志方町をゆく(168) 行常の悲劇(3) 九郎太夫は獄門に
打ち続く不作の上、天明七年(1787)は麦も凶作でした。
行常の(東志方)の庄屋・(竹内)九郎太夫は大坂の川口役所に一人麦三斗の支給を願いでました。
九郎太夫は、一村ずつの嘆願では要求は通らないとみて、播磨一ツ橋領六郡の惣百姓として訴えを起こそうとしました。
まず、一乗寺の山門に張り紙をし、また「・・・法華山に参集しなければその村へ押しかける・・・」という趣旨の廻文を村々へ廻しました。
この文章は、九郎太夫から依頼された西阿弥陀村(現:高砂市)の百姓・清左衛門が清書したといわれています。
この結果、一乗寺に村々の百姓惣代が集まり、さらに加古川河原でも集会をした上で、九郎太夫が各村の願書をまとめて大坂川口番書へ提出しました。
九郎太夫は獄門に
この動きを幕府は強訴(ごうそ)と認定しました。
そのため九郎太夫は、獄門(斬首され、首をさらす)という刑になりました。
つけ加えておきます。
一乗寺の門に、張り紙をした行常村の三太夫は所払(追放)、九郎太夫に協力した行常村の三郎左衛門は遠島、廻文を清書した西阿弥陀村の清左衛門は軽追放を言い渡されました。
もっとも、三郎左衛門と清左衛門は、刑が決まる前に獄死しています。
よほど厳しい取り調べだったのでしょう。
その外、庄屋や村の主だった百姓に対しても高100石につき二貫文が課せられました。
この事件の中心になった、九郎太夫の墓碑が行常の墓地にあります。
(墓碑の「草かんむりに的」はどう読むでしょうか。教えてください)
命をかけた義民・九郎太夫の悲劇については、あまり語り継がれていないようです。
*写真:竹内九郎太夫の墓(行常の墓地)