尾上町をゆく(2) 「今津村」高砂に移住
中世の頃、今津村のあった加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていました。
その今津村に慶長6年(1611)、藩主(池田輝政)から通達がありました。
内容は、「高砂村へ移り住み、砂浜の開作をする者は、諸役を免ずる」というものでした。
なお、この通達文(池田輝政定)は、『高砂市史(第五巻・資料編(近世)』p154に解読文があります。詳しくは、それをご覧ください。
前号で述べたように中世に栄えた今津村(現:加古川市尾上町)も、この頃になると砂の堆積により、その機能を失ない、それも、予想を超える砂の堆積でした。
藩主・池田輝政は、新たに右岸の高砂に城を築き、町場をつくることにしました。
結果、加古川東岸の今津村は慶長・元和の頃に消滅しました。
高砂に「今津町」ができたのです。
「今津町」は、対岸の今津から村を挙げて移住した者をはじめ、養田・池田・長田・安田等近在の農民があいついで移住し、つくられた町です。
*高砂町の地図で「今津町」を確認ください。
現在でも、加古川市尾上町に「今津」が通称名として残っていますが、尾上の「今津」は400年も昔に、消えた地名です。