ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

神野町をゆく(58) 城山物語(2) 西条群集墳と西条52号墳

2022-04-08 08:24:45 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 神野町をゆく(58) 西条群集墳と西条52号墳

      西条群集墳

 山手中学校の北方、西条の丘陵地帯に、かつて約30基ばかりの古墳がありましたが、これらの古墳は、1963年(昭和38)にはじまった住宅造成工事により全て破壊されてしまいました。

 現在は、規模の大きな行者塚(ぎょうじゃづか)・尼塚(あまづか)・人塚(ひとづか)を残すのみです。

 現存する3基の古墳などから判断して、これらの群集墳の多くも5世紀古墳で、4世紀古墳の多い日岡古墳群より新しい古墳です。

 これは、日岡古墳からの墓所の移転か、それとも異なる豪族墓所であったのだろうか、判断の分かれるところです。この論争は、後日取り上げましょう。

 これらの群集墳の破壊は、宅地造成とはいえ残念なことでした。一度破壊された遺跡は復元することができないのですから・・・

      西条52号古墳

 古墳の調査中、城山(じょやま)の西隅にある古墳は、他の古墳よりはるかに時代をさかのぼる、およそ3世紀の前半の古墳であることが分かり、「西条52号古墳」(赤で示した所)と命名されました。

 西条52号墳は径約15mの円墳で、わずかに盛り土があり、播磨地方でも発見例の少ない弥生時代の墳丘墓でした。

 出土品としては、鏡(内行花文鏡)・鉄・高杯・壷等がありました。

 *『加古川市史(第四巻)』(加古川市史編さん委員会)参照

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神野町をゆく(57) 城山物語(1) 西条旧石器遺跡

2022-04-07 10:08:36 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

     神野町をゆく(57) 西条旧石器遺跡

 現在、山手中学校のある台地は、印南野台地から北に突き出した半島のよな地形であり、その先端部に城山(じょやま、82.2㍍)があります。

 2万年前の、この辺りの風景を想像して下さい。

 この半島部分の両側には海が入りこんでおり、まさに海に突き出た半島でした。

 海は、さらに現在の加古川に沿って、奥にまで入っていました。

 昭和24年、群馬県の岩宿遺跡の発見により、縄文時代以前(旧石器時代)に日本列島に人が住んでいたことが証明されました。

*旧石器時代とは今から約38千年前から16千年前の約22千年間をいいます。 人々はまだ土器を持たず、主に打ち欠きによって作られた石器(打製石器)や動物の骨や角を用いて作られた骨角器(こっかくき)を使い、狩猟や採集活動を行っていました。(ウィキペデアより)

 加古川地方でも、日岡山・七つ池(志方町)・潰目池(平岡町)等で、旧石器人の生活の跡が発見されています。

 神野町でも、旧石器人の生活の跡が城山の南面で確かめられました。

 この地は、海の幸・川の幸が得やすい場所であったのでしょう。

 さらに、よいことには、ここは台地のため洪水の心配はありません。

 当時の旧石器人にとって、城山は絶好の生活の場であったと考えられます。

 城山(旧石器)遺跡は、西条の墓地のある辺りから東に広がっています。

 城山の水源地の登り口に説明板(写真)があります。



  

 

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神野町をゆく(56) 曇川の土手を歩きませんか

2022-04-06 07:48:13 | 加古川市歴史探訪・神野町編

     神野町をゆく(56) 曇川の土手を歩きませんか

 少し硬い話題が続いています。少し、ゆっくりと神野町を散策しませんか。

 

 今桜が満開です。

 月曜日(4日)午後、神野の医療センターの南の曇川の堤を上流(東)へ少し歩いてみました。

 少し汗ばんできました。

 桜が満開です。

 桜の名所ではないのですが、車を止めて散策をしてみませんか。爽快ですよ。

 川でシラサギが餌を探していました。

 

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神野町をゆく(55) 石守廃寺

2022-04-05 09:04:33 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    神野町をゆく(55) 石守廃寺

 日本へ仏教が伝えられて比較的はやい白鳳時代(645710)に、加古川地方に仏教が伝わりました。

 神野町の西条と石守に当時の寺院跡があります。

  *西条にあった寺院(西条廃寺)は、後日紹介しましょう。

 石守廃寺について『加古川市史(第一巻)』の説明の一部を読んでみます。



 ・・・(石守廃寺は)加古川下流の左岸の城山より二キロメートルあまり下った南東に隣接して、日岡山があり、その南方には日岡古墳群が立地する。

 石守廃寺は、その東方に当たる台地周辺部に位置し、西条廃寺から南西1.4キロメートルを隔てているにすぎない。

 198384年にわたる発掘調査により・・・法隆寺式伽藍配置を基準とし、寺域はおそらく方一町を占めていたものと推察されている。

 ・・・・8世紀の前葉に創建されたものであり、終末は9世紀に入ってからと考えられのである。

 また、南面する法隆寺式伽藍配置、瓦積基壇や回廊代用の柵列、古瓦など、隣接する西条廃寺との数々の類似点も見逃しがたいところである・・・



 詳しくは、『加古川市史(第一巻)』をご覧ください。

 現在、石守廃寺跡がみつかりません。近所の人に訪ねてみても分かりません。それもそのはずです。

 市教委に問い合わすと、「保存が難しくなったので、現在少し南の宝塔寺の境内に移転保存されている」(写真)とのことでした。

 基壇部等の保存はなかったのですが、塔の礎石が境内の隅に保存されています。



 

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神野町をゆく(54) 『東播磨の民俗』(石見完次著)  

2022-04-04 08:19:28 | 加古川市歴史探訪・神野町編

       神野町をゆく(54) 『東播磨の民俗』(石見完次著)

  加古川の町を歩いています。

 でも、その町のイメージがわいてこない町(旧集落)があります。

 材料が(史料を含めて)乏しいのです。

 さいわい、石守村(現:神野町石守)については、素晴らしい著書があります。

 『東播磨の民俗(加古郡石守村の生活誌)(石見完次著)』(神戸新聞出版センター)です。

 「はしがき」で石見氏は、次のように書いておられます。

 「・・・母は折にふれ話していた。母をこえる老境にいってから、私は急に懐かしくなり、記憶をたどり、聞き回り、書きとめ書き溜めていたものがいつか20年の月日が流れて行った。

 ・・・・老女(取材した)たちの幾人もが亡くなった。

 風俗習慣もここ56年経てば大半は消えてしまうと思う。消えるものは消えしめよとは、割り切れないのである・・」

 この著作が出版されたのは、昭和59年(1984)です。石見氏が心配された56年はとっくに過ぎてしまいました。

 マックスバリューができました。新しい住宅も増えました。石守も大きく変わりました。

 激動は、まだ続いています。 

 *『東播磨の民俗(加古郡石守村の生活史)』(石見完次著)参照

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神野町をゆく(53) 西之山の六地蔵板碑

2022-04-03 07:50:29 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    神野町をゆく(53) 西之山の六地蔵板碑

  ・・・(六地蔵板碑は)集落(西之山)の西南にあたり、一段高く東面している大師堂の南西隅にある・・・・あまり知りたくなるような説明ではありません。ただ、タイトルが「大師堂の康永元年(1342)六地蔵板碑」としており、南北朝時代の仏像のようです。(『加古川市史』)

 また、地域史に詳しい、山内英明氏はFBで「・・・西之山には数多くの石造物がありますが、村のお堂に六地蔵石仏が安置されています。加古川市文化財解説シートの写真ではなかなかの逸品ぶり。

 ・・・そして、「1342年(南北朝時代)に上村さんが親の供養に、これを作ったと彫られた・・・」と、付け加えられています。

 

 また、西之山の集落は「慶長播磨国絵図」には、寛永8年(1631)、石守村から分村し、さらに西之山は「元禄郷帳」には、もとは石守村であり、藩政のはじめは西之山は石守村から分村し、西之山という地区は以前からあった」ことを書いています。

 つまり、江戸時代のはじめ、農地が不足になり、西之山付近で新しく開拓が始まったのでしょう。

 六地蔵の作られた1342年は、西之山集落は、石守村集落の一部であったようです。石守村は、ずいぶん古い歴史を持っている集落です。

 *写真:六地蔵板碑と大師堂(山内英明氏のFBの写真を無断でお借りしています)

 

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神野町をゆく(52) 神野村二塚のサイフォン

2022-04-02 08:00:37 | 加古川市歴史探訪・神野町編

          神野町をゆく(52) 神野村二塚のサイフォン

 城山(じょやま:神野町西条)の近くの堰から流れ下った新井用水は、すぐ南の曇川にぶつかり、サイフォンで曇川の下をくぐり対岸に流れています。

 写真は、曇川の下をくぐるサイフォンの入口です。

 水は、勢よく流れています。

 ここ旧二塚村のサイフォンは江戸時代のものであると思いこんでいました。

 (旧)二塚村の絵図を見て、そうではないことを知ることができまました。

 このあたりの事情を『今里伝兵衛と新井戸の歴史』(新井水利組合連合会)で確かめてみます。

 「・・・曇川は、たびたびあふれていたらしい。明治40年ごろに、曇川を斜めにくぐる埋樋ができ、新井溝が変更になったし、洪水対策の改修もあったのではないかと推測している。(現在の埋樋は、昭和2729年の水路舗装の時のもので「県営新井コンクリート舗装の概要」によると内径1mのヒューム管で長さ56.1m)」とあります。

 江戸時代のこの辺りの曇川の川幅は、堤があってもはっきりとしていない河原のようであったようで、埋樋は無理があったようです。

 そのため、いったん曇川に流れこんでいます。

 明治44年の図面によると、サイフォンで曇川の下をくぐり、曇川堤防の南側に沿って流れています。



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神野町を歩く(52) 石守構居

2022-04-01 10:22:00 | 加古川市歴史探訪・神野町編

         神野町を歩く(52) 石守構居

 鎌倉時代から戦国時代にかけて、加古川地域には、野口城・高砂城・神吉城・志方城、そして加古川城などの城があり、その外にも、比較的小規模な多くの城がありました。

 城について、『加古川市史(第二巻)』の説明をお借りします。

 「・・・城とは、中世(鎌倉・室町時代)の土豪の居館のことで、(はっきりした定義はなく)その比較的大きなものを城、そして規模の小さなものを構居とよび、構居の内、主の名の伝えられているものも少なくないが、多くは伝承の域をでない・・・」

 これらの土豪たちは、戦国時代の三木合戦では、三木の別所につくか、それとも信長・秀吉に味方するかの決断をせまられました。

 石守構居へ以前(2007年)訪ねときには「政神大神社」という社がありましたが、今は「石守城址」の石柱があるだけです。

 場所は、石守であるが西之山に近く、曇川のすぐ南で、大きな木を目印にすればすぐ見つかります。

 構居にある説明(加古川市教育委員会)の一部を読んでおきます。

 ・・・・領主は、中村景利といい、もとは(三木の)別所長治の幕下であった。

 長治が天正八年、織田信長に滅ぼされていからは秀吉につき、因州(鳥取県)の戦に武功を樹てたが、討ち死にした。

 また、一説には三木の乱に討ち死にしたとも言われている。

  

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神野町をゆく(51) 高 橋

2022-03-31 08:05:36 | 加古川市歴史探訪・神野町編

     神野町をゆく(51)  高 橋

 稲根神社の近くの曇川です。曇川(くもりがわ)は加古川につきあたります。

 加古川の水門の少し手前に橋(現在名:高橋)があり、この高橋の北詰に、写真のような祠と灯籠と石柱があります。

 この石柱に常光寺(神野小学校のすぐ北)の巌洞が筆をとった銘文が残っています。

 建碑されたのは、文化5年(1808)ということでありますが、石橋が造られたのもこの年であるようです。

 橋の建設により隣の西之山村へは、ずいぶん便利になりました。

 故、永江幾次郎氏は『考史遊記』で、この碑文で次のように訳されています。

 ・・・・川に橋ができた。たくさんな人が往来することであろう。

 橋はありふれたこの産地の白石や青石で造った。

 何の立派な橋を望もうか。夏の雨も、うれうることはない。

 冬の風雪も恐れることはなくなった。

 衣をまくり上げて渉(わた)らずにすむのは何とうれしいことか。全く立派に出来たものだ・・・

 当時の村人の気持ちが伝わってきそうである。

 この石橋は、現在立派なコンクリートの橋に変わっています。

 *写真:曇り川に架かる高橋(神野町二塚)

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神野町をゆく(50) 幻の釣橋駅

2022-03-30 09:42:06 | 加古川市歴史探訪・神野町編

      神野町をゆく(50) 幻の釣橋駅 

 播州鉄道(現:JR加古川線)は、大正2年に加古川~西脇間で開業し、その後、経営不振に陥り、大正12年「播丹鉄道」に引き継ぎました。

 かつて、この鉄道に釣橋駅(つりはしえき)がありました。

 曇川の河口部(★印)のすぐ北で、地図で赤く塗った所が、鈎橋駅のあった場所です。

            釣橋駅について(ウィキペディアより)

  大正 5年10月21日   釣橋駅開業

     10年5月 9日   釣橋駅の旅客営業廃止

  昭和  6年 2月 9日  (貨)釣橋駅を停留場に格下げ

     12年3月24日 (貨)釣橋停留場を駅に格上げ

     18年 6月 1日 (貨)釣橋駅廃止  

 釣橋駅について、『加古のながれ』は、次のように説明しています。

 ・・・播州鉄道の線路保守に、加古川河川敷の砂利は欠かせないものであったらしく、神野村役場文書にもその採取認可記録や現場見取り図などが残っている。・・・

 釣橋駅は、消えた神野町にあった、現:JRの加古川線の幻の駅名です。

 *『加古の流れ』「図」共に(加古川市史編さん室)参照

 

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神野町をゆく(49) 神野小学校写真集(16) 鼓笛隊刑務所の運動会に参加

2022-03-29 10:39:11 | 加古川市歴史探訪・神野町編

      神野町をゆく(49) 神野小学校写真集(16) 鼓笛隊刑務所の運動会に参加

  (『神野小学校創立120周年記念誌』より)

 神野小学校鼓笛バンドの刑務所運動会への出演は、鼓笛バンドが結成された昭和37年頃より行われ、その後毎年の学校行事となっていった。

 受刑者にとって、「おさない子どもたちの演奏しながらパレードする姿を見ることは、何ものにもかえがたい更生への励ましとなった」といわれ、運動会終了後には、受刑者から、心のこもった手紙が届けられた。

 北野泰成校長が在職当時、ある受刑者が刑期を終えて出所した後、ぜひ神野小学校の鼓笛パレードを、もう一度この目で見て故郷に帰りたいといって、本校を訪ね、陰からそっと運動会を見て帰られた帰られたというエピソードが伝えられている。

 このように神野小学校の鼓笛隊の演奏は受刑者に大きな感動を与えたことがわかる。

*写真:加古川刑務所運動会への参加(昭和479月)

*神野小学校写真集は終了しますが、神野小学校のなつかしい写真をお持ちの方はご連連絡くださいださい。

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神野町をゆく(48) 神野小学校写真集(15) 鼓笛隊、加古川の町を演奏行進      

2022-03-28 07:50:29 | 加古川市歴史探訪・神野町編

       神野町をゆく(48) 神野小学校写真集(15) 鼓笛隊、加古川の町を演奏行進    

 神野小学校の鼓笛隊は昭和38年、加古川刑務所の運動会、明石の鼓笛まつりに出演し、また、川祭りに神野小学校鼓笛バンドとして56年生が市中行進(写真)をしました。

 加古川小学校から西へ歩き、国道の地下(昔のニッケとニッケ住宅を結んだ地下道。現在も現役です)を横切り、いよいよ寺家町商店街での演奏行進となりました。

 通行中の人、商店街の人、それぞれから暖かい声援をおくられ加古川駅前に到着。

 子どもたちは汗びっしょりで、つかれていたようです。

 しかし、顔は晴れやかでした。

 *写真:駅前通りを行進する神野小学校の鼓笛隊

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神野町をゆく(47) 神野小学校写真集(14) 新校舎竣工

2022-03-27 07:59:26 | 加古川市歴史探訪・神野町編

 

   神野町をゆく(47) 神野小学校写真集(14):新校舎竣工

 「神野町をゆく(22)」で、しばらく停車していた神野小学校の写真集をつづけます。

 

 新校舎の建設が決まりました。昭和29年3月起工式が行われ、7月写真のようなすばらしい校舎が予定より40日も早く竣工しました。

 当時の中島校長先生は『神野小学校120周年記念誌』に次のように書いておられます。一部だけでが紹介します。

 

 ・・・・予定より40日も早く木の香も高く匂う堂々たる教育の殿堂が築きあげられました。

 待望久しかっただけに、地元民ならびに600有余の児童の歓喜も、また、ひとしおで、ここに哀心より深く感謝する次第であります。・・・

 *写真:完成した校舎(昭和297月)

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神野町をゆく(46) 余話:内水氾濫(曇川からの氾濫)

2022-03-26 08:17:59 | 加古川市歴史探訪・神野町編

      神野町をゆく(46) 余話:内水氾濫(曇川からの氾濫)

 聞きなれない用語を使います。内水氾濫・外水氾濫という用語です。

 〇内水氾濫・・・・豪雨時、川の水位が高くなり、排水ができなくなりおこる水害

 〇外水氾濫・・・・河川の水位が上昇し、堤防こえたり、破壊して起こる水害

 洪水の時、本流(加古川)の支流の水位は高くなります。当然、支流(曇川)から本流へは流れ込みにくくなり合流付近では氾濫がおきます。これが内水氾濫です。

 そんな時、曇川の場合、一部はポンプで強制的に排水をしていまが、それでも排水はおいつかない時があります。

     加古川駅前の水害(曇川によるの内水氾濫)

 加古川市広報(15号・昭和27年7月発行)は、加古川市内の水害を大きく取りあげています。

  写真は、昭和36年の加古川駅前通りの水害のようすです。(文字等一部変えています)

  ・・・(昭和27年)6月末から降り続いた雨は、7月に入り熱帯性低気圧の影響を受けて、さらに、ものすごい豪雨となったため各河川は刻々と増水しはじめ、2日夜8時頃には徐々に低地から浸水し始め・・・・、3日、ついに水は市街地へ浸水し、家屋への浸水.田畑の流失埋没等の被害がありました。

 毎年、雨季に発生するこうした水害の原因は、加古郡天満村に源を発する「曇川(くもりがわ)」の最下流が、市内の灌漑用水を運ぶ五ヶ井水路に直結しているため、豪雨等によって増水し、曇川樋門を通じて加古川本流への放出が困難となった場合、この水が市内の水路で通水しきれなくなり、こうした浸水を引おこします。

 この被害根絶の対策としては、曇川樋門の増設と、別府川に通ずる水路全体の改修工事の実施の外はなく、別府川へ放流する工事が完成しました。

 今後、この内水氾濫は少なるでしょう。

 *写真:加古川駅前の曇川による内水氾濫

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神野町をゆく(45) 余話・新井用水(2) 新井用水と新井郷の池

2022-03-25 10:32:55 | 加古川市歴史探訪・神野町編

    神野町をゆく(45) 新井用水(2) 新井用水と新井郷の池

 前回に続き、野口・平岡・播磨町に足をのばします

 黒く塗りつぶした池(新井五の池)に注目して下さい。これらの池は、新井用水から取水している池です。

 新井用水は、明暦二年(1656)に完成しました。それにともない、「新井用水に沿った池は不要になった」かというと、そうではありません。

 新井郷は、もともと水の得にくい土地柄でした。そのため、これらの池の水を確保するため「新井用水」がつくられました。

 用水が完成した後も十分な水はありませんでした。

 新井用水は、現在の五ヶ井用水と異なり、勾配がほとんどありません。

 そのため、新井用水を満水にして水位をあげなければ、十分に流れてくれません。

 それに、「新井用水」は「五ヶ井用水」の取入口が同じで、旱魃のときは「五ヶ井用水を優先させ、新用水の分水口をせき止める」という条件までありました。

 池をつぶして、新田をつくるという余裕はなかったのです。

 新井用水と池が共に稼動して、はじめて新井郷の水は辛うじて確保されたのです。

 新井用水の北側の池(黒く塗りつぶしていない池)は、新井用水より土地が高いため、新井用水から取水することができません。これらの池は、雨水や他の用水が水源になっていました。

 新井用水から水を得ている黒く塗りつぶした多くの池は、記録にはないのですが、古い時代につくられたようです。

 これに比べ、五ヶ井郷には池がありません。五ヶ井郷は、水を一時的にためておく必要のないほど水に恵まれていた地域でした。

 *図:新井郷の池

 

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