ひろかずのブログ・3

81歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

尾上町をゆく(1) 尾上地区の今津村消える

2023-09-16 11:33:10 | 加古川市尾上町探訪

 

        尾上町をゆく(1) 尾上地区の今津村消える

 『近世の高砂』(高砂市教育委員会)に次のような記述があります。(一部書き改めています)



 「・・・中世の高砂は、播磨五泊の一つに数えられ、内海の寄港地としての地位を固めていた。

 ところが、この中世の高砂の泊(港)は現在の高砂の地ではなく、「播磨名所巡覧図絵」でも「今津の浦口」とあるように、加古川左岸の池田(加古川市尾上町)付近をさしていた・・・」



 つまり、中世の今津(現:池田)は、「今津千軒」とよばれ、内海の寄港地として大いに賑わっていました。

 その後、今津は加古川の運ぶ土砂により港は徐々に浅くなり、停泊地としての機能を弱めたのです。

 高砂は、古くは高砂御厨庄(みくりのしょう:朝廷へ鮮魚を奉納する村)として広く知られていました。しかし、江戸時代以前の高砂は小さな漁村でした。

 それに、高砂は西岸で東岸より水害に悩まされました。  

 高砂が急速に発達するのは、姫路城主・池田輝正が高砂の町の建設にあたった江戸時代以降のことです。

 *地図:写真は慶長年間の絵図で、池田輝正の築いた高砂城が描かれています。以後、地図上から「(この)今津村」はなくなります。

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「志方町をゆく」いったん終了 、次号から「尾上町をゆく」の連載です

2023-09-14 09:07:25 | 加古川市尾上町探訪

     

  「志方町をゆく」いったん終了

       次号から「尾上町をゆく」の連載です

 

 「志方町をゆく」は、いつの間にか前号で176号になりました。

 でも、マンネリになっています。

 志方町については、また付け足しますが、いったん中断して「尾上町をゆく」を書いてみます。

 ダラダラと思いつくままの地方史になりますが、ご辛抱ください。



 80歳になりました。

 なんとか脳の動いてくれるのは、あと5年ぐらいでしょうか。

 この頃は、もの忘れが猛烈に増えてきました。てきせつな言葉が出てきません。しかたがないとは思うもののヤバイです。

 この後の5年が、すごくいとおしく感じる年齢(80歳)です。

 今年中は、加古川市の地方史(もどき)の積み残しの作業を続けますが、そのあと5年は新しいテーマを考えています。内緒です。先日からその史料を集め始めました。

 あすから、尾上町を歩いてみますが、並行してその作業をすすめます。

 でも、後5年の作業の途中で「頭の方がお花畑」になるかもしれません。

 それも、いいんです・・・

*挿絵:私です。少し、若すぎです。

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志方町をゆく(176) シャングリ・ラ 雑郷(ぞうごう)

2023-09-13 11:16:38 | 加古川市歴史探訪 志方町編

      志方町をゆく(176) シャングリ・ラ 雑郷(ぞうごう)

 久しぶりで雑郷へ寄ってみました。

 「雑郷」は、「ぞうごう」と読みます。

 志方町出身でない方には、あまり馴染みのない地名だと思います。

 地図で確かめて出かけたのですが、近くに来ていたのでしたが分かりません。

 地図を頼りに、それらしい道を雑郷へ向かいました。

 地図にある池(雑郷池)がみつかりました。

 さらに木立をぬけると、小さな平地と数件の家が現れます。

 どうやら雑郷(写真)に着いたようです。

 雑郷は、棚田に囲まれた谷あいの小さな村です。

 周囲が山のせいか風がありません。近くを走る山陽自動車道の騒音もここまで聞こえてきません。

 ここは、まさにシャングリ・ラ(ShangriLa)のような集落です。

  *シャングリ・ラ…桃源郷

 写真を撮っていたら、集落の方がが出てこられ、しばらく話をしました。

 雑郷は、「二軒(O家・I)の二軒だけ」だそうです。

 つまり、二軒で一つの集落(加古川市志方町東志方雑郷)です。

 雑郷について『志方町誌』は「・・・明治14年の調査によると、10戸・人口54人で、おそらくこの頃が一番栄えた時代であろう・・・」と書かれています。

  *写真:雑郷(インターネットより)

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志方町をゆく(175) 薬師三尊像(西志方原)

2023-09-12 09:18:29 | 加古川市歴史探訪 志方町編

    

      志方町をゆく(175) 薬師三尊像(西志方原)

 仏性寺(西志方原)の薬師如来坐像紹介しましょう。

 仏性寺は、「もと藤池あり、三木別所氏の支城があり天正の頃、兵火に焼失してし、寛保二年(1742)に現在の位置に再興された」と伝えられています。

 写真は、仏性寺の本尊として祀られているのは薬師如来坐像とその脇侍です。

 仏性寺は、寛保二年に臨済宗の名僧である盤珪(ばんけい)禅師によって再興され、現在は臨済宗(禅宗)の寺院となっています。

 *高僧:盤珪については「盤珪(寺林俊)」(神戸新聞総合出版センター)をご覧ください。

 これらの像を祀る本堂も小さく、かつて『加古川市史』の文化財編で一部が紹介されたことを除けば、近年まであまり注目されることはなかった寺であり仏像でした。

 平成13年(2001)に本堂が改修されました。

 これらの仏様は、その時あらためて注目されるようになりました。

 伏せ目の穏やかな顔立ち、彫の浅いしわの表現のために厚みが薄く感じられる体部、細かい螺髪(らほつ)などから平安時代の後期(11世紀後半)の如来像であることがわかりました。

 また、脇侍の日光・月光菩薩は、修理により像容を損ねていますが、これらの仏様も平安時代後期の菩薩形立像の特徴を備えた優れた仏像です。

 平安時代の三尊像が現在にまで伝わる貴重な仏像です。

 これらの像から、天台系の規模の大きな寺院を想起させるもので、この地域の平安時代の仏教を考える上でたいへん興味深い仏像でとなっています。

 なお、造内には台座裏に寛文10年(1670)の銘がある像高31.5センチの薬師如来の小像が納められています。

*『志方郷(第37号)』・『仏と神の美術‐中世いなみ野の文化財』(加古川総合文化センター)参照

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志方町をゆく(174) 印南郡「原村」 

2023-09-11 07:06:07 | 加古川市歴史探訪 志方町編

            志方町をゆく(174) 印南郡「原村」  

 それにしても集落の名前「原」とは、シンプルな集落名です。

 しかし、村名が原に落ち着くまでには、それなりの歴史があったようです。

 『印南郡誌』によると、「原は、江戸の初期、印南郡重国村と藤池村そして比室村の一部が合併して印南郡原村とした」とあります。

 後に、原新村を分村するのですが、明治9年に再び原新村を合併しています。

          下原村から原村へ

 天文元年(1532)の報恩寺(加古川市平荘町)の文書に「薬師堂、鎮守伊和明神、原村有之」とあります。

 ここに見える原村は、現在の加古川市平荘町上原(かみはら)のことです。

 印南郡に、二つの原村があることは何かと不便であり、紛らわしいということで、区別するために、明治11年、上記の村名を「原」から「上原」に変えました。

 この時、志方町の原村は、下原(しもはら)と変わりました。

 「上と下」、どうでもよいことなのですが、やはり価値観が伴います。「上」を選ぶのが人情です。

 明治11年、両原村でどんなやり取りがあったのかわかりません。

 志方の原は「下原村」を押し付けられたようです。

 そして、昭和29年、西志方町下原は志方町と合併した時に元の「原」に戻りました。

 それにしても、この時(明治11年)「どちらの村を上とするか」について、おそらく議論が沸騰したことと想像されるのですが、詳細はわかりません。

 「上原」は、そのまま今日にいたっています。



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志方町をゆく(173) 法道仙人(5) 法道仙人の手跡石と腰かけ石

2023-09-10 10:23:35 | 加古川市歴史探訪 志方町編

        志方町をゆく(173) 法道仙人(5) 法道仙人の手跡石と腰かけ石

 先に、「法道仙人・大沢の投松」紹介しましたが続きを忘れていました。ここに挿入します。

       法道仙人の手跡石と腰かけ石

 ずいぶん前のことです。

 古い資料に、「・・・仙人が法華山へ行く途中、飛び降りて手をついた時の手の形が残ったといわれる法道仙人の手跡石と休憩した腰かけ石は(大師堂近くの)北山山麓の大歳神社にある」と書かれているので、蚊に食われながら探しましたが、見つかりませんでした。

 そのはずです。

 法道仙人の手跡石と腰掛石は、その後山陽自動車道の加古川北ICのすぐ南東に新しくできた大歳神社(札馬神社・さつまじんじゃ)に移されていました。この手跡石は、古墳時代後期(67世紀の)の石棺の蓋に手形のような模様(キズ)があります。

 腰かけ石は何でしょうね。法道仙人が休憩した石と説明されればそんな気もするのでするのですが・・・

 *写真:札馬神社、法道仙人の腰かけ石と法道仙人の手跡石

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志方町をゆく(172) 法道仙人(4) 法道仙人何者?

2023-09-09 11:17:22 | 加古川市歴史探訪 志方町編

        志方町をゆく(172) 法道仙人(4) 法道仙人何者?

 ところで、法道仙人は何者でしょうか。

 山伏は、ブォー・ブォーと大きなホラ貝を吹きます。

 山伏は、天狗のようないでたちをしています。

 彼らは深山を跋渉し、ひたすら仏道にはげみました。

 長い間、修験者は庶民の間では神秘的な力を持つ人々と信じられていました。

 昔、何か事があると「行者さんを呼んで」祈祷をしてもらいました。

 山伏は請われるままに病気を治療し、害虫の発生や、流行病が村へ入ってこないように、おまじないをしました。

 さらに、雨乞い、魔よけ、死者のはらい、五穀豊穣を祈りました。

 これらはひとえに、人々が山伏の超人的で神秘的な力を信じていたからです。



 伝説によれば、法道仙人は、「インドから空中を飛んで一乗寺(加西市)へやってきたといいます。

 高砂の浜から志方の上空を飛んで一乗寺へ到着しました。

 その途中で、志方の各所に立ち寄ったという伝承を残しています。

       法道仙人の姿 

 播磨一円、摂津西部・加古川の上流・さらに但馬南部に法道仙人開基の寺院が集中しており、その外ではあまり広がっていません。

 ということは、この地方で法道仙人を開祖とする伝説を広めた地方修験者集団の活動を暗示しているようです。

 その法道伝説の中心になったのが一乗寺ではなかったかと考えられます。

 法道仙人の開基とする寺院の多くは播磨あります。

 加古川近辺では、高薗寺(稲美町)・常楽寺(加古川市加古川町大野)・横蔵寺(加古川市平岡町)・常楽寺(加古川市上荘町)などの寺院がそうです。

 *写真:法道仙人木造(加西市一乗寺蔵)

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志方町をゆく(171) 法道仙人(3) 投げ松の伝承

2023-09-08 07:02:27 | 加古川市歴史探訪 志方町編

  

     志方町をゆく(171) 法道仙人(3) 投げ松の伝承

 志方町の「投松」と書いては「ねじまつ」と読み、東志方町大沢の「投松」は「なげまつ」と読みます。ややこしいですね。

      投松(なげまつ)

 大沢の投松の大師堂に枯れた大きな松(写真)が保存してあります。

 この松は、昔、高さが八丈、地上五尺で測ったら周囲が一丈五尺の大樹でした。

 そして、樹齢は1200年あまりといいます。(一丈:3.03メートル)

 大師堂には、「わがまちかこがわ60選」として、この松の説明があります。一部を読んでみます。

 「県内の多くの寺院に開基伝説を持つ法道仙人が一乗寺(加西市)から投げた松といわれる“投げ松”は神木として祭られています。・・・」

 つまり、法華山の開山の時、法道仙人が小松を引き抜き、山越しに投げたのがこの地に落ち、その松が根づき、すくすく伸びたのがこの大師堂の大きな松(写真)であるというのです。

 投松の地名もこの松にちなんでいるといいます。圧倒的な迫力を持っています。

 近くのおばさんは「この松は昇り竜の形をしています・・・」と教えてくださいました。

 なるほど、松の先がぐっと伸びて竜に見えます。

 この松が元気な時は、さぞ見事だったと想像されますが、おしいことに大正初期に枯れてしまったそうです。

 

 <補足>

 以下を補足としておきます。

 上記の「投松」の話は面白いのですが、地名研究家は、「投松」を次のように考えておられます。

 石見完次氏の『古い地名新釈・加古川おもしろ誌』より引用させていただきます。



 ・・・投松は『加古川市史』に載せた古地図にあるように、抛町(なげまち)と記載されているのが本名であろう。「なげまち」とは『薙ぎ町』で、柴草などを薙払って焼跡に種をまく畑農法をやっていたことを物語る。・・・

 法道仙人の投げた松などという伝説は地名を勿体づけた後世の話であろう・・・

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志方町をゆく(170) 法道仙人(2) 駒の爪(こまのつめ)

2023-09-07 07:05:11 | 加古川市歴史探訪 志方町編

     志方町をゆく(170) 法道仙人(2) 駒の爪(こまのつめ)

 志方町に法道仙人(伝説)の足跡が残されています。

 伝承では、法華山一乗寺の開祖といわれる法道仙人は、最初、東志方の大沢の北山に飛来し、後に一乗寺を開かれたとしています。

 ・・・・

 

 「法道仙人駒の爪跡」の碑(写真)の前に黒色の石があり、南側の端(写真手前)に馬の蹄形の凹みがあり、それが「駒の爪跡である」といいます。

 地元では。この伝承を後世に伝えるために大正10年、玉垣をめぐらし、保存することにしました。

 県道高砂・北条線を投松(なげまつ)への分岐するあたりです。

 よくよく見ると「駒の爪」と思えなくはないのですが?

 現在は、自動車社会です。

 道端にありますが、注意をしないと、見過ごしてしまいます。

 近所へ行かれたら、近くで車を止めて見学ください。

 *写真:「法道仙人駒の爪跡」の碑



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志方町をゆく(169) 法道仙人(1) 米田(高砂市)の伝説

2023-09-06 07:50:09 | 加古川市歴史探訪 志方町編

       志方町をゆく(169) 法道仙人(1)・米田(高砂市)の伝説

 志方町に伝わる「法道仙人」(写真)の足跡を訪ねてみますが、今回は、志方町の伝承ではありません。

 米田(高砂市米田町)の法道仙人伝説です。

    米田(よねだ)の伝説

 大化元年(645)、藤井という人が、年貢の米を船に積んで海を通っていました。

 その時、法華山一乗寺(いちじょうじ)にいた法道仙人(ほうどうせんにん)が、鉢を飛ばせて供米を申し入れました。

 藤井は、自分だけの了見で米を渡すことができないとことわったところ、鉢はふたたび空中に舞いあがり、それに続いて、積み荷の米は志方の上空を法華山へとつらなって飛んでいってしまいました。

 藤井は、驚いてあやまりに行きました。 

 法道仙人が笑って許すと、米はもとのように連なって船へ飛んでもどされました。

 その米俵のうち一俵がこの地に落ちたことから米墮(よねだ)といい、後に「米田」と呼ばれるようになりました。

 一俵だけ、この地に落ちたのは、法道仙人が信仰している薬師如来がまつってあったので、供物であったということです。

 その後、米田の村は米がよく実り、おおいに栄えたということです。

 *絵:一乗寺開山上人像(一乗寺蔵)

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志方町をゆく(168) 行常(東志方)の悲劇(3) 九郎太夫は獄門に

2023-09-05 09:39:34 | 加古川市歴史探訪 志方町編

       志方町をゆく(168) 行常の悲劇(3) 九郎太夫は獄門に

 打ち続く不作の上、天明七年(1787)は麦も凶作でした。

 行常の(東志方)の庄屋・(竹内)九郎太夫は大坂の川口役所に一人麦三斗の支給を願いでました。

 九郎太夫は、一村ずつの嘆願では要求は通らないとみて、播磨一ツ橋領六郡の惣百姓として訴えを起こそうとしました。

 まず、一乗寺の山門に張り紙をし、また「・・・法華山に参集しなければその村へ押しかける・・・」という趣旨の廻文を村々へ廻しました。

 この文章は、九郎太夫から依頼された西阿弥陀村(現:高砂市)の百姓・清左衛門が清書したといわれています。

 この結果、一乗寺に村々の百姓惣代が集まり、さらに加古川河原でも集会をした上で、九郎太夫が各村の願書をまとめて大坂川口番書へ提出しました。

      九郎太夫は獄門に

 この動きを幕府は強訴(ごうそ)と認定しました。

 そのため九郎太夫は、獄門(斬首され、首をさらす)という刑になりました。

 つけ加えておきます。

 一乗寺の門に、張り紙をした行常村の三太夫は所払(追放)、九郎太夫に協力した行常村の三郎左衛門は遠島、廻文を清書した西阿弥陀村の清左衛門は軽追放を言い渡されました。

 もっとも、三郎左衛門と清左衛門は、刑が決まる前に獄死しています。

 よほど厳しい取り調べだったのでしょう。

 その外、庄屋や村の主だった百姓に対しても高100石につき二貫文が課せられました。

 この事件の中心になった、九郎太夫の墓碑が行常の墓地にあります。

(墓碑の「草かんむりに的」はどう読むでしょうか。教えてください)

 命をかけた義民・九郎太夫の悲劇については、あまり語り継がれていないようです。

 *写真:竹内九郎太夫の墓(行常の墓地)

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志方町をゆく(167) 行常(東志方)の悲劇(2) 天領と警察権力 

2023-09-04 08:22:45 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

      志方町をゆく(167) 行常(東志方)の悲劇(2) 天領と警察権力 

 5~10万石の領地を持つ大名の場合、もし彼が5万石の場合1000人程度、10万石で2000人程度の武士を抱えていました。

 彼らは、軍事・警察の役割をになっていました。

 しかし、幕府代官領(天領)の場合、最小限の事務官僚を持っているだけで、普通、武力といったものを、ほとんど持っていません。

 そのため、暴徒が10人、20人程度なら、なんとか鎮圧することができたのですが、それ以上の場合どうにもなりません。

 まとめます。

 ① 天領とか旗本領の場合は、ほとんど武士がいなく、警察権力が著しく弱い。

 ② 江戸時代、藩・天領・旗本領等は、各々の警察権力が独立しており、他に及ばない。

 そのため、天明時代に先立つ、元禄~享保時代以降、それまで藩(私領)中心におきていた農民一揆は、軍事力の弱い天領で多く発生するようになりました。

       行常の一件②

 志方の一ツ橋家領(行常)でも、天明期に百姓の怒りの炎が燃え上がろうとしていました。

 前号を復習します。

 ある記録によれば「去る(天明元年・1781)十一月六日、一ツ橋領印南郡細工所村御陣屋へ御領分惣百姓ごうそう(強訴のこと)を起こし、済口(すみくち・結果のこと)の義未夕(いまだ)相知れ不申候(あいしれもうさずそうろう)」とあります。

       行常の九郎太夫たつ(天明七年・1787

 行常の庄屋・九郎太夫の強訴について、ある文書は、次のように記録しています。

 強訴の中心となったのは印南郡行常村の庄屋・九郎太夫で、打ち続く不作の上、天明七年は凶作だったので大坂の一ツ橋役所に一人三斗の麦支給を要求しました。

 大坂の役所に願いでたのは、細工所の陣屋(役所)は、天明五年にその役目を終え、大坂の川口役所がその仕事を引き継いでたからです。

 九郎太夫は、各村のばらばらの嘆願では要求が通らないとみて、播州一ツ橋領の惣百姓として訴えを起こそうとしました。

 「内容は年貢減免を訴える、法華山へ集まらない村へは押しかける」という廻文を各村々にまわしました。

 この廻文は、西阿弥陀村の百姓・清左衛門が清書をしました。

 村々の百姓総代は法華山一乗寺にあつまり、さらに加古川河原で決起をしました。

 そして、九郎太夫が願書をまとめて、大坂川口役所に提出しました。

 *写真:法華山一乗寺東門



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志方町をゆく(166) 行常(東志方)の悲劇(1) 天明の大飢饉

2023-09-03 09:59:52 | 加古川市歴史探訪 志方町編

         志方町をゆく(166) 行常(東志方)の悲劇(1) 天明の大飢饉

 天明三年(1783)は、春から夏にかけて晴天の日が少なく、冷気に覆われました。

 このため、稲は穂を出さず立ち枯れ、特に関東地方から東北地方にかけては歴史上まれな大飢饉でした。世に言う「天明の大飢饉」です。

 なお、天明の飢饉は冷害によるものですが、火山学者や気候学者の指摘によれば、飢饉は、天明三年の浅間山の噴火と強い関係があると指摘しています。

 大量の火山灰が数年の間、日光の照射を妨げ、冷害を引き起こしたのです。

 重い年貢を課せられ、じゅうぶんに食料を蓄えていない多くの農民は、たちまちに死と直面しました。

 藩は、十分な年貢米の放出をしませんでした。

 ほとんどの藩は、大商人から多額の借金があり、大量の米を飢饉の救済にまわすと、藩経済を破綻させてしまいます。

 藩は、大商人にたいして頭が上がらず、商人の米の買い占めなども厳しく取り締まることができませんでした。

東志方の村々は一ツ橋家の天領でした。状況は天領とても同じでした。

       百姓の怒り

 一ツ橋家領にも、その影響がのしかかってきました。

 しかし、年貢米の減収にはなりませんでした。

 その原因は、何だと思われますか?・・・・

 答えは簡単です。「厳しい年貢の取りたて」です。

 当然、農民は、年貢の徴収にあたる「代官」に対して恨みを募らせます。

 この時代、各地で一揆がおきています。

        志方、一ツ橋領での一件①

 志方の一ツ橋家領でも、天明期に強訴の動きがありました。

 ある記録によれば「去る(天明元年・1781)十一月六日、一ツ橋領印南郡細工所村御陣屋へ御領分惣百姓ごうそう(強訴のこと)を起こし、済口(すみくち・結果のこと)の義未夕(いまだ)相知れ不申候(あいしれもうさずそうろう)」とあります。

 この事件の済口(結果)は、はっきりとしません。

 しかし、志方一ツ橋領にも百姓の怒りの炎が燃え上がろうとしていたのです。



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余話:首都加古川

2023-09-02 10:24:47 | 余話として

     

              余話:首都加古川

 「首都・加古川(幻の遷都論)については、今までに数度取り上げました。時期は、いつも関東大震災の起きた前後でした。

 日本には、震災の起きない場所はありませんが、加古川市は比較的少ない場所のようです。きょうもこの話題を取り上げておきます

      加古川への幻の遷都論

 大正12年(1923)9月1日、東京を中心に未曾有の大震災がおき、政府の一部に、壊滅した首都を東京以外の場所に移そうとする遷都論がおきました。



 「今村均・回顧録」(当時の参謀本部少佐、後に陸軍大将)によれば、国土防衛上の観点から首都移転を極秘に検討し、加古川の地を候補地の一つに挙げています。

 加古川が候補にあげられたのは、第一に災害が少ない地域であるということ、そして、「中国大陸への侵略に備え、日本の首都を西に移すべきである」との考えがあったようです。

 「遷都(八幡和郎著)」」(中公新書)では、加古川への遷都の理由を次のように述べています。

 「・・・(首都の候補地は)兵庫県加古川の平地である。歴史上、大地震にみまわれたこともなく、水資源も量・質ともに条件がよい。防空という観点からも理想的である。商工業都市としての機能は、阪神に任せ、皇室、政府機関、教育施設のみを移し、ワシントンをモデルに設計する・・・」

 この遷都論は、やがて各方面にもれ、動揺が起こり、立ち消えになりました。

 

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志方町をゆく(165) 関東大震災横死供養之碑(細工所・安楽寺)

2023-09-01 09:58:13 | 加古川市歴史探訪 志方町編

 

   志方町をゆく(165) 関東大震災横死供養之碑(細工所・安楽寺)

 今日は、関東大震災から100年目です。

 8月21日の神戸新聞に、加古川市志方町細工所の安楽寺の犠牲者を悼む「関東大震災横死供養之碑」についての記事がありました。一部を転載させていただきます。

 (神戸新聞より)

 加古川史学会の岡田功さん(71)同市加古川町溝之ロが、建立の経緯などを紹介する冊子「加古川『関東大震災横死供養之碑』」を発行した。1923(大正12)年に、約10万5千人の死者・行方不明者を出した未曽有の大災害から、9月1日で100年。岡田さんは「当時の惨事に、少しでも思いを巡らせてほしい」と話す。 (斉藤正志)

・・・

 岡田さんによると、当時、同寺周辺では、法要などで御詠歌に合わせて扇子を手に舞い、死者を弔う念仏踊りの風習があった。

 「関東大震災」の約ーカ月後、東京在住の志方町出身者から、踊りによる供養の依頼があったという。

 同年12月の百日忌に合わせ、同檀家を中心に、20歳前後の女性ら約20人が、自費で列車を乗り継いで東京へ。

 浅草など10カ所ほどで舞い、被災者らが感涙したとされる。

 一行が加古川に帰った後に石碑が建てられ、「関大震災供養之碑」と刻印。裏面には建立の経緯と、東京に行った女性ら20人の名前を刻んだ。

 

 その後(岡田氏の調査)、地元住民に話を聞くなどして、ミニコミ誌に石碑にいて記事を書き神戸新聞にも情報提供。

 97年9月の神戸新聞には、踊り子として供養の旅に参加した女性記事が掲載された。 その後は、当時を知る人や資料を探したが新たな情報はなかった。「このままでは、これまで調べてきた結果も忘れられてしまう」との危機感から、地震発生100年を機にに、冊子にまとめることにした。

(以下略)

 *写真:関東大震災横死供養之碑(細工所・安楽寺)



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