尾上町をゆく(1) 尾上地区の今津村消える
『近世の高砂』(高砂市教育委員会)に次のような記述があります。(一部書き改めています)
「・・・中世の高砂は、播磨五泊の一つに数えられ、内海の寄港地としての地位を固めていた。
ところが、この中世の高砂の泊(港)は現在の高砂の地ではなく、「播磨名所巡覧図絵」でも「今津の浦口」とあるように、加古川左岸の池田(加古川市尾上町)付近をさしていた・・・」
つまり、中世の今津(現:池田)は、「今津千軒」とよばれ、内海の寄港地として大いに賑わっていました。
その後、今津は加古川の運ぶ土砂により港は徐々に浅くなり、停泊地としての機能を弱めたのです。
高砂は、古くは高砂御厨庄(みくりのしょう:朝廷へ鮮魚を奉納する村)として広く知られていました。しかし、江戸時代以前の高砂は小さな漁村でした。
それに、高砂は西岸で東岸より水害に悩まされました。
高砂が急速に発達するのは、姫路城主・池田輝正が高砂の町の建設にあたった江戸時代以降のことです。
*地図:写真は慶長年間の絵図で、池田輝正の築いた高砂城が描かれています。以後、地図上から「(この)今津村」はなくなります。