ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

神野町をゆく(70) 城山物語(14) 新田義貞のこと

2022-04-20 07:30:56 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    神野町をゆく(70) 城山物語(14) 新田義貞のこと(1)

 今日は、神野も西条も登場しません。新田義貞の話です。教科書の記述のようで面白くないでしょうが、次回の「城山物語」の予習としてお読みください。

 

 新田義貞と足利尊氏は、ともに八幡太郎義家の孫にあたる源氏の名門です。

 当時、幕府は蒙古襲来により鎌倉幕府の財政は火の車でした。それに時の執権、北条高時の無能により幕府へ不満を抱く武士たちはどんどん増えました。

 このような時代の大きなうねりの中で、元弘3年(1333)、新田義貞は、元弘3年(1333)天然の要塞である鎌倉を海からの奇襲しました。幕府は、たちまちに崩壊し、高時は自刃し、ここに140年続いた鎌倉幕府はもろくも滅亡しました。

 この時は、足利尊氏は、幕府の拠点である京都の六波羅探題を滅ぼしており、当時幕府を倒したのは、新田義貞ではなく足利尊氏だと思われていました。

 そして、京都に帰還した後醍醐天皇は年号を建武と改め政(まつりごと)を始めました。「建武の新政」です。「建武の新政」は、貴族を中心とする政治であったため、武士は当然のごとく、これに不満を持ちました。

 足利尊氏は、反旗を翻しました。朝廷方の総帥・新田義貞は、鎌倉の尊氏追討に向かいました。

 義貞は、楠木正成らと協力して尊氏を九州に追放して京都の武者所の長官に就任します。

 しかし、義貞は、尊氏を追わずに播磨の赤松円心(則村)がこもる播磨の白旗城攻撃に一か月もの月日を無駄に費やしてしまいます。

 その間に、尊氏軍は50万という大軍を集めて京都を目指し攻め上って来ました。

 あわてた後醍醐天皇は、御所を後に比叡山へ難を避けます。

 そして、尊氏は比叡山の後醍醐天皇に和解を申し入れました。天皇はこれを受け入れ下山してします。

 後に残った義貞は、ハシゴを外されたようで宙に浮いてしましました。後醍醐天皇は、恒長親王(つねながしんのう)に位を譲り、しばらく越前に行き様子を見るようにと義貞に命じ、義貞は北国に落ち延びます。壮烈な敦賀の金ヶ崎城への逃避行でした。囲まれました。

 新田一族の多くは、ここで討ち死にしました。

 義貞は、逃れました。が、途中で馬が矢を浴びて倒れました。そして、起き上がろうとする義貞の眉間の真ん中に矢が命中しました。この時、義貞は38歳でした。

 *挿し絵:新田義貞のつもり(インターネットより)

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