ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

志方町をゆく(167) 行常(東志方)の悲劇(2) 天領と警察権力 

2023-09-04 08:22:45 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

      志方町をゆく(167) 行常(東志方)の悲劇(2) 天領と警察権力 

 5~10万石の領地を持つ大名の場合、もし彼が5万石の場合1000人程度、10万石で2000人程度の武士を抱えていました。

 彼らは、軍事・警察の役割をになっていました。

 しかし、幕府代官領(天領)の場合、最小限の事務官僚を持っているだけで、普通、武力といったものを、ほとんど持っていません。

 そのため、暴徒が10人、20人程度なら、なんとか鎮圧することができたのですが、それ以上の場合どうにもなりません。

 まとめます。

 ① 天領とか旗本領の場合は、ほとんど武士がいなく、警察権力が著しく弱い。

 ② 江戸時代、藩・天領・旗本領等は、各々の警察権力が独立しており、他に及ばない。

 そのため、天明時代に先立つ、元禄~享保時代以降、それまで藩(私領)中心におきていた農民一揆は、軍事力の弱い天領で多く発生するようになりました。

       行常の一件②

 志方の一ツ橋家領(行常)でも、天明期に百姓の怒りの炎が燃え上がろうとしていました。

 前号を復習します。

 ある記録によれば「去る(天明元年・1781)十一月六日、一ツ橋領印南郡細工所村御陣屋へ御領分惣百姓ごうそう(強訴のこと)を起こし、済口(すみくち・結果のこと)の義未夕(いまだ)相知れ不申候(あいしれもうさずそうろう)」とあります。

       行常の九郎太夫たつ(天明七年・1787

 行常の庄屋・九郎太夫の強訴について、ある文書は、次のように記録しています。

 強訴の中心となったのは印南郡行常村の庄屋・九郎太夫で、打ち続く不作の上、天明七年は凶作だったので大坂の一ツ橋役所に一人三斗の麦支給を要求しました。

 大坂の役所に願いでたのは、細工所の陣屋(役所)は、天明五年にその役目を終え、大坂の川口役所がその仕事を引き継いでたからです。

 九郎太夫は、各村のばらばらの嘆願では要求が通らないとみて、播州一ツ橋領の惣百姓として訴えを起こそうとしました。

 「内容は年貢減免を訴える、法華山へ集まらない村へは押しかける」という廻文を各村々にまわしました。

 この廻文は、西阿弥陀村の百姓・清左衛門が清書をしました。

 村々の百姓総代は法華山一乗寺にあつまり、さらに加古川河原で決起をしました。

 そして、九郎太夫が願書をまとめて、大坂川口役所に提出しました。

 *写真:法華山一乗寺東門



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする