日弁連「公害・環境」2014年・9No.58より

2014-10-31 18:49:21 | 桜ヶ丘9条の会
大飯原発・運転差止判決-司法は生きていた-

(1)はじめに
福井地方裁判所は、2014年5月21日、大飯原発3、4
号機の運転差止めを認める歴史的判決を言い渡しました (以下「本判決」といいます。)。本判決が言い渡された 瞬間、弁護団や原告団事務局のメンバーが、それぞれ 「差止め認める」「司法は生きていた」という垂れ幕を掲 げましたが、特に後者について、深い共感を寄せた市民
は多かったことでしょう。
この判決は、仮処分決定を別とすると、福島第一原発
事故後初めての、原発裁判における司法判断です。福島
第一原発事故の被害を踏まえ、行政庁の判断を追認して
きた裁判所の姿勢に変化が生じることが、多くの市民か
ら期待されていましたが、この判決は、その期待に十二
分に応えるものとなりました。
(2)従来の司法判断
伊方最高裁判所判決(最高裁第1小法廷平成4年10月 29日判決)は、1原発事故の重大性につき「(前略)原 子炉施設の安全性が確保されない時は、当該原子炉施設 の従業員やその周辺住民等の生命、身体に重大な危害を 及ぼし、周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深 刻な災害を引き起こす恐れがあることにかんがみ、右災 害が万が一にも起こらないように(後略)」と述べ、ま た、訴訟における立証責任につき、2「原子炉設置許可
福井弁護士会 笠原 一浩
処分についての取消訴訟においては、(中略)当該原子 炉施設の安全審査に関する資料をすべて被告行政庁の側 が保持していることなどの点を考慮すると、被告行政庁 の側において、まず、その依拠した前記の具体的審査基 準並びに調査審議および判断の過程等、被告行政庁の判 断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づき 主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証 を尽くさない場合には、被告行政庁がした右判断に不合 理な点があることが事実上推認されるものというべきで ある。」と述べています。 このうち、特に1の判示からすれば、万が一にも深刻 な災害が起こらないかどうかが判断の対象とされるべき です。ところが、その後の原発訴訟の多くでは、あたか も1の判示がなかったかのように2の判示が曲解され、 例えば、浜岡原発についての2007年10月25日静岡地方裁 判決で見られるように、国の定めた基準に沿っているこ とが示されれば、それで「不合理な点のないことを...立 証」したことにされてしまいました。そのため、一旦被 告が上記の立証に成功すれば、今度は、原告において事 故の危険性を証明することが要求され、過大な主張立証 責任を課されることになり、ほとんどの場合において住 民側の訴えが退けられてきました。 また、科学的知見とは、決して固定したものではな く、様々な科学的知見が議論を展開することによって発
公害・環境ニュース58号(2014年9月)
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展していくものです。とりわけ、原子力のような複雑な
技術であれば、複数の科学的知見が存在するのがむしろ
当然です。それにもかかわらず、従来の原発訴訟におい
ては、事実上、行政がよって立つ見解を採用すれば、そ
れで合理性が認められたことになり、それを批判する科
学的知見が省みられることはありませんでした。
福島第一原発事故は、このように、原発訴訟において
司法が行政追認の判断を続けた結果ともいえます。
(3)判決の内容
本判決の要旨及び全文は、原告団ホームページ「福井 から原発を止める裁判の会」にアップされていますの で、まだ読んでいない方は(既に読んだ方も)、ぜひご 一読ください。そして、ぜひ、周りの人々にも広めてく ださい。 特に、判決要旨の最初のページと最後のページをご覧 ください。最初のページでは、人格権が憲法上最も高い 価値を有すること、最後のページでは、原発事故こそ本 当の意味で国の富を失わせることや、ましてやCO2削減 を口実に原発を推進することが言語道断であることが、 大変美しい日本語で書かれています。福島第一原発事故 を経た今日において、司法判断のモデルを築こうとする 意気込みを、この判決に見ることもできます。 本判決は立証責任につき、判断すべき対象は「かよう な事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断 の対象とされるべき」と述べ、原告が立証すべき事項を 「具体的危険性が万が一でもあるのか」と設定しました。 これは、伊方最高裁判決の、とりわけ1の趣旨を、民事 訴訟に妥当する範囲で(伊方最高裁判決は、行政訴訟に おける判断です。)的確に理解したものです。 さらに、これまでの原発訴訟において、裁判所は、行 政事件のみならず民事事件においても、行政庁が定める 規制基準への適合性を重視してきましたが、本訴訟にお いては、規制基準は争点となりませんでした。本訴訟 は、大飯原発が規制基準に適合していない(又は、規制 基準が不合理である。)ことを理由に国の設置許可の無 効や取消しを主張する行政訴訟ではなく、原発の運転に よる人格権侵害を理由に運転差止めを求める民事訴訟で す。そのため、行政法規である規制基準に形式的に合致 しているからといって、それだけで原告の請求が否定さ れることにはならないはずです。実際、後述の1~3に
おいて判決は事実上、国の規制基準の問題点をも指摘し ています。 このような判断がなされた背景に、福島第一原発事故 の深刻な被害があったことは疑うべくもありません。判 決はこう述べています。「福島原発事故の後において、 この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責 務を放棄するに等しいものと考えられる。」 一方、そのような素晴らしい判決だからこそ、原子力 推進勢力から猛烈なバッシングがなされており、新聞の
「識者」コメント欄には、「判決は科学を理解していな い」という記事が出ています。 しかし、本判決は、(2)で述べた科学の本質を理解 しているからこそ出されたものです。 前述のとおり、とりわけ原発のような複雑な科学技術 においては、複数の科学的知見が生じるのが当然です。 そこで本判決は、このような科学の本質を踏まえ、存否 につき学説上争いのある事実については慎重な対応を 取った上で、1関電も1260Gal(基準地震動の1.8倍)を 超える地震動には打つ手がないことを認めているとこ ろ、2005年から2011年までのわずか6年の間に、基準地 震動を超える地震動が原発を襲ったケースが5例もあ り、現在でも関電などが基準地震動を策定する方法は、 従来と基本的には変わらない、2その基準地震動
(700Gal)以下の地震動によってすら、外部電源や主給 水ポンプといった、冷却にとって最も重要な装置が破損 する可能性がある、3高レベルの放射性物質である使用 済核燃料は、堅固な容器に覆われているわけではない、 といった、どの科学者も(関電も)認めている事実を認定 しました。本判決は、学説の優劣を問うことなく、どの 科学者も認める事実を基に、健全な判断を下したのです。



「公務員賃下げ違憲訴訟」の不当判決を弾劾する声明(2014年10月30日国公労連)

2014-10-31 07:41:01 | 桜ヶ丘9条の会
                     
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【私たちの主張:私たちの主張】2014-10-30
「公務員賃下げ違憲訴訟」の不当判決を弾劾する声明

本日、東京地裁民事19部(古久保正人裁判長)は、国家公務員の労働基本権制約の代償措置たる人事院勧告をも無視した給与減額について、憲法28条には違反しないとして合憲と判示し、国公労連との誠実交渉義務違反も認定せず、原告らの請求を全て棄却する不当判決を言い渡した。我々は、この最悪の不当判決を満腔の怒りを込めて弾劾する。

「給与改定・臨時特例法」に基づき、2012年4月分の給与から、歴史上初めて人事院勧告によらない国家公務員給与の平均7.8%(一時金は一律9.77%)もの減額が実施された。2年間の給与減額は一人平均100万円程度にも上る。
これに対し、2012年5月25日から、日本国家公務員労働組合連合会(国公労連)と組合員370名が、差額賃金の支払いと損害賠償を求めて東京地裁に提訴した。

国家公務員は、労働基本権を制約され、争議権と労働協約締結権が剥奪されている。そのことが、全ての勤労者に労働基本権を保障した憲法28条に違反しないためには、代償措置がなければならない、と最高裁は全農林警職法事件で判示している。その代償措置が、給与などの労働条件については人事院勧告制度であった。
そうである以上、この人事院勧告に基づかずに、労働基本権を制約された国家公務員の給与を減額することは、労働基本権剥奪の合憲性の前提が崩れるから違憲である。

判決は、この最高裁が示した枠さえ無視し、「人事院勧告には拘束力がない。他方で、勤務条件法定主義、財政民主主義に基づき立法裁量がある」との国の主張を受け入れ、「我が国の厳しい財政事情」と「東日本大震災に対処する必要性」があるとの立法理由を鵜呑みにして、合憲判断をなした点で重大な誤りを犯したものである。
さらに、ILOが本件に強い関心を示しているにもかかわらず、判決は本件給与減額が、ILO87号条約(結社の自由及び団結権保護条約)、98号条約(団結権及び団体交渉権条約)に違反しないとした。

そのうえ、判決は人事院勧告を経ない給与減額について、国家公務員の労働組合との交渉の義務を極めて限定した。そればかりか、政府と国公労連との実質的な協議がなされていないことを認めながら、形式的な資料の提示と交渉の回数を取り上げて、原告らの主張をことごとく退けた。
判決は、憲法・法律の解釈と事実認定のいずれについても誤ったものである。

国公労連と原告らは、この間支援いただいた多くの労働者・国民の皆さんに心より感謝の意を表する。そして、あくまで給与減額措置の違憲無効認定と差額賃金、損害賠償の支払いを求めて控訴し、控訴審において必ず逆転勝訴判決を勝ち取る決意である。
同時に、全ての労働者の権利擁護、賃上げと安定した雇用の確保など、憲法にもとづく基本的人権の保障をめざし、いっそう奮闘する決意を表明するものである。
2014年10月30日
国公労連「公務員賃下げ違憲訴訟」闘争本部
同弁護団

「9条俳句」の掲載拒否(2014年10月21日中日新聞)

2014-10-29 16:31:22 | 桜ヶ丘9条の会
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<記者の眼> 「9条俳句」の掲載拒否 

2014/10/21 夕刊
 「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句を、さいたま市の公民館が「世論を二分する」という理由で、月報に掲載するのを拒否した。なぜ二分がだめなのか。そこから生まれる議論こそが、民主主義の根幹だという意識が欠けている。

 なじみにしているという小さな喫茶店で、俳句の作者の女性(73)と会った。「二度と戦争になってほしくない。そんな思いで詠んだ句なんです」。女性は背筋をピンと伸ばし、続けた。「なぜそれを公民館がだめと言うのか」

 月報の掲載作品は、女性の所属する俳句教室が毎月、会員約二十人の互選で決めていた。「梅雨空-」の俳句も六月の教室で、次号に掲載する「今月の一句」に選ばれた。ところが、公民館は「中立性」を根拠に、掲載を拒否。「九条守れ」のフレーズが、集団的自衛権の行使容認をめぐる議論の中で「片方だけの意見を紹介することになってしまう」という理屈だった。

 公民館は本来、地域や社会の課題について住民が主体的に学び、議論し、取り組むのを支援するべき立場だ。片方だけの意見だからと、排除するのが正しかったのか、疑問に思う。

 俳句を掲載すれば「私は違う」と思う人もいただろう。改憲派から批判が出た可能性もある。公民館はそれを怖がって、空気を読んだのかもしれない。

 しかし、だからこそ公民館は「九条守れ」でも「九条変えろ」でも、どんな立場の作品も掲載することが重要だった。さまざまな人がそれぞれの立場で積極的に意見を発し、反応に接することで、より深い学びや議論につながる。「中立性」は、判断を差し挟まないことで保たれるはずだ。九月、住民と有識者でつくる市公民館運営審議会の委員は「議論を恐れてはならない」と指摘した。

 日本人は議論が苦手、と言われる。周囲の空気を読み、意見を戦わせないという評価だ。私自身、衝突を嫌い、発言を自重してしまうことがある。ただ社会や地域に課題がある場合、みんなが空気を読んでいては問題解決は遠い。議論を重ね、合意形成していく過程こそ民主主義なのだ。

 安倍政権は集団的自衛権の行使に向けて準備を進め、その先に改憲を視野に入れる。国の将来を大きく左右する課題を前に、私たちが自ら考え、議論し、決めていくことが求められている。公民館や行政は民主主義の基本に立ち返り、市民の議論を後押しするよう努めてほしい。

 (さいたま支局・岡本太)

大飯原発運転差止事件 判決ハイライト(福井地裁2014年5月21日)

2014-10-28 17:57:30 | 桜ヶ丘9条の会

                    
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5月に福井地裁で大飯原発運転差止判決があった。この判決の本文を詳細に読むことが本来いいのだが、ハイライト部分だけを紹介する。
大飯原発と高浜原発を見学し、小浜市や高浜町、敦賀市などの原発ゼロ市民運動と加茂地区の原発ゼロを目指す市民運動が交流会を行った際にもらった資料である。このときの資料は、他にも貴重な資料がたくさんあり、立地自治体の交付金づけの箱もの行政の痕跡も詳しく現物を見ながら解説してくれた。驚いたのは、大飯原発に送る外部電源用の送電鉄塔の足元が脆弱で、大雨で崩れた基礎部分が応急手当してあったことである。福島原発事故の原因は、外部電源がストップして核燃料の冷却ができなかったことである。外部電源用の送電鉄塔について、全国の原発の再点検と補強が必要ではないか。


憲法9条に基づく国づくりを (「法と民主主義2014年8・9月号」491号から)

2014-10-23 18:31:55 | 桜ヶ丘9条の会
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時評●憲法9条に基づく国づくりを

(弁護士)仲山忠克

 去る七月一日の閣議決定による集団的自衛権の行使容認は、戦争する国家づくりの宣言であり、我が国の平和のあり方を根本から問うものとなった。壊憲の危機が迫っている今こそ、憲法九条の基本理念を再確認し原点回帰が強く求められている。
 憲法九条の恒久平和主義は、「戦力によらない平和」である。過去幾多の悲惨な戦争史を経て、「武力による平和」が「次の戦争のための準備期間」(ヴァイツゼッカー)であり、その終局には夥しい死体があったことの世界史の教訓を踏まえて、戦争違法化の流れを戦争消滅化へと昇華せしめた人類の偉大なる出発点だと理解する。非武装こそが「くずれぬへいわ」(峠三吉)への確かな保証であり、それは他国民も自国民と同様に「命どぅ宝」の共生共存の思想に立脚したものである。
 九条をこのように理解すれば、武力の行使を前提とする個別的自衛権行使も違憲である。制憲国会における吉田首相の個別的自衛権も放棄したとの見解こそが正当な憲法解釈である。制憲の決意たる「再び戦争の惨禍が起きることのないようにすること」(前文)の「戦争」には、惨禍の不可避な自衛戦争も含まれる。
しかるに、その後の自衛隊創設はその合憲化の理論として専守防衛論を生み出した。
 専守防衛論が集団的自衛権容認を否定し阻止するための論拠として、その重要性、有効性を積極的に評価しつつも、筆者にはそれを許容したが故に、その後の自衛隊が海外派遣拡大の一途をたどり、それらの延長線上に集団的自衛権容認がなされたように思われる。PKO法、周辺事態法、テロ特措法、イラク特措法等による海外派遣は、いずれも専守防衛の範囲内の行動として合憲との解釈がなされているが、それらによる海外派遣の量的拡大が質的に転換したものだと解する。専守防衛の軍事力が侵略のそれへ転化することは、理由不要な際限のない自己増殖性を内在的本質とする軍事力の必然の帰結である。自衛隊もその例外でありえないことを閣議決定は実証した。専守防衛論の検証と克服が肝要である。
 安倍首相は、集団的自衛権の行使容認の閣議決定に際し、「日米安保体制の実効性を一層高め、日米同盟の抑止力を向上させる」ためと説明した。「武力による平和」こそが日米軍事同盟の本質であり、集団的自衛権の行使容認はその直接的要求によるものである。
 憲法九条は、常に日米安保体制からの侵食にさらされてきた。それは自衛隊創設が旧安保体制下での米軍要求によってなされたことを嚆矢に、米国のグローバルな軍事戦略に基づく日米同盟への要求と圧力の所産である。米軍再編による日米合意は自衛隊の米軍との一体化を推進し、戦争できる軍隊への能力を高めたが、戦争できる国家体制づくりの背景には、それがある。
 壊憲の危機が日米軍事同盟を背景にもったものであるなら、九条擁護の運動は安保条約廃棄へと連動しなければならない。しかるに国民意識は、九条擁護派が過半数を占める一方で、安保容認派は約八割だといわれている(但し、沖縄県内だけでみれば反安保が約七割である)。「憲法も、安保も」という二律背反の同時併在は、筆者には一九七〇年代以降、安保違憲論を回避する傾向にある護憲勢力にもその責任の一端は免れ得ないとの強い思いがある。全国的に展開されている米軍機爆音訴訟はその事例であり、沖縄県知事代理署名訴訟も然りであった。沖縄で根強く存する普天間基地の県外移設論もその系譜にある。
 憲法九条に基づく恒久平和の国づくりは、武力によらない平和を「自分の本能」(井上ひさし)にして、自衛隊違憲論とその武装解除並びに安保条約廃棄への国民世論づくりを必須の課題としている。過去の累積の上に現在が構築されているのであれば、希求する未来の実現化に向けた現在の不屈の闘いが求められている。それへの勇気と覚悟なしには現状変革はなしえない。