ひろかずのブログ・3

81歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

神野町をゆく(69) 城山物語(13) 地名考:下西条村

2022-04-19 10:07:33 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

   神野町をゆく(69) 城山物語(13) 地名考:下西条村

 江戸時代、現在の神野地区には手末村(てずえむら)・二塚村・西ノ山村・石守村・福沢新村・福留村・横市新村・下西条村(しもさいじょうむら)の八ヵ村がありました。

 そのうち、明治9年に手末村と二塚村が合併して神野村に、石守村と福沢新村が合併して石守村に、 そして、福留村と横市新村が合併して福留村になりました。

 明治2241日、全国的に市町制度の改革により神野村・西ノ山村・石守村・福留村・下西条村の5ヵ村が合併して、神野村が誕生しました。

 なお、「神野」ですが、中世(鎌倉時代~室町時代)この地域は「加納庄」と呼ばれていました。

 「神野」は、その「加納(かのう)」の音が変化してできた名称です。「神」とは関係がなさそうです。

 ところで「西条」について調べてみましょう。

 現在の「西条」は、明治22年は神野村が誕生した段階では「下西条」でした。

 現在の八幡町に上西条・中西条がありますがその続きの「下西条」の意味です。

 しかし、下西城は地理的に神野地区です。それに、「下」にはどうしてもマイナスのイメージ付きまといます。

 そのため、神野村町になり30年近くを過ぎた大正6年(1916)に下西条の名称を「西条村」に改めました。

 その名残でしょうか西条村の祭り等は「下西条八幡神社」として現在でも行われています。

      新神野・西条山手の誕生  

 昭和35年から45年にかけて加古川市へ猛烈な勢いで流入がありました。そのため、神野地区の大規模な住宅開発が計画されました。

 西条地区に西条山手のから量の土砂が埋め立てに利用され住宅地が造成されました。

 埋め立てられた造成地は、昭和43年新神野に、西条台地は昭和49年「西条山手」となりました。

 *写真:下西条八幡社

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