ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平荘町・上荘町をゆく(21) 国包(8) 建具職人の町

2024-04-06 07:08:28 | 加古川市歴史探訪 平荘町・上荘町編

   

       平荘町・上荘町をゆく(21) 国包(8) 建具職人の町
 加古川は、かつて物資運搬の重要な水路であり、江戸時代には高瀬舟が酒米を運び、イカダに組んだ木材が上流から川を下りました。
 国包(加古川市上荘町)は、それらの物資の集積地であり、宿場町でした。
 そのような素地のなかで木材加工の建具産業が生まれ、発展しました。
 きょうのブログは、加古川商工会議所発行の「商工加古川 1989年6月号・特集地場産業”建具”:伝統と現在」より無断で引用させていただきました。文体・内容は少し変えています。
      建具の発祥
 国包建具の発祥は、文政年間(1825年頃)といわれています。
 かつて加古川は、いかだを組んだ木材が丹波や杉原地方から流れを下り、秋には、高瀬舟が酒米を運んでいました。
 そして国包は、それら物資の集散地、宿場町として栄えました。
 国包は、集められた木材を切る「木挽(こび)き職人」が生まれ、いつのころからか、それら木挽き職人が唐箕(とうみ)という、穀物からもみやちりを吹き分ける道具を作るようになり、さらに発展して建具を作る職人達が生まれてきたのだといいます。
      職人の町
 豊富な材料に恵まれていたとはいえ国包建具を支えてきたのは「職人」達でした。
 そんな中にあって、今も語り継がれている伝説的な名職人がひとりいました。
  ◇建具ショック人・「磯島」
 大正の初め頃、数年間だけ国包に滞在していた「磯島」という人物です。今となっては年齢、出身地、名前すら満足にはわからないこの人物です。
 「名人」と呼ばれるその技術は見事であり、国包建具にはかり知れない影響を与えたとさえ言われています。
 仕事の技術は素晴しくて、遊び好き。しかし、いかなる時も差し金(曲がり尺)だけは肌身離さなかったというこの職人は、ある建具店の客間にその絶品を残しています。
 国包の建具産業が、技術を競い、しのぎを削り合った「職人気質」によって支えられてきた事を、伺い知ることが出来ます。
     産地の岐路
 ところが昭和40年代後半から50年にかけて、この国包建具産業にも大きな岐路にたちました。
 オイルショック後の新築住宅数のジリ貧状況の加え、プレハブ住宅の進出、アルミサッシの普及などで建具仕事の分野が減少してきたのです。
 「このままでは取り残される」という焦りが濃くなりだした産地で一つの動きがありました。
 昭和47年5月、岐阜県で開かれた建具日本一を競う木製建具展示会に6人の業者が出品したのである。国包の業者が全国展示会にこれだけ大挙出品したのは例の無いことでした。
 「何かしなければ」と出品した6人の作品は労働大臣賞をはじめ栄誉をごっそり手中にし、国包の職人たちに”誇り”を復活させました。


 *写真:ゴマ柄亀甲と変わり裏花亀甲の組み合わせ(高橋建具製作所提供)

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