尾上町をゆく(8) 白旗観音寺(4) 中濱要太郎の墓碑
池田村、口里村は観音寺の檀家であるが、観音寺の境内には数基の墓があるのみです。中濱要太郎の墓碑(写真)は、観音寺の境内にひときわ目立つ墓碑です。
ある想像
前号の紹介した観音寺の山門の山号の山岡鉄舟の書が気になっています。
勝手な想像を書いてみます。
中濱家は、江戸時代池田村の庄屋でした。中濱家にも山岡鉄舟の書があるということですが、私はまだ、拝見していません。これは何を物語るのでしょうか。
鉄舟の年譜は、次のようです。
・天保七年(1863) 江戸本所御蔵奉行小野朝衛門の四男として生まれる。
・安政二年(1855) 千葉周作について剣を学び、山岡静山に槍述を学んだ。静山急死のあと、望まれて山岡家の養子となり静山の妹と結婚。
・文久三年(1863) 浪士隊(新撰組の前身)の取締役となり、将軍家茂に頼まれ京都へ行く。
・明治元年(1868) 鉄舟は慶喜(徳川15代将軍)の命を受け、静岡の駿府に行き、西郷隆盛と会見。徳川家の安泰を約束し、勝海舟と西郷隆盛との無血開城の露払いをした。
この経歴からもわかるように、鉄舟は幕府側の人物です。
後に、鉄舟は明治政府の要人として活躍します。
鉄舟は、時代の正確な情報を収集していたのでしょう。それも、自らの足と目で確かめていたようです。播磨へも肢を運びます。
播磨は、畿内と西国の接点で、多くの情報の集まる場所です。
高砂(港)には特に多くの情報が集まりました。
池田(尾上町)は高砂港に近い場所です。情報収集のためでしょう。鉄舟は池田の中濱家にしばしば逗留したようです。
そのお礼に、鉄舟は、中濱家に書を残したと想像します。
中濱家は、池田観音寺の有力な檀家です。訪れた鉄舟に寺は書を求めたのかもしれません。
鉄舟は、明治天皇の教育係を勤めました。
鉄舟は、明治21年に胃癌でなくなります。53歳でした。
中濱要太郎が亡くなるのは、明治27年です。中濱家は鉄舟につなが何らかの縁があったのでは?
中濱要太郎が、近衛兵に選ばれたのもその延長のように思えるのです。
以上の想像は、山岡鉄舟の研究に基づいたものではありません。さらに調べてみたいです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます