ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平岡町をゆく(7) 寺田用水物語(1)

2024-06-27 10:32:08 | 加古川市の歴史・平岡町編

      平岡町をゆく(7) 寺田用水物語(1)

 印南野台地の歴史は、水との闘いの歴史でした。

 承応三年(1654)、この年の旱魃(かんばつ)は、猛烈なものでした。

 太陽が無常にも、ひからびた大地を照りつけました。

 秋の収穫は当然ことのように、ほとんどありません。

 餓死する者は、後をたちませんでした。

 二俣村には、この年の事情を伝える文書「播磨賀古新疎水道記」が円明寺に伝えられていました。

 この記録に関しては、後日紹介します。

 この年の旱魃は、印南野台地にある村々では同じでした。



 新在家あたりのお百姓さんに語ってもらいましょう。

 このお百姓さんの会話は、記録にもとづくものではありません。想像です。

A:庄屋  B:村役)

 A:わしらも五ヶ井郷(加古川町・尾上町を流れる用水の村々)のような溝(用水)ができないものかな。

 B:水を引くと言ったって、どこから引くのですか。加古川ですか・・・喜瀬川からですか・・・

 A:そうよな。加古川は少し遠いし、この土地は高すぎるし、無理だろうな。

 それに喜瀬川の水は少ないし、わし等が使うとなると黙ってはいまい。

 B:やはり無理ですか・・・

 A:曇川(くもりがわ)から水は引けないものだろうか。

 B:あの川は、だめでしょう。あの川は、雨が降ったときにだけ流れがあり、普段、    水はありませんよ。

 曇って雨のあるときだけ流れるので「曇川」って呼ばれていますよ。

 それに、低いところを流れていますから・・・

 A:印南野台地の高いところを削り、水を引く。そして、曇川の水が流れる時に、寺田()に水を取り入れ、貯めておくんです。

 寺田池に水さえあれば、日照の時でも今のような惨めな生活から抜けだせるのだが・・・



 きっと、こんな会話があったのではないでようか。

 事実は、どのような過程で曇川から寺田池までの溝(用水)つくる話は進んだのか、記録が残されていないのでわかりません。

 曇川から寺田池までの溝(寺田用水)の工事が決定され、藩に自普請(藩の工事ではなく、村々で費用をまかなう)ながらも認められました。

 やがて、寺田用水は完成しました。・・・

コメント
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