ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

八幡町をゆく(30)  農民運動家、行政長蔵(2)

2024-06-20 05:32:44 | 加古川市八幡町をゆく

    

     八幡町をゆく(30) 農民運動家・行政長蔵(2)

「 運動を進める中で、大正二年(1913)県会議員選挙に、当時の加古郡より立候補し、最高点で当選しました。

 しかし、選挙違反があったとデッチあげられ、失脚させられてしまいました。その裏には、ある衆議院議員の指図があったとのうわさもありました。

 行政の人気は大変なものであったらしく、行政の演説のポスターが電柱に貼られると、続々と演説を聞きに行きました。

 彼は、どなるがごとく、炎のごとく演説したといいます。さあ、警官の弁士中止の声がかかるぞ・・」と、聴衆は今か、いまかとかたずをのみました。

 その時、行政は「・・政治の腐敗を追求し、農民よ、団結し立ち上がろうではないか・・」と叫ぴます。すかさず、警察の「弁士中止1」という命令です。

 しかし、行政は演説をやめません。警察は演壇から彼を引きずり降ろします。そんな時、聴衆はきまって警察官に対し、叫ぴヤジるのです。

「ああ、今日の演説会はおもしろかった」と、行政の演説を聞きに行った人も多かったようです。

こんなありさまでしたから、日常の生活にも毎日警察の監視がついていました。

田んぼで働いている時も、警察は近くの山の上からずっと監視しているのです。

 行政は昼になると「さあ、ここで飯を食うからナァ、お前そこで見ていてくれヨ・・」と言って警官をからかったりしました。

こうして行政は宗佐(そうさ)で、自らも田畑で働きながら農民運動を指導を行っていたのです。

やがて、日本は敗戦を迎えました。

 行政は、時代はよくなるに違いないと信じていました。

 波澗万丈の生涯を送った彼は、戦後まもなく突然その姿を消してしまいました。政敵に消された

 とも、いずれかの国へ密航したとも諸説はあるのですが、その真相はわかっていません。

 〈余話〉

 昨年、80歳を記念して高校の同窓会がありました。皆さんお元気でした。たまたま隣の席に「行政」名札の同級生でした。 

 学生時代、かれは優秀な生徒で話はあまりしなかったのですが、「もしや、行政長蔵さんと関係のある方ですか」と尋ねると。「長蔵のことはあまり覚えていませんが、私の祖父です」との返事でした。ビックリ!

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