権力が作る冤罪 標的になる弱者 (2020年1月31日 中日新聞)

2020-01-31 21:32:48 | 桜ヶ丘9条の会

◆権力が作る冤罪 標的になる弱者

 

 日本の現代社会に潜むひずみを映像で伝えるドキュメンタリー番組。関西大の里見繁教授(68)は、大阪の民間放送局のディレクターやプロデューサーとして二十年以上にわたり約百本のドキュメンタリー番組を制作してきた。中でもライフワークとするのが「冤罪(えんざい)事件」だ。日本の司法制度の問題点やテレビ局内でのドキュメンタリー番組の位置付けを聞いた。

 -冤罪事件に関わるようになったきっかけは。

 大阪府高槻市で一九八六年に起きた公職選挙法違反事件を題材に、「全員無罪」という一時間のドキュメンタリー番組を作った。落選した自民党の有力府議が支援者向けの宴会で投票を依頼して、一部に現金を渡したという筋書きで捜査は進んだ。全くの事実無根だったが、取り調べられた百四十七人全員がうその自白をしていた。地元の商店主だったり、会社の経営者だったり、社会的に地位のある人が、やっていないのに「やった」と答える。裁判で全員が無罪になったが、簡単にうその自白をするんだなと、驚愕(きょうがく)しました。

 -捜査機関はどのように全員にうその自白をさせたのか。

 最初は一人、二人が自白して、そのうわさが地域で広まるたびに増えていった。なかなか自白しない人には取調室で「セミの鳴きまねをやれ」と迫り、次第に「もう無理だ」とあきらめるようになる。今度はすでに自白をした人が、まだ自白をしていない人に電話で「やったことにした方が楽やで」と促すようになりました。

 -その後もライフワークとして取材し続けたのはなぜですか。

 不謹慎な言い方ですけど、冤罪は推理小説より面白い。国家が検察、裁判所と一緒になって無実の人を痛めつけるのは、権力の最悪の表れ方。なぜ無実なのに検察はやったことにし、裁判所はでっち上げられた起訴状を見抜けないのか。どんなからくりを用いているのかを暴くことは、メディアの仕事が「権力の監視」と言われる通りに大切なことなんです。

 -今も冤罪事件は多く発生していると思いますか。

 今も多いと言いたい。強姦(ごうかん)罪で服役して、出所した後、真犯人が見つかった人に「なんで冤罪だと言わなかったんだ」と聞くと「再審請求したってほとんど駄目だし、早く社会復帰した方がいい。人生は短いんだから」と言われた。世間からは「あいつ本当はやってる」と後ろ指をさされ、戦った末に負けるぐらいなら、知らない土地で真っさらな状態から人生をやり直した方がいいと考える人は多い。

 ある意味、それが賢い選択になっているんですよ。映画『それでもボクはやってない』の周防正行監督によると、映画を見た多くの人から「捕まったらすぐに自白しようと思いました」と感想を言われたそうです。人は恐ろしさを知れば知るほど鉢巻きを着けて戦おうとしなくなるんですよ。僕の番組で「顔を出して頑張る」と戦っていた人も結局、再審請求が認められず引っ越した。だから目に見えるより多くの人が「いいやもう、忘れよう」と苦しんでいると思う。

 -どうして冤罪事件がなくならないのか。

 裁判所の罪は非常に重いと思っている。検察は間違っていると分かって進む「確信犯」、裁判所はそれを素通りする「不作為犯」。捜査機関が冤罪を作り出すときには決まって外国人や前科のある人、発達障害のある人など社会的な弱者を狙ってくる。その上で証拠ではなく自白を集めようとします。裁判官はそうして完成した検察の起訴状が仮説であることを忘れ、真実が書いてあるとうのみにする。言っては悪いが捜査機関はもう治らない。ただし裁判所がどんな冤罪事件でも見抜くようになれば、捜査機関はわざわざ事件を作らなくなりますよ。

 -裁判所の現状をどう分析していますか。

 「疑わしきは罰する」、「難しい科学鑑定は検察の利益に」が僕の考える裁判所の理論。裁判官も理系の人間じゃないし、分からないんですよ。だから怪しい鑑定結果でも検察の主張を全面的に支持する。

 -著書で「無実」と「無罪」を使い分けているが、どういう意味か。

 冤罪が晴れた時に涙を流して喜ぶけど、世間はそうとは見てくれない。新聞で書こうと、再審で無罪をもらおうと、最初に逮捕されて判決がでたら、世間は「本当はやってる」と思い込みます。実際は事実無根の「無実」と判決が出てるのにね。

 裁判でも、証拠がない「無罪」にしなきゃいけないけど、今はそこまで求める余裕がない。だから少なくとも無実と分かっている人は無罪にしましょうよと主張している。日本は司法に守られた国のように思われているけれど、一歩間違えれば全く人権が守られていないことがよく分かる。

 -番組を作る上で心掛けてきたことは。

 絶対に「疑わしきは被告人の利益に」と最初に言わないようにしていた。「やったか、やってないか分からないから無罪にしましょう」という番組は誰も見てくれない。「こんなにもやっていない証拠があるのに捕らわれている」と出した時、初めて手を止めて見てくれる。テレビはそこまで単純化していないと、お客さんをゲットできない業界なんですよ。だから必ず冒頭で「この人は無実です」と伝えてきた。

 -番組放送後、裁判の風向きが変わったことはありましたか。

 あまりなかった。賞を総なめにしたような番組でも視聴率は2、3%だった。深夜帯にひっそりとやっていたから。ディレクターとしては社会的インパクトのある重大な事件だと思っても、ドキュメンタリーはテレビ局の中では邪魔な存在なんですよ。その代わり賞を取ったときだけ社長は「わが社の力だ」とか言うけど、あれはうそですよね。大スポンサーを批判する番組を作ったら、会社中大慌てしたんですから。あらゆる社会問題が大企業や政権の批判に結び付くこともあってか、会社が喜ぶはずもない。

 -そういう風潮もあって、ドキュメンタリーをミニシアターで上映することもはやっている。

 個人的には賛成じゃないんですよ。もっと会社の中で踏ん張れって言いたいんです。2%の視聴率だって何万人もの人が見ている。そっちを大切にしなきゃいけないのに、つい忘れてしまうのかもしれませんね。

 -メディア専攻の教授として学生たちを教えて気付くことは。

 記者になりたいという学生が減っている。大学に着任した二〇一〇年ごろは百人以上が「将来マスコミに行きたい」と手を挙げたが、今では半分以下になってる。授業で昔作った番組を見せるが、事件そのものへの興味は出ても、記者になって世の中の不条理と戦いたいという学生は年々少なくなっていますよ。悲しいことですけどね。

 

 <さとみ・しげる> 1951年7月岐阜県生まれ、東京都出身。東京都立大(現首都大東京)法学部を卒業後、大阪の毎日放送(MBS)に記者として入社。25歳からドキュメンタリー番組の制作に携わり、早期退職する57歳までに約100本の番組を世に送り出し、冤罪事件をライフワークとしてきた。現在は関西大教授として映像制作の授業を担当している。91年、高槻市の公職選挙法違反の冤罪を巡る「全員無罪~147人の自白調書」でギャラクシー賞・奨励賞。91年に浜松市で起き、冤罪と指摘される浜松幼児変死事件の容疑者とされた男性を題材にした「出所した男」(2001年)で02年日本民間放送連盟賞テレビ報道番組部門・最優秀賞などを受賞。

 

 

◆あなたに伝えたい

 

 裁判所の罪は非常に重いと思っている。検察は間違っていると分かって進む「確信犯」、裁判所はそれを素通りする「不作為犯」。

 

◆インタビューを終えて

 

 学生時代、やっていないのに一度は「私がやりました」と言う冤罪当事者の気持ちがよく分からなかった。当時もし、冤罪で痴漢の疑いをかけられても「違う」と主張を貫き通す気力も自信もあったためだ。

 里見教授の番組や著書を見て、甘い考えだったと気付かされた。何日も刑事に「示談金さえ払えば経歴に傷が付かずにすむ」とそそのかされれば、決意が揺らぎ、うその自白をしてしまう。戦わず、見知らぬ土地で人生をやり直そうという選択も決して悪いことではないのかもしれない。「冤罪は人ごととは言えないんですよ」。里見教授がボソッと発したひと言に重みを感じた。

 (大橋貴史)


予算委員会 不誠実な答弁いつまで (2020年1月29日 中日新聞

2020-01-29 10:15:00 | 桜ヶ丘9条の会

予算委員会 不誠実な答弁いつまで 

2020/1/29 中日新聞

 衆院予算委員会で二日間にわたる質疑が終わった。安倍晋三首相は野党の質問に正面から答えようとはせず、自らを正当化したり、要求を突っぱねたりした。不誠実な答弁をいつまで続けるのか。

 首相は先週、衆参両院での各党代表質問に対する答弁で、自らに都合の悪いことには口をつぐみ、説明に努めようとしなかった。代表質問に続く一問一答形式の衆院予算委員会でも、こうした不誠実な態度を続けたことは見過ごせない。

 首相は「堂々と政策論争を行いたい」と語り、疑惑追及に注力する野党を批判する。

 国権の最高機関であり、唯一の立法府である国会が政策論争の主要な舞台であることは確かだが、政権がうそをついたり、隠しごとをせず、正しい情報を国民の代表である国会に示すことが前提だ。

 政権が情報を隠蔽(いんぺい)したり、情報に誤りがあれば、正しい審議や議決ができない。政権監視や国政の調査も、国会の重要な権能だ。

 首相が堂々と政策論争をしたいのであれば、国民の疑問に答え、疑惑を一刻でも早く払拭(ふっしょく)することが先決だが、首相にそのつもりは毛頭ないようである。

 「桜を見る会」の問題は、首相が地元支援者らを多数招待し、公職選挙法違反の便宜供与の可能性が指摘される重大事案だ。安倍政権の正統性にも関わる。

 首相は、招待者が膨れ上がったのは「長年の慣行の結果」で、問題は招待基準が曖昧だったことだと強調。旧民主党政権の鳩山由紀夫首相時代の二〇一〇年にも地元支援者らが招待されていたとして自らを正当化しようとした。

 しかし、一万八千人超にまで出席者が膨張したのは一二年の自民党の政権復帰以降であることは明白だ。招待者名簿の取り扱いについても菅義偉官房長官は、旧民主党政権時代を含めて文書管理簿に記載しない公文書管理法違反があったと指摘したが、旧民主党の例を挙げ、自らの振る舞いを正当化するのは明らかに筋違いである。

 首相の不誠実な答弁は、現職衆院議員が逮捕された「カジノ汚職」、公選法違反の可能性が指摘され、二閣僚が相次いで辞任した「政治とカネ」の問題でも同様だ。国民の疑念に答えようとする姿勢はみじんも感じられない。

 与野党論戦の舞台は、きょうから参院予算委に移る。首相は不誠実な答弁をいつまで続けるのか。自らの不遜な態度が、議会制民主主義の基盤を崩していることに、そろそろ気付くべきである。


5G、電波の健康被害は大丈夫❓ 導入中止の申し入れも (2020年1月28日 中日新聞)

2020-01-28 09:23:09 | 桜ヶ丘9条の会

5G、電波の健康被害は大丈夫? 導入中止の申し入れも 

2020/1/28 朝刊


 携帯電話の新たな通信サービス「第五世代移動通信システム(5G)」を巡り、市民団体が今春からの導入を中止するよう政府に申し入れた。「5Gで用いる電波の安全性が十分確認できていない」という訴えだが、首相が先頭に立って5Gの推進に旗を振る中、政府は耳を貸す様子を見せていない。

 申し入れをしたのは、市民団体「いのち環境ネットワーク」(札幌市)のメンバーら約三十人。東京・永田町の参院議員会館で総務省や内閣府の職員らと面会した。

 問題視したのは、5Gで使われ始める高い周波数帯の電波。大容量の高速通信を可能にする特徴がある一方、団体側は、健康影響があると懸念する海外の研究事例などを挙げ、「エネルギーが強く、皮膚がんや失明などの増加、生態系へのダメージが指摘されている」「5Gの中止や健康被害の周知、環境と健康を守る基準の設定を求める」と申し入れた。

 団体の代表で環境ジャーナリストの加藤やすこさんは、総務省の職員らに対して「安全性が確認されていないのに導入しようとするのか」と疑問を呈した。

 今回の申し入れは、各国の団体と連携した運動の一環だった。米国の研究者が二〇一八年末に5G廃止を求めるアピール文を公表すると、十九万筆の署名が集まったため、今月二十五日前後に約三十カ国の政府に働きかける運びになったという。

 こうした懸念とは裏腹に、日本政府は5G導入のメリットを強調してきた。総務省の資料には、日本の携帯電話の通信サービスは一九八〇年代の「第一世代(1G)」から始まり、現在の第四世代(4G)では最大通信速度が当初の十万倍となったが、5Gは「現在より百倍速い」「二時間の映画を三秒でダウンロード」と記されている。

 その上で、データを送受信する際の通信時間の遅れが千分の一秒程度と短くなり、動画のやりとりをしてもタイムラグがほぼ生じないことも踏まえ、遠隔地にあるロボットを用いた手術や災害対応、土木工事なども可能になるとアピール。狭い空間で多くの通信機器を同時接続できる特性も記され「身の回りのあらゆる機器がネット接続できる」と打ち出している。

 今春の導入を控え、安倍晋三首相は二十日の施政方針演説で「第四次産業革命の基盤インフラは通信」「5Gやその先を見据えながらイノベーションを後押しする」と訴えたほか、二〇二〇年度の与党税制改正大綱でも5Gの基地局整備の支援が盛り込まれた。

 そこでは、健康への影響については基本的に問題ないとの立場だ。

 今回、申し入れ書を受け取った総務省電波環境課の渡辺修宏課長補佐は「国際非電離放射線防護委員会(ICNIRP)のガイドラインに準拠した『電波防護指針』を策定し、電波塔や携帯電話端末から出る電波が悪影響を及ぼさないよう、規制をかけている」「人体に悪影響が生じることはない」と回答した。

 これに対し、前出の加藤さんは「5Gの推進も規制も総務省が担っている。きちんとした規制ができるのか。かつて経産省が原発の推進と規制の両方を担当したのと同じ構図になっている」と疑問を投げかける。

 「基準作りで国際的な団体に頼るところもそう。原子力行政が依存してきたのが推進寄りのICRP(国際放射線防護委員会)だった。ICNIRPも産業界べったりではないのか。結局は産業振興ありき。安全性がないがしろにされている」

 (榊原崇仁)


山火事と温暖化 気温が3度上がったら (2020年1月27日 中日新聞)

2020-01-27 10:57:58 | 桜ヶ丘9条の会

山火事と温暖化 気温が3度上がったら 

2020/1/27 中日新聞

 今この瞬間にも広がり続けるオーストラリアの森林火災。日本の広さの半分近くを、のみ込んだ。気象学者は「気候危機との関係は疑いようがない」という。そして「あれが未来の地球の姿だ」と。

 昨年九月ごろから続くオーストラリアの森林火災は、首都キャンベラの近郊にまで及ぶ勢いだ。

 これまでにウルグアイ一国の総面積に迫る千七百万ヘクタールが焼失し三十人近くが亡くなった。

 世界自然保護基金(WWF)によると、希少な固有種を含む十二億匹以上の動物たちが犠牲になったといい、重いやけどを負ったコアラが、むさぼるように水を求める映像とともに、世界中に驚きと悲しみが広がっている。

 もともとの原因は、落雷とみられるが、ここまで被害を大きくしたのは、温暖化の影響だ。

 昨年オーストラリアでは、国全体の年間平均気温が過去最高で、平均降水量が過去最少だった。雨不足による乾燥が森林火災を悪化させている。

 森林火災の凶暴化は、オーストラリアだけではない。ブラジル・アマゾン川流域の熱帯雨林では昨年一月から八月にかけて、四万五千件近い火災が起きた。

 世界気象機関(WMO)は「(世界的な温度上昇の影響で)ハバナや日本では、壊滅的な台風やサイクロンの被害が発生し、北極やオーストラリアでは森林火災が発生した」と指摘する。

 森林火災の影響は、生態系の破壊だけにはとどまらない。

 森林は二酸化炭素(CO2)を吸収、固定する役割を果たしている。森が焼ければ、それらが一気に放出される。

 北極のツンドラ地帯で山火事が広がれば、土中に眠る泥炭が燃え上がり、やはり大量のCO2が排出されて、温暖化を進行させる地球規模の悪循環になっていく。

 現状のままでは、世界の平均気温は産業革命前より三度以上上昇し、未知の大災害が頻発するようになるというのが、もはや科学の常識だ。

 英BBCのサイトによると、英国気象庁などの研究チームは「大規模な森林火災は、今は異常な災害だ。だが『三度上昇』の未来では、日常の光景になるだろう」と予測する。

 というよりも、私たちは「三度上昇」の世界へすでに、足を踏み入れてしまったのではないか。

 いずれにしても、もうこれ以上、温暖化対策を先送りする余裕はないということだ。


国語で叫ぶ、勿体ない 週のはじめに考える (2020年1月26日 中日新聞)

2020-01-26 09:36:05 | 桜ヶ丘9条の会

国語で叫ぶ、勿体無い 週のはじめに考える 

2020/1/26 中日新聞

 狂牛病がBSEと呼び変えられた時、作家のアーサー・ビナードさんが書いているのを読んで、噴き出した覚えがあります。アルファベット三文字にしたいなら、KGBにすべきだった。おどろおどろしさも伝わるのに、と-。

 閑話休題。私たちには概して横文字をありがたがるところがあります。CAFEといっても要は喫茶店、IRといっても要は賭博場なのに、アルファベットになった途端、湿度が失われ、何かこざっぱりした感じになる気がします。

 ワンガリ・マータイさんという女性をご記憶でしょうか。ケニア人の環境保護活動家で二〇〇四年にノーベル平和賞を受けました。彼女が日本に来て“発見”したのが「MOTTAINAI(モッタイナイ)」です。

 

MOTTAINAI

 

 環境に優しい消費や再利用のあり方、自然や物への敬意という概念を一語で表せるということのようで、彼女はMOTTAINAIを世界に広めようとしました。

 手元の国語辞典を見てみると、「勿体無(もったいな)い」は第一義が「あるべきさまをはずれていて不都合」、二番目が「恐れ多い」で、「まだ使えるのに-」という場合の語意は三番目ですが、既に『太平記』に用例があるといいます。

 あの頃、マータイさんの運動には日本人も大いに感化され、MOTTAINAIは一時、流行語のようにもてはやされました。私たちは古くからその言葉も概念も持っていたのに、です。やはり、横文字に置き換わって、初めて「ありがたさ」に気づいた面があったということでしょう。

 MOTTAINAIブームから数年後の一〇年、日本では初の生物多様性条約締約国会議(COP10)が開かれています。

 英語のBiodiversityが日本語では「生物多様性」となるわけですが、こなれぬ訳語ゆえに、余計、外来の目新しい概念のようにとらえられがちです。

 でも、要は、種類の違ういろんな生き物がいるけれど、それらはみんなつながっていて、全部が大事-ということでしょう。ならば私たちは、もっと優雅な言い方を既に持っています。<みんなちがって、みんないい>。有名な金子みすゞの童謡『私と小鳥と鈴と』の一節です。

 さらには、加賀千代女の<朝顔に釣瓶(つるべ)とられてもらい水>や<行水の捨て所無き虫の声>という上島鬼貫(おにつら)の句にも思い当たります。

 不憫(ふびん)で、朝顔のつるを切ったり秋の虫に残り水をかけたりできない…。違う種類の生き物へのさりげない思いやり、敬意こそ、「生物多様性」を守る心でしょう。

 

ESGと『論語と算盤 (そろばん)』

 

 千代女も鬼貫も江戸中期の人。つまり日本には元来、Biodiversityに通じる概念、それを人々の情の中に包摂する文化があったわけです。

 さて、次に挙げる横文字は「ESG」です。Environment(環境)、Social(社会)、Governance(企業統治)の意で、特に「ESG投資」という言葉は昨今、新聞などでもしばしば目にします。

 一方で利益を求めるとしても、他方では、環境や社会にプラスになり、倫理的な行動をとる-。そういう企業や事業に投資することを、ESG投資と呼ぶようです。

 それを世界中で推進しようというのが、国連の責任投資原則(PRI)。「私たちは投資分析と意思決定のプロセスにESG課題を組み込みます」など六つの原則からなる“誓約”のようなものですが、世界の名だたる企業や機関投資家が続々署名しています。結果、例えば、ESGに整合的な再生可能エネルギーには投資が集まり、逆の石炭火力からは投資撤退が目立ってきています。

 日本でも、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が一五年にPRIに署名するなど、ESG投資は急拡大していますが、遅ればせ、の感は否めません。原発と石炭火力にこだわる政府の姿勢が要因で、再エネ推進では、完全に諸外国の後塵(こうじん)を拝しています。

 しかし、です。ESGと横文字で書けば、目新しい外来の考え方のようですが、一方で利益を求めても、一方では社会貢献を重視せよ、とは、まさに『論語と算盤(そろばん)』では? 日本資本主義の父と言われ、二四年には一万円札の顔にもなる渋沢栄一の経営哲学。そのままとは言わないまでも精神は通底していましょう。

 

立ち遅れる環境戦略

 

 もともと、わが国資本主義になじみ深い哲学だと考えれば、今の立ち遅れ感は、あまりに惜しい。それでなくても、あの福島の原発事故を経験した国です。日本の技術力を再エネに集中し、世界をリードする。なぜ、その方向に進めないのでしょう。本当にMOTTAI…いや、ここは、横文字でなく、国語で言いましょう。

 本当に、勿体無い。