平岡町をゆく(7) 寺田用水物語(1)
印南野台地の歴史は、水との闘いの歴史でした。
承応三年(1654)、この年の旱魃(かんばつ)は、猛烈なものでした。
太陽が無常にも、ひからびた大地を照りつけました。
秋の収穫は当然ことのように、ほとんどありません。
餓死する者は、後をたちませんでした。
二俣村には、この年の事情を伝える文書「播磨賀古新疎水道記」が円明寺に伝えられていました。
この記録に関しては、後日紹介します。
この年の旱魃は、印南野台地にある村々では同じでした。
新在家あたりのお百姓さんに語ってもらいましょう。
このお百姓さんの会話は、記録にもとづくものではありません。想像です。
(A:庄屋 B:村役)
A:わしらも五ヶ井郷(加古川町・尾上町を流れる用水の村々)のような溝(用水)ができないものかな。
B:水を引くと言ったって、どこから引くのですか。加古川ですか・・・喜瀬川からですか・・・
A:そうよな。加古川は少し遠いし、この土地は高すぎるし、無理だろうな。
それに喜瀬川の水は少ないし、わし等が使うとなると黙ってはいまい。
B:やはり無理ですか・・・
A:曇川(くもりがわ)から水は引けないものだろうか。
B:あの川は、だめでしょう。あの川は、雨が降ったときにだけ流れがあり、普段、 水はありませんよ。
曇って雨のあるときだけ流れるので「曇川」って呼ばれていますよ。
それに、低いところを流れていますから・・・
A:印南野台地の高いところを削り、水を引く。そして、曇川の水が流れる時に、寺田(池)に水を取り入れ、貯めておくんです。
寺田池に水さえあれば、日照の時でも今のような惨めな生活から抜けだせるのだが・・・
きっと、こんな会話があったのではないでようか。
事実は、どのような過程で曇川から寺田池までの溝(用水)つくる話は進んだのか、記録が残されていないのでわかりません。
曇川から寺田池までの溝(寺田用水)の工事が決定され、藩に自普請(藩の工事ではなく、村々で費用をまかなう)ながらも認められました。
やがて、寺田用水は完成しました。・・・
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