神野町をゆく(58) 西条群集墳と西条52号墳
西条群集墳
山手中学校の北方、西条の丘陵地帯に、かつて約30基ばかりの古墳がありましたが、これらの古墳は、1963年(昭和38)にはじまった住宅造成工事により全て破壊されてしまいました。
現在は、規模の大きな行者塚(ぎょうじゃづか)・尼塚(あまづか)・人塚(ひとづか)を残すのみです。
現存する3基の古墳などから判断して、これらの群集墳の多くも5世紀古墳で、4世紀古墳の多い日岡古墳群より新しい古墳です。
これは、日岡古墳からの墓所の移転か、それとも異なる豪族墓所であったのだろうか、判断の分かれるところです。この論争は、後日取り上げましょう。
これらの群集墳の破壊は、宅地造成とはいえ残念なことでした。一度破壊された遺跡は復元することができないのですから・・・
西条52号古墳
古墳の調査中、城山(じょやま)の西隅にある古墳は、他の古墳よりはるかに時代をさかのぼる、およそ3世紀の前半の古墳であることが分かり、「西条52号古墳」(赤で示した所)と命名されました。
西条52号墳は径約15mの円墳で、わずかに盛り土があり、播磨地方でも発見例の少ない弥生時代の墳丘墓でした。
出土品としては、鏡(内行花文鏡)・鉄・高杯・壷等がありました。
*『加古川市史(第四巻)』(加古川市史編さん委員会)参照