神野町をゆく(63) 城山物語(64) 西条廃寺
〈西条廃寺〉
神野町には古代(白鳳時代)の寺院跡が石守(いしもり)と、ここ西条に残されています。
神野町の城山(じょやま)から南方に伸びる標高30メートルばかりの台地のほぼ中央部に西条廃寺跡があります。お訪ねください。
1936年(昭和38)から翌年にかけて神野団地造成工事にともなって発掘調査がおこなわれ、塔・金堂・講堂等の主要な伽藍配置が判明しました。
この構造は、法隆寺式伽藍配置に通じるものであることが確認されました。
西条廃寺は、7世紀末頃に建設されて、おそらく9世紀頃まで続いたと想像されています。
〈ボーダーの地域〉
学校で日本への仏教の伝来は7世紀のことであると学びました。とすると、西条廃寺は伝来から非常に早い時期に加古川地方に伝わっています。
7世紀、加古川地方は奈良(大和)の勢力下でした。加古川は、中央からは周辺部です。
この位置にある地域は、たんに周辺部ではなく常に緊張した政治的状況にさらされていたのです。自らを維持するためには、湧き上がるエネルギーを必要としました。
加古川地方は、古代より奈良の勢力と結びつき、四国・吉備(岡山)の勢力と対峙する場所でした。中央の豪族にとっても加古川地方は、自らの安全を守るための最前線でした。
加古川地方の有力者は、自らの権威を高めておくために、また、戦闘の場合は援助を求めるために、中央との結びつきを求める必要があったのです。
そのため、中央の豪族は奈良(大和)の一級の文化を地方に伝えたのです。仏教文化もいち早く、この地方に伝えられたのでしょう。
*写真:西条廃寺の塔跡
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