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浦部法穂の「憲法雑記帳」
第26回 「本当のことを知る権利」
浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2018年7月23日
前回の最後で、次回は「知る権利」の内容について具体的に考えてみる、と書いたが、記録的な豪雨による災害のさなかに、身内救済のための参議院議員定数6増法案や博打解禁のカジノ法案を強行採決で成立させるなど、とどまるところを知らない安倍政権の厚顔無恥な暴政・暴走、そして、そんな政権を支持する国民がなおも4割以上もいるという現実を見せつけられると、「知る権利」云々なんかどうでもいい、というか、何を言っても連中は聞く耳さえ持たないだろうから無駄なことだ、と思えてくる。だから、前回の予告は、なかったことにさせていただきたい。ただ、そうは言っても、前回書いたのは「知る権利」についてのごくごく基礎的な教科書的説明だけで、これで終わったのでは内容はゼロである。それに、「何を言っても聞く耳を持たない」人々がいるという状況自体が、まさしく「知る権利」の今日的課題を示しているのであって、私が、あらためて「知る権利」を考えてみようと思ったのは、最終的には、こういう状況のもとで「知る権利」というものをどう位置づけたらいいのか、ということを考えてみたいと思ったからである。そこで、今回は、前回予告した「知る権利」の具体的内容というようなことは省略して、即、上記の問題に議論を移していきたいと思う。
前回、「知る権利」という表現の「受け手」に着目した権利が唱えられるようになったのは、古典的な表現の自由論が前提としていた(それ自体「擬制」にすぎないのだが)、すべての情報が国民の前に開かれており、しかも、誰もが表現の送り手であると同時に受け手である、という状況が、現代国家においては、国家への情報集中とマス・メディアの巨大化・独占化によって完全に崩れ去ったためだ、という趣旨のことを述べた。しかし、この教科書的説明については、一昔前までならともかく少なくともこんにちにおいてはもはやあてはまらないのではないか、と疑問を感じた人も多いのではないかと思う。いまの世の中、インターネットやSNSなどの普及・進展によって、誰でもが容易に、どんな情報をも世界中に向けて発信することができるようになったし、そうして発信されたありとあらゆる膨大な情報に誰もが容易にアクセスできるようにもなった。まさに、「すべての情報が国民の前に開かれており、しかも、誰もが表現の送り手であると同時に受け手である」という状況が、実際に実現したかにみえる。としたら、今の時代、もう「知る権利」などというものをわざわざ言う必要はなくなったのではないのか?
いや、逆である。こういう時代だからこそ、「知る権利」というものが余計に重要性をもってくるのである。誰もが簡単に自分の意見や自分が得た情報を発信できるというその容易さは、当該情報が正確なものかどうか、それが本当に事実なのかどうか、あるいは当該意見・情報が他者を傷つける等の害を及ぼさないかどうか、といったことを十分吟味することなく言いたいことだけを発信してしまうというような、安易かつ無責任な姿勢を招くことにもなりうる。そうして、いったんネット上に発信された情報は、一瞬にして世界中に拡散する。いま、ネット上には、そうした類いの情報を含めてありとあらゆる情報が、まさに氾濫している。あまりにも多くの情報が、しかもその真偽も不明のまま、私たちの前に開かれているのである。そのすべてを咀嚼することなど、とうていできない。だから、必然的に人々は、自分の前にある情報の取捨選択を迫られることになるのだが、その際、どうしても、自分にとって都合のいい意見・情報とか自分の考えに合う意見・情報など、要するに自分の精神衛生上に良い意見・情報は受け入れるが、そうでない意見・情報は無視あるいは排除する、という傾向になることを免れえない。受け入れたくない事実や受け入れたくない考え方は、はなから拒否する。そうしたとしても、自分が受け入れることのできる意見・情報はネット上にまだまだ無数にあるから、もしかして自分が間違っているのかもしれないなどという不安は一切抱く必要もない。だから、それ以外の意見・情報に対しては「聞く耳」を持とうとさえ思わないのである。
その結果、世の中はどうなるのか? 人々は、自分が受け入れた意見・情報だけが正しくそれに反するものはすべて間違い(フェイク!?)だと思い込んでしまうから、情報の真偽は確かめられることもなく、ありもしない事実だったとしてもそれが拡散されることによって多くの人が共有する「事実」になってしまう。そしてまた、自分と異なる意見には耳を貸そうともしないから、考え方の異なる者同士が議論することによって合意形成を図るという努力も、まったく放棄されてしまう。そうなると、「事実」も「考え方」も、その真偽や善し悪しではなく、「数の力」で決まることとなる。事実に基づく議論によって合意点を見出していくという、民主主義にとっての基本中の基本が、もはや機能しなくなってしまうのである。
そして、いま、深刻なことに、権力の座にある者じしんが、上記のような社会的風潮に乗っかり、同じ姿勢で政治を運営している。アメリカのトランプ大統領しかり、日本の安倍首相しかりである。自分に都合の悪い事実はすべて「フェイク」だと言ってとりあわず、あるいは、明らかに不自然な弁明で事実を否定したり、批判に対しては根拠も理由も示さずに「その批判は当たらない」の一言で一蹴したりと、いわゆる「説明責任」も合意形成もまったく意に介さない政治が横行している。それでも、権力側に付くことに利を見出し、あるいは反対側から提示される意見・情報に聞く耳を持とうともしない人々が一定数いることで、政権への支持が「危険水域」にまで下がることはないから、権力を失うかもしれないという不安を感じないで、このような横暴な政治運営ができているのである。
インターネットやSNSの普及・進展によって誰もが容易に自分の意見や情報を発信でき、誰もがそれに容易にアクセスできるという状況は、それ自体としては決して悪いことではない。それは、表現の自由や「知る権利」、さらには民主主義そのものを実質化するための道具として十分に意味をもちうるものだといえる。しかし、他方で、それは、上記のような、民主主義を滅ぼすことになりかねない問題を現実に引き起こしている。そういう状況のなかで、私たちには、氾濫する情報のなかから「本当のこと」を見抜く力が求められるが、そうは言っても個人の能力には限界があるから、私たち一人ひとりが力をつけるべきだと言うだけでは、問題の解決にはほとんど資するところはないだろう。私たちに必要なのは「本当のことを知る」ことであり、それを可能にするような制度やルールの構築が、いまの緊要な課題である。それには、まずなによりも、政府や行政機関に対し、その行動・決定にかかわるすべての情報をきちんと記録し保存して廃棄や改ざんをさせないように、制度やルールを作り直す必要がある。いまの制度では、公文書はそれぞれ保存期間が定められ、その期間を過ぎたら廃棄されることになるが、そもそもなぜ廃棄する必要があるのか。電子媒体で残しておけば、文書がたまって保管場所に困るということもないのだから、廃棄してはならないという制度にしても、何ら問題はないのではないのか。また、いまの情報公開制度では、行政機関の側が「文書不存在」と言えばそれ以上に追及することは不可能となって、その結果「本当のことを知る」ことができなくなるので、「文書不存在」の回答は許されないという制度にすべきである。そうすることで、一体どういう不都合が生じるのか、私には思い当たらない。
まさに「情報過多」のいまの時代に必要なのは、単なる「知る権利」というより「本当のことを知る権利」である。この権利を実現するためには、現在の情報公開制度や公文書管理のあり方では、とうてい不十分である。あるいは、マス・メディアのあり方や情報リテラシー教育のあり方など、考えるべき課題は数多い。が、今回はとりあえずここまでで止めさせていただく。
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浦部法穂の「憲法雑記帳」
第26回 「本当のことを知る権利」
浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2018年7月23日
前回の最後で、次回は「知る権利」の内容について具体的に考えてみる、と書いたが、記録的な豪雨による災害のさなかに、身内救済のための参議院議員定数6増法案や博打解禁のカジノ法案を強行採決で成立させるなど、とどまるところを知らない安倍政権の厚顔無恥な暴政・暴走、そして、そんな政権を支持する国民がなおも4割以上もいるという現実を見せつけられると、「知る権利」云々なんかどうでもいい、というか、何を言っても連中は聞く耳さえ持たないだろうから無駄なことだ、と思えてくる。だから、前回の予告は、なかったことにさせていただきたい。ただ、そうは言っても、前回書いたのは「知る権利」についてのごくごく基礎的な教科書的説明だけで、これで終わったのでは内容はゼロである。それに、「何を言っても聞く耳を持たない」人々がいるという状況自体が、まさしく「知る権利」の今日的課題を示しているのであって、私が、あらためて「知る権利」を考えてみようと思ったのは、最終的には、こういう状況のもとで「知る権利」というものをどう位置づけたらいいのか、ということを考えてみたいと思ったからである。そこで、今回は、前回予告した「知る権利」の具体的内容というようなことは省略して、即、上記の問題に議論を移していきたいと思う。
前回、「知る権利」という表現の「受け手」に着目した権利が唱えられるようになったのは、古典的な表現の自由論が前提としていた(それ自体「擬制」にすぎないのだが)、すべての情報が国民の前に開かれており、しかも、誰もが表現の送り手であると同時に受け手である、という状況が、現代国家においては、国家への情報集中とマス・メディアの巨大化・独占化によって完全に崩れ去ったためだ、という趣旨のことを述べた。しかし、この教科書的説明については、一昔前までならともかく少なくともこんにちにおいてはもはやあてはまらないのではないか、と疑問を感じた人も多いのではないかと思う。いまの世の中、インターネットやSNSなどの普及・進展によって、誰でもが容易に、どんな情報をも世界中に向けて発信することができるようになったし、そうして発信されたありとあらゆる膨大な情報に誰もが容易にアクセスできるようにもなった。まさに、「すべての情報が国民の前に開かれており、しかも、誰もが表現の送り手であると同時に受け手である」という状況が、実際に実現したかにみえる。としたら、今の時代、もう「知る権利」などというものをわざわざ言う必要はなくなったのではないのか?
いや、逆である。こういう時代だからこそ、「知る権利」というものが余計に重要性をもってくるのである。誰もが簡単に自分の意見や自分が得た情報を発信できるというその容易さは、当該情報が正確なものかどうか、それが本当に事実なのかどうか、あるいは当該意見・情報が他者を傷つける等の害を及ぼさないかどうか、といったことを十分吟味することなく言いたいことだけを発信してしまうというような、安易かつ無責任な姿勢を招くことにもなりうる。そうして、いったんネット上に発信された情報は、一瞬にして世界中に拡散する。いま、ネット上には、そうした類いの情報を含めてありとあらゆる情報が、まさに氾濫している。あまりにも多くの情報が、しかもその真偽も不明のまま、私たちの前に開かれているのである。そのすべてを咀嚼することなど、とうていできない。だから、必然的に人々は、自分の前にある情報の取捨選択を迫られることになるのだが、その際、どうしても、自分にとって都合のいい意見・情報とか自分の考えに合う意見・情報など、要するに自分の精神衛生上に良い意見・情報は受け入れるが、そうでない意見・情報は無視あるいは排除する、という傾向になることを免れえない。受け入れたくない事実や受け入れたくない考え方は、はなから拒否する。そうしたとしても、自分が受け入れることのできる意見・情報はネット上にまだまだ無数にあるから、もしかして自分が間違っているのかもしれないなどという不安は一切抱く必要もない。だから、それ以外の意見・情報に対しては「聞く耳」を持とうとさえ思わないのである。
その結果、世の中はどうなるのか? 人々は、自分が受け入れた意見・情報だけが正しくそれに反するものはすべて間違い(フェイク!?)だと思い込んでしまうから、情報の真偽は確かめられることもなく、ありもしない事実だったとしてもそれが拡散されることによって多くの人が共有する「事実」になってしまう。そしてまた、自分と異なる意見には耳を貸そうともしないから、考え方の異なる者同士が議論することによって合意形成を図るという努力も、まったく放棄されてしまう。そうなると、「事実」も「考え方」も、その真偽や善し悪しではなく、「数の力」で決まることとなる。事実に基づく議論によって合意点を見出していくという、民主主義にとっての基本中の基本が、もはや機能しなくなってしまうのである。
そして、いま、深刻なことに、権力の座にある者じしんが、上記のような社会的風潮に乗っかり、同じ姿勢で政治を運営している。アメリカのトランプ大統領しかり、日本の安倍首相しかりである。自分に都合の悪い事実はすべて「フェイク」だと言ってとりあわず、あるいは、明らかに不自然な弁明で事実を否定したり、批判に対しては根拠も理由も示さずに「その批判は当たらない」の一言で一蹴したりと、いわゆる「説明責任」も合意形成もまったく意に介さない政治が横行している。それでも、権力側に付くことに利を見出し、あるいは反対側から提示される意見・情報に聞く耳を持とうともしない人々が一定数いることで、政権への支持が「危険水域」にまで下がることはないから、権力を失うかもしれないという不安を感じないで、このような横暴な政治運営ができているのである。
インターネットやSNSの普及・進展によって誰もが容易に自分の意見や情報を発信でき、誰もがそれに容易にアクセスできるという状況は、それ自体としては決して悪いことではない。それは、表現の自由や「知る権利」、さらには民主主義そのものを実質化するための道具として十分に意味をもちうるものだといえる。しかし、他方で、それは、上記のような、民主主義を滅ぼすことになりかねない問題を現実に引き起こしている。そういう状況のなかで、私たちには、氾濫する情報のなかから「本当のこと」を見抜く力が求められるが、そうは言っても個人の能力には限界があるから、私たち一人ひとりが力をつけるべきだと言うだけでは、問題の解決にはほとんど資するところはないだろう。私たちに必要なのは「本当のことを知る」ことであり、それを可能にするような制度やルールの構築が、いまの緊要な課題である。それには、まずなによりも、政府や行政機関に対し、その行動・決定にかかわるすべての情報をきちんと記録し保存して廃棄や改ざんをさせないように、制度やルールを作り直す必要がある。いまの制度では、公文書はそれぞれ保存期間が定められ、その期間を過ぎたら廃棄されることになるが、そもそもなぜ廃棄する必要があるのか。電子媒体で残しておけば、文書がたまって保管場所に困るということもないのだから、廃棄してはならないという制度にしても、何ら問題はないのではないのか。また、いまの情報公開制度では、行政機関の側が「文書不存在」と言えばそれ以上に追及することは不可能となって、その結果「本当のことを知る」ことができなくなるので、「文書不存在」の回答は許されないという制度にすべきである。そうすることで、一体どういう不都合が生じるのか、私には思い当たらない。
まさに「情報過多」のいまの時代に必要なのは、単なる「知る権利」というより「本当のことを知る権利」である。この権利を実現するためには、現在の情報公開制度や公文書管理のあり方では、とうてい不十分である。あるいは、マス・メディアのあり方や情報リテラシー教育のあり方など、考えるべき課題は数多い。が、今回はとりあえずここまでで止めさせていただく。