ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

神野町をゆく(73) 西条に、「新神野」誕生

2022-04-23 07:44:33 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    

   神野町をゆく(73) 西条に、「新神野」誕生

 昭和37917日発行の「広報かこがわ」は、都市化に伴う大規模な県営住宅の建設のニュースを「大規模なモデル県営住宅地、神野町西条に用地決定」の見出しで取り上げています。

 読んでおきましょう。 *文体は変えています。

     大規模モデル県営住宅建設(新神野) 

 県で東播地方の急速な工業化に伴って、当地方最大のモデル住宅団地を建設を進めます。

 場所は、神野駅を中心に県道加古川-小野線の両側で約66万平方㍍(約20万坪)の宅地を造成し、完成後は1万人の人口がふえることになる予定です。

 具体的な建設構想は、今後中央と協議して決定されますが、大規模なため、モの中には公共施設、例えば上下水道、ガスの設傭、交通の問題や道路、公園の建設などはもちろんのこと学校、郵便局、消防施設など、にわかに一都市が生れることとなります。

 工事は来年早々から宅地の遭成に取りかかる予定です。

     消えた群集墳

 付け加えておきます。

 新神野増設には、西条山手の多量の土砂が使われました。

 日岡山から東の西条山手の住宅開発地には、県下でも珍しいほどの古墳時代(主に5世紀)の群集墳が見られた地域でした。

 宅地開発といいながら、あまり論議のないままに大規模な行者塚・人塚・尼塚だけを残し無残にも削り取られてしまいました。

 古代人の生活の跡は簡単な記録にその歴史をとどめるだけとなりました。

 *地図:新しく住宅地として開発された地域

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神野町をゆく(72) 城山物語(16) 城山の城主は、赤松一族か?

2022-04-22 08:17:37 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 前号では、新田義貞・沼田家と城山の関係を見てきました。今回は「城山の城主は赤松一族」という説です。

 『西条まちづくり文化・歴史』(西條まちづくり文化・歴史調査・編集会)の記述の一部をお借りします。

         城山の城主は、赤松一族か?

 ・・・室町時代の守護は鎌倉時代の守護と違い幕府の政治は有力守護の合議制であった。

 室町幕府中枢を担う管領(かんれい)と侍所所司になれるのは三管領と四職(ししき:赤松氏・山名氏・一色氏・京極氏)と呼ばれる家柄に限られ、赤松氏は四職の一員となる。赤松氏は幕府要人として京都に常駐し、配下の武士に城・砦を築かせていた。

 宝暦12年(1762)ごろに完成した『播磨鑑(はりまかがみ)』は「西條ノ城山」として、「・・・在西條村より二丁西の方 赤松則村(円心のこと)の旧跡、 その後建武3年(1336)一宇建立紫雲山宝雲寺と号す。今下西條村に東の山に寺跡のみ残れり」とあります。

 その後、赤松氏は、内紛が続き勢力は衰えます。

 最後は、慶長三年(1598)、則房は病魔に侵され、ひっそりと他界しました。歴史は、赤松氏の最後を赤松則房としています。この後、赤松家は廃絶同然となりました。

 赤松円心から赤松家滅亡まで城山との関係は、もう少し伝わっていてもいいはずです。はっきりとしません。

 赤松氏との関係を書いたものがほとのようですが、すっきりしません。

    沼田家説を支持したいのですが?

 少し素人の想像を書いてみます。

 私は、前回紹介した沼田家説を支持したいのです。

 沼田家は、新田義貞の滅亡ともに、その地位を失い、下野して、百姓となったのでしょう。

 時代は、江戸時代になりました。

 江戸時代、西条(上西条村)に沼田家は大庄屋となり登場します。大変失礼な言い方ですが、こんな田舎から大庄屋の中でも有力な大庄屋として登場したのです。不思議です。

 なにかその基盤があるはずです。沼田家は下野したのちも、経済的に、精神的に地域の指導的地位にあったのでしょう。

 江戸時代に廃寺となった城山にあった紫雲山宝雲寺は沼田家の建立した寺であるとも伝えられています。

 城山の詳しい歴史をご存じの方は、ご教授ください。

*写真:赤松円心像(法雲寺、神郡町)

 

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神野町をゆく(71) 城山物語(15) 沼田氏の居城か

2022-04-21 10:00:16 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

    神野町をゆく(71) 城山物語(15) 沼田氏の居城か

 城山の歴史は、はっきりしません。残された文書等から想像します。今回は一説です。

 『稲美町史』(昭和五十七年発行)から、第第三編第四節「諸家系譜にみる印南野」の一部を読んでみます。

 ・・・一般的に家譜(家系図)は、そのまま真実であるとは言えませんが、当地方の一端をうかがうことができます。

 沼田家(稲美町加古新田の開祖)の家譜によると、沼田家の初代は朝定(ともさだ)で系譜は新田義貞につながるといいます。

 新田義貞は、鎌倉攻めに功があったとして、元弘3年(1333)、播磨の国守任ぜられました。

 義貞は、新田家のつながりの強い朝定を目代(国主に代わって政治をする役職)にしました。西条辺りに居を構えたと思われます。後に新田義貞が赤松則村(円心)を攻めるに際し、加古川に逗留したのは西条の城山付近であったらしいのです。

 西条の城山の件ですが、少し時代はさかのぼります。

 村上源氏につながる季房(すえふさ)が播磨の国主となり、野口町の古大内に居を構えていたのですが、後に佐用町の白旗城へ居を構え、その後、都に帰って三河守となっています。都に帰る前に城山に謙退所をつくり隠居したと考えられています。その謙退所が現在の西条の城山でした。

 城山は、82メートルの小高い丘で守りやすい、景色の良い所です。

 季房(すえふさ)が没して20年ばかりが過ぎていますが、その間縁者いたのでしょう。朝貞は、そこを修理して自分の城としたと考えられます。

 現在、この場所に江戸時代、沢才兵衛(加古新村開発の開祖)が勧請した愛宕神社があり、愛宕神社の横に「西条構居跡」の加古川市文財保護協会の説明板があります。

 * 写真:城山の頂上にある愛宕神社

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神野町をゆく(70) 城山物語(14) 新田義貞のこと

2022-04-20 07:30:56 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    神野町をゆく(70) 城山物語(14) 新田義貞のこと(1)

 今日は、神野も西条も登場しません。新田義貞の話です。教科書の記述のようで面白くないでしょうが、次回の「城山物語」の予習としてお読みください。

 

 新田義貞と足利尊氏は、ともに八幡太郎義家の孫にあたる源氏の名門です。

 当時、幕府は蒙古襲来により鎌倉幕府の財政は火の車でした。それに時の執権、北条高時の無能により幕府へ不満を抱く武士たちはどんどん増えました。

 このような時代の大きなうねりの中で、元弘3年(1333)、新田義貞は、元弘3年(1333)天然の要塞である鎌倉を海からの奇襲しました。幕府は、たちまちに崩壊し、高時は自刃し、ここに140年続いた鎌倉幕府はもろくも滅亡しました。

 この時は、足利尊氏は、幕府の拠点である京都の六波羅探題を滅ぼしており、当時幕府を倒したのは、新田義貞ではなく足利尊氏だと思われていました。

 そして、京都に帰還した後醍醐天皇は年号を建武と改め政(まつりごと)を始めました。「建武の新政」です。「建武の新政」は、貴族を中心とする政治であったため、武士は当然のごとく、これに不満を持ちました。

 足利尊氏は、反旗を翻しました。朝廷方の総帥・新田義貞は、鎌倉の尊氏追討に向かいました。

 義貞は、楠木正成らと協力して尊氏を九州に追放して京都の武者所の長官に就任します。

 しかし、義貞は、尊氏を追わずに播磨の赤松円心(則村)がこもる播磨の白旗城攻撃に一か月もの月日を無駄に費やしてしまいます。

 その間に、尊氏軍は50万という大軍を集めて京都を目指し攻め上って来ました。

 あわてた後醍醐天皇は、御所を後に比叡山へ難を避けます。

 そして、尊氏は比叡山の後醍醐天皇に和解を申し入れました。天皇はこれを受け入れ下山してします。

 後に残った義貞は、ハシゴを外されたようで宙に浮いてしましました。後醍醐天皇は、恒長親王(つねながしんのう)に位を譲り、しばらく越前に行き様子を見るようにと義貞に命じ、義貞は北国に落ち延びます。壮烈な敦賀の金ヶ崎城への逃避行でした。囲まれました。

 新田一族の多くは、ここで討ち死にしました。

 義貞は、逃れました。が、途中で馬が矢を浴びて倒れました。そして、起き上がろうとする義貞の眉間の真ん中に矢が命中しました。この時、義貞は38歳でした。

 *挿し絵:新田義貞のつもり(インターネットより)

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神野町をゆく(69) 城山物語(13) 地名考:下西条村

2022-04-19 10:07:33 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

   神野町をゆく(69) 城山物語(13) 地名考:下西条村

 江戸時代、現在の神野地区には手末村(てずえむら)・二塚村・西ノ山村・石守村・福沢新村・福留村・横市新村・下西条村(しもさいじょうむら)の八ヵ村がありました。

 そのうち、明治9年に手末村と二塚村が合併して神野村に、石守村と福沢新村が合併して石守村に、 そして、福留村と横市新村が合併して福留村になりました。

 明治2241日、全国的に市町制度の改革により神野村・西ノ山村・石守村・福留村・下西条村の5ヵ村が合併して、神野村が誕生しました。

 なお、「神野」ですが、中世(鎌倉時代~室町時代)この地域は「加納庄」と呼ばれていました。

 「神野」は、その「加納(かのう)」の音が変化してできた名称です。「神」とは関係がなさそうです。

 ところで「西条」について調べてみましょう。

 現在の「西条」は、明治22年は神野村が誕生した段階では「下西条」でした。

 現在の八幡町に上西条・中西条がありますがその続きの「下西条」の意味です。

 しかし、下西城は地理的に神野地区です。それに、「下」にはどうしてもマイナスのイメージ付きまといます。

 そのため、神野村町になり30年近くを過ぎた大正6年(1916)に下西条の名称を「西条村」に改めました。

 その名残でしょうか西条村の祭り等は「下西条八幡神社」として現在でも行われています。

      新神野・西条山手の誕生  

 昭和35年から45年にかけて加古川市へ猛烈な勢いで流入がありました。そのため、神野地区の大規模な住宅開発が計画されました。

 西条地区に西条山手のから量の土砂が埋め立てに利用され住宅地が造成されました。

 埋め立てられた造成地は、昭和43年新神野に、西条台地は昭和49年「西条山手」となりました。

 *写真:下西条八幡社

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神野町をゆく(68) 城山物語(12) 古代人が見た城山からの風景

2022-04-18 09:54:58 | 加古川市歴史探訪・神野町編

        神野町をゆく(68) 城山物語(12) 古代人が見た城山からの風景

 きょうの記事は、歴史ではありません。思考力の弱くなった年寄り(78歳)のたわごとです。



 ・・・・最近、城山(じょやま)へよく登ります。それも夕日の時間がほとんどです。頂上は、開けているのですが、周囲の木のためにのために、夕日は良く見えません。そのため途中で休んで、そこからしばらく夕日眺ることにしています。

 川向こうの山の端にストンと隠れる寸前の太陽はみごとです。

 そんな時、教信(野口の教信寺の僧:平安時代)のことをよく考えます。

      教信のこと

 承和三年(八三六)の秋でした。

 興福寺ので修行に満足を感じなった教信は、山陽道を西へ向って行脚していました。

 須磨、明石を過ぎ、播磨路にはいりました。

 山は遠くで、平野がひろがっています。

 野口で見た夕日は、まさに西方浄土のようでした。ためらうことなく、ここを修行の地としました。

      古代人が見た城山からの太陽(夕日)

 城山は、敵から自分たちを守るだけの山(要塞)ではなかったと想像します。

 まだ、仏教が日本に入っていない時代の西条の台地に眠る古墳時代人も、きっと城山から見る加古の流れと太陽に限りない宗教心を感じたことでしょう。

 そんなことを想像します。



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 神野町をゆく(67) 城山物語(11) 望理里(まがりのさと)

2022-04-17 10:50:49 | 加古川市歴史探訪・神野町編

   神野町をゆく(67) 城山物語(11) 望理里(まがりのさと)

 『播磨風土記』が作られた奈良時代、神野・八幡地方は、望理里(まがりのさと)と呼ばれました。

 風土記の一部を読んでおきます。

 ・・・景行天皇(けいこうてんのう)が巡幸の時、この村の川の流れが曲がっているのを見て「この川の曲がり具合は、はなはだ美しい」と仰せられた。それで、この地を「望理里」という・・・

 加古川は、今も美嚢川(みのがわ)と加古川が合流点あたりから、流れは西に弧を描きながら流れています。

 『播磨風土記』が書かれた奈良時代、この辺りの流れは現在の流れと大きく異なっていたようです。

 きょうは、城山に登り『風土記』の時代の八幡地区の風景を想像しましょう。

*(注)現在、城山の頂上は空間があります。が、周囲は木が生い茂り眺望はよくありません。ここにお城(構)や寺があって眺めの良い時代を想像しています)

 当時、加古川の流れは、宗佐(そうさ)の辺りから、国包(くにかね)の東を流れ、船町・下村のあたりから流路を変え、中西条の西に流れていたようです。

 八幡地区は、加古川が大きく曲がった東岸の地域に広がった、まさに「曲がりの里」でした。

 城山から眺めた望理里は、まさに絶景でした。景行天皇ならずとも感激したに違いありません。

 「しかし」、古代より加古川は、暴れ川で、八幡・神野周辺は台風や長雨の時など、きまって洪水を引きおこしました。

 望理里は、まさに洪水の直撃をくらう地域でした。

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神野町をゆく(66) 城山物語(10) 行者塚古墳(3)・加羅への援軍

2022-04-16 10:09:32 | 加古川市歴史探訪・神野町編

      神野町をゆく(66) 城山物語(10) 行者塚古墳(3)・加羅への援軍

 古代史の専門家は、行者塚出土の大量の埴輪(写真は一部)の研究等から行者塚は、5世紀初期の古墳であると結論づけています。

 以下は、素人()の無責任な想像です。

 行者塚古墳の出土品の中には朝鮮半島南部からの遺物が多く出土しています。

 これは中央(奈良地方)の豪族が、朝鮮南部から得た品物を、地方の豪族に与えたものとも考えられますが、それにしては行者塚古墳には多すぎるのです。

 行者塚古墳の主は、中央の豪族にとって、それほど特別な豪族であったとも思えません。

 5世紀の朝鮮半島の情勢は、百済・高句麗・新羅・加羅(から)、それに中国が複雑に絡み合っています。

 つまり、お互いに相手の領土を狙っていたのです。

 行者塚古墳から出土品から考えて、行者塚の主は加羅(任那)と関係が深いと想像できます。

 加羅は、これらの国の中でもっとも弱小の国(地方)でした。

 とするなら、当然加羅は、他国と同盟を結んだり援軍を求めたりしたのでしょう。

 西日本や北陸の海岸にある古墳にも、行者塚と同じく、加羅地方の遺物を多く持つ古墳があります。

 これらの古墳の主は、加羅へ直接援軍を送ったのではないか。あるいは、食料援助をしたのではないかとも考えられます。

 そして、「その見返りとして、加羅からたくさんの宝物を得たのではないか」と想像するのです。

 あくまで、素人の推測として読んでください。

*写真(行者塚古墳出土・盾形埴輪)

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神野町を行く(65)  城山物語(9) 行者塚古墳(2)・南朝鮮とのつながり

2022-04-15 09:32:56 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    神野町を行く(65) 城山物語(9) 行者塚古墳(2) 南朝鮮とのつながり

 行者塚古墳からたくさんの遺物が発掘されました。

 そのうち、前回紹介した帯金具は中国・晋(しん)の時代のもので、朝鮮半島の金海(朝鮮南部)から伝えられたと考えられています。

 中国大陸のものが交易により朝鮮に渡り、それが日本へ交易により伝えられたようです。

 その他、多くの種類の遺物があります。

 巴型銅器(写真)は、新羅の慶州・釜山の金海あたりの古墳でもたくさん発見されています。

 それに、馬具なども朝鮮南部製と考えられています。

 そのほか、鉄鋌(てってい・鉄の板がね)等が発見されていますが、それらは朝鮮半島南部のものと思われます。

 今後、鉄の成分分析が行われると更に詳しく生産地等が特定されるでしょう。

 つまり、行者塚古墳の遺物は大陸の、特に朝鮮半島南部の香りをいっぱい詰め込んだ古代のタイムカプセルのようです。

 それでは、行者塚古墳の築かれた時代、行者塚古墳の被葬者はどんな人物でしょうか。

 

 

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神野町をゆく(64) 城山物語(8) 行者塚古墳(no1) 

2022-04-14 11:51:04 | 加古川市歴史探訪・神野町編

       神野町をゆく(64) 城山物語(8) 行者塚古墳(no1 

    行者塚古墳は、古代の不思議をいっぱい詰めたタイムカプセル

 行者塚古墳(ぎょうじゃづかこふん)は、加古川左岸の西条丘陵に築かれた前方後円墳です。

 かつて、この辺りには、古墳時代後期の群集墳が多数存在していたが、そのほとんどは、昭和38年(1963)よりはじまった宅地開発にともなって姿を消してしまいました。

 現在は、行者塚・人塚・尼塚を残すのみです。

 ここは、昭和48年(1973)「西条古墳群」として国の史跡指定を受けました。

 行者塚の第一次調査(1995)、第二次調査(1996)の調査から、驚くべき内容が明らかになりました。

 その一部を『行者塚古墳(発掘調査報告)』(加古川教育委員会・1997)に見ましょう。

 現在、行者塚古墳は、加古川市山手二丁目となっていますが、山手二丁目は、元八幡町中西条と神野町西条の一部が、宅地造成に伴い、昭和58年11月21日に新しく設営された地域です。

 行者塚古墳は、古代の不思議をいっぱい詰めたタイムカプセルです。

 「行者塚古墳の秘密」を、シリーズで紹介します。

 *写真は、行者塚古墳から発見された帯金具。

  『行者塚古墳(発掘調査報告)(加古川教育委員会)参照

 

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神野町をゆく(63) 城山物語(7) 西条廃寺

2022-04-13 11:17:49 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    神野町をゆく(63) 城山物語(64) 西条廃寺

    〈西条廃寺〉

 神野町には古代(白鳳時代)の寺院跡が石守(いしもり)と、ここ西条に残されています。

 神野町の城山(じょやま)から南方に伸びる標高30メートルばかりの台地のほぼ中央部に西条廃寺跡があります。お訪ねください。

 1936年(昭和38)から翌年にかけて神野団地造成工事にともなって発掘調査がおこなわれ、塔・金堂・講堂等の主要な伽藍配置が判明しました。

 この構造は、法隆寺式伽藍配置に通じるものであることが確認されました。

 西条廃寺は、7世紀末頃に建設されて、おそらく9世紀頃まで続いたと想像されています。

    〈ボーダーの地域〉

 学校で日本への仏教の伝来は7世紀のことであると学びました。とすると、西条廃寺は伝来から非常に早い時期に加古川地方に伝わっています。

 7世紀、加古川地方は奈良(大和)の勢力下でした。加古川は、中央からは周辺部です。

 この位置にある地域は、たんに周辺部ではなく常に緊張した政治的状況にさらされていたのです。自らを維持するためには、湧き上がるエネルギーを必要としました。

 加古川地方は、古代より奈良の勢力と結びつき、四国・吉備(岡山)の勢力と対峙する場所でした。中央の豪族にとっても加古川地方は、自らの安全を守るための最前線でした。

 加古川地方の有力者は、自らの権威を高めておくために、また、戦闘の場合は援助を求めるために、中央との結びつきを求める必要があったのです。

 そのため、中央の豪族は奈良(大和)の一級の文化を地方に伝えたのです。仏教文化もいち早く、この地方に伝えられたのでしょう。

 *写真:西条廃寺の塔跡

 

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神野町をゆく(62) 城山物語(6) 古墳から仏教文化へ

2022-04-12 09:58:07 | 加古川市歴史探訪・神野町編

       神野町をゆく(62) 古墳から仏教文化へ

 城山(じょやま)の東に散在する西条台地の古墳群を散策します。

     西条廃寺は西条古墳の豪族がつくった

 神野町の城山(じょやま)から南に伸びる標高30メートルばかりの台地に西条廃寺があります。次号では西条廃寺跡を訪ねましょう。

 写真は、西条廃寺の塔跡の一部から正面の森を撮っています。その森は、人塚古墳です。尼塚は近くですので散策して見つけてください。

 西条廃寺は7世紀に、人塚古墳に接して建設されました。

 古代寺院の側に古墳がしばしば見られますが、これは「古墳の有力な被葬者が、この頃に渡来した仏教文化を取り入れ、寺院をつくった」と考えられています。

 これらの古墳は、群集墳も含めて、ほとんどが5世紀古墳です。

 日岡古墳は4世紀古墳です。

    復習:日岡古墳と西条古墳

 前号の復習をしておきます。

 西条古墳は「日岡古墳からの墓所の移転か、それとも異なる豪族の墓所であったのだろうか、判断の分かれるところです。大阪大学の都出比呂志教授は、次のように指摘されています。

 ・・・・日岡古墳から西条古墳への墓所の移動の時期は、ちょうど大和や河内の大きな古墳が動く時期と一緒なんです。

 ということは、大和・河内という当時の政治的先進地である中央との動きと、(加古川)地方の動きが連動している・・・・

 都出教授は、「日岡古墳から西条への古墳の移動は、中央の支配者の変動に連動した動きである」と指摘されています。

 つまり、「日岡豪族も西条豪族も大和の豪族と同盟関係にあり、中央の支配者の交代にともなって、支配関係が変わった」というっことです。

 とするならば、日岡豪族と西条豪族は、新しい大和の支配者に従ったのだろうか。それとも異なる一族であったのだろうか。

 

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神野町をゆく(61) 城山物語(5) 日岡豪族から神野豪族へ

2022-04-11 06:31:38 | 加古川市歴史探訪・神野町編

     神野町をゆく(61) 城山物語(5) 日岡豪族から神野豪族へ

 地図をご覧下さい。

 加古川市には、大きく日岡山古墳群、西条古墳群、そして平荘古墳群があります。

 もちろん、この外にもたくさんの古墳があります。

 日岡古墳群の多くは、4世紀古墳であり、西条古墳群は5世紀古墳が中心です。

 この二つの古墳の関係が気になります。

 二つの古墳群の関係について、大阪大学の都出比呂志教授は、次のようなに説明されています。紹介しておきましょう。

 「・・・(山手中学校の北にある)行者塚古墳は、加古川地方ではトビっきり大きな古墳で、この古墳は5世紀古墳です。5世紀に古墳の中心は日岡から西条台地に移動しています。

 その移動の時期は、ちょうど大和を中心にしていた豪族が河内へ移動した時期と重なります。

 ・・・地方の豪族は自分たちをまもるために、中央の豪族たちと同盟を結んでいました。

 5世紀に大和東南部に非常に大きな力を持った豪族たちは勢力を弱め、政治の中心は河内へ移動します。

 それに伴って、日岡豪族は力を弱め、加古川方の新しい豪族は5世紀になると河内を拠点とする豪族と同盟を組んだようです。

 つまり、都出教授は、日岡山から西条への古墳への移動は、中央の支配者の変動に連動した動きと指摘されています。



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神野町をゆく(60) 城山物語(4) 西条10号墳の被葬者は20歳前後の女性

2022-04-10 07:38:33 | 加古川市歴史探訪・神野町編

神野町をゆく(60) 城山物語(4) 西条10号墳の被葬者は20歳前後の女性

 写真の箱式石棺は、西条墓地入り口のすぐ右にある城山(じょやま)への登り口のすぐ右のブッシュの中へ移動されています。

 西条10号古墳と名づけられ、元は、山手二丁目にあった古墳の石棺です。

 昭和39年の発掘調査の40数基ある群集墳の一つで、古墳の盛り土は流れ出していたが、古墳は、直径14㍍の円墳であることが確認されました。

 さいわい、主体部が粘土で覆われていたため、石棺は完全な形で残っていました。

 棺の大きさは長さ160㌢、巾50㌢で、内部には完全な形で人骨が残っていました。

 北枕に寝かせてあり、両足首と左手、左肋骨が溶けてなくなっていましたが、他の骨はしっかりしていました。

 被葬者は20才前後の女性で、現在この人骨は大阪市大に保存されています。

 副葬品としては、鉄鏃・鉄刀・鉄斧・玉類等がありました。

 尚、棺内には一面に朱が付着していました。

 また、棺底には小礫が敷きつめられ、棺外には小礫をならべて作った排水溝が東に向かってつくられていました。

 西の方は崖であり、排水溝をつくる必要ながかったのでしょう。

 *写真:移転保存された西条10号墳(200710月に撮影撮影)

 

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神野町をゆく(59) 城山物語(3) 「城山(じょやま)物語」をはじめます

2022-04-09 11:04:16 | 加古川市歴史探訪・神野町編

        神野町をゆく(59) 城山物語(3) 「城山(じょやま)物語」をはじめます

 以前、五ヶ井用水・新井用水を調べていた時、よく西条(神野町)の城山(じょやま)に出かけました。城山にも登りました。神野町・日岡山、そして対岸の池尻・升田山の風景はすっかりおなじみになりました。

 でも、なんとなく「いい景色だな・・・・」と眺めていました。

 この度、「神野町をゆく」で再度まとめています。

 ほとんど以前取り上げた内容と同じで、前号で58号となりました。

 57号で「西条旧石器遺跡」、58号では「西条群集墳と西条52号墳」を紹介しましたが、最近、記事の内容が単調で、面白くないことが、みょうに気になっています。

 このあたりで、猛反省をします。

 いま「神野町をゆく」では西条の城山辺りを歩いています。城山は、ひときわ目立つ山です。

 まさに神野町の山です。すごい歴史がありそうです。でも、歴史は霞の中で、まどろんでいます。

 紹介しようと思っています。でも、詳細は分かりません。

 こんな時は、歴史には素人の良さで不思議の世界へ土足でドンドン侵入できます。後で「間違いでした・・・」と謝ればすみますから・・・

 こんな不謹慎な態度で書くのですから、タイトルを「城山の歴史」とはできません。「(城山)物語」とします。

 でも、できるだけ歴史にこだわって紹介したいですね。

 *57号の「西条旧石器遺跡」、58号の「西条群集墳と西条52号墳」をそれぞれ「城山物語(1)・(2)とし、今回を「城山物語(3)」とさせていただきます。

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