孫崎享氏は「二つの国葬の時期が近くなったことで、参列者の顔触れの違いが際立つことになった」と話す。
 女王の国葬が先になることで、安倍氏の国葬での弔問外交の意義も揺らぎかねない。孫崎氏は「岸田政権はハリス氏が国葬に参列することで日米関係の緊密さをアピールしようとしても、エリザベス女王の国葬にバイデン氏が参列するなら、難しくなる」とみる。
 そもそも、九月下旬は弔問外交のタイミングとしては悪いと孫崎氏は言う。「各国の元首クラスが演説する国連総会があり、接触したければそこで会えば良いはずだ。安倍氏の国葬日程は国連総会と重なり、弔問外交を第一の目的として決めたとは思えない」
 各種世論調査で反対意見が目立つ中、政府が国葬を実施するのはなぜか。
 政治評論家の小林吉弥氏は「岸田首相が国葬を決めた第一の理由は、自民党の最大派閥である安倍派に配慮して政権の安定維持につなげたかったからだ。安倍氏が死去した直後の党内の空気を読み、世論の反発も抑えられると思ったのだろう。だが、時間がたつにつれて批判する人も増えている。熟慮が足りなかったと言わざるをえない」と述べ、こう続けた。
 「岸田首相は実施しさえすれば国葬への批判は収まると考えているかもしれないが、旧統一教会の問題とともに秋の臨時国会で再燃しかねない。物価高対策や経済政策も誤れば、内閣支持率が下落して危険水域に落ち込む可能性もある」
 
 

 

 

 


物価と金融政策 家計はもはや限界だ (2022年9月23日 中日新聞)

2022-09-23 16:44:41 | 桜ヶ丘9条の会

物価と金融政策 家計はもはや限界だ

2022年9月23日 
 
 日銀が金融政策決定会合を開き大規模な金融緩和の維持を決めた。会合後、外国為替市場で一気に円安が進み一時、二十四年ぶりに一ドル=一四五円台を付けた。
 米連邦準備制度理事会(FRB)が前日、インフレ抑制に向け大幅利上げを決めており日米の金利差は一段と開いた。金利の高い通貨が買われるのは当然である。
 この事態を受け財務省の神田真人財務官が「断固たる措置に踏み切った」と述べ、円買い・ドル売り介入を実施したことを明言した。介入の効果により一時大きく円高に振れた。
 米国との関係を考慮すると実施のハードルは高かったはずだが、家計は限界にきており暮らしを犠牲にして対米配慮を優先することは許されない。介入は当然だ。
 ロシアのウクライナ侵攻による資源高と円安による輸入物価高騰は国内物価を押し上げた。総務省が公表した八月の消費者物価指数は前年同月比2・8%増と、消費税増税の影響を除けば三十年十一カ月ぶりの上昇率を記録した。
 懸念されるのは電気やガス代などエネルギー価格が16・9%、生鮮品を除く食料が4・1%と大幅に上昇していることだ。生活に必要不可欠な品目の高騰は家計に深刻な打撃を与えている。
 ただ日銀の黒田東彦総裁=写真=は国内経済について需要が弱くデフレ傾向にあるとの見方を変えていない。これが消費や設備投資を促すため金融緩和を続ける大きな根拠になっている。
 一部の経済指標を見る限りその分析は間違いではない。だが九年以上金融緩和を続けても、消費や投資の回復が賃上げをもたらす景気の好循環は起きなかった。日銀は金融緩和を軸に据えたアベノミクスに固執するあまり誤った政策判断を続けているのではないか。
 政府がようやく円安阻止に向け行動を示す中、経済界や労働界にも注文がある。円安で業績を上げた企業は即刻大幅な賃上げに踏み切るべきだ。
 連合を軸とした組合側の賃上げ要求も迫力に欠ける。働く仲間のために声を上げてこその組合だと自覚してほしい。 
 
 

 


言論の覚悟を新たに 桐生悠々を偲んで (2022年9月14日 中日新聞) 

2022-09-16 21:42:05 | 定年後の暮らし春秋

言論の覚悟を新たに 桐生悠々を偲んで

2022年9月14日 
 九月十日は私たち記者の大先輩で反軍、抵抗のジャーナリスト、桐生悠々(きりゅうゆうゆう)を偲(しの)ぶ命日でした。世界を見回すと、悠々が活動していた時代同様、戦禍が絶えず、新たな戦争も始まりました。戦争の犠牲者はいつも、何の罪もない「無辜(むこ)の民」です。こんな時代だからこそ、悠々の命懸けの警鐘に耳を傾け、言論の覚悟を新たにしなければなりません。
      ◇
 本紙読者にはおなじみだと思いますが、桐生悠々について、おさらいをしてみます。
 悠々は、本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ「新愛知」新聞や長野県の「信濃毎日新聞」などで編集、論説の総責任者である主筆を務めた言論人です。
 明治から大正、戦前期の昭和まで、藩閥政治家や官僚、軍部の横暴を痛烈に批判し続けました。
 新愛知時代の一九一八(大正七)年に起きた米騒動では、米価暴騰という政府の無策を新聞に責任転嫁し、騒動の報道を禁じた寺内正毅内閣を厳しく批判。社説「新聞紙の食糧攻め 起(た)てよ全国の新聞紙!」の筆を執り、内閣打倒、言論擁護運動の先頭に立ち、寺内内閣を総辞職に追い込みました。
 信毎時代の三三(昭和八)年の論説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」では、敵機を東京上空で迎え撃つ想定の無意味さを指摘しました。日本全国が焦土と化した歴史を振り返れば正鵠(せいこく)を射たものですが、在郷軍人会の抵抗に新聞社が抗しきれず、悠々は信州を離れます。

発禁処分を乗り越えて

 それでも悠々は、新愛知時代に住んでいた今の名古屋市守山区に移り、三四(同九)年から個人誌「他山の石」を月二回発行します。当局からたびたび発売禁止や削除の処分を受けながらも、四一(同十六)年に病で亡くなる直前まで、軍部や政権への厳しい批判を続けたのです。
 他山の石が最初に発禁となったのは三五(同十)年の「広田外相の平和保障」という論文です。
 当時の広田弘毅外相による「我在任中には戦争なし」との議会答弁を「私たちの意見が裏書きされた」と評価しつつ、アメリカやロシアとの戦争は「国運を賭する戦争」であり「一部階級の職業意識や、名誉心のため」「一大戦争を敢(あ)えてすることは、暴虎馮河(ぼうこひょうが)(無謀な行為)の類である」「戦争の馬鹿(ばか)も、休み休み言ってもらいたいものだ」と軍部の好戦論を批判しました。
 これが反戦を宣伝扇動したとして発禁処分になったのです。
 悠々の研究者、太田雅夫さんの著書によると他山の石の発禁・削除処分は二十七回に上ります。このうち二十五回は三五〜三八年の四年間ですから、この間に発行された四分の一以上が発禁・削除処分を受けたことになります。
 その後、悠々は発行継続のため不本意ながらも愛知県特高課による「事前検閲」を受ける方針に切り替え、指摘された箇所を自主的に削除することで発禁を免れました。ただ、その筆勢は衰えず、政権や軍部批判を続けました。

言わねばならないこと

 それらは悠々にとって「言いたいこと」ではなく「言わねばならないこと」でした。他山の石にはこう書き残しています。
 「私は言いたいことを言っているのではない」「この非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ」
 そして「言いたいことを言うのは、権利の行使」だが「言わねばならないことを言うのは、義務の履行」であり「義務の履行は、多くの場合、犠牲を伴う」とも。
 悠々が残した記者としての心構えは古びるどころか、今の時代にも通じる、いや、今だからこそ胸に刻むべき至言なのです。
 今、新聞にとって「言わねばならないこと」があふれています。
 法的根拠を欠く国葬実施や旧統一教会と政治との深い関係、平和憲法を軽視する安全保障政策への転換や防衛費の増額などです。
 国外に目を転じれば、国際法無視のロシアの振る舞いや、核兵器使用の可能性も看過できません。
 新聞が言わなくなった先にあるのは、内外で多大な犠牲者を出した戦争であり、それが歴史の教訓です。言論や報道に携わる私たちに「言わねばならないこと」を言い続ける覚悟があるのか。悠々の生き方は、そう問い掛けます。
 
 

 


冤罪、司法との闘い 「間違ったシステム変えよう」 (2022年9月13日 中日新聞)

2022-09-13 17:05:37 | 桜ヶ丘9条の会

冤罪、司法との闘い 「間違ったシステム変えよう」

2022年9月13日 
 20歳で無実の罪を背負い、29年間を獄中で過ごした「布川(ふかわ)事件」の桜井昌司さん(75)を追ったドキュメンタリー映画「オレの記念日」(金聖雄(キムソンウン)監督)が10月から全国公開される。仮釈放後に無罪となり、国家賠償請求訴訟でも勝利した桜井さんは、同じ冤罪(えんざい)被害者の支援に奔走してきた。人生の大半を、日本の司法との闘いに費やした桜井さん。今は末期がんとも向き合う。その思いとは−。 (大杉はるか)
 「懐かしいなあ」
 映画は、桜井さんが仮釈放から二十年ぶりに千葉刑務所を訪れるシーンから始まる。最高裁で無期懲役が確定してから十八年間を過ごした刑務所だが、つむぐのは恨み言ではない。「本当にがんばりましたよ、一生懸命。なんでだろうね、楽しさしか思い出せない」
 一九六七年八月、茨城県利根町布川で、一人暮らしの男性=当時(62)=が殺害された布川事件。桜井さんは杉山卓男さん(故人)とともに別件逮捕後、強盗殺人罪で起訴され、無罪の主張が認められないまま、九六年まで二十九年間を拘置所と刑務所で過ごした。再審の末、ようやく無罪となったのは二〇一一年。昨年八月には、国家賠償請求訴訟で勝った。
 映画では、桜井さんが冤罪を訴える活動で「刑務所に入ったおかげで幸せだった。人さまの善意を信じられるって冤罪者」と語る様子や、「泣いたって叫んだって出られない。明るく楽しく面白いものを見つけて生きてやろうと思った」と獄中生活を振り返るシーンなどが出てくる。仮釈放後に出会って結婚した妻・恵子さんとの日常風景のほか、桜井さんが支援する「袴田事件」の袴田巌さん(86)や「狭山事件」の石川一雄さん(83)らも登場する。
 国家賠償請求訴訟の最中だった一九年九月には、ステージ4の直腸がんと診断され、余命一年と宣告された。その一カ月後に淡々と心境を語る様子も、カメラはとらえている。
 桜井さんは獄中で詩や日記を書き、作曲もした。高い歌唱力を生かして、仮釈放後はコンサートも開いている。映画に彩りを与えているのが、こうした詩や歌だ。映画のタイトルは、逮捕された日の「夜風に金木犀(キンモクセイ)は香って 初めての手錠は冷たかった」で始まる詩「記念日」からとった。
 撮影した金監督(59)は、「SAYAMA みえない手錠をはずすまで」(一三年)、「袴田巌 夢の間の世の中」(一六年)、「獄友」(一八年)と、冤罪を扱ったドキュメンタリーを手がけ、今回で四本目。きっかけは十二年前、狭山事件の石川さんに会ったこと。石川さんを追う過程で、すぐに桜井さんらほかの冤罪被害者との交流が始まった。「冤罪と聞いて最初は怖いというイメージがあったが、会ったら全然違った」と金監督。絶望のふちに立たされながら、希望を捨てない姿に引きつけられ、それぞれにカメラを向けてきた。「彼らの生き方を見て、愛情とか友情、普通の幸せって何かと考えさせられた」
 金監督は「桜井さんは冤罪被害者をつなぐキーマン。多くの冤罪被害者は声さえ上げられないが、桜井さんの存在が目標になった」と指摘する。「冤罪という経験は不幸に決まっているけど、そんな単純なものでもない。桜井さんは『幸せだった』というが、言わないこと、抑えることで、しんどさや悲惨さを感じてほしい」
 「オレの記念日」は十月八日から、ポレポレ東中野(東京都中野区)で公開される。愛知、静岡、三重、長野県のほか、関西でも順次上映予定だ。

桜井さん 全証拠の開示、「再審審査会」が必要 取調官がウソ、自白の強要

 「人からどう思われるとか、意味ない。自分の中身は変わらない。娑婆(しゃば)に出てきてからの生き方がそうなんだよね」。桜井さんは完成した映画を見て「ありのまま」と話す。
 五十五年前の八月二十八日、大工の男性が自宅で絞殺され、現金も奪われた。茨城県警の捜査は難航し、一カ月以上たった十月十日、桜井さんはズボンとベルトの窃盗容疑で、十六日には杉山さんが暴力行為法違反容疑で逮捕された。すぐに本件の取り調べが始まった。桜井さんが当日は都内の兄のアパートにいたと主張しても、警察官に「兄は来ていないと言っている」と否定され、「目撃者がいる」「死刑になるぞ」とも脅され、自白に追い込まれた。
 犯行状況に関する供述は、取調官のストーリーに合わせてつくられた。現場から指紋や毛髪などの物証は何一つ出ていなかった。
 再審請求審では、警察官がないと証言していた自白を録音した二本目のテープの存在が明らかになり、十三カ所も編集跡が見つかった。被害者宅での目撃証言も否定された。ようやく無罪になった時、桜井さんは六十四歳になっていた。
 一二年に国家賠償請求訴訟を起こした。昨年八月の東京高裁判決は、目撃情報に証拠能力はなく、唯一の根拠となった自白は警察官や検察官がウソを言って誘導したことを認定。「社会的相当性を逸脱して自白を強要する違法な行為であることは明らか」と断じた。
 あれから一年。今も警察官や検察官から謝罪はない。だが桜井さんは「必要ない」と言う。「それよりも、間違っているシステムを変えよう」という考えだ。
 たとえば、証拠の開示。桜井さんの裁判では、検察側に不利になる証拠が隠され、裁判所も開示に向けて積極的に動かなかった。刑事訴訟法では、公判前整理手続きで、被告側から請求があれば証拠リストの提出が義務付けられているが、桜井さんは「リストだけというのはごまかし。全証拠を出せばいい」と、さらなる改善を求める。
 もう一つ重視するのは、一九四九年の刑訴法施行後、ほぼ手付かずできた再審制度の見直しだ。桜井さんは「今は再審を求める先は裁判所だが、本当は独立した『再審審査会』のような機関をつくるべきだと思う。国民も入り、証拠はすべて出して、警察や検察の行為を含めて審査する。国民が司法をコントロールすることになる」と提案する。
 「誰だって間違えるのは仕方ない。でも証拠を無視したり、ウソをついたりしている。その過ちを正し、責任を負うシステムがないのは本当におかしい」との確信があるからこそだ。
 二〇一九年三月には初めて冤罪犠牲者の会を結成した。同時期に、科学鑑定で冤罪を再検証する米国発祥の活動「イノセンス・プロジェクト」に参加した際、台湾の検事総長が「冤罪は生まれてしまうが、裁判官、検察官、弁護士みんなで直していく」と語るのを聞き「日本と全く違う」と感じたという。「冤罪体験者のおれたちが声を上げない限り、社会は変えられないのではと思った」と桜井さん。「時間はかかってもいい。司法が変わるということは社会が変わるということだ」と訴える。
 末期がんの診断を受け、腸洗浄や食事療法を続けてきた。死について真剣に考えたのは、警察官に「死刑になる」と言われた時。「自分がいるから、この世がある。世の中があるから自分がいるのではない」という意識が芽生えた。今の社会を見て「本当に大事なのは一人しかいない自分の命だが、その大事さを教えられておらず自覚できない人がいっぱいいる」と感じる。
 体重は十数キロ落ちたが、歩みを止める気はない。「何やったって死ぬんだし、自分のやりたいようにやった方がいい」
 
 

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