神野町をゆく(71) 城山物語(15) 沼田氏の居城か
城山の歴史は、はっきりしません。残された文書等から想像します。今回は一説です。
『稲美町史』(昭和五十七年発行)から、第第三編第四節「諸家系譜にみる印南野」の一部を読んでみます。
・・・一般的に家譜(家系図)は、そのまま真実であるとは言えませんが、当地方の一端をうかがうことができます。
沼田家(稲美町加古新田の開祖)の家譜によると、沼田家の初代は朝定(ともさだ)で系譜は新田義貞につながるといいます。
新田義貞は、鎌倉攻めに功があったとして、元弘3年(1333)、播磨の国守任ぜられました。
義貞は、新田家のつながりの強い朝定を目代(国主に代わって政治をする役職)にしました。西条辺りに居を構えたと思われます。後に新田義貞が赤松則村(円心)を攻めるに際し、加古川に逗留したのは西条の城山付近であったらしいのです。
西条の城山の件ですが、少し時代はさかのぼります。
村上源氏につながる季房(すえふさ)が播磨の国主となり、野口町の古大内に居を構えていたのですが、後に佐用町の白旗城へ居を構え、その後、都に帰って三河守となっています。都に帰る前に城山に謙退所をつくり隠居したと考えられています。その謙退所が現在の西条の城山でした。
城山は、82メートルの小高い丘で守りやすい、景色の良い所です。
季房(すえふさ)が没して20年ばかりが過ぎていますが、その間縁者いたのでしょう。朝貞は、そこを修理して自分の城としたと考えられます。
現在、この場所に江戸時代、沢才兵衛(加古新村開発の開祖)が勧請した愛宕神社があり、愛宕神社の横に「西条構居跡」の加古川市文財保護協会の説明板があります。
* 写真:城山の頂上にある愛宕神社
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