リニア 9兆円かけて環境破壊 (2014年9月28日赤旗日曜版)(東濃リニア通信より)

2014-09-29 08:05:00 | 桜ヶ丘リニア問題を考える会
「リニア9兆円かけて環境破壊」、「水源直下を通過 集落消滅だ(長野・南木曽町)」、「過大な需要予測 国家百年の愚策(橋山禮治郎さん)」「着工認可するな(共産党が申し入れ)」、「天然記念物ハナノキの湿地ピンチ」などと、2頁見開きで報道。








以下は、2014年9月28日の中日新聞社説です。


新幹線と安全思想 週のはじめに考える
 新幹線の高速正確な運行は、世界に誇るべき日本技術の一つです。十月一日で開業から五十年。安全を追い求めてきた半世紀といってもいいでしょう。

 東日本大震災の二〇一一年三月十一日。大地が揺れ始めた時、東北新幹線は十九本の列車が走っていました。震源に近い宮城県の仙台-古川間を時速二百七十キロで走行中の列車も。

 その十九本は、間もなく、いずれも脱線することなく無事に停車しました。

5秒早く地震を検知

 新幹線は、早期地震検知システムを備えています。沿線のみならず海岸部にも地震計を設置し、初期微動の検知により、送電を遮断。電気が止まれば列車には非常ブレーキがかかり、主要動の前に停止動作が始まるわけです。

 金華山の海岸地震計は、沿線の地震計より五秒早く大地震を検知しました。この五秒の余裕が時速二百七十キロで疾走していた列車を救った、ともいいます。

 こうして、東海道新幹線開業から続く「列車事故による乗客の死傷者ゼロ」の記録を更新できたのです。

 世界に冠たる安全実績をもたらしたものは、どこまでも事故を恐れることで鍛えられた安全思想でしょう。

 安全記録途絶の危機は、幾度も繰り返されてきました。

 一九九五年の阪神大震災で、山陽新幹線は高架橋八カ所が倒壊。午前六時に始発列車が出る直前でした。幸運だった、と言うべきでしょう。

 〇四年の新潟県中越地震では、上越新幹線を走行中の下り列車が脱線し、上り線側に大きく逸脱しました。対向列車との衝突を免れたのは、列車密度の低い上越新幹線ならではの幸運、とも言われています。

運転士の目では遅い

 新幹線を運行するJR各社は、阪神大震災を教訓に橋脚など構造物の耐震性強化を進め、中越地震を教訓に非常ブレーキ作動までの時間短縮を図りました。

 東日本大震災で全列車が無事に停車できたのは、阪神、中越両地震後にきちんと地震対策をした成果でもあるのです。

 では、その安全思想は、どこから生まれてきたのでしょう。

 新幹線の生みの親といわれるのは、当時の国鉄総裁だった十河(そごう)信二氏と技師長の島秀雄氏(ともに故人)です。

 五〇年の朝鮮戦争特需を機に日本経済の復興が始まり、五六年に全線電化が完了した国鉄東海道線も輸送力が追い付かなくなりました。既存路線の複々線化、別ルートでの新線建設などが議論される中、スピードの出せる広軌での新線建設を主導したのが十河総裁、島技師長でした。

 目指したものは、従来の鉄道とは異次元といっていい高速鉄道のシステムでした。

 鉄道事故は踏切で多発する-ならば、踏切のない完全立体交差の路線にすればよい。

 時速二百キロ以上の高速走行では、運転士の目による判断は間に合わない。では、どうするか-運転士が非常ブレーキをかけるのではなく、その必要をなくすシステムを考えればよい。

 自動列車制御装置(ATC)、列車集中制御装置(CTC)など、幾重にも張り巡らされた新幹線の安全装置は、このような考え方から生まれました。

 在来の国鉄線では、五一年に根岸線の桜木町駅で架線作業ミスから死者百六人を出した車両火災「桜木町事故」、六二年に常磐線三河島駅構内で死者百六十人を出した「三河島事故」など大事故が続きました。

 桜木町事故の責任を取って国鉄から去ったのが、当時の車両局長だった島氏でした。新幹線建設のため十河総裁に呼び戻された島技師長は、だからこそ、どこまでも安全を追い求めたのでしょう。

 新幹線計画が発表されたのは五八年。世界の大勢は、船と鉄道は斜陽化し、飛行機と自動車へ、という時代でした。国内でも、巨費を投ずるなら高速道路整備を、と新幹線反対論が噴き出しました。

 鉄道ファンの作家、阿川弘之さんも、後にその発言は撤回していますが、「世界の三バカ」と言われた万里の長城、ピラミッド、戦艦大和に例えて計画の再検討を求めたほどでした。

リニアは人に優しく

 逆風も吹く中で構想された新幹線が、その後の日本社会にどれほど影響を与えたか、あえて書くまでもないでしょう。

 次の半世紀は、リニア新幹線の時代になるのでしょうか。

 リニアが継承すべきは、まず、これまでの半世紀で磨き上げてきた安全思想です。それに、半世紀前にはなかった環境の重視です。つまり、人に優しい、ということではないでしょうか。



水源汚染と闘って4年・可児市から(2007年2月6日)再掲

2014-09-26 18:27:13 | 桜ヶ丘リニア問題を考える会
岐阜県・可児市の市民団体「水源汚染問題ネットワーク・可児」(代表:梅田裕孝氏)が国交省に可児市公共残土ストックヤードからの排出水の対策を求めてまもなく4年になる。1月20日に可児市で集会を開いた同会は、提訴をも視野に入れた活動を引き続き今後も、粘り強く実施することを確認した。
    
 ことの発端は2003年4月26日。久々利川水系・新滝が洞溜池で約1000匹の魚が死ぬ事件が起きたこと。岐阜県環境課、可児市環境課などの調査の結果、上流に設置された東海環状自動車道路建設残土ストックヤードから、強度な硫酸酸性でカドミウムなどの有害重金属を含む排出水が久々利川に流出していたことが判明した。

 可児市周辺に分布する美濃帯と呼ばれる地層が掘り起こされ、黄鉄鉱などの硫化鉱物と、酸素を含んだ雨水や地下水が化学反応を起こし硫酸が生成された。その硫酸がカドミウムや亜鉛など重金属類を溶かし、排出水となってストックヤードから新滝が洞溜池へ流入したのだった。

 上記ストックヤードは可児市が借地して建設した施設で、国交省直轄事業の道路建設で発生した残土を2000年9月から2003年4月までに88.7万立方米搬入していた。また可児市は国交省多治見工事事務所長と、残土1トンあたり1170円を可児市に支払うと覚え書きを交わし、予定通り95万トンが搬入されれば11億1150万円となる事業だった。

 ストックヤードは残土の仮置き場のため地元住民への説明会は開かれたが、残土の搬入時等の交通事情に関する説明が主で、住民は誰もが残土の仮置き場だと思っていた。名称は「可児市公共残土ストックヤード」であるが、実際に残土を外へ運び出すことはなかった。実態は可児市市議会で追及を受けた建設水道部長が「ストックヤードと英語で言った方が体裁がよいと思っただけで、実質は埋め立て処分場だった」と答弁しているように埋め立て用地だった。

 1973年に愛知県犬山市で同様の汚染事件が起きている。汚染水が周辺の水田へ流入し産米からカドミウムが基準値を超えて検出された。汚染地域指定を受け約10億円の国費で耕作土の入れ替えが実施された。その後、指定を解除されたが行政の監視調査が現在も続いている。

 可児市のケースで国交省は重金属対応処理プラントを設置したが、ストックヤード各部からの排水の多くがpH3~5の酸性を示し重金属類を含有している。プラントでの処理水は調整池下流に放流されている。

 国交省はストックヤード天端部を全面覆土する工事を行ったが、水量は減ったものの酸性水の浸出は止まっていない。依然として降雨時の後には、pH4程度の酸性水が浸出している。さらには、地震や大規模な風水害でストックヤードが崩落する可能性もあると言われている。

 現在、人体に有害なカドミウム、鉛、銅、亜鉛など有害重金属類は重金属対応処理プラントで消石灰、希塩酸を用いて処理を行なっているが、地元の農家はこのような処理水を使って米作りをしたくないと言っている。また、将来的に生態系に影響を与えるのではないかと懸念される。

 地下水を水道水源とする大萱地区住民は、底部に遮水工が施されていないストックヤードからの酸性浸出水による地下水の汚染を恐れている。国土交通省はストックヤード底部には固い岩盤があるから地下浸透はしないとしているが、その岩盤にひび割れがないという保証はない。

 以上の理由などから同会は汚染残土の全面撤去と水源汚染水への対策を求めて岐阜県公害調停委員会に調停を申請した。調停において、久々利川水系の水を元の状態に回復させ、監視や点検を必要とする処理プラント施設が河川上流に存在しない、地震や風水害によるストックヤードの決壊、崩壊を憂慮せずに済む状態に戻すことを求めた。

 しかし06年10月27日岐阜県公害審査会は、現地調査をする事もなく、「合意成立の見込みがない」と調停打ち切り通知を突然出してきた。肩透かしの対応のまま汚染水の滲出は止まらず、住民の不安や不信、怒りと憤りは募るばかりで、暮らしより産業優先、住民より企業保護という行政の姿勢が露骨に現れているとして、同会は強く抗議すると同時に、2月1日に事務局会議を開き、これまで通り、週1回程度の調査・監視活動を実施するとともに、水源の原状復帰を要求し続けることを決めた。

(上野数馬)