神野町をゆく(67) 城山物語(11) 望理里(まがりのさと)
『播磨風土記』が作られた奈良時代、神野・八幡地方は、望理里(まがりのさと)と呼ばれました。
風土記の一部を読んでおきます。
・・・景行天皇(けいこうてんのう)が巡幸の時、この村の川の流れが曲がっているのを見て「この川の曲がり具合は、はなはだ美しい」と仰せられた。それで、この地を「望理里」という・・・
加古川は、今も美嚢川(みのがわ)と加古川が合流点あたりから、流れは西に弧を描きながら流れています。
『播磨風土記』が書かれた奈良時代、この辺りの流れは現在の流れと大きく異なっていたようです。
きょうは、城山に登り『風土記』の時代の八幡地区の風景を想像しましょう。
*(注)現在、城山の頂上は空間があります。が、周囲は木が生い茂り眺望はよくありません。ここにお城(構)や寺があって眺めの良い時代を想像しています)
当時、加古川の流れは、宗佐(そうさ)の辺りから、国包(くにかね)の東を流れ、船町・下村のあたりから流路を変え、中西条の西に流れていたようです。
八幡地区は、加古川が大きく曲がった東岸の地域に広がった、まさに「曲がりの里」でした。
城山から眺めた望理里は、まさに絶景でした。景行天皇ならずとも感激したに違いありません。
「しかし」、古代より加古川は、暴れ川で、八幡・神野周辺は台風や長雨の時など、きまって洪水を引きおこしました。
望理里は、まさに洪水の直撃をくらう地域でした。
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