ひろかずのブログ・3

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神野町をゆく(72) 城山物語(16) 城山の城主は、赤松一族か?

2022-04-22 08:17:37 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 前号では、新田義貞・沼田家と城山の関係を見てきました。今回は「城山の城主は赤松一族」という説です。

 『西条まちづくり文化・歴史』(西條まちづくり文化・歴史調査・編集会)の記述の一部をお借りします。

         城山の城主は、赤松一族か?

 ・・・室町時代の守護は鎌倉時代の守護と違い幕府の政治は有力守護の合議制であった。

 室町幕府中枢を担う管領(かんれい)と侍所所司になれるのは三管領と四職(ししき:赤松氏・山名氏・一色氏・京極氏)と呼ばれる家柄に限られ、赤松氏は四職の一員となる。赤松氏は幕府要人として京都に常駐し、配下の武士に城・砦を築かせていた。

 宝暦12年(1762)ごろに完成した『播磨鑑(はりまかがみ)』は「西條ノ城山」として、「・・・在西條村より二丁西の方 赤松則村(円心のこと)の旧跡、 その後建武3年(1336)一宇建立紫雲山宝雲寺と号す。今下西條村に東の山に寺跡のみ残れり」とあります。

 その後、赤松氏は、内紛が続き勢力は衰えます。

 最後は、慶長三年(1598)、則房は病魔に侵され、ひっそりと他界しました。歴史は、赤松氏の最後を赤松則房としています。この後、赤松家は廃絶同然となりました。

 赤松円心から赤松家滅亡まで城山との関係は、もう少し伝わっていてもいいはずです。はっきりとしません。

 赤松氏との関係を書いたものがほとのようですが、すっきりしません。

    沼田家説を支持したいのですが?

 少し素人の想像を書いてみます。

 私は、前回紹介した沼田家説を支持したいのです。

 沼田家は、新田義貞の滅亡ともに、その地位を失い、下野して、百姓となったのでしょう。

 時代は、江戸時代になりました。

 江戸時代、西条(上西条村)に沼田家は大庄屋となり登場します。大変失礼な言い方ですが、こんな田舎から大庄屋の中でも有力な大庄屋として登場したのです。不思議です。

 なにかその基盤があるはずです。沼田家は下野したのちも、経済的に、精神的に地域の指導的地位にあったのでしょう。

 江戸時代に廃寺となった城山にあった紫雲山宝雲寺は沼田家の建立した寺であるとも伝えられています。

 城山の詳しい歴史をご存じの方は、ご教授ください。

*写真:赤松円心像(法雲寺、神郡町)

 

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