医療事故死の原因を調べ、報告にまとめる「医療事故調査制度」が始まって五年。ところが、報告件数は当初の予測を大幅に下回っている。「訴訟を起こされるのでは」と、医師らが制度の利用に消極的になっていることが背景にあるようだ。ただ、報告は再発防止への手引きになる。同じ過ちを繰り返してほしくないと考える遺族が、自分たちの受け取った報告書を公表し始めた。事故から学ぶ姿勢は、医療界に根付くか。 (木原育子)
報告書公表、動く遺族
「母の命が軽く扱われているように感じました。本当にお粗末なものでした」
東京都豊島区の会社員、山本祥子(さちこ)さん(48)は、静岡県の大型総合病院で、母親の昌子さんを六十八歳で亡くした。病院が実施した「院内調査」の報告書を受け取った時にこう感じた。A4サイズたったの二枚しかなかったからだ。
今から五年前の二〇一五年九月三日、昌子さんに食道がんが見つかった。ステージ1。まだ初期だった。抗がん剤治療の後に切除の手術をし、一六年のお正月は家族で過ごす。そんな予定を立てていた。
十月二十日から抗がん剤投与が始まった。嘔吐(おうと)が続いて食欲はなく、次第に歩行も会話もおぼつかない状態になった。十一月一日には唾液が喉に詰まって一時、心肺停止に陥った。そして十一月五日に亡くなった。抗がん剤投与を始めて十七日目だった。
医療事故調査制度は、その年の十月に始まっていた。医療法で定められた制度で、「予期せぬ死亡」が起きた時、まず院内で調査して報告をまとめる。その結果に遺族が納得いかなければ、第三者機関「医療事故調査・支援センター」にさらに調査を依頼できるというものだ。
病院は院内調査をし、山本さんは翌年三月にA4二枚の報告を手にした。ボリュームだけでなく、内容も不十分だった。調査実施者がだれか分からない。時系列の経過はなく、死亡の理由は「不明」。調査の目的である「再発防止」への方策は示されていなかった。
説明を受けようと山本さんが病院を訪ねた。会議室に山本さんを囲むように十人の医師がずらりと並んだ。「圧迫感のある雰囲気。私には、先生の説明がよく分からず、一生懸命質問したら、失笑された」
当然、納得がいかず、山本さんはセンターへの調査も依頼した。その報告書はA4サイズ四十一枚。分刻みの詳細な経過をはじめ、院内調査で示されていなかった内容が記されていた。もちろん、再発防止策も書かれていた。「遺族にとっては、母の最期を知るかけがえのない大事な資料。血が通った報告書で初めて納得できた」
ただ不十分だったとはいえ、院内調査をしただけこの病院は良心的だったのかもしれない。院内調査は病院が自発的にスタートさせるという制度だからだ。
ちなみに、制度開始から昨年末まで、病床数六百床以上の大型病院二百四十一施設のうち、医療事故の報告があったのは約六割の百四十八施設。はたして残る四割の施設では「予期せぬ死」は一件もなかったのだろうか。
調査数も低調だ。制度の検討段階では、調査は年間千三百〜二千件と試算されていた。センターによると、実際に院内調査を始めるという報告は年間三百件台で推移。今年九月まで五年間の累計は千八百四十七件だった。試算が妥当だったか議論はあるが、実際の件数との開きはあまりに大きい。また、山本さんのようにセンターに再調査を依頼したのは百三十五件に上っている。
医療界は医療事故の調査に及び腰。こう感じている遺族らが動き始めた。
「このままでは病院間で医療安全に対する意識の格差が広がってしまう」。医療事故の当事者らでつくる「医療過誤原告の会」の宮脇正和会長(70)はこんな危機感を持っている。
どうにかしたいと、会のホームページで、同意が得られた遺族の院内、センターの報告書を公表した。当初は三人分。宮脇さんは「それぞれの病院やセンターがどんな報告書を出しているか、多くの医師に現実を知ってもらいたい」と語る。
前出の山本さんも公表に同意した。山本さんは「お医者さんは神様じゃない。人間がやることに間違いはある。だが、真摯(しんし)な説明も反省の言葉もなく、命を軽く考えているような態度が許せない。母の命が医療が変わる一助になるなら喜んでくれるはず」と語る。
訴訟懸念、医療界は及び腰
一方の医療界。今年五月七日、大学病院長や医学部長でつくる「全国医学部長病院長会議」が文書を公表した。表題は「医療事故調査制度の現状と課題」。全国の大学病院百十七施設を対象にしたアンケート結果をまとめたものだ。
そこからにじむのは、制度名にある「事故」という言葉への拒否感と、法的責任追及への恐れだった。
約六割に当たる七十施設が制度の名称変更を要求。これを受け、文書では「医療事故調査制度」を「患者安全のための報告・学習制度」にするよう提案した。さらに、七割を超える八十三施設が「報告書の訴訟利用」を制度の課題に挙げていた。調査した同会議の坂本哲也委員長(帝京大病院長)は「再発防止システムが結果的に医師の法的責任を追及するシステムになり、医療現場が疲弊する事態は避けたい」と訴える。
この制度はそんなに法的責任の追及に使われているのだろうか。医療事故調査・支援センター常務理事の木村壮介医師は「裁判所から民事訴訟の問い合わせが来ることはある。だが、『責任追及の制度ではないため協力できない』と答えている」と打ち明ける。
医療事故を理由とした民事訴訟は一時より減った。最多は制度がなかった二〇〇四年の千百十件。制度開始後は八百件前後で推移し、一八年は七百八十五件だった。医療事故に詳しい江戸川大学の隈本邦彦教授は「訴訟になるのは、遺族は医療事故と思い、病院はそうではないと思うケース。調査すれば、結果的に訴訟が減る可能性はある。医療は元々危険をはらむ。制度は医療事故に真摯に向き合い、経験を医療界全体で共有するものだ」と語る。
刑事責任を追及される場面も減っている。厚生労働省は一七年に医療、司法、警察関係者らで医療過誤事件を分析する研究会を設置した。一九年末の報告書によると、病院が警察に届け出た件数は一六年は六十八件。ピーク時の〇四年の二百五十五件の約四分の一だった。起訴されたのは一六年にはわずか二件。報告書は「必要なリスクを取った医療行為の結果、患者が死亡した場合であっても刑事責任を問われることはない」と記す。
そもそも制度は〇八年に大綱案がまとまっていた。医療側の反発があり、スタートは一五年までずれ込んだ。この間に、制度があれば防げたかもしれない「事故」があった。
東京女子医大で一四年に埼玉県の二歳の男児が鎮静剤プロポフォールの投与後に死亡した事故で、警視庁が今月、医師六人を書類送検した。男児が亡くなる前の〇九〜一三年の五年間、同様に投与されて亡くなった子どもは十一人に上る。
男児の母親は「もし制度があって病院がこれまでのケースを検証していたら、助かる命があったのではと思ってしまう。命に向き合う医師だから、命に誠実であってほしい」と訴える。