辺野古裁判 最高裁は公平な審理を

2016-09-28 15:26:44 | 桜ヶ丘9条の会
辺野古裁判 最高裁は公平な審理を

2016年9月28日 東京新聞社説


 高裁では沖縄県が負けた。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を巡る裁判は、今度は最高裁へと移る。「辺野古しかない」と決め付けず、県側の主張を十分吟味した公平な審理をすべきだ。
 天秤(てんびん)があるとする。片方には日米安保条約に基づく国策がある。もう片方には米軍基地による沖縄県民の苦痛がある。普天間飛行場が返還されれば、その分だけ苦痛が減る。だから国策が優先される-。まるで福岡高裁那覇支部の判決は、そんな理屈を使っているかのようだ。
 だが、これは国側の言い分そのものである。国策追従の姿勢があらわだ。むしろ辺野古移設に対する県民の民意は、県知事選挙や国政選挙などで明白に「反対」と表れている。苦痛はなお大きい。
 そもそも天秤に例えた利益衡量という考え方は、「国民の利益」のためにつくられた法理であって、これを「国の利益」に用いることにも疑問を持つ。
 この訴訟は辺野古移設に伴う埋め立てについて、仲井真弘多(なかいまひろかず)前知事の承認を翁長雄志(おながたけし)知事が取り消したことが根幹にある。国側は承認取り消しを撤回するよう指示した。翁長氏が従わないのは「不作為」であり違法、地方自治法に基づいて、その確認をするという国の論理を高裁は丸のみした。
 この司法判断の根拠は正しいのだろうか。仲井真氏の承認を審理の対象とし、「裁量権の行使に逸脱や乱用がない」ことを理由に適法とした。しかし、本来は翁長氏が承認取り消しをしたのだから、裁判所はその違法性を立証せねばならないのではないか。翁長氏に裁量権の逸脱や乱用がなければ、やはり適法となろう。争点が間違っていないか、最高裁はこの点を重視してほしい。
 翁長氏は「憲法や地方自治法の解釈を誤った不当判決」と述べた。確かに国防が国の任務でも、米軍基地の大半を沖縄に押しつける理由にはならない。国と県とは対等である。それが地方自治法の精神である。むろん埋め立てを認めるかどうかは知事の権限である。国が強要すれば、自治権をも侵害する。
 沖縄の苦痛は基本的人権にもかかわる。「辺野古しかない」という一方的な結論は、司法判断というより、もはや政治判断である。沖縄の軍事的な優位性も、国の主張を丸のみする-、こんな司法の姿勢がまかり通れば、「国の大義」に地方はひれ伏すことしかできなくなる。


首相所信表明 改憲は喫緊の課題か(2016年9月27日中日新聞)

2016-09-27 08:46:45 | 桜ヶ丘9条の会
首相所信表明 改憲は喫緊の課題か 

2016/9/27 中日新聞
 安倍晋三首相が所信表明演説で憲法改正原案の提示に向けた議論が深まることに期待感を示した。しかし、そもそも改正は喫緊の課題なのか。その前に、政権が取り組むべき課題は山積している。

 臨時国会がきのう召集された。会期は十一月三十日までの六十六日間。衆参両院ではきょうから三日間、首相の所信表明演説に対する各党代表質問が行われる。

 国会の状況がこれまでと違うのは、七月の参院選の結果、憲法改正に「前向き」な、いわゆる「改憲勢力」が衆参両院で、憲法改正の発議に必要な三分の二以上の議席に達したことである。

 首相は、自民党が結党以来の党是としてきた憲法改正を実現する好機ととらえているに違いない。

 首相は演説を「憲法はどうあるべきか。日本がこれから、どういう国を目指すのか。それを決めるのは政府ではない。国民だ。そして、その案を国民に提示するのは私たち国会議員の責任だ。与野党の立場を超え、憲法審査会での議論を深めていこう」と結んだ。

 首相は二〇一二年の第二次安倍内閣発足後、施政方針演説や所信表明演説を、今回を含めて八回行っている。改憲論議を深める必要性を訴えることはこれまでもあったが、改正原案の提示にまで踏み込んだのは今回が初めてだ。

 日本国憲法は九六条に改正手続きを明記しており、一般論としては、改正案を発議する国会議員が議論することまで否定はしない。

 改正しなければ、国民の平穏な暮らしが著しく脅かされる恐れがあり、改正を求める声が国民から澎湃(ほうはい)と湧き上がっているのなら、国会で憲法改正を議論し、堂々と国民に問い掛ければいい。

 しかし、そうした政治状況でなく改正を煽(あお)るとしたら、権力の乱用との批判は免れまい。

 首相はこの国会を「アベノミクス加速国会」と位置付けるが、首相が主導する成長重視の経済政策は成果が出ているとは言えず、経済格差も拡大している。このまま続けていいのか、検証が必要だ。

 また、成立強行から一年たった安全保障関連法を、安倍政権は既成事実化しようとしているが、違憲性は依然、払拭(ふっしょく)されていない。自衛隊に初めて「駆け付け警護」任務を与えようとしている南スーダン国連平和維持活動(PKO)も、現地では戦闘が続き、危険性が指摘される。

 国会で早急に議論すべき課題は山積している。憲法改正に政治力を注ぎ込んでいる場合ではない。

<いま読む日本国憲法>(27) 第41条 「国民代表」権威付け(2016年9月26日中日新聞)

2016-09-26 09:43:05 | 桜ヶ丘9条の会
 憲法第41条 「国民代表」権威付け

二十六日に召集される臨時国会では、消費税増税を再延期する関連法案など、さまざまな法案が審議されます。日本国憲法四一条から六四条までの第四章は国会に関する条文が並んでいます。四一条は、立法権が国会に属すると規定。行政権は内閣に属すると定めた六五条、司法権は裁判所に属するとした七六条一項とあわせて「三権分立」の根拠となっています。

 旧憲法下の帝国議会は天皇の協賛機関にすぎず、立法権も天皇に属していました。国民主権を柱とした現憲法では、国民の代表者で構成される国会こそ「国権の最高機関」だと四一条で宣言し、権威づけしているのです。


 自民党の改憲草案も、四一条は現行憲法とほぼ同じ表現です。

 四一条は、国会が「唯一の立法機関」とも定めています。ただ、成立する法律は、国会議員が提出したものより内閣が提出したものの方が圧倒的に多いのが現状です。二〇一五年に国会議員が提出した法案は七十二件で、このうち成立したのは十二件(成立率16・7%)。これに対して内閣が提出した法案は七十五件で、成立したのは六十六件(同88%)でした。

 国会議員の立法活動を制限する法律や慣例があります。国会法は、議員が法案を提出する場合、予算が必要な法案は衆院五十人以上(参院二十人以上)、予算を伴わない法案は衆院二十人以上(参院十人以上)の賛成者が必要と規定。各党の役員の同意がない法案は、衆参両院の事務局が受け取らないのが慣例です。

 国会の憲法論議の中では、こうした議員立法を縛るさまざまな条件を緩和して、議員の立法活動をより活発にするべきだという意見も出ています。

<いま読む日本国憲法>(26) 第36条 拷問禁止への強い決意(2016年9月21日中日新聞)

2016-09-21 08:36:20 | 桜ヶ丘9条の会
<いま読む日本国憲法>(26) 第36条 拷問禁止へ強い決意 

2016/9/21 中日新聞

 警察官や検察官が、被疑者や被告人から自白を得るため、肉体的・精神的な苦痛を与える「拷問」を禁じた条文です。

 ポイントは「絶対に」という強調表現。現憲法の中で「絶対に」という言葉が出てくるのは、この一カ所だけです。

 旧憲法下で、思想統制を目的とした逮捕・拷問が横行したことへの反省からで、拷問や残酷な刑を禁止する強い決意が感じ取れます。

 しかし、なぜこの条文だけに「絶対に」があるのか、説明しづらいのも事実です。例えば、一八条の「奴隷的拘束」や「意に反する苦役」は、否定しているものの「絶対に」とまでは書かれていません。改憲論者は、しばしば今の憲法について「日本語としておかしい」と指摘します。その延長線上で、この「絶対に」が話題になることがあります。

 自民党改憲草案では「絶対に」が削除されています。草案のQ&Aには、削除の理由は書かれていません。憲法の専門家からは「『絶対に』を外せば、当然、守るべき規則としての力は低下する。一定の条件があれば例外が認められるとの解釈につながる可能性がある」と、問題視する意見が出ています。

 この条文に関して議論になるのは、死刑制度との関係です。人権団体や、超党派国会議員による「死刑廃止を推進する議員連盟」などの廃止論者は、死刑が三六条の定める「残虐な刑罰」に当たると指摘。死刑廃止が国際的潮流になっていることや、死刑が犯罪抑止につながらないとも主張しています。

安保法成立1年 違憲性は拭い去れない(2016年9月20日東京新聞)

2016-09-20 08:36:51 | 桜ヶ丘9条の会
【社説】

安保法成立1年 違憲性は拭い去れない

2016年9月20日東京新聞


 安全保障関連法の成立から一年。「違憲立法」の疑いは消えず、既成事実化だけが進む。戦後日本の平和主義とは何か。その原点に立ち返るべきである。
 与野党議員が入り乱れる混乱の中、安倍政権が委員会採決を強行し、昨年九月十九日に「成立」したと強弁する安保関連法。今年三月に施行され、参院選後の八月には自衛隊が、同法に基づく新たな任務に関する訓練を始めた。
 政権は既成事実を積み重ねようとしているのだろうが、その土台が揺らいでいれば、いつかは崩れてしまう。その土台とは当然、日本国憲法である。
◆他衛認めぬ政府解釈
 七月の参院選では、安保関連法の廃止と立憲主義の回復を訴えた民進、共産両党など野党側を、自民、公明両党の与党側が圧倒したが、そのことをもって、安保関連法の合憲性が認められたと考えるのは早計だろう。
 同法には、「数の力」を理由として見過ごすわけにはいかない違憲性があるからだ。
 安保関連法には、武力で他国を守ったり、他国同士の戦争に参加する「集団的自衛権の行使」に該当する部分が盛り込まれている。
 安倍内閣が二〇一四年七月一日の閣議決定に基づいて自ら認めたものだが、歴代内閣が長年にわたって憲法違反との立場を堅持してきた「集団的自衛権の行使」を、なぜ一内閣の判断で合憲とすることができるのか。
 憲法の法的安定性を損ない、戦後日本が貫いてきた安保政策の根幹をゆがめる、との批判は免れまい。成立から一年がたっても、多くの憲法学者ら専門家が、安保関連法を「憲法違反」と指摘し続けるのは当然である。
 現行憲法がなぜ集団的自衛権の行使を認めているとは言えないのか、あらためて検証してみたい。
◆血肉と化す専守防衛
 戦後制定された日本国憲法は九条で、戦争や武力の行使、武力による威嚇について、国際紛争を解決する手段としては永久に放棄することを定めている。
 これは、日本国民だけで三百十万人の犠牲を出し、交戦国にとどまらず、近隣諸国にも多大な犠牲を強いた先の大戦に対する痛切な反省に基づく、国際的な宣言と言っていいだろう。
 その後、日米安全保障条約で米軍の日本駐留を認め、実力組織である自衛隊を持つには至ったが、自衛権の行使は、日本防衛のための必要最小限の範囲にとどめる「専守防衛」を貫いてきた。
 自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力で阻止する集団的自衛権については、主権国家として有してはいるが、その行使は専守防衛の範囲を超え、許されない、というのが歴代内閣の立場である。
 日本に対する武力攻撃は実力で排除しても、日本が攻撃されていなければ、海外で武力を行使することはない。日本国民の血肉と化した専守防衛の平和主義は、戦後日本の「国のかたち」でもある。
 しかし、安倍内閣は日本が直接攻撃されていなくても「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」には集団的自衛権の行使が可能だと、憲法を読み替えてしまった。
 その根拠とするのが、内閣法制局が一九七二年十月十四日に参院決算委員会に提出した資料「集団的自衛権と憲法との関係」だ。
 安倍内閣は、自衛権行使の要件として挙げている「外国の武力攻撃」の対象から「わが国」が抜けていることに着目。攻撃対象が他国であっても、自衛権を行使できる場合があると解釈し、「法理としてはまさに(七二年)当時から含まれている」(横畠裕介内閣法制局長官)と強弁している。
 しかし、それはあまりにも乱暴で、粗雑な議論である。当時、この見解作成に関わった人は、集団的自衛権を想定したものではないことを証言している。
 国会での長年にわたる議論を経て確立した政府の憲法解釈には重みがあり、一内閣による恣意(しい)的な解釈が認められないのは当然だ。それを許せば、国民が憲法を通じて権力を律する立憲主義は根底から覆る。安倍内閣の手法は、歴史の検証には到底、耐えられない。
◆憲法の危機直視せよ
 日本の安保政策を、専守防衛という本来の在り方に戻すには、集団的自衛権の行使を認めた閣議決定を撤回し、安保関連法を全面的に見直すしかあるまい。
 安倍政権は、自民党が悲願としてきた憲法改正に向けて、衆参両院に置かれた憲法審査会での議論を加速させたい意向のようだが、政府の恣意的な憲法解釈を正すことが先決だ。与野党ともに「憲法の危機」を直視すべきである。