ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

八幡町をゆく(19) 加古新村(現:稲美町)の誕生

2024-06-09 08:19:33 | 加古川市八幡町をゆく

    八幡町をゆく(19) 加古新村(現:稲美町)の誕生◇

 江戸時代のはじめ、印南野台地には、広大な原野が残っていました。

 この原野の開拓について『加古新村由来記』は、次のように記しています。



 中西条村(加古川市八幡町中西条)の才兵衛は26才の時から、庄屋を勤めていました。

 村の東の広大な原野の開拓を考え、3年間、麦・稗・大豆・小豆などを植え、低いところには、稲の種を蒔いたところ実を結んだのです。

 さらに3年間、実際に住んで寒暑に耐えられることも確かめました。

 才兵衛は、上西条の喜平次に台地の開拓を説きました。

 喜平次も賛同しましたが、開拓のための資金が足りあせん。

 才兵衛は下村の治兵衛(下村の本岡家の四代目の当主)に相談しました。

 彼も同意し、三人は印南野台地の開拓を固く誓い合ったのでした。

 姫路藩に開拓の願いを大庄屋を通じ出したのです許可でませんでした。再度願い出しました。

 ついに、許可になり、さらに姫路藩からの援助も得ることができました。

 藩から、新しい村の名前を問われました。

 才兵衛は、「加古の二字は、才兵衛の祖先よりの苗字のため“加古新村”と名づけたい」と答えたところ、「苗字を村名にすることはできない」と認められません。

 そこで、才兵衛は、加古新村では「沢」の名前に改めると述べ、村名を「加古新村」と名づけ許されました。

 入村する者には、藩から材木・竹木・米の支給もありました。

 才兵衛・治兵衛・喜平次は、「頭百姓(とうびゃくしょう)」として村に居住しました。

開発がはじまって6~7年のうちに家数163軒、人口800人あまりの村となり、

 延宝八年(1680)、上西条の氏神・八幡宮を加古新村に勧請しました。

 加古大池の側の神社(写真)がそれです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする