「本当のことを知る権利」(2018年7月23日法学館憲法研究所)

2018-07-31 17:44:45 | 桜ヶ丘9条の会
法学館憲法研究所
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第26回 「本当のことを知る権利」

浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2018年7月23日

 前回の最後で、次回は「知る権利」の内容について具体的に考えてみる、と書いたが、記録的な豪雨による災害のさなかに、身内救済のための参議院議員定数6増法案や博打解禁のカジノ法案を強行採決で成立させるなど、とどまるところを知らない安倍政権の厚顔無恥な暴政・暴走、そして、そんな政権を支持する国民がなおも4割以上もいるという現実を見せつけられると、「知る権利」云々なんかどうでもいい、というか、何を言っても連中は聞く耳さえ持たないだろうから無駄なことだ、と思えてくる。だから、前回の予告は、なかったことにさせていただきたい。ただ、そうは言っても、前回書いたのは「知る権利」についてのごくごく基礎的な教科書的説明だけで、これで終わったのでは内容はゼロである。それに、「何を言っても聞く耳を持たない」人々がいるという状況自体が、まさしく「知る権利」の今日的課題を示しているのであって、私が、あらためて「知る権利」を考えてみようと思ったのは、最終的には、こういう状況のもとで「知る権利」というものをどう位置づけたらいいのか、ということを考えてみたいと思ったからである。そこで、今回は、前回予告した「知る権利」の具体的内容というようなことは省略して、即、上記の問題に議論を移していきたいと思う。

 前回、「知る権利」という表現の「受け手」に着目した権利が唱えられるようになったのは、古典的な表現の自由論が前提としていた(それ自体「擬制」にすぎないのだが)、すべての情報が国民の前に開かれており、しかも、誰もが表現の送り手であると同時に受け手である、という状況が、現代国家においては、国家への情報集中とマス・メディアの巨大化・独占化によって完全に崩れ去ったためだ、という趣旨のことを述べた。しかし、この教科書的説明については、一昔前までならともかく少なくともこんにちにおいてはもはやあてはまらないのではないか、と疑問を感じた人も多いのではないかと思う。いまの世の中、インターネットやSNSなどの普及・進展によって、誰でもが容易に、どんな情報をも世界中に向けて発信することができるようになったし、そうして発信されたありとあらゆる膨大な情報に誰もが容易にアクセスできるようにもなった。まさに、「すべての情報が国民の前に開かれており、しかも、誰もが表現の送り手であると同時に受け手である」という状況が、実際に実現したかにみえる。としたら、今の時代、もう「知る権利」などというものをわざわざ言う必要はなくなったのではないのか?

 いや、逆である。こういう時代だからこそ、「知る権利」というものが余計に重要性をもってくるのである。誰もが簡単に自分の意見や自分が得た情報を発信できるというその容易さは、当該情報が正確なものかどうか、それが本当に事実なのかどうか、あるいは当該意見・情報が他者を傷つける等の害を及ぼさないかどうか、といったことを十分吟味することなく言いたいことだけを発信してしまうというような、安易かつ無責任な姿勢を招くことにもなりうる。そうして、いったんネット上に発信された情報は、一瞬にして世界中に拡散する。いま、ネット上には、そうした類いの情報を含めてありとあらゆる情報が、まさに氾濫している。あまりにも多くの情報が、しかもその真偽も不明のまま、私たちの前に開かれているのである。そのすべてを咀嚼することなど、とうていできない。だから、必然的に人々は、自分の前にある情報の取捨選択を迫られることになるのだが、その際、どうしても、自分にとって都合のいい意見・情報とか自分の考えに合う意見・情報など、要するに自分の精神衛生上に良い意見・情報は受け入れるが、そうでない意見・情報は無視あるいは排除する、という傾向になることを免れえない。受け入れたくない事実や受け入れたくない考え方は、はなから拒否する。そうしたとしても、自分が受け入れることのできる意見・情報はネット上にまだまだ無数にあるから、もしかして自分が間違っているのかもしれないなどという不安は一切抱く必要もない。だから、それ以外の意見・情報に対しては「聞く耳」を持とうとさえ思わないのである。

 その結果、世の中はどうなるのか? 人々は、自分が受け入れた意見・情報だけが正しくそれに反するものはすべて間違い(フェイク!?)だと思い込んでしまうから、情報の真偽は確かめられることもなく、ありもしない事実だったとしてもそれが拡散されることによって多くの人が共有する「事実」になってしまう。そしてまた、自分と異なる意見には耳を貸そうともしないから、考え方の異なる者同士が議論することによって合意形成を図るという努力も、まったく放棄されてしまう。そうなると、「事実」も「考え方」も、その真偽や善し悪しではなく、「数の力」で決まることとなる。事実に基づく議論によって合意点を見出していくという、民主主義にとっての基本中の基本が、もはや機能しなくなってしまうのである。

 そして、いま、深刻なことに、権力の座にある者じしんが、上記のような社会的風潮に乗っかり、同じ姿勢で政治を運営している。アメリカのトランプ大統領しかり、日本の安倍首相しかりである。自分に都合の悪い事実はすべて「フェイク」だと言ってとりあわず、あるいは、明らかに不自然な弁明で事実を否定したり、批判に対しては根拠も理由も示さずに「その批判は当たらない」の一言で一蹴したりと、いわゆる「説明責任」も合意形成もまったく意に介さない政治が横行している。それでも、権力側に付くことに利を見出し、あるいは反対側から提示される意見・情報に聞く耳を持とうともしない人々が一定数いることで、政権への支持が「危険水域」にまで下がることはないから、権力を失うかもしれないという不安を感じないで、このような横暴な政治運営ができているのである。

 インターネットやSNSの普及・進展によって誰もが容易に自分の意見や情報を発信でき、誰もがそれに容易にアクセスできるという状況は、それ自体としては決して悪いことではない。それは、表現の自由や「知る権利」、さらには民主主義そのものを実質化するための道具として十分に意味をもちうるものだといえる。しかし、他方で、それは、上記のような、民主主義を滅ぼすことになりかねない問題を現実に引き起こしている。そういう状況のなかで、私たちには、氾濫する情報のなかから「本当のこと」を見抜く力が求められるが、そうは言っても個人の能力には限界があるから、私たち一人ひとりが力をつけるべきだと言うだけでは、問題の解決にはほとんど資するところはないだろう。私たちに必要なのは「本当のことを知る」ことであり、それを可能にするような制度やルールの構築が、いまの緊要な課題である。それには、まずなによりも、政府や行政機関に対し、その行動・決定にかかわるすべての情報をきちんと記録し保存して廃棄や改ざんをさせないように、制度やルールを作り直す必要がある。いまの制度では、公文書はそれぞれ保存期間が定められ、その期間を過ぎたら廃棄されることになるが、そもそもなぜ廃棄する必要があるのか。電子媒体で残しておけば、文書がたまって保管場所に困るということもないのだから、廃棄してはならないという制度にしても、何ら問題はないのではないのか。また、いまの情報公開制度では、行政機関の側が「文書不存在」と言えばそれ以上に追及することは不可能となって、その結果「本当のことを知る」ことができなくなるので、「文書不存在」の回答は許されないという制度にすべきである。そうすることで、一体どういう不都合が生じるのか、私には思い当たらない。

 まさに「情報過多」のいまの時代に必要なのは、単なる「知る権利」というより「本当のことを知る権利」である。この権利を実現するためには、現在の情報公開制度や公文書管理のあり方では、とうてい不十分である。あるいは、マス・メディアのあり方や情報リテラシー教育のあり方など、考えるべき課題は数多い。が、今回はとりあえずここまでで止めさせていただく。

国の確定判決無視を容認(2018年7月31日中日新聞)

2018-07-31 10:50:49 | 桜ヶ丘9条の会
国の確定判決無視を容認 

2018/7/31 中日新聞

 <解説> 諫早湾干拓事業で開門命令の確定判決を無効とした福岡高裁は、国が主張した形式的な「漁業権消滅論」を全面採用することで、開門を願う漁業者側の最大のよりどころを失わせた。確定判決を長年履行せず、問題解決を先延ばししてきた国の姿勢を容認したと言え、司法の自己否定に等しい。

 今回の訴訟は「請求異議」と呼ばれ、口頭弁論終結後の事情変更を理由に判決の効力を失わせることができる。個人間の金銭弁済などが対象となり、国の法的義務の可否が争われるのは極めて特異なケースだ。

 二〇一〇年の確定判決は深刻な漁業被害を重く受け止め、開門を命じた。これに対し三十日の高裁判決は、共同漁業権の存続期間が十年と定められ、確定判決時にあった漁業者の共同漁業権は一三年に消滅したと判断。開門を求める基礎となる権利そのものを否定した。

 一〇年の確定判決を除くと、一連の訴訟は開門を認めない判断に一本化され、裁判所のスタンスも「現状維持」に傾いている。だが、国が有明海再生の責任を免れるわけではない。巨大公共事業の功罪が問われるのはこれからだ。 (共同・高坂真喜子)

◆非開門ありきの内容

 <民事訴訟に詳しい一橋大大学院名誉教授の小林秀之弁護士の話> 福岡高裁判決は、漁業者の共同漁業権は法定期間を過ぎれば消滅し、更新された権利は別物だと指摘した。しかし本来は漁業者に与えられた権利で、実質的に継続しているとみるのが自然だ。判決は、漁業権を巡り理屈をこねて結論を出しており、「非開門」ありきの形式的な内容と言える。確定判決後、敗訴側の異議を認めるケースはめったにない。高裁は開門による想定外の農業被害を懸念したのではないか。

◆環境改善取り組みを

 <矢野真一郎・九州大大学院教授(環境水理学)の話> 堤防排水門の開門による有明海の環境改善の効果について、さまざまなシミュレーションが行われてきたが、現状が大きく改善される予測はない。開門の効果が確実でないならば、有明海全体の再生に力を入れ、環境改善に取り組むべきだ。開門か否かの問題が長引き関心が向いていないが、最近顕在化している微粒子状のマイクロプラスチックなどの新しい問題も調査が必要だ。広い視野で対策を考えるべきだ。

水道法改正 市場解放ありきは危険(2018年7月30日中日新聞)

2018-07-30 08:23:37 | 桜ヶ丘9条の会
水道法改正 市場開放ありきは危険 

2018/7/30 中日新聞
 海外の巨大資本にも市場を開く水道法の改正案は、衆院を通過した後、参院で時間切れになった。次の国会では慎重な議論を望みたい。水を守るということは、命を守るということでもあるからだ。

 水道法改正案は、水道事業の経営基盤強化の名の下に、事業者に施設の維持と修繕を義務付けるとともに、官民連携や広域連携を促す内容だ。

 政府は次の国会で成立を図るだろう。

 現行の水道法は「水道事業は、原則として市町村が経営するもの」と定めている。例外はあるものの、そのほとんどが公営だ。

 財政難にあえぐ多くの事業者すなわち自治体が、老朽化する水道管など施設の維持、管理に困っているのは否めない。

 法定耐用年数の四十年を超える老朽水道管の割合は、東京都が13・5%、愛知県が16・6%、大阪府では三割近くに上っている。

 六月の大阪府北部地震では、水道管の破断による断水が多発し、老朽化の実態があらためて浮き彫りになった。対策が急がれるのも確かである。しかし、人口減による料金収入の目減りなどもあり、更新はままならない。

 そこで民間の参入を促進し、経営の改善を図るのが、改正案の“肝”らしい。

 具体的には、自治体に施設の所有権を残しつつ、事業の運営権を民間に委ねる仕組み(コンセッション方式)の導入だ。

 これに対し、水や空気、穀物の種子などのように、人がそれなしでは生きていけない「社会的共通資本」を市場経済に委ねることへの懸念も次第に強まっている。

 世界の民営水道市場は、下水道も含め「水メジャー」と呼ばれる仏英の三大資本による寡占状態。このほかにも、米国のスーパーゼネコンなどが日本市場の開放を待っている。

 フィリピンの首都マニラでは、民営化によって水道料金が五倍になった。南米のボリビアでは、飲み水の高騰や水質の悪化に対する不満が大規模な暴動に発展した。

 改正案には、民間の運営に対するチェック機能の定めがない。マニラやボリビアのようにはならないとの保証はない。

 一方、北九州市のように、隣接自治体との事業統合により、料金の値下げや緊急時の機能強化に成功した例もある。

 市場開放ありき、の法改正はやはり危うい。広域連携を軸にした、さらなる熟議が必要だ。

中日春秋 (2018年7月29日中日新聞)

2018-07-29 10:30:27 | 桜ヶ丘9条の会
中日春秋 

2018/7/29 中日新聞
 西から昇ったおひさまが東へ沈む-。「天才バカボン」の主題歌で放送開始は一九七一年なので、今でもすらすらと歌詞が出てくるという世代は六十歳近いか。八月二日は赤塚不二夫さんの祥月命日で没後十年という

▼あの歌のおかげで、太陽はどちらから昇るかを学んだという当時の子どももいるのではないか。バカボンのパパはいつもでたらめなので歌とは正反対に覚えればよい。だから正解は東という具合

東にあった台風が西へと進む。こっちの方は笑いごとではなく、身構える。夏場の台風は西から東へと進路を取るものだが、へそ曲がりな台風12号が異例のルートで東から西へと進む

▼南の上空に反時計回りの空気の渦があり、その影響によって西寄りのルートを進んだとみられているが、見たこともない台風の進路図が不気味である。先の西日本豪雨の被災地に向かっているのも気掛かりで、どこまでも底意地の悪い台風である。異例な進路に予想もつかぬ被害が心配である

それにしても異例やら異常という言葉をよく耳にした、この七月である。西日本豪雨に始まって、全国的な猛暑、そしてこの西も東も分からぬ台風。「西から昇ったおひさま」ほどではないにせよ、これだけの異常、異例が続けば何事ならんと心も落ち着かぬ

▼同じ赤塚作品でも「シェー」ではなく「これでいいのだ」の普通の夏の空が恋しい。

朝鮮休戦65年 終戦を非核化につなげ(2018年7月28日中日新聞)

2018-07-28 09:41:57 | 桜ヶ丘9条の会

朝鮮休戦65年 終戦を非核化につなげ 

2018/7/28 駐日新聞
 朝鮮戦争の休戦から六十五年。日本の至近で起きた戦争は、法的にはいまだに戦争状態にある。ようやく、米朝をはじめ関係国間で正式に終結させる動きが出てきた。半島非核化に生かしたい。

 一九五〇年六月から朝鮮半島全域で繰り広げられた朝鮮戦争は、三年後の七月二十七日に「休戦」となり、戦火がやんだ。

 戦争前とほぼ同じラインによる南北分断という結果に終わったが、代償は極めて大きかった。

 民間人を含め五百万人以上が犠牲となった。南北に分かれて住む離散家族は約一千万人にもなる。

 北朝鮮の核・ミサイル問題の根本的な解決には、休戦状態を終わらせ、関係国が平和協定を結ぶことが必要だと、専門家の中で長く論議されてきた。

 しかし休戦協定の締結には、約二年もの長い時間がかかった。捕虜の扱いや、休戦ラインの設定など、関係国の利害が複雑に絡んでいたためだ。

 平和協定締結も簡単ではない。このためまず関係国が「終戦」を宣言し、信頼関係を築く構想が生まれた。法的義務のない、いわば政治的な申し合わせである。

 南北の首脳が四月二十七日に発表した「板門店宣言」に、「今年中に終戦を宣言する」という目標が盛り込まれたのも、こういった構想の反映といえる。

 トランプ米大統領も、「(朝鮮)戦争は終わるだろう」と述べ、前向きな姿勢を示していた。

 ところが米国は、ここに来て慎重になった。非核化の実現より終戦宣言を先行させると、北朝鮮に在韓米軍撤退などを求める口実を与えかねず、不適切だとの指摘が出ているからだ。

 これに対して北朝鮮は、「終戦宣言をしてこそ平和が始まる」と反発し、米朝間の非核化協議は停滞に追い込まれていた。

 休戦状態とはいえ、軍事的緊張は変わっていない。もちろん日本にとっても、巻き込まれかねない危険な状態だ。

 着実に交渉を重ね、早期の終戦を目指してほしい。

 北朝鮮は北西部のミサイル実験場で、主要施設を解体していると伝えられる。北朝鮮地域で死亡した米兵の遺骨返還作業も、二十七日に行われた。

 歓迎したいが、まだ米国や国際社会は、北朝鮮に十分な信頼を置いていない。非核化に向けたロードマップを提示するなど、より踏み込んだ努力を示すべきだ。