志方町をゆく(174) 印南郡「原村」
それにしても集落の名前「原」とは、シンプルな集落名です。
しかし、村名が原に落ち着くまでには、それなりの歴史があったようです。
『印南郡誌』によると、「原は、江戸の初期、印南郡重国村と藤池村そして比室村の一部が合併して印南郡原村とした」とあります。
後に、原新村を分村するのですが、明治9年に再び原新村を合併しています。
下原村から原村へ
天文元年(1532)の報恩寺(加古川市平荘町)の文書に「薬師堂、鎮守伊和明神、原村有之」とあります。
ここに見える原村は、現在の加古川市平荘町上原(かみはら)のことです。
印南郡に、二つの原村があることは何かと不便であり、紛らわしいということで、区別するために、明治11年、上記の村名を「原」から「上原」に変えました。
この時、志方町の原村は、下原(しもはら)と変わりました。
「上と下」、どうでもよいことなのですが、やはり価値観が伴います。「上」を選ぶのが人情です。
明治11年、両原村でどんなやり取りがあったのかわかりません。
志方の原は「下原村」を押し付けられたようです。
そして、昭和29年、西志方町下原は志方町と合併した時に元の「原」に戻りました。
それにしても、この時(明治11年)「どちらの村を上とするか」について、おそらく議論が沸騰したことと想像されるのですが、詳細はわかりません。
「上原」は、そのまま今日にいたっています。