葉月のブログ

命題:ウイルスの糖鎖はヒトの糖鎖と同一なので病因とはならない

症例(ガーダシル)32 オーストラリア

2013-09-30 | ガーダシル症例

Sanevax に12月4日掲載



概略


2009年の初めに2回目を接種後、副作用がおこる。

慢性疲労症候群
低血圧
ポッツ

と診断された。

現在も、極度の疲労が毎日ある
一日の終わりに頭痛
手の神経的な痛み、関節と筋肉痛が毎日

つばを飲むたびに、耳がおかしい(ポップする)
難聴、
うるさいと集中できない
足がいつも冷たく、感覚がない


よい日があっても次の日がよいとは限らない、
よい週があっても次の週悪くなることもある

重度の頭痛が2分程度で起こることがある

過去5年半、疲労の問題がいつもあり、6ヶ月寝たきりになったことが2回あった
絶え間ないひどい頭痛が2年半続いた
喉が痛い、扁桃腺が腫れている
胸が痛い、めまいと黒くらみ
脚が弱く、1人で歩けない
腹痛、筋肉痛、ブレインフォグ、集中できない、記憶力が低下
胃腸の問題

すぐに病気になり、4、5週間おきに高熱になる


医者は何もできなかった
2011年の中ごろ、本当に悪くなり、歩けない、飲食できない
身体が中毒となり、臓器が機能しなくなり始めた


神経トレーニング、脳トレーニング、整体、デトックス、厳密なダイエット、サプリ、他の代替療法などすべてが健康になることを助けた

とても良くなったが、数ヶ月後に再発


過去3年、9月10月になると
 (中、南半球なので春の初め)
再び寝たきりになる

この度に、その後健康になるのが、より難しくなる


現在18歳、病気であるが、大学で政治科学の勉強をする夢があり
勉強している

友達が、理解してくれないのではないかという不安がストレスになっている
出かける約束を守れないことで、友達を失望させるかと心配している

精神的に他の子よりも早くおとなになった

2、3ヶ月以上健康でいられるよう願っている


症例(ガーダシル) 31 アメリカ アリシア

2013-09-30 | ガーダシル症例

ガーダシルが私にしたこと:ポッツとペースメーカー

2014年11月4日

アリシア・コッペル,トゥーソン米国


ガーダシルは私の人生を完全に変えてしまった


20歳のとき、私は薬剤師の認定助手として働いていました。とても健康で、運動が好きで活発でした。私は将来を楽しみにしていました。

ガーダシルは2006年にFDAに認可されました。その年の12月、21歳の誕生日の1週間前に、3回の接種のうちの最初の注射をしました。それ以来、私は以前の私ではありません。

最初の症状は、疲労、めまい、胸部痛でした。1回目の接種の1ヶ月後 (2007年1月)、胸部痛のために、地元の救急科に運ばれました。すぐに退院しましたが、3日後に人生で始めて失神しました。このため、もう一度病院へ行きました。このときは、仕事先からでした。

 

その翌日から5日間入院しました。入院中、傾斜テーブル検査を受け、陽性でした。私の症状は、不安発作に似ていました: 心拍増加 (1分間80拍から160拍以上に増加)、吐き気と熱感がありました。けれども、実際には気を失うことはありませんでした。

 

傾 斜テーブル検査のすぐ後に、電気生理学の検査を受けました。これは特別な特徴づけのためのテストで、金属の小さな電極がついた柔軟な絶縁線(電極カテーテ ル)を心臓に挿入して、心臓電気系統を調べます。結果は、陰性でした。しかしながら、テストのあとの夜に私は再び失神しました。

ポッ ツではないかという診断で、退院となりました。ポッツは、仰臥位から直立したときに心拍が1分に30拍いじょう増えることに関連した起立不耐性と定義さ れ、あるいは、ヘッドアップティルトを開始して10分以内に、心拍数が毎分120を超えることで定義されます。心拍の過大な増加は、しばしば低血圧が伴 い、直立位置でのめまい、吐き気、動悸、発熱、疲労と関連しています。

私は薬を処方され、塩の摂取を増やすようアドバイスされました。

1ヵ月後 (2007年2月)2回目のガーダシルを受けました。このときまでに、既に3回失神していました。すべて1月の間でした。2回目の注射の5日後に失神しました。その翌日、再び同じことが起こりました。

心 臓科の先生の言うとおりに薬を飲んで、塩を増やしていましたが、それでも2週間ごとに気を失っていました。これらの失神発作のため、脳震盪や、顔にアザが できたり、肩に怪我をしました。夜に運転して帰宅したあと、玄関前の私道で失神しました。翌朝、検査のため入院しましたが、心臓専門医は薬を換えました。 5日入院した後退院しました。

5 月までに、9回失神していましたので、アリゾナのメイヨークリニックの神経内科医に診てもらうことになりました。そこにいる間に、脳波をとり、自律神経反 射テストをしました。両方とも陰性でした。けれども、3回目のガーダシルをしないようにと忠告され、私の症状のすべてがHPVワクチンのためである可能性 があるといわれました。

7月1日までに、失神は13回となり、メイヨーホスピタルでもういちど傾斜テーブルテストをしました。このときも陽性でした。このときまでに、私は24時間の心臓モニターと、イベントモニターをつけなくてはなりませんでした。

24時間モニターは、私の心拍が早いことを示し、イベントモニターは不整脈を示していました。気を失うと導線がとれたり、倒れるときの衝撃で、電源コードがとれたり電池が落ちたりして、失神の発作は記録できませんでした。

2007年8月30日までに、22回失神しました。最後の発作で、腕を骨折しました。心臓科の医師は、その翌朝、ペースメーカーをインプラントすることを決めました。

こ のことは、私の生活を劇的に変化させました。私は一日に6から9個の薬を飲んでいました。私は、一日4時間しか仕事ができませんでした。私はいつもとても 疲労していたので、友人との付き合いの時間はとても少なくなりました。私は失神しないか怪我をしないかと恐れて一人で外出できなくなりました。生活が再び 通常通りになるのかわかりませんでした。

心臓科医も神経内科医もガーダシルが私の病状の原因であると示唆していました。

ガー ダシルの前、私は健康で、自分の人生を楽しみにしている独立した学生でした。代わりに、私の社交的な生活はほとんどなくなりました。フルタイムで仕事がで きないので、将来の計画は潰れました。失神発作は、1人でいることができないことを意味します。私の生活のすべてが、大きく変わりました。

ガー ダシルを受けた後のひどい経験に基づいて、私はこのワクチンを誰にも薦めません。私が3回の接種プログラムの2回を受ける前、誰も副作用の可能性について 説明しませんでした。私は、他の誰もが、警告なしに同様の状態になることを望みません。ガーダシルはすべての人に安全であるとはいえません。私には安全で はありませんでした。

7年の年月を飛ばします

今私は28歳で、結婚し、すばらしい男の子が二人います。依然、ペースメーカー をインプラントしています。

私 がガーダシルの注射をしたとき働いていた薬局の雇用主はとても理解があり、融通を利かしてくれました。私は他の機会を求めてそこを止めました。頭が朦朧と したり、めまいがしたり、心拍が制御できなくなるほど早くなったりせずに仕事を実行することが不可能であるとすぐにわかりました。私はたった6ヶ月でくび になりました。

その次の雇用主は、とても素晴らしく、もっと融通を利かせてくれましたが、専業主婦になるため仕事を止めました。

2 回の妊娠は困難でした。1回目は、妊娠高血圧腎症になりました。医師は、診断がなされるかなり前からその症状があったが、ポッツのせいでそれが隠れていた と考えています。私の血圧は、普通の人には通常から高い範囲ですが、私のもともとの血圧はとても低いので、わたしの「通常」の血圧数値は他の人よりもとて も低いものでした。

この妊娠の後、私のポッツの症状はなくなりました。

2回目の妊娠は、全く違うものでした。最後の3ヶ月、ポッツの症状が重症として戻りました。私は再び21歳になったように感じました。出産から8ヶ月たちますが、ポッツは依然問題となっています。

私 の8ヶ月の男の子パクストンは、今、健康上の問題がたくさんあります。私の中の一部が、ワクチンがまだ私の身体にあって、今彼に影響を与えているのかと 思っています。私は、妊婦や妊娠直前でガーダシルを打つと赤ちゃんにどんな影響をあたえるかという記事を読みました。それはとても恐ろしいものでした。

 

もしガーダシル或いは他のHPVワクチンを考えているのなら、決心する前によく調べてください。私はそうしたならと後悔しています。

 

薬はすべての人に安全であるわけではないことを思い出してください。


副作用症例の分類 (私見)

2013-09-30 | アレルギーという副作用

症例の分類

(1)関節炎から全身の痛みへ広がったもの

カナダのケイトリンさん


アルミニウムのデトックスで改善

デトックスの方法、
キレーション
シリカ水(毎日1.5リットルを3ヶ月)


(2)疲労

イギリスピータバラのチェルシー・タウンゼンドさん
イギリスグロスターのケイティ・グリーンさん

慢性疲労症(CFD)/筋痛性脳脊髄炎(ME)と診断される



(3)脱髄

オーストラリアのクリスティン・クルーローさん(イムノグロブリン療法)
インドのスディプタ・デブナスさん (食餌療法(グルテンフリー、良質の脂肪を摂取))

ギラン・バレー
多発性硬化症
ベル麻痺(片側顔面麻痺)


(4)てんかん様の発作があり、その後自己免疫疾患を発症

スペインのラクエルさん (抗痙攣剤とミエリンリビルダー)
イギリスのペイジさん (抗NMDA脳炎と診断)


(5)外傷から、その後自己免疫疾患を発症

スコットランドのシャノンさん (膝を階段に打ったあと、アザ、その後関節のこわばり、疲労、強皮症)


(5)感染症が疑われるもの(インフルエンザ様の症状提示など)

EBウィルス
バルトネラ菌(猫引っかき病)
ボレリア菌(ライム病)
単純ヘルペス

イギリス のルーシー・デイビスさん (翌朝、咽喉部感染)

ヨークシャのエミリーさん (ワクチン接種の3週間後に発症)

イギリスサリーのロージーさん

イギリスケントのディアナさん (胸部感染と喘息、その後痛みが胸部から全身へ、慢性疼痛症候群と診断、喘息は乳製品を除去して改善)

イギリスのルーシー・ヒンクスさん (ワクチン接種の度にインフルエンザ様の症状、その後、23時間睡眠へ、ホメオパシーで回復、その後再発)

イギリスランカシャーのローレンさん (関節痛と発疹、若年性突発性関節炎と診断、ステロイド治療)

イギリスエッセクスのメガンさん (手にしこり、蜂巣炎?痛む腫れが腰と足首、滑膜炎・結節性紅斑?毛細管漏出性症候群?)

イギリスのティーガンさん (咽喉頭、腹痛、疲労、不規則月経その他多数)

特定されていないが、患者を診断した医師が数名、感染症を示唆している。
VAERSのデータベースにもみられる


(6)すでになんらかの疾患等を有していたケース

糖尿病(アメリカのトレイシー・ウルフさん )
アスペルガー(イギリスのティーガンさん )
セリアック病(カナダのアンジェラ・スミスさん )
腫瘍 (イギリスのナタリー・モートンさんの死亡例)


症例(ガーダシル)29 デンマーク サラ

2013-09-29 | ガーダシル症例
デンマークにおけるガーダシル体験: ある家族のストーリー

2014年1月13日月曜日 シャーロット・ニールセン


私たちのガーダシル被害

約1年前、私たち家族の生活は一変しました。

末娘のサラは、2013年1月下旬に1回目のガーダシルを接種しました。

数日後、彼女は気分が悪くなり、それが何週間も続きました。4週間後、高熱が出て、喉が痛くなりました。その数日後、胴体に小さな赤い湿疹が出ました。血液検査では、特定できる感染はありませんでした。数週間、彼女は気分が悪く、微熱が続き、学校には通えたり休んだりしました。


2013年の3月下旬、2回目のガーダシルを接種しました。2日後、風呂場で気を失いました。その後の数日間、彼女は今にも気を失いそうな感じと極度のめまいと、脚の筋肉と腕がひどく痛みました。それと同時に、足の裏や手に、チクチクしたり燃えるような感覚など感覚異常がありました。

彼女は、極度に疲労していました(ほんの短距離の散歩にも行けませんでした)。食事の後に、腹痛がよくおこりました。強度で絶え間ない頭痛が始まりました。体温の調節することが難しくなりました。夜に汗をかくようになり、日中は、暑すぎたり寒すぎたり感じるようになりました。その後、もっとたくさんの症状がでてきました。


サラは週に数日、数コマの授業だけ受けに、学校に行きました。 ここ4ヶ月間は、彼女は家にいて、友達と出かけられず、日常生活もとても制限され、ごく最近になって、週に2回、家でレッスンを受けるようになりました。 (法律では、長期の病気の場合、家で8レッスンまで受けることを許可しています。)

サラは、ここ数ヶ月の間、信じられないほどの、またほとんど耐えられないほどの数の症状とその悪化に苦しんでいます。 ガーダシルの前は、健康な12歳の少女でした。地元の教会の合唱隊で歌をうたい、ピアノを弾き、週に2回ラテンダンスの教室に通っていました。今は、絶え間ない頭痛と筋肉痛に加えて、めまいと吐き気があります。


食欲がないこと、空腹や満腹を感じることが困難で、数週間で体重が突然増えたり減ったりします。 一般に筋力が落ち、ゆっくりと1.3キロ歩くことがやっとですが、痛みがあります。

·腹部の痛み、温度調節機能なし(熱すぎる//寒すぎる/寝汗)。
感覚障害:手足に刺痛み、灼熱感、しびれやだるさ。腕は灼熱感、内部は冷たい。
·皮膚、歯や関節の症状。
·疲労とエネルギーがとても低い。シャワーでも疲れる。
·痛みのため入眠が困難。
·集中困難、記憶障害。言葉に表すことが困難、読むことが困難(目がとても疲れやすい)

サラの症状の多くは、時間とともに改善しましたが、まだこれらの副作用は、ある程度残っています。


ガーダシル後の病気を診断すること

最初に、サラの耳と目を専門医にみてもらいましたが、副鼻腔炎も視覚の問題も、また絶え間ない頭痛を説明する何の異常もみつかりませんでした。サラは、大学病院の小児科でも検査しましたが、何の結果も得られませんでした。すべての検査結果、CT やMRスキャンにも、異常はありませんでした。陽性であったのは、ビタミンDのレベルが低いことでした(デンマークでは、比較的よくあることです)。一般医により、シナプス脳炎、脳血管炎、神経障害のテストを(デンマークセラム研究所)手配しましたが、結果はすべて異常なしでした。

カイロプラクティスの 神経学者が、彼女の症状が自律神経系によるものであることを見つけました。彼の施術(機能性治療)は、頭痛もめまいものぞくことができませんでした。したかって、彼の結論は、ガーダシルのための中毒反応であろうというものでした。


小児科病棟では、そのような結果にはあまり興味がないようでした。私たちは、病院や一般医のクリニックでは、傲慢で懐疑的な態度で迎えられました。それはちょうど他の多くの患者が、医療システムを利用するときに同様の体験をしたことを述べているのと同じでした。

2013年8月、たまたま聞いたスイスの外患クリニックへ行きました。私たちは、Paracelsus (www.Paracelsus.ch), Lustmühle, Switzerlandに2週間滞在しました。スイスアルプスにあるバイオメディカルクリニックでのホリスティック治療(統合治療)です。

可能な限りすべての治療は自然のものを用い、必要なら、従来の医薬品が処方されます。サラは、そこですべての種類の治療を受け、サプリメント、ホメオパシー薬、栄養学の食餌を帰宅してからも実施し、さらに、ヤドリギ(Mistletoe)の皮下注射も受けました。

Paracelsus の診断は、

2013年3月26日に2回目のガーダシル 接種後に重度の中毒反応があり、後天性ミトコンドリア異常症と線維筋痛症候群を発症させた

というものでした。

さらに、娘は、デンマークの病院の内科医により(小児科ではなく)、ポッツであると診断されました。ポッツは、ガーダシルの副作用として保健機関に報告されています。ポッツの症状を緩和するために、病院からアドバイスを受けました。医薬品によるという選択肢もありますが、それは症状を処置するだけです。

基礎的な障害は、Paracelsus, Switzerlandにより治療することになりました。それが、根底にある病状と傷害を治癒するために最も有望だと思われました。

ガーダシル後の病気のために、研究者や内科医と協力すること 残念ながら、どの治療法を選び(お金を払うか)は、それぞれの家族や患者が決めることです。私たちは、スイスへ行き、時間がかかりますが、快復へと向かっていることがわかります。


私たちは、海外の研究者とも連絡をとっています。わたしたちは、間接的にですが、イスラエルのYehuda Shoenfeld教授からもアドバイスを受け、アメリカのGarth Nicolson教授により推奨されているLipid Replacement Therapyの治療をしています。娘は、 “NTFactor ATP” 粉末を4ヵ月半とっています。スイスの医者は、この食餌サプリを歓迎しています。

Yehuda Shoenfeld,教授は、ワクチンのアジュバントによる自己免疫・自己炎症症候群について研究しています。Lucija Tomljenovicと共同で、ガーダシルに関する副作用の症例をいつくか発表しています。

Sin Hang Lee は、アジュバントに結合したHPVのDNAの組換え体がガーダシルに残存していることを研究し発表しました。かれは、9つの国から得た16個のHPVワクチンのサンプルを調べました。

Shaw and Tomljenovic は、ガーダシル接種ということ以外は原因不明の突然死で死んだ2人の少女からの脳組織を調べ、ガーダシルと自己免疫性血管炎の関連を発表しました。その研究は、ガーダシルに含まれるHPV-16-L1 抗原が血液脳関門を通過することを示しました。これが脳炎を引き起こし、2人の少女の死をもたらしたのかも知れず、同様のケースが他にもあるのではないかと思われます。

Gary Null, PhD and Nancy Ashley VMD は、「ガーダシル – A Deadly Vaccine”」という記事で、重篤な病状と死亡したケースについて述べています。

彼らはすべて、ガーダシルと死も含む重度の副作用との明らかな関連を示す指標を見つけました。 より多くの研究者がこれらの関連と因果関係を見つけることで、医学が治癒を見つけることにより近づくでしょう。 これは、部分的には既に起こっています。

ドイツでは、2人の内科医が、ホメオパシーのノソードを作り、ガーダシルが起こした損傷の一部を中和しようと試みています。今のところ、有望な結果が得られています。けれども、この研究はもちろんドイツやデンマークの保健当局からは受け入れられることも尊重されることもまだありません。

症例(ガーダシル)28 ドイツ

2013-09-28 | ガーダシル症例
ドイツ語からの英語への逐語訳を、日本語に意訳したものです。

英語へのリンク


私は、2012年の夏に、かかりつけの小児科医から1回目のHPV ワクチンを受けました。2日後に、脚に力が入らなくなり始めました。このため、私はとても不安になりました。特に、体育の時間、脚がとても重く感じました。このため、小児科医は、2回目のワクチンを打つのを待つことにしましたが、2ヶ月後、症状が改善したので、2回目のワクチンを受けました。

そのすぐ後、循環障害が起こり、光に過敏にあり、時々視界がぼやけるようになりました。

先生が言っていることに集中するのが困難になり、どんなにがんばっても、授業についていけなくなりました。脚が重く、また不安定であったので、体育の成績は落ちました。脚の筋肉は細くなり、筋肉のいくつかは無くなったように感じました。生理痛がひどくなり、呼吸が難しくなり、嘔吐し、死んでいくのかと思いました。毎月生理が始まるのが恐怖となり、私はピルを飲み、その後、かなり良くなりました。

2013年1月、太股の痙攣が悪化し、極度の眩暈が再発し、まるで誰かに投げ飛ばされているように感じ、口の中に唾液が溜まり始め、嘔吐しました。食べ物が身体に合わなくなりました。

小児科医は、これらの症状が説明できなかたので、母は、小児病院へ私を連れて行きました。そこで、神経に関するテストをしましたが、結論もなんの解明も得られませんでした。数週間後、背中の痛みが始まり、それは今も続いています。それはまるで、背骨が動いて神経を圧迫しているように感じました。また、息をするのが困難になりました。それはまるで、重いものが肺を押しているような感じでした。足の爪は食い込むようにのび、手の爪は絶えず割れるようになりました。

5月には、常時、吐き気を感じるようになりました。胃に、燃えるようなそして刺すような感覚があり、 再び病院へ行き、今度は、消化管の検査をしましたが、何の異常もみられませんでした。

手で持ち運ぶことができなくなり、腕全体から顔までにちくちくといた痛みがありました。私は、それを引っ張りだしたいという気持ちに急き立てられましたが、誰も私のことを理解できず、私のことを笑い、赤ん坊のように振舞うのをやめなさいといいました。病院では普通の食事を食べましたので、毎日、さらに気持ちが悪くなっていきました。両目の下に、黒いサークルと窪みができました。私たちは助けを求めて病院に来ましたが、そこにいると日々悪化しているように感じました。一般医たちは検査をし、私は、精神病院でそれらの症状と折り合って生きなくてはいけないといいました。

家にもどり、小麦粉、トマト、酢、砂糖を避けることで、吐き気がすこし良くなることがわかりました。まるで毒を盛られたように感じました。

次に、皮膚が過敏になったように感じ、背中が不安定になりました。四肢を回したり、誰かが背中に触ると、肩がひきつるようになりました。お腹がすくと、目が重くなり、鼻粘膜が膨れ、食べないと、目がかすむようになりました。

背中の痛みは夕方と夜の間、悪化しました。私の友達の誰も私の苦しみがわからず、誰も理解できませんでした。

私は一般医たちへの信頼を失いました。ワクチンの前、私は有望なバスケットの選手になる予定でした。その夢も取り上げられ、私はプレイできないことがとても辛いです。スポーツはいつでも私にとってとても大切なものでした。時々、スポーツは私を助け、時々スポーツは悪化させました。誰も私のことを理解できず、私は捨てられたように感じていました。私の体育の先生は、クラスメートの前で私のことをを笑います。なぜなら、彼は人生の浮き沈みを理解できなかったからです。

症例(ガーダシル)27 アメリカ ヘイリー

2013-09-27 | ガーダシル症例
ガーダシル: 転換性障害か? 私は違うと思う!

2014年7月18日
タマラ・トゥーサンーブラウン, Loveland Colorado


ヘイリーの話の始まりは、他の多くの人たちと同じです。彼女はいつも何らかのスポーツをしていました。体操、ダンス、クロスカントリー、陸上競技、フラッグフットボール、バスケットボール、ソフトボール、それから屋外での活動、自転車、ロングボード(スケートボード)や友達と遊んだり、など。彼女が出る大会はいつも家族で応援に出かけていくのが楽しみでした。彼女はとても幸せで、学校ではいつも恥ずかしがりやで静かでした (彼女の先生たちはいつも、彼女のことが大好きで、とてもいい子だけれど、もう少しおしゃべりしてくれたらと、言っていました。)

医者に行くのは、ワクチンの接種と、スポーツ活動のための検査と、数回の怪我のためだけでした。ヘイリー は、2008年6月26日(?)に1回目、2009年9月24日に2回目のガーダシルを受けました。

2010年1月の終わりに、彼女は中学1年生で13歳の誕生日を迎えていました。私たちは、Estesの幽霊屋敷Stanley Hotel への旅行を計画していました。1月の上旬に、彼女が2回ほど気分が悪くなって吐き戻していたことを今思い出します。彼女が回復した時、ホテルへの旅行にいくのに元気になれてよかったと思いました。

幽霊屋敷では、彼女は草地のゆるい傾斜で滑って転び、手首を骨折しました。私たちは、幽霊が彼女を押したのだと、冗談を言いました。

2010年2月の前半、右側 (胆嚢)に刺すような痛みと、吐き気がありました。最初は、医者はホテルで転んだことによる痛みだと思い、理学療法と鎮痛剤を処方しました。 それらは効果がなかったので、医師は、筋痙攣があるのか、便秘しているのではと言い、軽い下剤を処方しました。 ヘイリーは、便秘が問題ではないことはわかっていました。

私たちは何度も診察所を訪れ、ただ問題を隠すだけ医薬品を処方しないように頼みました。私たちは、何かがとても悪いことに気が付いていました。 医師は、彼女が、日常の検査診察以外に医者にかかっていないことは、カルテから知ることができました。

ヘイリーは繰り返し、刺すような痛みと吐き気を絶え間なく経験していることを説明しました。 4月に診察に行ったとき、医師は、春休みの間はどうだったかと聞きました。この質問は、彼女が学校に行きたくないので病気のふりをしているのではないかとほのめかすものでした。私は、「実際、今が春休みの最中で、彼女はとても惨めである」と答えました。

信じられないことに、医師らは、UTI (尿路感染症)、筋痙攣と便秘のための薬を処方し続けようとしていました。 2ヶ月半の間、彼女が泣きながら、身体を丸めて苦しんでいるのみて、私はさらに助けを求めて医師を探し、医師は、hydascan (特別な核染色テスト)を手配しました。このテストで、胆嚢が通常の10%未満の能力しか機能していないことがわかりました。

2010年のイースターの2日前に、彼女の胆嚢を摘出しました。外科医は、胆嚢には、スラッジも欠陥もなく、健康に見えるのでどうして機能していないのかわからないと言いました。

ヘイリーは、胆嚢に問題がある場合の症状には合いませんでしたが、私たちは、答えを与えられ、先に進むことができるので満足でした。彼女の気分はよくなるでしょう。刺すような痛みはなくなりました。彼女は胆嚢がなくなり、食べ物の影響を受けるようになりました。どの食品が食べられどれが食べられないかを見つけだすのに、時間がかかりました。

2010年9月、問題が再開し、病院や診療所に戻りました。今回、私たちは胆嚢によるものだと思いましたが、刺すような痛みは、今回は、右下側に戻ってきました。 医師たちは、卵巣嚢胞があるかもしれないといい、11月の最初の週に、産婦人科を受診しました。診療所では、経口避妊薬とバイコジンVicodinが処方されました。

11月末までに、ヘイリーの痛みはとてもひどく、かかりつけ医は、もう一度産婦人科にみてもらうよういい、産婦人科の医師は、これは、嚢胞とは関係ないものだといいました。女医は、虫垂炎かもしれなと思い、病院の入院手続きをしました。 病院に2晩入院して、たくさんの検査をしましたが、原因は不明でした。彼らは、彼女が「ミステリー」だと言いました。

かかりつけ医は、ストレスによって胃が酸を過剰に産生していると考え、制酸薬を服用すべきだと言いました。 刺すような痛みに苦しむ娘を見て、私は答えを求めて他の医師を探しました。小児病院へ行き、胃腸科医の診察を受けました。クリスマスの前の週、虫垂と、破裂した右の卵巣の小さな嚢胞を摘出しました。 再び、外科医は、虫垂が健康に見えると言いました。

今、彼女には、胆嚢も虫垂もなく、嚢胞のために経口避妊薬を飲んでいます。彼女は、今から、よくなり続けるでしょう。

ヘイリーの奇妙な新しい症状のすべてにもかかわらず、誰も、ガーダシル ワクチンと関係している可能性を考えませんでした。2011年3月9日に、3回目で最後の接種を受けました。

すべての苦しい体験を通して、彼女の先生たちは、よく理解してくれて、助けてくれました。彼らは、ヘイリー を良く知っており、彼女の具合が悪いことに、とても同情してくれていました。彼女は、スポーツを再会したいと強く願っていました。走ることは、彼女に痛みを起こし、また疲れさせました。私たちはこれが手術のせいだと思っていました。

ヘイリー は中学3年生になる前に、体操を再開し、脚のリスフラン靭帯を損傷しました。彼女は、ギプスのため、高校のソフトボールシーズンを始めることができませんでした。 高校1年生になる前の夏、高校のソフトボールの練習に参加して、シーズンを始めました。学校が始まるや、屋外での応急処置レッスン中に、足を蜂に刺されました。

ヘイリーは以前にも刺されたことがありますが、アレルギー反応はありませんでした。けれど、今回は、足がとても腫れて、2週間の間、ソフトボール用のシューズがはけませんでした。

練習に戻るや、チームメイトとのウオームアップの間にボールが顔に当たりました。脳振盪のため、シーズンのほとんどの間、プレイできませんでしたが、シーズンの終わりまでには、再びプレイできるようになりました。


1月のヘイリーの16歳の誕生日の後、彼女は、ほぼ3ヶ月の間、ガンガンする頭痛と、毎日、一日6回に及ぶ嘔吐を経験しま した。私たちは、新しい家庭医にかかっていました。彼は、たくさんの検査を手配しましたが、すべて、異常なしでした。ふたたび、「ミステリー」病でした。 医師は、Prilosec (抗潰瘍薬;プロトンポンプ阻害)を試してみるべきだと考えました。これは役に立たず、医師は、小児病院の胃腸科医に再び見てもらうよう手配しました。そ こで内視鏡検査を行い、胃に胆汁がみつかり、胃の内膜が炎症していることがわかりましたが、原因はわかりませんでした。

胃腸の問題だけでなく、絶え間なく続く頭痛がありましたので、脳震盪クリニックでの診察を再び受けました。そこで、彼女の症状を、脳震盪後症候群と考えるには、先の怪我から時間がたちすぎているということでした。

この期間を通して、私たちは言われたことはすべて行い、行くように言われたところへはどこでも行き、推奨された検査はすべて行いました。なんの質問もしませんでした! 彼女の医師は、「彼女はミステリーで、私たちはおそらく自分の尻尾を追いかけているようなもので、見つけるべき答えは存在しないのかもしれない」と言いました。

今、2014年になり、彼女は学校を何日も休んでいます。先生は、彼女の具合が悪いことがわかっており、学習すべきことを手伝ってくれます。 今年の1月と2月に、嘔吐と頭痛が止まりませんでした。救急病棟に戻り、血液検査やスキャンをしましたが、すべて異常無しでした。

今、医師たちは、彼女がストレスにさらされていて、そのストレスが、彼女の「ミステリー」な新しい病状を発症させていると、繰り返すようになりました。こ れには、もちろん私たちは不満です。うつ病が、私たちの娘の新しい病気の原因ではないことは、私たちは知っています。医師たちが、うつ病のせいであると主 張することは、それ自身、憂鬱にさせるもので、落胆させるものです。

2014年の2月の中ごろ、彼女は、あるタイプの小さな発作を起こし始めました。私が仕事から戻ると、娘は床の上に倒れて、とても取り乱して、恐れていました。彼女は、心臓がどきどきして、脚が硬直して、震えながら床に倒れたといいました。 私は医師に電話をし、彼らは救急病棟の手配をしました。ERの医師は、CAT スキャンと血液検査をしましたが、すべて正常でした。医師は、ヘイリーが明らかに鬱状態になっており、それがこのすべての原因だといいました。

この診察のとき、私たちは、病院のカウンセラーと話しました。このときに、私たちはガーダシルであることが気が付きました。2010年1月の胃の問題の4ヶ月前に、2回目のHPVワクチンを受けていたことに気が付きました。

私たちは、家庭医を訪れて、HPV ワクチンが原因かどうか聞きました。彼の答えは、「ここでVAERS のレポートを見ているのだが、副作用が報告されていることを示すもの何も見当たらない」と言いました。

彼は、「転換性障害」ではないかと思うといい、それを紙に書いてくれました。それは、彼女の気がおかしいとか、わざとやっているのだといっているのではな く、 彼女の脳がこのすべてが起こることの原因となっているのだといいました。私はすぐに、「あなたが言っていることは、彼女の脳が、胆嚢が機能するのを止めさ せたということですか?”と質問しました。

彼の答えは、「それが、これらすべての根本の原因であったかもしれません。彼女は、答えのないミステリーな病気をたくさん経験したので、話を聞いてもらうために、精神科医に診てもらうべきです」といいました。

彼はさらに、これ以上答えのない検査をするべきではなく、私たちはただ同じ場所をぐるぐるまわるだけだといいました。

私は、彼女の症状がガーダシルと関連している可能性を少なくとも除外するためのテストがあるかどうか聞きました。

彼の答えは、「まだそういうものなない」というものでした。 2014年4月に、ヘイリー は再びとても具合が悪くなりました。今回は、彼女の喉と顔が腫れ始めました。そこで、救急病棟に行くようにいわれ、検査の結果、伝染性単核細胞症に陽性でした。2週間毎日嘔吐し、頭痛と眩暈がありました。

今、私たちは、ヘイリーに何が起こっているのかよりよく理解しています。知っているというだけで、この悪夢を通り抜けることには役に立ちます。私たちは、答えを捜し求めることで、それを得る望みを捨ててはいません。


以下、過去4年間の彼女の多数の症状のいくつかのリストです。

吐き気、
嘔吐、
頭痛/刺すような頭痛、
刺すような腹痛、
めまい、
胸痛、
疲労、
関節痛、
息切れ、
心臓のどきどき、
腰痛、
首痛、
皮膚の発疹、
発作の症状、
ブラックアウト、
足の痛み、
腹部膨満/腫れ

以下が、過去4年間に、彼女が処方された薬のリストの一部です。

アミトリプチリンAmitriptyline
セファレキシンCephalexin 
flexeril
ケフレックスKeflex 
メロキシカムMeloxicam 
プロメタジンPromethazine 
コンパジンCompazine 
ナプロキセンNaproxen 
オメプラールPrilosec dr 
ラニチジンRanitidine 
ゾフランZofran  
シプロヘプタジンCyproheptadine 
プレドニゾンPrednisone 
メクリジンmeclizine 
アモキシシリンamoxicillin 
トラマドールtramadol 
イミトレックスimitrex 
trokendi xr 
Carafate 
Sprintec 
オキシコドンンOxycodone 
オンダンセトロンondansetron
FLEXERIL DR 
trokendi  
Carafate XR 
スプリンテック Sprintec

これらの薬のいくつかは、何回も処方されました。もしこれらのどれかが効果があったなら、私たちは、答えを探すことを止めたでしょう。この時点で、同じ状況にいる他の人たち助けを探し求めることが、答えを得るための唯一の望みです。私たちには他の選択肢はありません。

私は、娘を疑わなくてはならないような状況にさせられたこと憎んでいます。医療関係者が、これが思春期のホルモンやストレスのせいだと私を納得させようとしたことを憎んでいます。

娘がとても苦しむのを見ていること、医療専門家からの疑いと弁解以外の何も受けられなかったことが、どんなに困難なことであったかを言葉で言い表すことはできません。ヘイリーにとってそれがどんなに困難なことであったかは、私は想像することしかできません。

にもかかわらず、ヘイリーは苦しい試練の間中いつもしっかりとしていました。彼女は、家族や仲良しの友達、先生からから支えてもらっています。 私たちはみな彼女を支え続け、彼女のために答えを見つけるために闘い続けるでしょう。


コメント欄から


ヘイリーさんの記事へのコメントです。

グレンダさんはカナダ、オンタリオの在住で、娘のアンジェラさんの記事 は以前訳しました。どうしたかずっと気になっていましたが、最近 POTS(ポッツ) であると診断されたようです。


グレンダ・スミス

ヘイリーの苦闘してきたことを聞いて、とても残念に思います。私の娘のアンジェラも全く同じです。

彼女たちが医療システムから受けたサービスは、本当に失望させるもので、暗澹たる気持ちにさせるものです。

私たちの娘は、信頼していた医師たちには十分失望させられ、自然療法医師たちのことをもっと信頼するようになりましたが、私たちは、ちょうど、神経内科医で、自律神経系疾患の専門医であるDr. Blitshteyn を見つけました(他の少女に紹介してもらいました)。

アンジェラを診察して、本当にすべての症状を理解して(それ自体がミラクルでした)、10分以内に、POTS(ポッツ)と診断しました。

女医は、この恐ろしいガーダシルワクチンのために同じ病気を発症した他の少女たちを治療しています。

私たちはオンタリオから車で診察に行きましたが、私たちが今まで話した最善の医療関係者です。

もし彼女に診察をうけることや連絡をとりたいと思いでしたら、彼女のウェブサイトdrblitshteyn.comを訪問してください。

母親と少女のサポートページを既に見ていたら、既に彼女の名前に気が付いたかもしれません。

どうぞ、気持ちをしっかりと保っていてください。

娘たちが苦しむのを見るのは本当に辛いことです。

アンジェラもすべてのスポーツができなくなって3年以上になります。

高校の間中、病気でした。ヘイリーは1人ではないことを伝えてください。あなた方お2人のために深く祈っています。

私たちの娘たちを必ず快復させましょう。グレンダ・スミス

症例(ガーダシル)26 アメリカ ケイティ

2013-09-26 | ガーダシル症例
ガーダシル: それは一生後悔しつづけるであろう選択であった

2014年2月4日

キム・ロビンソン、レッドヒル、ペンシルバニア



すべての点において、私たちの娘はHPVワクチンの前は異常がありませんでした。ケイティは、学校の成績もとても良かったのです。彼女は、誠実で、頑張り屋で、良い成績をとることに誇りを持っていました。彼女はダンスが好きで、3歳のときからダンス教室に通っていました。ケイティは、家の中でもどこにいても、いつでも回りながら踊っていました。ケイティは10歳のときにチアリーダーを始め、競技大会にも出場するようになりました。彼女はとても活発で、毎週4時間のダンス教室と、競技チアリーダーのチームでさらに何時間も練習していました。ケイティは健康で元気な女の子でした。


私たちは、子どもたちの健康にはとても注意していました。毎年の健康診断を欠かしたことがありませんでしたし、小児科医が推奨するワクチンも毎年のインフルエンザも含めて従っていました。私たちの小児科医がガーダシルワクチンを薦めました。ガーダシル ワクチンはテレビで派手に宣伝されていました。ワクチンの詳細についての文章も読みました。そこに書かれていたのは、このワクチンはHIV保菌者にはすべきではないということでした。 ケイティはHIVに感染していませんから、同意書に署名しました。


2010年9月2日、11歳のときに, ケイティは最初のガーダシル ワクチンを受けました。ケイティの中学の入学日は、2010年9月7日でした。最初は、疲労や頭痛が中学のため朝今までよりもずっと早く起きなくてはならないことのためだと思っていました。けれども、彼女は、新しいスケジュールになれることがまったくできず、症状は爆発的に悪化し始めました。ケイティはよく私たちに「どこが悪いのかわからないのだけれど、気分が悪い」といっていました。彼女は、一日12時間以上眠り始め、週末はもっと長く寝ていました。それは、数日学校へいくのに十分なエネルギーで、その後、ダウンしました。学校やダンス教室やチアリーダーの練習をミスするようになりました。やがて、彼女の病気は、外からも見えるようになりました。ケイティは、健康に見えませんでした。目の下に黒い隈ができ、皮膚の色が灰色になり、気力がなくなったようにみえました。


私たちには、彼女の症状はガーダシル ワクチンに関連しているに違いないように思えました。ケイティの最初の症状は、このワクチンを受けた後に始まりした。インターネットで検索しましたが、みつけた情報はあいまいで、娘の症状に合うものはありませんでした。ガーダシル ワクチン が彼女の症状に関連している可能性があるかどうか、ケイティの小児科医や他の専門医にたずねたましたが、私たちの質問はすぐに何の関連もないと否定されました。ケイティの最初の症状は、鎮痛剤の効かない頭痛や偏頭痛が常時あること、日中続く両耳の刺すような痛み, 睡眠で回復しない疲労、腹痛、吐き気、関節痛でした。私たちは、彼女の小児科医に何度も電話をし、診察してもらいました。ケイティは、神経内科医, 耳鼻咽喉科医、消化管医、産婦人科医などの専門医の診察を受け始め、また救急科へも何度か行くことになりました。たくさんの血液検査、コンピューター断層撮影、MRI検査も受けました。どの医者も、ケイティの症状を軽減することはできませんでした。彼女の症状を緩和するために処方された薬は、むしろ、彼女の気分を悪くするだけでした。罹り付けの小児科医と、ケイティの症例にかかわった他の医師らは、ケイティの病気が、心身のもので、心理学者にみてもらうのがいいとほのめかし始めました。他からは助けが得られず、私たちでは理解できない医療問題を自分たちで何とかして娘を助けなければならないのだと悟りました。


インターネットでケイティの症状を検索すると、検索結果にはライム病がいつも挙がっていました。ケイティの医者たちにガーダシル ワクチンがケイティの病気の原因かを尋ねると同時に、ライム病が原因である可能性があるかも訪ね始めました。2010年10月、ケイティはライム病の検査を受けました。結果は陰性であり、その後の2回の検査でも結果は同じでした。インターネットで、ライム病用のELISA とウエスタンブロットの検査は信頼できないもので、実際にライム病の多くの人が陰性になると書いてあるのを見つけました。この情報はインターネットによくみられたので、医者にとっては常識的な知識だと思っていました。けれども医者たちは口をそろえて、この情報は本当ではなく、ライム病の検査はとても信頼できるものであり、ケイティはライム病ではないと主張していました。2011年4月、ケイティはもう学校へは行けず、ダンスもチアリーダーもできませんでした。痛みと疲労のため、消耗しきっていました。どの医者がしたことも何の軽減にもならなず、にもかかわらず、どの医者もライム病かガーダシル ワクチンが彼女の病気に関連していることを考えようとしませんでした。


ケイティの症状を挙げると、不断の頭痛と偏頭痛、不断の刺すような耳の痛み、聴覚過敏、疲労、腹痛、吐き気、すべての関節痛、不断の喉の痛み,視覚障害、光過敏,記憶や理解などの認知の問題、偶発的なしびれやピリピリ感、皮膚を虫がはっているような変な感覚、全身の脱力 (シャワーやお風呂にただ座っていることも困難)、めまい、失神、心臓の動悸でした。彼女は長いこと眠り、日常の音から逃れるために自分の寝室に閉じこもっていました。



5月に、ダニ媒介病の検査を専門にする研究所に検査を依頼しました。ケイティの小児科医は、気がすすまなそうに検査要求書 に署名しました。このときの結果は、ケイティが、バルトネラ・ヘンセラに高度に陽性であることを示していました。それは、ライム病と一緒に感染することで 知られるダニ媒介病です。彼女は、それだけでなく、マイコプラズマ肺炎にも高度に陽性であり、検査結果は、彼女の免疫系がうまく働いていないことを示して いました。ライム病のためのウェスタンブロット検査は陰性でした。


これらの結果を、予約をとるのに長い時間がかかったCHOP診断センター (ここは、小児科版のテレビ番組のドクター・ハウスのようなものです)と、CHOPの神経内科医の診断に持参しました。 ケイティは胸部の周りと腰部に古典的なバルトネラの発疹 (皮膚がぴっぱられた、紫と赤の妊娠線のようにみえます)もありました。これは、バルトネラ感染を確認するものです。二人の医師は、これらの検査結果はケ イティが過去にバルトネラに「暴露」したことだけしか示しておらず、現在活発な感染があることを意味するものではないといいました。2人とも、彼女のバル トネラ発疹は皮膚が引っ張られたマークだという同じ結論でした。これは私たちにとってとくに信じ難いことでした。ケイティは、何年ものダンスとチアリーダ で筋肉質で痩せていました。


どちらの医者も、強烈なマイコプラズマ肺炎感染についても、検査結果が彼女の免疫系の損傷を示している事実にも懸念しているようではありませんでした。代 わりに、CHOP 診断センターは、自律神経障害 (自律神経系の異常)の初期段階であると診断しました。治癒する方法はなく、症状を薬で管理するといわれました。CHOP の神経内科医は、CHOP 診断センターの診断に賛成しませんでした;その代わりに、女医は彼女の以前の診断である、慢性耳痛神経痛を伴う慢性偏頭痛疾患だといいました。神経内科医 は、一日20帖剤の以前と同じ処置を続けるよういいました。これは、彼女の吐き気と頭痛を悪化させる以外の何の効果もないにもかかわらずでした。私たち は、全く信じられずに、失望し、怒りがこみ上げてきました。


私たちは地元のダニ媒介病に罹患した人のサポートグループを見つけ, LLMD (ライムに精通した医者)を推薦してもらいました。ケイティの1回目のLLMDによる診察は、2011年6月でした。この医師は、1時間かけて、血液検査 の結果や診療報告書をみたり、今まで聞かれなかったらたくさんの質問をしました。彼はケイティ がライム病であることを臨床的に診断し、バルトネラヘンセルとマイコプラズマ肺炎の陽性を示す検査結果に賛成しました。彼はケイティの病気がとても重いと 言いました。皮肉なことに、そのニュースを聞いて、私たちはとても安心しました。彼は、ケイティの病気が9ヶ月以上前に始まって以来、彼女が病気であるこ とを認めた最初の医者でした。それ以降、ケイティは、慢性連鎖球菌、ヒトヘルペスウイルス6型, 血液凝固性低下, 生体毒素病への感受性 (カビや環境への敏感性) と診断され、自己免疫甲状腺疾患に罹患しています。


ケイティがガーダシルワクチンを受けてから3年半になりますが、彼女は依然として慢性的に病気です。中学1年と2年の間は 学校に通えませんでした。今年、ケイティは、高校に進んで病気であるよりも、中学2年をもう一度やることに決めました。 ケイティは学校でIEP プランに登録しており、3つの主要教科だけを受けています。残念ながら、ケイティ は規則的に学校に通うにはまだ病気が重すぎます。ほとんどの日は、休んだ授業の復習のため先生が家まで来てくれます。ときどき、ケイティの痛みのレベルが 強すぎて、勉強することもできません。彼女は、またダンスをすることを本当に望んでいますが、ほとんど日を、部屋で眠ったり休んだりして慢性的な痛みと 闘っています。14歳で、ケイティの生活は、そうあるべきティーンの元気ではつらつとしてものではなく、病気の老人と似たものとなっています。


ケイティが最終的にダニ媒介病と診断された後、ガーダシル ワクチンについての最初の疑惑は保留にしていました。ダニ媒介病の治療は、新興している医療なので、私はいつもインターネットを使って、ダニ媒介病、最新 の研究や治療についての新しい情報を集めていました。信じられないことに、ガーダシル ワクチンが潜在型のバルトネラ感染を活性化するという記事を見つけました。潜在型の感染は、ワクチンの前の正常な免疫系により抑制されていたということで す。私たちの最初の疑惑が正しかったことを、今は信じています。


私たちは、ワクチン後の破壊的な健康の変化に関しての手記をたくさんみつけました。これらの手記は、私たちの娘のものと恐ろしいほど似ています。ガーダシ ル ワクチンは、エプスタイン・バーはバルトネラなどの潜在型の感染を活性化することが知られています。ガーダシル ワクチンは免疫系の調整を破壊し、それによって、ワクチン前には正常に機能していた免疫系によって管理されていた潜在性の感染やウイルスを、ワクチン後に 活性化します。現在、HPV ワクチンが自己免疫疾患の発症に関連しているという証拠があります。


私たちは最近、ケイティのLLMDとかかりつけの医師に相談した、ケイティのワクチン歴と医療記録のすべてをチェックしてもらいました。2人とも、ケイ ティの免疫系がガーダシル ワクチン により破壊され、彼女の次々とおこる健康上の問題と慢性的な病気のの触媒となったことに賛成しました。ケイティの LLMDは今は、多数のダニ媒介病の治療や他の感染、ウィルスや自己免疫甲状腺疾患に追加して、ワクチン被害のためにも治療しています。


今の時点で、私たちは、保険会社の適用外で、ほとんどが自費となっています。ケイティの病気の全費用は、私たちの収入を大きく上回っており、多くの費用 は、クレジットカードでの借金となっています。けれども、最大のコストは、ガーダシル ワクチンが私たちの娘の健康と幸福を奪ったことです。彼女が健康を取り戻し、痛みのない普通の生活に戻れるのでしょうか。


私たちは、ガーダシル ワクチンに同意したことをとても後悔しいています。ワクチンの後に重篤な副作用があることなど考えませんでした。毎日、もっと情報があったらと思います。 ご両親方へ、医者の薦めるワクチンスケジュールに盲目的に従うことに注意してください。あなたの医師がすべてを知っていると期待しないでください。自分で 調べて、たくさんの質問をしてください。私たちの家族は、ワクチンが長く続く破壊的な影響を与えることが可能であることを、とても厳しい方法で知ることに なりました。

症例(ガーダシル)25 オーストラリア クリスティン

2013-09-25 | ガーダシル症例
ガーダシル後の回復への道

2014年5月14日
クリスティン・クルーロー



私の名前はクリスティン・クルーローです。31歳で、オーストラリアのニューカッスルに住んでいます。私は数年前に「私のガーダシル体験」という記事を書きました。この最後の記事が3年以上まえでしたので、私の現在の状況をお伝えして、あなたや、同じような病気で苦しんで意あるあなたの知人の役に立てればと思います。


2008年、3回コースのガーダシルワクチンの2回を接種しました。すぐに、私は、走ること、スキップすること、飛び跳ねること、踊ること、ハイヒールの靴を履くことができなくなり、その後、ヒールのない靴でも歩くことが困難となり、そしてまっすぐに歩けなくなりました。字がかけなくなり、そして話せなくなりました。切り傷や打ち身が治るのに何ヶ月もかかるようになり、さらに不器用と運動障害により、切り傷や打ち身が何倍にも増えていました。いつも気分が悪く、吐き気、「ブレインフォグ」がありました。身体の右側が、脳卒中の後のようにだらりとたれていました。どんな小さなことでも成し遂げようとすると身体全体が震えました。


2回ほど合計8用量の静脈内 (IV) メチルプレドニゾロンが投与されました(それぞれ3および5用量)が、症状は悪化しました。主に右側に限定されていた特徴的症状が身体の左側にも広がり、悪化していました。


広範なフィジオと運動、またフルタイムの仕事にもかかわらず、私の身体は悪化し続け、2009年6月には私の主治の神経内科医は「何か見逃している」と言いました。


私は、ポジトロン放出断層撮影 (PET) スキャンを受けました。PET スキャンは磁気共鳴画像 (MRI) スキャンと似ていますが、より詳細な結果が得られます。患者にグルコース樹脂を注射し、それが身体の問題となる部分を強調します。私の場合、それは、私の小脳のスイッチがオフとなっていることを示しました。私は、急性散在性脳脊髄炎(ADEM)と呼ばれる病状である診断されました。それは脳の免疫介在性疾患で、ワクチンの後に発症する可能性があります。


この時点が、最悪の症状でした。私は歩けず、字が書けず、ほとんど話せず、ほとんど食べられませんでした (食べ物を口まで運べませんでした)。私の神経系、免疫系、神経を取り囲むが溶けていました。私は、改善の望みがほとんどありませんでした。 このような状況に直面したときには、2つの選択肢があります。闘争か逃走かです。この状況から逃げることは、改善にはなりません。闘うことが唯一の選択でした。より困難な選択肢ですが、私は挑戦にしり込みするタイプではありません。


この一瞬のため、私の人生、私の目標、私の価値、家族の重要さ、所有物、すてべの問題を私は再評価することになりました。私が学んだことは、健康無しには、無力であるということでした。また、最大の恐怖心から、最強の信念がでてくることも学びました。


私は神経科学と神経可逆性について研究し、脳が自己修復することを信じました。医師の指示で2年間フルタイムの仕事を止めました。


ガーダシルに集中するかわりに、大学に戻って、教育学(中学高校)の修士号を修めました。毎日、広範なフィジオ、スピーチセラピー、作業療法、水治療法と、何時間もの研究、運動、無数の活動を行いました。


28日ごとに、入院してIV 免疫グロブリン (IVIG)を受けました。これは、私の ADEMの診断のため治療でした。

IVIGは、限られた量の薬剤で、その需要は供給よりもずっと多くなっています。


オーストラリアでのガーダシルのライセンシーであるCSLは、この薬剤を入手できるのにもかかわらず、3回の別々の請求に答えることを拒絶しました。 結局、私の家族が別のサプライヤーから購入し、ニューカッスルまで空輸して、私に投与されました。この薬剤が私の生命を救うために大きな役割を果たしたことに疑いはありません。IVIGは素晴らしい薬剤です。私は重度の頭痛に悩まされましたが、私の運動能力に改善がみられました。


しかしながら、問題点もあります。

1. 高価であること ガーダシル被害者の多くの女性は、PETスキャンや、この需要の高い薬剤を手に入れる費用を工面できません。あるいは、私のケースで働いていたようなトップレベルの医療専門家に診てもらうことができません。残念ながら、このケースでは、お金とコネが、威力を発揮します。

2. IVIGはすべての人に効果があるとはいえません

3. より安価な選択肢として、ホメオパシーを試みるでしょう。


私は、自分自身をガーダシルのモルモットと考えています。私は、東洋と西洋の両方の医療を試みました。いくつかは効果があり、多くはだめでした。 私にとっては、西洋医療ではIVIGが効果がありました。東洋医療ですべてを試みたあと、まずホメオパシーを推薦します。


約6ヶ月前、オーストラリアのメルボルンに、自分自身の治療薬でガーダシル被害者の少女を「治して」いるというアイザック・ゴールデン博士のことについて他のガーダシルの少女から聞きました。この治療薬は、ガーダシルの影響を元に戻すことはしません。その代わりに、ガーダシルが作ったバリア(関門)を身体が破壊するのに役立ち、身体が自身で回復することを可能とします。


このアドバイスを受けたとき、私はプラトー(停滞期)に達していました。どんなに多くの運動をしても、改善は限られていました。それで、ゴールデン博士に会いに行きました。


彼が投与したものは完全に自然なものでした。彼は、ワクチン障害者専門のホメオパスです。私は、用量#1から始めました。数日おきに2つの小さな錠剤を舌の下にいれて、溶かすだけです。数週間ごとに、進歩や副作用などをゴールデン博士に報告し、用量を増やすかどうか決めます。現在、#6を服用しています。これらの錠剤は安価です。


これらの錠剤を始めてから、振えが少なくなったことと、歩行に改善があったことに気がつきました (私は、ヒールの靴をはき始めました)。声のトーンとスピードも改良しました。


副作用は、時々頭痛があります。この痛みは、小脳領域に限定されています。時々疲れますが、これは、私が選んだライフスタイルが忙しいせいかもしれません。

私は依然、この錠剤をとり続けていますし、無期限でそうする予定です。それらが役になっていると思っています。


約2ヶ月前、毛髪ミネラル分析を行いました。これは、未処理の髪をすこしとって、検査するラボへ送りました。検査結果から、私の身体がアルミニウムが高いこと (ガーダシルの主成分)、身体が食物から栄養素を吸収していないことがわかりました。それで、この問題を解決するために、栄養士との診察を予約しました。


多くのガーダシル少女が、食物不耐性にかかっていることを聞いています。私もこの問題があります。私は新鮮な食物を食べるようにし、プロセスフードを制限し、できるだけグルテンフリー, ラクトースフリー、砂糖フリーの製品を食べています。テイクアウトは食べないようにし、人工着色量や保存料も制限しています。


もし食品アレルギーがあるなら、「除去食」をすすめます。これは、時間のかかるプロセスですが、安価です。まずは基本的なもの (フェーズ1は米、チキン、豆、梨、など)に戻り、その後、異なる食品を追加します。進歩を記録し、どれに反応したかを見つけます。 これは、栄養士の助けをかりて行いました。私が前進するについれてアドバイスをしてもらいます。私は、グルテンとラクトース血液検査を受けました。その結果、いくらかの不耐性がわかり、そのために頭痛、吐き気、痙攣、膨満感がありました。


また、週に2回カイロプラクティスに通っています。私のカイロ療法士は、広範な経験をもつドクターで、脊椎のリアジャストと神経系および小脳への刺激をします。

続く

週に3から4回ジムに通うようにし、1時間以上、カーディオ, ウェイト、ストレッチングをしています。今、私は、インターバルで走ることもできますが、右足はまだうまく協調運動ができません。筋力と筋緊張は改善しています。また、身体と脳のトレーニングのためにさらに運動をしています。過去数ヶ月の間、私は、サーフィン、スタンドアップパドルサーフィン、ダンス(色々と)、ヨガ、ピラーテなどなどしました。得意なことではありませんが、私は何でも試してみようという精神に変わりました。どんな運動も、利益があり、あなたの身体の異なる筋肉を動かします。


私の手のほうは、右手の方が左手よりも被害が大きかったのです。右利きですので、他人とのコミュニケーションのためのテクノロジーの使用に頼っています。私は、筆記の練習をしていますが、タイプをするほうが速くまたより簡単です。



教師として、幸い学校では電動のホワイトボードを使用しており、書く必要は限られています。同僚も生徒もとても私の障害に理解を示して助けてくれます。



私は、ガーダシルの前は、ピアノが得意でしたが、今は初歩からやり直しています。私は音符と理論は覚えていますが、手の振戦のため弾けませんでした。でも、喜ばしいことに、これは技術的な練習(音階など)を絶えず練習することで、すこしずつ改善しています。



私はガーダシル以来不眠症に罹っています。良く眠れる夜もありますが、平均 3~4時間の睡眠です。いまだに、痛みが主に脚にあります。これのために、パナディーン(鎮痛剤)を服用しています。できるだけ身体が疲れるようにして、夜良く眠れるようにしています。



もし、数値で表すならば、私の生活は、以前の約85% です。歩くこと、話すこと、書くことにまだ難儀しています。




友達は、私が完全に普通であると思っていますが、これは、わたしにとってはとても気分を高揚させることです。けれども、私は以前の自分を知っているので、自分に対する評価はとても厳しいのです。



ガーダシルの後の体験から、私はとても多くを学びました。ですから、私が日々の生活で体験する幸せは、かつて感じたどんな感情よりもあるかに強いものです。私が過去を変えられるとしても、私は何も変えないでしょう。この体験は、私を今日ある私にしました。私は、すべてのことは理由があって起こるのだと強く信じています。



私はこれが、あたなの助けになることを信じています。すべてのひとが、異なる症状を持っていますし、それぞれの人に有効なことも異なっています。



もしあなたの娘や愛する人がこれを体験しているのなら、私のアドバイスは、「彼らはあなたを必要としている」ということです。彼らは、疲労してまた病気がひどすぎて、乗り越えるための手助けを求めることはできません。彼らは援助を必要としています。彼らは、医者の診察に一緒に行くひとを必要としています。ブレインフォグがあるときは、思い出すことができません。彼らが日記を付けるよう、あるいは、起こったことをすべて記録できる誰かがいるようにしてください。これは辛いことですが、なにか過去のことを調べたいときに、簡単にできます。ビデオや写真のデータベースも作ってください。



これは私がしなかったことで、でもしたら良かったと思っています。でも、とても気分がわるく疲れていたので(そして、見かけもひどかったので)、写真を撮りたくありませんでした。でも写真をとってください。もし悪化したなら、証拠が必要になります。



アドバイスを聞いて、有効だと思うことをして、いつも肯定的でいてください。悪い態度でいることは、役に立ちません (それは、醜い皺がふえるだけです!).


最後に、絶対に諦めないでください。何かを無意味だとか、望みがないとか、不公平だとか感じたとき、諦めたくなるときがあるでしょう。私はそれを乗り越えて来ました。私はそれらのすべてそしてもっとひどい感情をもちました。けれども、私はあなたが良くなることを示している生き証人です。あなたが、再び、良い時間を楽しむことができることを保証する証拠です。

もしもっと何か聞きたい事があれば、フェースブック (Kristin Clulow) かメール: kristinclulow@live.com.au .で連絡してください。私は世界中の何百人のガーダシル少女と家族と連絡を取っていてますので、あなたの役に立つ人に連絡がとれます。私たちはみなお互いのためにここにいて、あなたを助けることができます。

症例(ガーダシル)24 カナダ

2013-09-24 | ガーダシル症例
私はガーダシルの生存者です

2014年4月30日
カナダ、オンタリオ、ゲルフ在住 
ジェニー・キーツ


私は長い間、悪戦苦闘してきて、やっとこれ以上は望めないほどに完璧に近づいていたと思っていました。それがガーダシルの前でした。今はすべてが変わりました。


私は、自分の人生を満喫しようとし始めていました。私は獣医のアシスタントになるための専門学校に入学するために必要な授業を受け始めてました。残りは、数学のコースが2つだけでした。私は、ハイキングと、動物と、カヌーと、戸外での活動が好きでした。私は5歳になったばかりの犬を飼っていて、自然保護区や森を何時間もハイキングすることを楽しんでしました。親友たちや姉と一緒に過ごすことも好きでした。買い物、料理、庭仕事、ショッピングセンターや図書館などどこでも外出することがすきでした。私は2013年の5月に、約12年間のベストフレンドだった男の子と、恋人同士になりました。


今年、2014年の9月に専門学校に入学する予定でした。今年はとても忙しい年になる予定でした。ガーダシルがそれらすべてを私から奪いました。 ガーダシルを最初に薦められたとき、私の家族が29年間かかりつけだった医師は、身体検査と、性感染症や性病に罹患していないかを確かめるテストをしました。結果はすべて異常無しでした。それで、医師は、ガーダシルワクチンを薦めました。私は、それが重要だとは思っていませんでした。私は、性交渉をしていませんでしたし、学校に入るまではそのつもりもありませんでした。私は、断りました。

今の恋人とデートをし始めたたとき、医師は、再びガーダシルを薦めてきました。このとき、私はそれがいい考えであろうと決心しました。ほとんどの人は、何らかの型のHPVを持っています。医師は、子宮頸がんが、誰も絶対にかかりたくないようなものであると納得させました。医師は、私を保護するものだといいました。私は、とても保守的で、自分を安全に守ることはすすんでしていました。私は賛成しました。

それで、2013年の6月に最初のガーダシル接種を受けました。けれども、接種前にこのワクチンに副作用があるか医師に質問しました。

女医は言いました。 「ありませんよ。多分注射の部位が痛む以外は、副作用はありません。」 私は、29年間私の主治医だった人の言葉を信じました。ガーダシルが子宮頸がんを予防したことは証明されていないことなど、ほとんど知りませんでした。

定期的なパップスメア検査だったら、私の健康や人生に害を与えることなく、もっと有用であったでしょう。私はSaneVaxのウェブサイトや、HPVワクチンに関連する重篤な健康上のリスクについての警告は何もしりませんでした。

今私が知っていることをあの時知ることができたならと思います。私は、当時の戻って、1回目の接種をしなかったらどんなに良かったかと思います。でも、私はワクチン接種をなかったことにできません。私は、起こったことをやり直すことはできません。

1回目の接種の2週間後、恋人に会うためにトロントにいました。重度の偏頭痛と吐き気が持続していました。感染症が流行っていたので、感染かインフルエンザになったかと思いました。2,3日そこにいましたが、とても気分が悪かったので帰宅しました。私は全部で3週間から4週間病気でした。

その後、良くなってきているようでした。依然、軽度の偏頭痛と、胃の具合が悪い感じでした。私はめったにインフルエンザや風邪や感染症にはかかりませんが、それがワクチンと関係があるとは思いませんでした。 私は医師のところへ行き、医師は、何かの感染症だと私を安心させました。良くなっているようだったので、私は彼女の言葉を信じました。続く一月の間、私は偏頭痛が出たりなくなったりし、わずかではあったけれども面倒な吐き気もありました。 2013年の8月に2回目のガーダシルの接種に行く予定でしたが、私は心配でした。 どうしてだかわかりませんが、私は気が進みませんでした。私の中で何かが、私の本能が、行くなといっているようでした。

私は医者に行って、もう一度、ワクチンの副作用があるかどうか聞きました。ワクチンを接種してから2ヶ月、気分がよくなかったので、気が進まないのだと説明しました。女医は再び、あれは単なる感染症だったこと、ワクチンは偏頭痛や吐き気の原因ではないことといいました。

私はまだ気が進みませんでした。診療所の椅子に座っているとき、看護士にこのワクチンで私のような副作用があったことを聞いたことがあるかどうか質問したことを覚えています。彼女は、医師がいったことと同じことをいい、あれはワクチンのせいではなく、心配しないようにといいました。

私は、29年間の主治医を信用しました。彼女は嘘をついたことはありませんでしたし、私を間違った方向に導いたこともありませんでした。それで、2回目のガーダシルを受けました。 再び、私はこのときに戻って、この決心を変えることができたらと思います。自分の本能に忠実であったらと悔やまれます。自分の身体や自分の本能よりも医者を信頼することはもうないでしょう。

2回目のワクチンのとき、私は、副鼻腔感染症の疑いがあって抗生物質を服用していました。今から考えるとあれは単なる偏頭痛でした。私の医師は、この薬を処方したのですから知っていたのにもかかわらず、私に何もいいませんでしが、抗生物質を服用しているときは、免疫系がすでに弱っているのでワクチンをすべきではないのです。

皮肉にも、2回目のワクチンの後の約2週間後、私は恋人に会いに行っていました。1日目に、私は本当に気分が悪くなりました。偏頭痛がひどく、光を見ることができず、吐き気がひどく、2回吐き戻しました。外出したのですが、ほとんどの時間を、空嘔吐と嘔吐のため公衆トイレですごしました。

そして、病院の救急科へ行きました。血液を採取し、CTスキャンをしましたが、何も見つかりませんでした。偏頭痛ということで、偏頭痛の薬を静注で投与され、制嘔吐剤も静注で投与されました。そして、帰宅するよういわれました。私は、再びまるまる一月を超えて病気でした。私のかかりつけの医師は偏頭痛の薬を処方しましたが、何の効果もありませんでした。

私は、ワクチンを疑いましたが、私の医師はそうではないと言っていました。私は彼女を信用したかったのです。

その後、すこし良くなったようでした。毎日、吐き気と偏頭痛がありましたが、3週間の間それは少なくなっていました。そして、それは最大のパワーで戻ってきました。睡眠の障害も起こっていました。夜はほぼ1時間ごとに目が覚め、排尿に何回も行き、眠ったかどうかに関係なく疲労を感じていました。それはまるでいつもインフルエンザに罹っているような感じでした。

また、不安障害に罹っていることに気がつきました。以前は、状況がどんなに過酷に見えても、そのようなことはありませんでした。

私はメキシコへの旅行のために1年間貯金していました。9月の中旬に出発しました。私にとっては初めての飛行機で、生まれて始めての休暇でした。けれども散々な結果でした。

朝、目が覚めると吐き気がひどく、一日をどうにかやり過ごすためには、Gravolジンジャーの錠剤をのまなくてはなりませんでした。私は、時々少しだけ何かを食べましたが、気分が悪くて多くの量は食べられませんでした。 私は、姉と義兄がすることをすべて一緒にしました。彼らのために、旅行を台無しにしたくなかったからです。けれども、私はエネルギーが枯渇して、胃がむかむかして、体調を崩しているあいだにどんどん強くなっている不安が、さらに大きくなっていました。

帰宅したあとの数ヶ月、病院の救急科と診療所を行ったりきたりしていました。私の医師は、胃酸の逆流があると診断し、制酸剤を処方しました。それはすこし役に立つようでしたが、解決にはなりませんでした。

CTスキャン、EKG、X線、スリープ検査、MRI、超音波、何回もの血液検査があって、私はモルモットのように感じていました。どの結果も何の結論ももたらしませんでした。すべてに異常がありませんでした。胃の内視鏡検査も受けましたが異常なしでした。胃腸専門医は、何も異常がなかったので、おそらく不安のためではないかといい、Iberogast(ドイツのハーブ薬)を薦め、カウンセラーかセラピストに見てもらい、認知行動療法(精神療法)を受けるように言いました。

私は不安のせいだとは思いませんでした。どうして今起こっているのか?私の人生ですべてが順調に行っているときにどうして?大好きな恋人がいて、専門学校に進む予定があって、今突然、説明不能な不安やそのために胃酸の逆流が起こっているなんて?私はその診断を信じませんでした。

私の主治医もすべて不安のせいだと言い始めました。診察にいくたびに、不安障害の薬を処方しようとしました。失意から、私は女医が処方したプロザック(Prozac)を服用しました。なぜなら、心の中ではその診断が間違っているとはわかっていましたが、本当にそうであったら楽だと思っていたからです。7日間服用しました。3日目に嘔吐が始まり、その週4キロ体重が減りました。4日目、不安発作が始まり、それが毎朝3から4時間続きました。服用を止めましたが、朝の不安発作はその後3週間続きました。そして、時間とともに不安発作は軽くなり、以前のとても悪いけれどもなんとかやっていける不安のレベルまで戻りました。

私は、超音波の検査をもう一度予約しました。今回は、膵臓と、臓器をみるためです。検査の日、私は気分がとても悪く、役には立たないだろうと思いながら救急科へ行きました。ただ医者に話がしたかったのです。このとき、私はこの症状がガーダシルだと本当に信じ始めたときでした。2月中旬でした。超音波の検査結果は正常でした。私は、泣き崩れました。何をすべきかわからなかったからです。すべての検査結果は異常なしで、でも私は明らかに病気でした。ワクチンの前は病気ではありませんでした。私は3回目の接種を拒否しました。

救急医が私にささやくように、

「医師は本当はこんなこと言うべきではないのだけれど、私はワクチンだと思う。できる限りの検査を受けて異常がなく、明らかに具合が悪い。西洋医学に対する代替医療を受けたことがある?代替医療を探して、自然療法医にみてもらうべきだと私は思う。」

私は自分が耳にしたことが信じられませんでした。30年の家族の主治医は、ワクチンの前は私が健康であったといっても、がワクチンの副作用を否定し、そのほんの2週間後に。。。 でも、医者はそれを本当に言うべきではない、そうでしょうか?もし、女医がガーダシルのせいかもしれないと認め、そして、それを処方したら、彼女はおそらくまずい状況になるのでしょう。副作用があるという事実に対してうそをつき、副作用があることを法的には言わなくてはいけないのにそうせず、そして、最初の注射のあとの私の心配を無視しました。

私はフェースブックでSaneVaxの人をみつけ、HPVワクチンを受けたあと被害にあった少女、女性、彼女たちの家族のグループに参加しました。私は、とても孤独でしたから、まるでそれは天からの贈り物でした。今は、自分が1人きりではないことがわかっています。何百人もの少女、女性、彼女たちの家族がこの苦しみを受けています。すべて、メルクのガーダシルとグラクソスミスクラインのサーバリックスのおかげです。

私は、主治医にこのことを話しましたら、彼女は私のことを見ることができず、3種類の不安障害の薬を処方し、もし私が彼女のいうことをきかず、処方した薬を飲まないなら、私を助けることはできないといいました。 おそらく、その時、彼女は知らなかったのでしょうが、今は、ガーダシルのせいだと、彼女は信じなくても疑問はもっていると思います。私のことを30年知っていて、私の人生と、私が乗り越えてきたことを知っていて、この病状を不安のせいにできるでしょうか? 私が、今までの人生で最も幸せで、健康の問題だけがあるのにどうやって不安のせいにできるでしょうか。もし女医が不安のせいにするなら、それは彼女自身に嘘をついているのでしょう。

私の人生は、毎日が闘いです。どんな小さなことも成し遂げたら、それは勝利です。私の恋人は、本当に良い支えになってくれます。3週間したら一緒に暮す予定です。けれど、私は以前の私ではありません。私は買いものに行くのも困難です。毎日、吐き気と偏頭痛があります。いつも疲れています。朝起きることも食べることも、強い意志が必要です。以前のように犬の散歩や運動はできません。一日、食事がうまくいったことだけでも、とても感謝しています。この症状が始まったから、7キロやせました。

私は障害者の申請をし、専門学校は保留にしなくてはなりません。健康とその改善にだけ集中していますが、でもこの状態は気に入りません。私や私の周りの人たちは、医師を信頼したために苦しまなくてはならないのでしょうか?

わたしは、トロントの自然療法医アマンダ・モア(Ananda More)さんに見てもらうことにしました。彼女は、ワクチン障害で高名な専門家のオーストラリアのアイザック・ゴールデン(Dr. Isaac Golden)と仕事をしています。私は、CEASE療法(訳注:ホメオ療法士の方が詳しいと思います)を始める予定で、現在サプリメントをとって、デトックスバスをして、その療法の準備を進めています。

私はこの療法がうまくいくことを願っています。他のことは何も効果がありませんでした。私はよくなると信じ続けなくてはなりません。他の人を助けられるほど。かつての生活が遅れるほど。

ガーダシルがとてもたくさんのものを奪いました。健康、幸せ、人生、目標、けれども私は闘うでしょう。そして、この闘いに勝ち、より強くなって戻ってくるでしょう。

HPVワクチンは、私自身を含むたくさんのひとたちを「ワン・レス(One Less)」 としました。けれど一緒に、これを克服する道をみつけるでしょう。

この信念と、私が受けてきたことを他の人も受けていること、強くあり続けていること、闘っていること、そして、何人かは回復していることを知ることが、私が日々を乗り越える力になっています。

私たちは諦めも降伏もしません。私たちは、HPVワクチンからの生存者です!

症例(ガーダシル)23 アメリカ

2013-09-23 | ガーダシル症例
ガーダシル後のナルコレプシーと脱力発作?

2013年12月14日

フロリダ在住母親

娘は、ガーダシルの後におこった新たな病状について私が語るのをとても嫌がるので、ここでは匿名で語ることにしました。私は娘を守るためにこのワクチンの接種を選びました。私は毎日この決心に後悔しています。

娘は、サッカーのシーズンが終わったところでした。既に13歳で、いつものように時間はあっという間に経っていきました。娘の毎年の健康チェックに1,2ヶ月遅れていました。小児科医とはHPVワクチンのガーダシルについて、娘が11歳になったときから話し合っていました。私はそれを延期し、再び延期していましたが、子宮頸癌から彼女を守るであろうと私たちは考えて、接種することに最終的に賛成しました。

1ヶ月もしないうちに、私は娘の変化に気が付きました。他の人にも、娘は栄養の偏ったスナック菓子ばかり食べたがっていると不満をこぼしたほどです。それはまるで身体の中でスイッチがはいったようでした。娘は野菜などどんな種類の食べ物でも好き嫌いなしに食べる子供でした。そんな好き嫌いなしの食生活を止めて、食品棚の中にスナック菓子類を狂ったように探していました。何ヶ月も前に買って捨てずにおいたクリスマスのキャンディーの残りや、ケーキのプレミックスの箱から水と混ぜたり焼いたりせずに直接食べているの娘を見つけたこともあります。一度に、プレミックスの粉をそのままで1箱食べたり、ココアと砂糖を混ぜてシロップにして、スプーンですくって食べたりしました。

娘は突然パスタが大好物になり、昼も夜もそれを食べたがりました。以前は全くなかったおかしな食べ物への執着が、普通となりました。娘はいつも棒のように痩せていて、自分がやっていることに気をつけないと、後で大変なことになるからと言っていました。

こんなことが起こっている間に、私は、娘が家の中で座っていることが多くなったことに気が付きました。彼女はいつもスポーツや、乗馬に忙しく飛び回っていましたが、この頃はソファーに座って過ごしていました。以前は、廊下を走って移動し、家の中で歩くことはありませんでした。このすべてが変わりました。

また、娘は感情的に過敏になり、本の些細なことにも泣くようになったのです。夕食のおかずが嫌いだったり、何を着たらいいかわからなかったりすると、涙をこぼし始めました。このことを他の人にも話しましたが、思春期のホルモンの所為にしていました。このような行為がしばらく続きました。

その後、娘は不眠症になりました。彼女は「ママ、夜眠れない」といい続けていました。 学校から戻ると、昼寝をしました。私は、娘が夜眠れないのを知っていたので、そのまま昼寝をさせていました。それから、おそらく身体が疲れていない所為で夜眠れないのだと思って、娘と一緒に運動を始めました。けれども効果ありませんでした。娘には、家の周りを歩くエネルギーさせほとんどありませんでした。

眠るために、4~6週間ほどいろいろなリラクゼーションを試みてみましたが、悪化するばかりだったので、小児科医へ連れて行きました。それは、以前の診察からほぼ1年ぶりでした。娘は、14キロ体重が増えました。私は娘が太ったことに気が付きましたが、娘はうまく服でごまかしていて、それほどまで体重が増えているとは思いませんでした。医師すらも、どうしてかと不思議に思っていました。

医師は、不眠にいいだろうと、ビタミン・メラトニンを取るように薦め、ガーダシルの2回目の接種を受けるよう手配しました。娘は注射されたとき、血が凍る様な叫び声をあげました。そんなことは今までしたことがありませんでした。彼女は、私が知る中で最も我慢強い子供の1人でした。いつもなら、黙って受け入れるような子でした。

メラトニンを約1週間とりましたが効果はなく、娘は居眠りをし続けました。学校から帰ると2時間昼寝をし、9時に就寝します。彼女は、何か私に話し始め、目が閉じ始め、言葉が聞き取れなくなっていきます。娘の話しはとても変になり、まるで酔っぱらっているか、薬物をやっているかのようでした。約1分間続き、眠りに落ちます。 私は娘が薬物をやっているのかと疑いましたが、私の友人が娘はそういうタイプではないといい、何か他のことがあるといいました。

娘は、片方の膝が座屈するようになりました。娘はすっかり活発ではなくなっていたので、私は娘に膝を強くする体操をしたらどうかといいました。 ある晩、家族で食事をしているとき、娘はコップを持ち上げ、手が震え始め、コップを落とすところでした。その後、娘は立ち上がり、自分の部屋へ歩き始めましたが、膝に力が入らず、壁以外につかまるものがなかったので、壁につかまると、腕を頭上の壁にもたせかけたまま、娘はすべり落ちて、床の上に倒れました。娘は約1分何も言わずに倒れたままでいましたが、その後、とても疲れているといいました。私は娘をベッドまで連れて行きました。

娘は翌朝まで眠り続けて起きたとき、まだとても疲れていると言っていました。私は学校を休ませ、一日ほとんど眠っていましたが、やっと休息を取れるようになったことと不眠症が治っていくのではないかと感謝していました。 翌朝、娘は再び、変な話し方と目が閉じていく症状を示しました。私は、娘の用意をしてフロリダのハリウッドのJoe DiMaggio Children’s Hospital の救急に連れて行きました。私はこれらの症状を、発作のようだったと説明しました。救急病棟の医師は、病歴をみてから、最近受けたワクチンについて聞いてきました。

私は指を鳴らして、医師を指差し、ガーダシル!と叫びました。 医師は私を見て、「それがいま娘さんに起こっていることと関係があることを私は保証しますよ」といいました。

娘は病院に7日間滞在して、考えられるかぎりのすべての検査を受けました。検査のいくつかに影響を与えるということで、歯の矯正具も取り除きたがっていました。病院にいる間も、膝が座屈しつづけ、目が閉じて話が奇妙になる症状も発しつづけました。その症状は悪化していました。

娘は、ビデオで撮影することを嫌がり、この症状が起きているときに医者はそこにいたことがありませんでした。5日目に、診断なしに退院という話が持ち上がりました。医師は、検査の結果がでるまで、家にいるようにといいました。娘は、退院の際、歩行器と、倒れても頭をぶつけないようにと、家の中で着用する自転車用のヘルメットをかぶるようにという安全プランが与えられました。

3人目の神経内科医が診察にきました。私は医師に、ここに1時間座って、娘を見ていて欲しいといいました。 “もし娘を退院させたら、私はそのままMiami 小児病院へ行きます。検査を繰り返すことになってもいいのです。娘は家へは帰りません。特にあの変な安全プランなどは受け入れられません!” そのすぐ後に、娘は、医師の面前で、最悪の発作様症状を起こしました。医師は、娘に症状についてすこし質問し、脱力発作を伴うナルコレプシー と診断しました。

ナルコレプシーは、睡眠・覚醒サイクルを障害する自己免疫疾患です。脱力発作はナルコレプシー の一般的な症状で、筋緊張の消失を引き起こし、その結果、娘は倒れました。脱力発作は、感情の過敏も起こします。このことも、娘が些細なことに泣き出したことを説明しています。

医師は、情動に誘発される脱力発作について説明し始めました。笑ったり、悲しくなったりすると、力が入らなくなり、身体が動かなくなるのだといいました。診断を確認するために、脊椎穿刺と血液検査を手配しました。


私は医師に、これがガーダシルと関連していると思うかと聞きましたら、女医は、「絶対にそうです」と答えました。


娘は、自己免疫疾患に有効であると知られている免疫グロブリン療法(IVIG)を受け、7日目に退院しました。

私の知人たちは、娘が退院したので病気がよくなったのだと思いました。治療は何も効果を示しませんでした。娘の病気は、入院した日よりも、良くなっていません。実のところ、悪化していました。娘は、家で倒れ続けていました。それは、アナフィラキシーショックに似ていると思いました。娘は倒れて、動けずに床に横になっている間、病院へ連れて行ってくれと私に頼みました。私は医者に電話をすると、もう1週間様子をみるようにといわれました。何も変わりませんでした。

この時点で、もう何週間も学校を休んでいました。私は、神経内科医を再訪しました。ナルコレプシー に特定された薬がなかったので、日中の行動を亢進させるためのADHD(注意欠陥多動性障害)薬と、夜の睡眠薬を処方しました。娘の不眠症は今もまだ良くなっていません。

医師は、娘に関して、連鎖球菌の感染やトラウマがあったかを排除し、ナルコレプシー がどうやって誘発されるかを説明しました。この病気を誘発するには、遺伝的素因と環境因子が必要です。娘の身体からあるホルモンが、枯渇していました。そ れは、オレキシンとよばれ、別名をヒポクレチンといいます。現在、身体でこのホルモンを元のレベルに戻す医薬法はありません。

脊椎穿刺により、娘にこの病気への遺伝的素因があったことが確かになり、血液検査は、この病気を100% 確証しました。私の家族の多くは、この病気のことを聞いたこともなく、まして、家族の誰かが罹ったこともありませんでした。

医師は、他のすべての原因が否定されたので、娘の病状を引き起こした環境因子はワクチンであったと指摘しました。このワクチンは、自己免疫疾患を引き起こすことが知られているといいました。

娘は2回目の接種前に不眠症があり、2回目の接種前に処置されなかったので、娘の病気はワクチンの2回目の接種により亢進したとだけ証明書に記しました。

しかし、医師らは、不眠症以外のすべての症状が2回目の接種の後に出現したことを認めています。2回目および3回目の注射の後に有害反応が亢進することは、HPVワクチンではよくおこることのようで、これがまさに私の娘に起こったことです。

娘は、覚醒させるための薬と、眠らせるための薬との悪循環で生活を送っています。薬を服用していても、かつての彼女自身のおよそ75%までの回復で日々格闘しています。

私は、ビタミン類、ホリスティック医療、カイロプラクティスを試しましたが、処方薬以上の効果はありませんでした。薬無しには、娘の症状は悪化します。娘 は日に2~3時間しか起きていられず、その時間すらたいしたことはできないでいます。彼女はほとんど歩くこともできません。疲労しているか、脱力発作が起 きて、倒れてしまうのです。今でも、昼寝が必要で、笑ったり起こったりすると、身体が脱力します。娘は、このときの感覚がどういうものかがわかったので、 倒れる前に対処できるようになりました。娘は、以前としてスナック菓子などが無償に食べたくなりますが、これは、疲れているときは私たちも同じです。私た ちは、エネルギーレベルを上げるために炭水化物を摂取しようとします。

この診断の前に、娘はとても元気で健康な子供でしが、例外として、生まれたときに、先天性白内障があって、一方の視力を失いました。

この病気は難病であって、娘は、現在、生活することや学校に行くことが困難で、まるで、このかわいそうな子供を雷が2回襲ったように私は感じています。

ひとつの決心が娘の人生を変えてしまいました。けれども、永遠には続かないことを祈っています。ナルコレプシーの研究が進んでいて、まもなく治癒できるこ とに希望を持っています。医師は、5年から10年だと見積もっています。娘が学校生活が困難で、以前行っていた活動のほとんどすべてを止めています。娘の 人生は盗まれてしまいましたので、治療が見つかるまで、私は、娘がよくなるように試し続けるでしょう。

症例(ガーダシル)22 アメリカ ゾーエ

2013-09-22 | ガーダシル症例

パップスメアテストに命を救われる: ガーダシルの後の子宮頸癌


2014年4月24日木曜日

ゾーエ・ビッカーズ・カー


2008年1月上旬、私は医者に行きました。診察のとき、ガーダシルを受けたかどうか聞かれました。副作用については何も話し合われず、無料である間に受けるよう促されました。それで、26歳の誕生日の直前に、最初の接種を受けました。2月の終わりに2回目の接種を受けました。

私は健康で、体力があり、毎日を楽しんでいました。私は販売の仕事をしており、昇進と管理職へのトレーニングの話がありました。私の長期計画には、仕事を変えることも含まれていたので、体力増進のため定期的にジムに通っていました。5月上旬、私は広範囲な健康診断を受け問題がありませんでした。


ガーダシルへの遅延反応?

5月中旬に、発疹に襲われました。最初、シラミか洗剤への反応かと思いましたが、なかなか消えないので、医者は何かのアレルギーではないかといいました。抗ヒスタミン薬を服用しましたが、発疹は消えませんでした。ある日には、まぶたが腫れ、また他の日には、唇が腫れました。それはランダムで不可解でした。 6月に、3回目のガーダシルを受け、その後、それらの症状はより頻繁により重度になり、悪化していきました。

その時、私は、食べたもの、服用した薬、現れている症状について健康日記を付け始めました。数週間後、食べたものに関連していないことがわかったので、薬と症状だけを記録することにしました。

7月には、発疹は、胴体、脚、腕、そして顔中に広がりました。それは、みみずばれのように現れることもありました。ある晩、私の太股は血のように赤く、とても痒くて気が狂いそうでした。ある朝、起きたとき、顔の全体が腫れて、まるでひっぱたかれたようで、自分の顔だとわからないほどでした。私の手と足も腫れて、とても痛くてほとんど歩けませんでした。手首と足首が痛み、動くたびに痛くて眠れませんでした。舌には、奇妙なはげたような部分がいくつかできました。

ガーダシル後炎症病状の写真あり

私は何回も血液検査を受け、まるで自分が裁縫箱の針山のような気がしました。7月上旬に、血液検査の結果で、CRP レベル(炎症の指標)が高いことを医師から電話で知らされました。

私は毎週血液検査を受け、CRP レベルは毎週上昇し続けました。その時には、すでに他の診療所で異なる医師たちの診察も受けていましたので、母に、彼女のかかりつけの医師であるR医師に、全体的な視点から見てもらったらといわれました。 この時期までに、すでに何日も仕事を休んでおり、これ以上病欠が取れなかったので、疾病手当を受けることにしました。

R医師は アレルギー専門医の診察を予約しようとしましたが、待ち時間が10-12週間でしたので、私はキャンセル待ちのリストに記名しました。その間、私はグルテンフリーダイエットをし、加工食品を減らすようにしました。何も効果はありませんでした。


突発性蕁麻疹と血管浮腫

7月24日、舌が腫れ始めました。母に、病院の救急科まで車で連れて行ってもらいました。私はテレビ番組の「ドクター・ハウス」や「オールセインツ」のように、医師たちが謎を解き、診断を下し、治癒してくれると思っていました。でも、幸運はありませんでした。私は「突発性蕁麻疹と血管浮腫」だといわれました。彼らは、原因が何かわからず、彼らができることは症状をコントロールしようと試みることだけでした。そこで何時間も滞在したあと、高用量の抗ヒスタミン薬の処方箋を渡されて帰宅しました。1日2回、2 x 24 時間の強度の錠剤を服用とのことでした。 判明したことのひとつは、抗ヒスタミン薬R1とR2の2種類の薬を蕁麻疹のために服用するということでした。

医師らは、これが私の症状をコントロールすると保証しました。けれども、効果ありませんでした。


結合組織の関与

キャンセルがあって、私は、専門内科医(診断の専門科)であるS医師予約を7月25日にとることができました。彼は、私の病歴と症状に関するカルテをじっくりと読みました。臨床的には、結合組織の関与のようであり、関節リウマチかループスのような病状が示唆されるといわれました。彼はさらなる血液検査を手配し、ループス用の検査も含まれていました。医師は、最近、「仮性ループス症候群」と呼ばれるものを示している患者がいるので、あまり心配しすぎないようにといいました。

これらの仮性ループス症候群は、ガーダシルワクチンや他の薬剤副反応と関連している可能性はあるのでしょうか?


腫れた舌

8月14日、前回からちょうど3週間後、Alfred 病院救急科を訪れました。3週間の治療は、症状をコントロールできないどころか、私の身体は弱まりました。吐き気があり、睡眠がとれず、痛みがありまし た。救急科に着いたのが夜の10時15分で、舌の裏側が腫れ、のどに何か変な感じがありました。まるで大きな気泡がのどにあるようで、飲み好むの困難でし た。Alfred 病院のスタッフは、とても役立たずの不親切で、息ができなかったら受付に報告するよういいました。その後の数時間、腫れは安定していたようで、悪化はしま せんでした。診察を受けずに、午前0時30分に病院をで、午前2時半に帰宅しました。

午前6時半ごろ、腫れは突然大きくなり始め、飲み込むことが困難になりました。母が迎えにきて、すぐに医師Rのところへ行きました。女医は、30年間医者をしているが、このようなことは見たことも聞いたこともないといいました。私は、コルチゾンの服用に戻りました。

8月20日、医師Sの診察があり、ループスの血液検査には異常なしでしたので、私も、「仮性ループス症候群」患者のひとりとなりました。 医師は、アレルギー専門医や皮膚科よりもリウマチ科を受診するようにといいました。メルボルンでは、免疫専門医は、臨床よりも研究よりで、リウマチ専門医 が自己免疫疾患の専門科であると言いました。それで、もう1人の専門医の診察待ちリストに記名し、9月9日に医師Aとの診察の予約をしました。

9月2日に、やっとアレルギー専門医を受信しました、医師は、とても厳しい「除去食事療法」をするよう進めましたが、その時点でそれに従うエネルギーもそ うしたいという気持ちもありませんでした。すでに数週間前に、腫れと食べたものとの間に関係がないことがわかっていました。けれども、アレルギーフリーの 石鹸、歯磨き粉、シャンプーを購入しました。それから、医師は、保存剤のため避けるべき食べ物と飲みものリストをくれました。


心雑音

9月9日、リウマチ専門医のA医師の診察を受けました。医師Sのように、彼女も病歴を最初から最後までチェックしました。HIV, バルマ森林ウイルス、ロスリバーウイルスなどの広範囲な一連の血液検査を手配しました。私を診察して、彼女は、心雑音を検出し、胸部CTスキャンと心エ コーも手配しました。ひとつ確かなことは、5月に広範な健康診断受けたとき心雑音はありませんでした。


依然答えなし

今回も同じことでした。リウマチ専門医の医師Aは結合組織の専門家でしたが自己免疫疾患の専門家ではありません。臨床免疫医であるH教授の診察を受けたら どうかといい、10月13日に予約がとれました。 それで、私は数ヶ月、高用量の抗ヒスタミン剤と断続的なコルチゾンのコースを服用しました。コルチゾンは最初は湿疹をコントロールしていましたが、治療を 止めるや否や、湿疹が再発しました。最後には、コルチゾンを服用していても湿疹がでるようになりました。そのように、推奨された治療法は作用しませんでし た。さらに悪いことに、医師らは私の症状の多様性にすかっり困惑してしまいました。

私の日記によるとこのときまでに、出現パターンを見つけていました。生理のときに症状が悪化するようでした。また、ジムは個人でのトレーニングの運動のあとにもでした。また、抗ヒスタミン薬が実際には症状、特に腫れ悪化させているように感じました。

最も衝撃的な出来事は、8月14日に起こりました。ヒスタミン薬を服用して15分以内に、私の唇が突然腫れ始め、腫れは舌からのどまで広がりました。


不安定なマスト細胞(肥満細胞)

ある種のブレークスルーが起こったのは、同僚が医師Rにケトチフェン(マスト細胞安定剤)の情報シートを渡したときでした。それが、私の症状を説明し、(望むらくは)治療するかもしれないと思われました。

慢性の蕁麻疹と血管浮腫に罹患している人びとは、ある特定のアレルギーにはならないが、むしろ不安定なマスト細胞系を持っているらしいのです。そのデータ シートによれば、不安定なマスト細胞はヒスタミン、プロスタグランジン類、ロイコトリエン類を漏出させ、頭痛、疲労、嗜眠、易刺激性、集中力欠如などの他 の関連する症状を引き起こしているということでした。また、胃腸管に作用して、痙攣、腹部膨満、消化不良、逆流、鼓腸、断続的な下痢や便秘などを引き起こ すことが可能ということです。多くの患者が、関節痛や筋肉痛を訴えています。これらの症状は、ヒスタミン、プロスタグランジン類、ロイコトリエン類の炎症 性の性質によるものです。この情報シートを書いた医師は、喘息患者が専門だったので、私は診察してもらうことができませんでした。

また、ケトチフェンはオーストラリアでは錠剤では入手できず、ニュージーランドから取り寄せなくてはなりませんでした。オーストラリアでは、ケトチフェン は目薬としてのみ入手可能でした。友人が、ザジテンの販売リーフレットを送ってくれましたが、そこには、「唯一の、3つの作用を有する、季節的アレルギー 性結膜炎症候性の短期治療用抗アレルギー目薬、処方箋なしでも購入できるOTC薬」と書いてありました。奇妙なことに、そのタイトルは、ゾーエの窮地とあ り、涙目のゾーエのイラストが「はやくなんとかしなくては!」 といい、「私だけが迅速に解決できる」といいながらハンサムな若い白衣の医療従事者が ザジテンをさしています。

ニュージーランドに注文して、錠剤を受け取り、観察することに同意した医師を見つけるまで、ケトチフェンを服用しませんでしたので、始めたのは9月でした。徐々に、腫れることが少なくなりました。発疹は残っていましたが、異常な状態ではなくなりました。

蕁麻疹に戻って

10月13日に臨床免疫専門家のH教授の診察を受けました。私の多様な症状に困惑しなかった医療専門家は、H教授が初めてでした。重度の慢性蕁麻疹と診断 し、写真を見せたときに、それらは古典的な重度の蕁麻疹だといいました。重症度の点では、私の病状は彼が見た中で上位5%にはいるといいました。

彼は説明を続けました。不安定なマスト細胞系が、すべての自己免疫性病状の基礎であり、研究者は、免疫系、特に自己免疫がいかに作用するかと、やっと解明 し始めたといいました。最近になって研究者は、不安定なマスト細胞が、以前考えられていたよりもずっと様々な化学物質を漏洩することを発見したといいまし た(つまり、ケトチフェン情報シートに記載されていたよりもずっと多くのもの)。教授は、この分野で、博士課程の学生を指導しているということでした。

私は以前はとても元気だったのに、2ヶ月の間にこんなにひどくなることは奇妙なことかどうかと質問してみました。H教授は、なんらかの理由で、もっとも元 気な人たちが、もっとも重度な自己免疫疾患にかかるのだといいました。それはまるで免疫系もひどく強力で、特別熱心に、身体を攻撃しているようだというこ とでした。私の直感、つまり、症状が運動の後悪くなること、また女性では、生理の頃に悪くなることを支持する証拠もあると言いました。

唯一の薦められる治療は、長期の高用量コルチゾンコースでした。長期のコルチゾン使用は、たちの悪い副作用があると説明しました。彼は保証できないけれ ど、その治療が蕁麻疹を消すことには確信があるといいました。どのくらいの期間コルチゾンが必要かはわからないということでした。この治療の利益と不利益 について考え、12月の次回の予約までにコルチゾンを開始するか決めなくてはなりませんでした。


代替療法

11月28日、伝統的な中医学のZ医師の診察を受けました。彼が、発疹の治療に成功できると確信している最初の医療従事者でした。それに効果的な鍼と漢方薬があると言いました。私は治療を受け、発疹は消えました。

それが、鍼なのか、鍼とケトチフェンの併用なのか私にはわかりませんが、やっと効果的が得られました。私は依然、断続的な腫れがありましたが、少なくとも発疹はなくなりました。 12月2日、H教授を再訪したとき、発疹はありませんでした。私は、情報シートに書かれていたように、ケトチフェンをさらに4ヶ月 続けることにしました。 ケトチフェンだけで発疹はでなくなり、その後、2009年3月にそれを止めても発疹はでなくなりました。

これらのことすべてで、私は疲労困憊しており、何ヶ月も、人生が一時停止中のように感じました。私は、休職し、その後も、パートタイムでしか働けませんで した。休職のため経済的な問題がおこっただけでなく、抗ヒスタミン薬, ケトチフェン, 鎮痛剤、消化薬、他のいろいろな薬剤のための出費は、大変でした。 2009年3月、ケトチフェンを終えたすぐ後にそしておそらく体験したことのために、初めて、急性の不安とパニック発作を経験しました。その治療とカウン セリングを受けました。


そして今度は子宮頸癌に

最大の衝撃は、2011年3月に起こりました。定期的なパップスメアテスト をして、子宮頸上皮内癌 (AIS)と診断され治療しました。前回の異常無しのパップスメアテストから17ヶ月後のことで、最初のガーダシルの接種のあとの3年後です。以前のパッ プスメアテストはすべて問題なしでした。

2011年3月上旬に定期的なパップスメアテストのためP医師を訪ねました。1週間後、彼は電話で、結果報告書に、異型腺細胞があることを伝えられ、診断 のため、次の火曜日にいくことになりました。 [子宮頸癌には主に2つのタイプがあり、より一般的なのは、異型扁平細胞および癌(扁平上皮癌); より珍しいが、より侵襲性の異型腺細胞および癌 (腺癌)があります]。

翌金曜日に手術をして、錐体コールドナイフ生検を受けました。結果は、翌水曜日に戻ってき、錐体生検の周縁部は異常なしでした。

腟頸管検査の専門家にスクリーニングしてもらい、結果を受け取って10日以内に手術ができたことは、とても幸運であったと思っています。この結果、癌はステージ0の初期にみつかりました。 癌が再発していないことを確かめるために6ヶ月ごとにスクリーニングを受けており、いまのところ問題ありません。私は、信頼できる専門家の経過観察をしてもらっていることで安心しています。

私は、ワクチンの重篤な有害反応を経験しただけでなく、ガーダシルが重度の子宮頸癌である腺細胞子宮頸癌になることを予防しませんでした。AISは16型 と18型HPVが原因となると考えられているのですが、ガーダシルが予防すると考えられているまさにそのウイルスです。ワクチンを受けるほんの17ヶ月前 には、HPV も癌もありませんでしたから、ガーダシルワクチンが私のシステムの中へウイルスと癌を導入したのではないかと思わなくてはなりません。

蕁麻疹と血管浮腫の再発

2011年6月、おそらくストレスの結果、舌とのどの腫れとともに蕁麻疹/血管浮腫が再発しました。このとき私は英国のCornwellを旅行していましたので、地元の医者や病院がどこにあるか知らなくすこし恐く思いました。

2ヵ月後にH教授に受診したとき、オーストラリアの研究者が新しいマスト細胞安定剤を開発したといいました。治験中で、よい結果がでていること、オースト ラリアでの使用に政府の承認を得ようとしているということでした。ケトチフェンが私に効果的であったのだから、それをまた服用するべきだといいました。カ プセルをニュージーランドから取り寄せて服用を始めたら、症状は徐々に治まりました。

再発したときにCornwell にいたとH教授につたえたところ、彼は、“Just as well your tongue didn’t start to swell (あなたの舌が腫れ始めなくてよかったですね).”といいました(訳注、本当はCornwallだと思いますが、well で韻を踏んでいるようです)。舌とのどが最近そして2008年にも腫れたと聞いて、H教授は、すぐにエピペンの処方箋を書いてくれ、常時持ち歩くように言 いました。後に母がコメントしたように、2008年の初頭に、この3年間のことを知っていたら、どんなに役立ったでしょうか。


ガーダシル後の6年間

6年後の今の私はというと、いまだにガーダシルの余波と苦闘しています。 蕁麻疹 / 血管浮腫はこの3年間は再発していませんが、「目に見えない」遺産である不眠と疲労に手を焼いています。

私の睡眠パターンは、極度に混乱しています。わたしはティーンの頃から不眠の問題がありましたが、ガーダシル後は、とても重症になりました。私は、エネルギーがなく、極度に疲労しているのに、眠れないという、奇妙な状況です。

2010年に、私は、勉強しなおすことに決め、Deakin大学に通うためGeelong (メルボルンから約1時間の距離) に引越しました。距離、仕事、大学の勉強のため、Z医師から定期的な経過観察の処置を受けることは不可能となりました。

TCM (中医学)が、私の睡眠とエネルギーの問題を解決するのに最も見込みがあるように思われますが、残念ながらその時点で私がそれを選択する事はできませんで した。地元の医師を見つけ、症状を説明し、血液検査をするエネルギーがありませんでした。それで、私はできるかぎりのこと、ハーブティー、カノコソウ、処 方された睡眠剤などをして闘病を続けましたが、どれも効果はありませんでした。

症状が再発した2011年以降、睡眠パターンはさらに混乱しました。2012年の初め、睡眠専門家であるM医師の診察をうけ、睡眠テストをしました。私は 一晩中目がさめており、正式に、不眠のための消耗から日中に眠りに落ちる「スリープ・ナルコレプシー」と診断されました。

ガーダシルの目に見える遺産は、皮膚にありました。ガーダシル後、私の皮膚は、ティーンのころでさえいまだかつて経験したことがないほど悪いにきびに襲われました。

ガブリエルの話を読んで、多分、私は自分の健康に関してやっと何らかの答えを見つけることができただと理解しました。それは、どこから始めるか、誰に会うかという知識の問題です。

他のガーダシルの女性たちそしてすべての若い女性たちに伝えたい大切なメッセージは、毎年のパップスメアテストの必要性です。子宮腺癌を診断し治療したP 医師によると、このタイプの癌を発症する若い女性の数が増えており、毎年のパップスメアテストがそれをモニターするには必須であるということです。再び、 ガーダシルワクチンと若い女性の子宮頸癌の増加に関連があるかどうか思わずにはいられません。

私の命を救ったのはパップスメアテストであって、ガーダシルではありませんでした。


症例(ガーダシル)21 オーストラリア

2013-09-21 | ガーダシル症例
ガーダシルから5年:ミトコンドリアを育てること

2014年4月1日火曜日

ガブリエラ・チャウ


私とガーダシルの旅は、何も知らぬままオーストラリアで始まりました。大々的な市販が開始した2年後の2008年に、私はちょうど対象年齢の上限の26歳で、ぎりぎり無料ワクチン接種の資格がありました。何が私に起こるか何も知らずに、1度ならずも、3度も接種しました。

ガーダシル前の健康歴とワクチン歴

ガーダシルの前、私は健康そのものでした。勤勉で、スポーツ好きで、旅行に飛び回っていました。私は、フランスの厚生機関のプログラムに沿って自分の世代に課されたすべてのワクチンを受けていました。

修士課程を始めた2006年から2007年の間、医師のアドバイスに基づいて、海外旅行に必要と思われる多数のワクチンを接種しました。ジフテリア、腸チフス、黄熱病、A型およびB型肝炎、インフルエンザワクチン、破傷風の追加ワクチン。

2008年の中ごろ、最初のガーダシルを接種しました。 (20/06/2008 ガーダシル SEQUENCE 1, バッチ番号K0176). 2回目は2008年の10月でした (10/10/2008 ガーダシル SEQUENCE 2, バッチ番号K2307). そして、3回目のガーダシル は2009年2月でした (05/02/2009 ガーダシル SEQUENCE 3, バッチ番号No.K5754).

ガーダシル後:重度の過眠症、眩暈、振戦、体重減少

2回目の接種後、高熱を伴うインフルエンザのような症状が1週間以上続きました。過度の過眠症が最初に起こったのは、17時間眠り続けたときでした。嗜眠は、2回目と3回目のガーダシル接種のあと数ヶ月間悪化し、突然まったく何の前兆もなく、一日平均45分から3時間起きているのがやっとでした。

その症候群の最初のフェーズの間、食事のときフォークを持ち上げること、料理すること、台所へ歩いていくことさえ、過大な努力を必要としました。私は横にならなければ、コンピューターのキーボードの上で眠ってしまうほどでした。

疲労と嗜眠の違いがわからなかったので、医者に私の初期の症状を説明することが困難でした。診察の後の昼寝まで、診察の間中あくびをしていました。

生まれて初めて、重度の眩暈を体験しましたが、これが、その後5年再発を繰り返すことになりました。眩暈は、バランスを失うまで強くなりました。そして、定期的に通っていた重量挙げのクラスに通えなくなりました。

重量を持ち上げると床が回り始めるのです。私は、このバランスの喪失を、気合で直そうとしました。病気の最初のころは、ジムのクラスに無理やり参加して、身体を作動させようと試みました。意志の力で、身体を機能させようとしたのですが、無理でした。ボディポンプクラスでは、10分の記録を達成後、数時間眠りに落ちました。この眩暈と嗜眠が10日間続いた後、友達に頼んで車で医者に連れて行ってもらいました。

ドクターのパレードの始まり:ガーダシル反応を紐解く

医者 No.1:私のかかりつけの医者は、休息が必要であるだけという意見でした。そのときには、眩暈と嗜眠以外にも、手に振戦が出ていました。大学のヘルスセンターの医者 No.2に行きました。血液検査はすべて異常なし、私は健康であるといわれ、すべて「頭の中」の問題だといいました。医者が私の振戦を観察しても、それも「頭の中」ということでした。この医者は、私が症状をでっちあげていると思っていました。次の6週間、医者 No.3に行きました。この医者の診断は、慢性疲労症候群 (CFS)でした。なぜなら、私が、医者によると、知能を使いすぎて「神経細胞を消費尽くした」からだそうです。

続く5ヶ月のことはちょっとぼやけていて眠っていたこと以外覚えていません。どこにいてもすぐに眠りに落ちてしまったことを覚えています。机の上にうつ伏せで倒れこんだり、どこでも椅子に座るやすぐに眠ってしまうような状態でした。タクシーに乗ったときは運転手に眠ってしまうかもと警告しておき、目的地に着いたら起こしてくれるよう頼みました。これは、毎晩10時間から12時間眠って、毎日午前や午後に数時間昼寝をしたその上での話です。

さらにたくさんの医者とたくさんの症状

私はオーストラリアからフランスへ引越し、医者 No.4に診てもらいました。すぐに新しい症状が始まりました。頻拍症 (高心拍数)でした。階段を上ると、私の心臓は激しく脈打ち、息切れがしました。ほんの数ヶ月前に私は本当に運動家だったのにもかかわらずです。医者 No.4 はすべての考えられる検査をし尽くし、フランスのFoch病院の内科専門医である医者 No. 5に紹介状を書いてくれました。紹介状には、過眠症ではないかと示唆されていました。

このときまでに、私は塩分に対して極度の欲求、それと同時に、眩暈と強度ののどの渇きが起こっていました。極度の嗜眠の波が襲う合間に、塩を食べることが役に立っていることに気がつきました。わたしは、ポテトチップスを袋ごと、それに大量の塩をふりかけて食べました。そのうち、眩暈や他の症状に効果があるのは、海塩でなくてはならないことがわかりました。これらの期間、私は舌がもつれるようになって話すことが困難になりました。そしてこの直後に、極度の嗜眠がやってくるようになりました。身体的エネルギーを使うこと (歩くこと、立ち上がること、料理すること)の、感情的になったり、同情や怒りなどの精神的エネルギーも、なくなっていきました。例えば怒りがこみ上げてくると、眠りに落ちてしまうのです。まるで、怒ることに必要なエネルギーの出力が、私の疲労した身体の制限をオーバーしているようなものでした。

私の塩分に対する欲求が強いので、医者 No.5は、副腎腫瘍のテストを含む一連の検査をすることを提案しました。これは2010年7月のことでした。ビタミン D 欠乏症をのぞいて、他のすべての検査結果は異常無しでした。


医者 No.5:脱力発作を伴わない過眠症か?

医者 No.5 は、私が、眠りに落ちる前に座ることができたので、虚脱しながら眠る脱力発作よりは、脱力発作を伴わない過眠症であると結論し、300mg/日のモディオダール (Modafinil-Australia; Provigil-US)を処方した。

モディオダールでの処置の結果は、驚くものであった。この「覚醒促進剤」は、軍隊の特殊部隊が戦闘で使用するものであり、私の嗜眠をコントロールすることを受けあうものであった。私は依然として極端に眠かったけれども、日中はかなりたくさんの用事をこなすことができた。

私は、重量挙げのレッスンを再開し、かなりよい結果をだしていたが、レッスンの後は、2から3時間眠る必要があり、また依然としてめまいがあり、そのときにはまだ説明のできなかった他の症状のすべてが残っていた。

医者 No.6は「ちょっと待って、それは違うかも」という

2010年の10月、睡眠専門医である医者 No.6の診察を受けた。彼女が言った事は、 「私はあなたのような女性をたくさんみてきました。あなたの年代の女性は、仕事でもプライベートでもおおくのプレッシャーに曝されています。あなたは過眠症ではありません。あなたは、仕事とプライベートでたくさんのことがあって、心因性の過眠症になっているのです。」”

つまり、女医は、すべてが私の頭の中の問題だとほのめかしていました。彼女は6ヶ月ほどで治癒するだろうといって、スリープラボでの検査は行いませんでし た。一日400mg のモディオダールを処方し、身体を規則正しい覚醒ー睡眠のサイクルに戻すために日中は嗜眠に抵抗して起きているようにといいました。私はそうしようとがん ばりましたが、うまくいきませんでした。その時までに、私は仕事場に、眠くてめまいがひどいときに10分間の仮眠をとれるよう昼寝用のアームチェアーを用 意しました。

薬を増量したので、日中の嗜眠には耐えることができるようになりましたが、他のすべての症状はそのままで、新しいものもいくつか出現しました。このころ、私は、音や光にとても敏感になって、屋内でもサングラスが必要でした。 ガーダシル後の健康悪化を通り抜ける 徐々に私の身体は高用量のモディオダールになれ、眩暈や嗜眠にも耐えられるようになりました。2010年11月に博士課程に登録しました。

2011年の初めには、フルタイムで仕事をしながら博士課程を始めました。私の決意は固かったので、眩暈, 嗜眠、他の症状で身体がどんなにかんしゃくを起こしたとしても、私は自分の身体をもう一度機能開始させ、博士課程と、フルタイムの仕事ができると考えていました。

私は、フルパワー前進中でした。過眠症の診断が最終的なものだと思っていました。 さらに6ヶ月が経過しても、改善なし 医者 No.6が治癒するであろうと言った6ヶ月後、何の改善もみられませんでした。女医の説明によると、私が回復しないのは、私の「忙しすぎる」ライフスタイ ルの所為だということでした。「がんばりすぎなのですよ、もう一年様子をみてみましょう。実際は丸々6ヶ月は休養すべきですが、それはあなたには無理です よね。」と言われました。

嗜眠、眩暈、光と音への過敏、塩への依存、渇きの改善はありませんでした。仕事と勉強に追われて、私の体力は限界になっていました。私には、自分にふりかかった医学的パズルを詳細に調べるエネルギーがありませんでした。

モディオダールがよく作用していた処置の間に、医者 No.6 は、モディオダールの代わりの薬を試してみました。というのも、モディオダールは、過眠症以外での使用では、政府の援助が得られなくなったのでした。80 mg のリタリンを処方しました。2012年の初めまでに、この新しい、抗嗜眠薬により、私は体調がひどく悪くなり、そのため医師は処方をモディオダールに戻し ました。食事は普通にしていましたが、体重が48kgへと減りました。

ガーダシル後の米国の医者: パズルを解くヒント

2012年の後半から2013年初めにかけて、6ヶ月米国に滞在しました。私は、過眠症の経過観察が必要だったので、米国で医者 No.7 の診察を受け、フランスの医者 No.6 に連絡をとってもらいました。私はこの医者に、今まで受けた診断が正しくないと思っていることを伝えました。

「心因性」過眠症 は、ナンセンスで、症状を再評価する必要があることが明白でした。ほぼ常時めまいがして、光への過敏症が悪化して室内でもサングラスが必要なこと、また塩 への渇望があることなどを話しました。また、その時までに私は本当に痩せてしまっいました。運動、特に重量挙げの後は、眩暈なしに数時間過ごすことができ ることを発見したことも告げました。頭皮に、厚い乾燥した薄片ができること。フケではないこと。なんであれ炎症がとても痛いこと。いくつかの新たな症状が 出てることを話しました。


甲状腺機能低下

米国の医者 No.7 は、甲状腺機能低下であると診断しました。甲状腺刺激ホルモン (TSH) レベルが7.89 uIU/mLと高かったので、私はとても痩せているにもかかわらず、甲状腺機能低下であることを示しているということでした。この甲状腺の病状では、体重 が増加することが一般的です。

医者 No.7 の考えでは、過眠症は甲状腺機能低下症の結果であり、レボチロキシンの服用で、睡眠過剰,眩暈,光過敏症のすべてが良くなるということでした。この診断は2013年1月のことでした。

医師は、さらなる検査のため睡眠専門医を、また頭皮の問題のため皮膚科医を紹介しました。 低カリウム. 私のカリウムレベルが低いことがわかりましたが、その時はとくに気に留めていませんでした。これは、この記事の後のほうでわかることですが、重要な手掛かり。

ビタミン B 欠乏.

皮膚科医である医者 No.8、私が旅行した国々に熱帯地方が含まれていたので、熱帯寄生虫の検査をしました。すべて異常なしでした。

けれどもこの女医は彼女の経験から、私の病状のような皮膚の症状が何らかのビタミン Bが欠乏しているためではないかととても心配して、ビタミン B サプリメント配合物をとることを薦めました。

私は旅行で忙しく、彼女に再診することがかなわず、ビタミンも注文しませんでした。私は、眩暈と過眠症と、新たに見つかった甲状腺の問題にばかり気をとら れて、ビタミン 欠乏症への関連を見過ごしてしまいました。今、チアミン欠乏症についての理解をもって振り返ると、この女医がおそらく正しかったことがわかります。

過眠症へ戻る.

米国の睡眠専門医である医者 No.9は、脱力発作を伴わない過眠症の疑いがあるということで、睡眠検査を受けるよう指示しました。医師の話では、私は典型的な過眠症のプロフィールに は合わないということでした。モディオダールの服用を徐々に減らして止めるまでの13日間の後 (にもかかわわらずレボチロキシンは開始していました)、2013年2月に睡眠検査を行いました。

この検査のためにモディオダールを完全に断薬した後は、運動はできなくなり、常時眠りに落ちていました。実際、睡眠技師は、日中の検査の間でさえ、私を起 こすために検査室まで入ってこなくてはならりませんでした。睡眠検査をしたことがあるひとならおわかりでしょうが、有効な検査のためには、一定の期間起き ていなくてはならないのです。

私は嗜眠に抵抗できず、「目覚め」の椅子でコントロールできずに眠りに落ちてしまいました。睡眠潜時反復検査(MSLT)の結果は、極度の嗜眠を示す平均4.75分でした。私は、フランスの医者 No.6にこの結果を知らせました。


ガーダシル後特発性過眠症プラス 甲状腺機能低下

睡眠検査の結果を見た医者 No.9は、明らかに、心因性の過眠症ではなく、明らかに慢性疲労症候群 (CFS)ではないといいました。ナルコレプシーでもありませんでした。彼の意見では、 ‘特発性’ 過眠症すなわち「ワクチン関連」過眠症ということでした。

私は、軽度の睡眠時無呼吸もありました。2013 年4月、私のTSH レベルは正常でしたが、リバースT3レベルとチロキシン (T4)レベルが異常に高くなっていました。私は医者 No.7を再訪しました。 話し合って、レボチロキシンを一日100Mcgに増量することにしました。

フランスに戻る–修道院で助けてもらう

2013年4月、フランスでの博士号の口答試験のため、米国を離れました。

米国の睡眠専門医の医者 No.9は、3ヶ月分のモディオダールのサンプルをくれました。私は一度に一月分以上のモディオダールを注文することができませんでしたし、フランスでは 医療保険は切れていました。過眠症をコントロールするため、一日400mg のモディオダールの代わりに、一日250mgのアルモダフィニルをもらいました。そんなこんなで、私はフランスで、初めての町、実際は修道院で、2013 年の4月から8月まで過ごしました。

食事と運動が手掛かりに:ガーダシル後ミトコンドリア機能不全の可能性

そのときまでに、糖と他の炭水化物が嗜眠を引き起こすことに気が付いていました。 複合糖質は私には影響を与えませんでした。これと余分は海塩を計画的に取って、嗜眠がおこるのを低減しました。余分な塩のため、私はほとんどの時間のどがとても渇いていました。

重量挙げをすると、眩暈なしの時間が24時間ほど続き、15~30分ジョギングすると眩暈無しの時間が4~6時間続きました。実際、眩暈がひどいときに、 腕立て伏せやウェイトを持ち上げると、眩暈がかならず低減しました。私は、この症状についてウェブサイトHormones Matter マース博士に問い合わせました。女史は、運動がミトコンドリアの生合成を誘発することを示している研究を見つけました。どいうわけか、私の身体もそのこと を知っていたようですが、それがなぜ効果があるのか私は当時は全く知らずにやっていたのです。


修道院に滞在中のある時点で、私の症状は悪化しました。私は「トンネル状視野」と呼ばれるものを発症し、光過敏症がひどくなりました。屋内でさえほとんど の時間サングラスが必要でした。目薬をささないと、目が焼けるようでした。私は常時気を失うように感じていました。目の下が奇妙にたるんでいました。それ は、頬を越えて顎の骨まで延びていました。

音や話し声にとても消耗させられました。私は食堂で他の人と一緒に食事をするかわりに、一人で食事をとりました。このころ、同時に心臓の動悸が再発しまし た。走ることができず、何人かの層や尼僧に、しっかり食べているかどうか聞かれるようになりました。何をどれだけ食べても、体重が増えるどころか減り続け ました。


このときが、病気の最悪のときだったと思います。眩暈がでると、エネルギーが体から完全にもれ出てしまうように感じました。これが起こっているときの精神 的なイメージを言葉にするなら、それはまるで光(私のエネルギーレベルを表しています)がもれているあるいは私の頭蓋骨の頭頂部から上に向かって光線がで ているようでした。

これは気が狂っているように聞こえるかもしれませんが、私は本当に病気で、「エネルギーが漏出している」という幻覚により、私の身体が私に教えているよう に思っていました。それが、治癒への方法を見つける私のインスピレーションで、私の任務は、この「漏出」の生化学的な出所をみつけることでした。

橋本病と低ガンマグロブリン

私は、南フランスの小さな村の医者 No.10 に行きました。TSHレベルは、0.1に低下しており、私は、甲状腺機能低下から甲状腺機能亢進へと移行していました。実際には、‘特発性’ 過眠症に加えて、橋本病であることがわかりました。低ガンマグロブリン血症と総タンパク質レベルが低いこともわかりました。2013年の2月から6月までの間で体重が7キロ減りました。マース博士はガーダシル後橋本病についても記事を書いています。

医者 No.10は、レボチロキシンを減量するよう、そして低ガンマグロブリン血症であるから病院の血液専門医にみてもらうように言いました。血液専門医は休暇中でした。自分の健康状態の悪化がひどかったので、パリにいる友人に電話をしました。彼は大変心配して、私を助けようとパリの医者にアドバイスをもらえるよう連絡してくれました。そして、医者 No.11との診察を予約しました。


医者 No.11 は好色であった

私はパリで医者 No.11 に見てもらいましたが、彼はガーダシルワクチンは副作用がないこと、私の症状のすべては明らかに頭の中にあることだといいました。博士課程の口答試験の約4週間前で、私の健康状態については何も知らない高額な医者は、過眠症にもかかわらず目覚め続けさせるための薬を止めるよう言い、モディオダールを断薬するためにリチウムを処方しました。 そして、私の性生活について質問し、女性特有のヒステリーと抑圧された性欲の復活であるという診断を示唆しました。彼は、診断を必要としている健康悪化の問題よりも、私の性生活を想像して楽しみすぎているようでした。そして、突然、「クライマックスで何か問題があるか」と聞いてきました。いまだに、この彼の質問を、どうやって私の光への過敏症、過眠症, 塩への渇望、手の振戦、渇き、 橋本病, 眩暈、動悸と関連付けたらいいのか全くもって不可解です。

彼は、検査の結果がすべて異常なしであろうとほのめかし、結果は異常なしであろうと彼が予測していることを私に執拗にわからせようとしたし、私の思考パターンを直すために彼の友人の定年退職した精神科医との診察の予約をとろうとしたとき、私はとても心配になりました。そして、彼が続けることには、彼が何十年も前にカナダで働いていたとき、私の年代の患者に電気ショック療法を施し、それが心身症の女性を抑制するのにとても良い技術だったことをほのめかしました。

そうです、この高額な医者は、かつて、病気の女性に電気ショックの実験をすることが好きだったのです。この奇妙な人物から逃れる作戦として、モディオダールを喜んでやめ、ラボ検査を受けるといいました。

パリへ出かける前よりもさらに私の健康に困惑して、南フランスの修道院に急いで戻りました。修道院に着いたとき、私はほとんど気が狂いそうでした。修道院長に診察の様子を伝えたところ、彼女は笑い転げるほどでした。彼女のユーモアに私は心から救われました。


医者 No.12 –ガーダシル 後橋本病の管理

翌日、他の友人が、南フランスのモンペリエの病院で内分泌医である 医者 No.12との診察を予約してくれました。女医は、橋本病であることを確認し、チロキシン用量を減らすよういいました。彼女は、修道院に近い他の病院の内科医を紹介してくれました。

医者 No. 13 – おそらくガーダシルだけど、それと一緒に生きていかなくてはいけないでしょう

医者 No.13は、病院の内科の癌専門医でした。彼は、他の多数の検査をし、また下垂体の問題のためもう一度MRIもしました。甲状腺機能以外はすべて異常無 しでしたが、それはもうすでにわかっていることでした。Breimer病のテストをしましたが、ビタミンB12レベルは異常なしでした。ループスの検査結 果も異常無しでした。

医者 No.13 は、医学は私に明らかな診断をくだせるほど十分進歩していないといいました。そして、おそらくガーダシルが過眠症を引き起こしたが、機序や私の症候群の原因が不明なこの時点では、「診断のない」状態で生きていくしかないと続けました。

健康は悪化していたけれど、2013年の7月に博士課程の口答試験に合格しました。2013年8月、オーストラリアへ戻りました。


オーストラリアでのガーダシル後副反応の処置– 医者No.14、15、16

私は過眠症の処置のため、オーストラリアで専門医を探していました。私は他の一般医(医者 No.14)と、オーストラリアの睡眠専門医である医者 No.15の診察を受けました。睡眠専門医はとても気を使ってくれ、抗嗜眠薬を必ず飲み続けるよう言いました。医師は、軽度の睡眠時無呼吸があるので CPAP 測定機を試してみることを提案しました。彼は、米国の医者 No.9と連絡を取り始めました。医師が言うことには、小児では、「軽度の」睡眠時無呼吸と考えられるものがあらゆる健康上の問題を引き起こしえるのだと いうことでした。咳がひどくて、この検査を試みようとしましたができませんでした。 過眠症に加えて橋本病があり、血液検査の結果も何か変だったので、診断をやり直す必要があると思いました。戦略を変える時でした。

私は、オーストラリアの新しい一般医の医者 No.14を再訪し、私が心配していることを話しました。それから、甲状腺病を管理するために内分泌科医を紹介するよう頼みました。女医は、内分泌科医で ある医者 No.16への紹介を手配しました。内分泌科医にとって、橋本病の一連の症状は明白でした。2回の診察で、一日93.25 McgのEutroxsig の服用で私のTSH レベルを安定させることができ、それで終わりでした。一年後に診察にくるよう指示しました。彼女にとって、彼女が処置しているのは橋本病であって、他の一 連の症状は無関係でした。塩への渇望と光への過敏をなくすためヨガをしたらどうかといいました。つまり、他の症状は、基礎疾患には無関係だと示唆していま した。

私は医者 No.14にいきました。渇きと塩への渇望、光や音への過敏はとてもひどくなっていました。眩暈を抑えるため軍隊のような規則正しさで運動をしていまし た。これは、今考えると、おそらくミトコンドリア損傷に対処していたのです。私は、医者 No.14にいくつかの検査をすることと、免疫専門医を探すよう頼みました。オーストラリアの睡眠専門医である医者 No.15は、私が感染しやすくなっていることや低IgAや橋本病などのため、免疫専門医に診察してもらうことに賛成でした。

医者 No.14 は、彼の意見を聞き入れ、彼の推薦する免疫専門医との診察を手配しながら、他の一般医の医者 No.18の診察も薦めてきました。医者 No.18 は、私の健康の問題よりも、私のバスとの形のため私が豊胸しているのかに興味があったようです。彼は、フランスの医者 No.11のオーストラリア版です。もちろん、2度と訪れることはありませんでした。

その間、ホルモン・マターのウェブサイトで、チャンドラー・マース博士、デレック・ロンスデール医師の専門、そして勇気のあるお母さんのおかげで、ガーダ シル後の異常な症状を持つ4人の患者(3人の少女と1人の少年)が赤血球トランスケトラーゼテストにより、チアミン (チアミン) 欠乏症であることがみつかった記事を読みました。脚気が彼らの症状の中心で、その診断がでる前は、医者は何もできませんでした。

私はこの欠乏症の正しい検査を受けられないか探してみました。これが、2013年9月のことでした。チアミン検査には様々な種類があることを説明するため に、6週間、3人の医者(病院の専門医2人と医者 No.14)とメールを交換しましたが、どうにもならないことを理解しました。

その後私が知ったことは、医者 No.14は上司から、私のために検査することを止めるようプレッシャーをかけられていたようです。私は、気分が鬱ではありませんでしたが、抗鬱剤を薦め られました。私は、再訪しないことに決めました。私は医者 No.14の代わりになる他の一般にを探しました。新たな一般医の 医者 No.19 は、栄養素の吸収問題と関連する多数の検査をしました。すべて異常無しでした。


最後の同盟で– 医者 No.17


2013年10月、総タンパク質レベルは依然低く、IgA も低く、ビタミン Dは特にとても低い状態でした。抗甲状腺ペルオキシダーゼ (TPO) は高い値でした。今回もカリウムレベルは低く (3.1mmol/L), これは数ヶ月まえの低カリウムレベルと一致していました。 (今になって、これが典型的なチアミン欠乏症,すなわち脚気であるとわかります)。フランスでもオーストラリアでも、白血球数はいつも低い値でした。

医者 No.15のおかげで、オーストラリアの勤務医の免疫専門医である専門医の医者 No.17に出会い、さらに一連の検査をしました。この医者は、ガーダシル後チアミン欠乏症に関するデレック・ロンスデールの記事に興味をもちました。 マース博士の勧めで、彼らはメールをやり取りするようになり、私たちは、オーストラリアでチアミン欠乏症の検査をしようと試みましたが、正確な検査が可能 なラボを見つけることができませんでした。2013年9月と10月は、全血B1 レベルは異常無しの143nmol/L (lab range: 66-200) 、65ug/L (lab range: 28-85)でした。けれども、検査すべはチアミンの活性でした。ロンズデール医師は、トランスケトラーゼを測定することが、チアミンの活性が正常である ことを示す唯一の方法であると明確に述べています。トランスケトラーゼは、チアミンとマグネシウムの2つの補助因子を必要とします。赤血球 トランスケトラーゼ 検査は、この酵素の活性を検出することで、それらの欠乏や異常な化学的性質を示すようにデザインされています。

2013年11月に東南アジアに滞在していたので、私は再び、赤血球 トランスケトラーゼテスト 検査が受けられるかどうか探してみましたが、できませんでした。日本で連絡をとった研究職の医者 No.20に検査してもらいたかったのです。私は、脚気が日本でより頻繁に発症して、専門の研究所があると思っていました。私はフランスの研究者医者 No.21を介して、日本人研究者に聞いてもらいました。彼は、日本で6つの研究所に打診しましたが、できませんでした。

2013年11月、トランスケトラーゼ 検査をしてもらおうと何度も試みてうまくいかず、また私の健康は悪化し続けていました。免疫専門医である医者 No.17と私は、とにかく、ロンズデール医師の提案したTTFDによるチアミン 補充療法を試みることにしました。ロンズデール医師の説明では、TTFD とはチアミン テトラヒドロフルフリル ジスルフィドのことです。これは、ニンニクに存在する、ビタミン B1(チアミン)の天然ジスルフィド誘導体であるアリチアミンと同等の合成物です。単なるチアミンでの補充よりもあるかに治療性があることが、臨床的、動 物実験、生化学実験で示されています。

どうか、医者の指導なしにこれを自分でためさないでください。とても危険な逆説反応 があります。

チアミン 補充療法 – 逆説反応を乗り越えて

私は、11月に一日100mg の用量でTTFDを開始しました。5日後に、用量を一日50mgに減量しました。私は、ローンズデール医師から、「逆説」と呼ぶ、症状の悪化があることを 忠告されていました。そのため、症状が良くなる前に悪化することは知っていました。けれども、逆説反応がどんなに大変かは創造できませんでした。 ロンズデール医師が「逆説」とよぶことについて言及させてください。

彼は以下のように説明しました。 残念ながら、私たちはビタミン欠乏病である脚気の原因を定義するために研究者が経験した困難と歴史を顧みないのです。これらのことを現代の医師は気が付い ていません。病気が重度であるほどまた長い期間わずらっていた場合ほど、治療を始めるときの危険が高いことは、この病気がよく見られた頃は公知のことでし た。たとえどんな状況でも、POTS(体位性起立性頻拍症候群)は、知識のある医師の加護の下でない限りTTFDで処置すべきではありません。

TTFD 摂取の初期、5週間の期間に、極度の眩暈と心臓の動悸のため4回救急病棟を訪れることになりました。一度などは、胸部痛と動悸と極度の眩暈で一日に2つの 病院に行きました。他の場合には、ジムで救急車を呼びました。私の心拍が下がらず、とてもめまいがひどく、思考が混乱したのです。実際には「心拍」という つもりが、「心臓のパルス」をモニターしたいと言って、ジムのスタッフを驚かしました。 救急病棟では、研修医の医者No.22 と医者No.23に診てもらいました。

一人は、神経内科医と内分泌科医の診察を受けるようにといい、彼女の手紙は、「左側胸部痛–鋭いはさむような痛み、客観的にみて緊急を要す。現在、入院の 範疇ではない。神経内科医と内分泌科医の両者の診察が有用であろう」。他の病院の他の研修医は、心臓病専門医の診察を薦め「断続的な動悸、ホルターモニ ターの使用を考慮するためこの患者を診察してくださりありがとうございます」というメールを出した。二人とも、私の症状に困惑しました。

ロンズデール医師の説明ではは、これは正常であり予想通りで一時的なものであるとのことでした。私が最後にERを訪れたのは、2013年12月上旬でした。


ガーダシル後疾患は、チアミン欠乏症に関係しているか?

ロンズデール医師の研究は、チアミン欠乏症と自律神経障害の間に関連があることを示しています。チアミン欠乏症である脚気は、実際にその初期の段階では自律神経障害のプロトタイプです。なぜなら、それは、視床下部/自律神経/内分泌軸に影響を与えるからです。

私自身の最近の経験から、私はこれに賛成したいと思います。ワクチンの前にチアミン欠乏症であったのかどうかを、今になって決めることは不可能です。明ら かになったことは、ガーダシルワクチン後に、私の身体は急降下し、従来の診断や与えられた治療は効果がありませんでした。


今私は、自分の病気の症状が自律神経障害の3つの型を示していることがわかります。そのすべてが、チアミン欠乏症により誘発されたようです。POTS(体 位性起立性頻拍症候群)の体位性および起立性の部分は、眩暈と立ち上がったときの失神に示されています。中枢性塩類喪失症候群は、極度の塩への渇望により 示され、脚気はチアミン治療が有効であったことにより確認されました。過眠症は改善しましたので、これもチアミン欠乏症により誘発されていたようです。橋 本病には、私は遺伝的素因がありますが、これは、医薬品はワクチン後にとてもよくあることであるということを学びました。

ロンズデール医師によると、潜在的な無症状のチアミン欠乏症がガーダシルワクチンにより、臨床的に重要な状態に引き起こされたという可能性ももちろんあります。


ガーダシル後障害の治癒


2013年12月上旬に、TTFD治療の「逆説」が終わり、この5年間のどの時点よりも多くのエネルギーが戻って気ました。絶えずあった眩暈はなくなりま した。極度の塩への渇望もなくなりました。皮膚も改善しました。光と音への過敏症も低減しました。体重が増加しました。夜に運転するときにサングラスが必 要でなくなり、うるさい場所でも耳栓が必要ではなくなりました。

話を進めると、私は自分の身体に治癒に必要なものを与えています。ミトコンドリアを育てるために重要な栄養素を身体に与えながら、徐々に、過眠症の薬を減らしています。現在、毎日の運動に加えて、以下のものを一日につきとっています。

早朝: プロバイオティクス; 200mg モディオダール; 93.25 チロキシン

午前中: 50mg TTFD (アリチアミン, Ecological Formulas); 150mg マグネシウム (TTFDと作用する); 1000 iu ビタミンD3 (ビタミンD欠乏への対処)

昼食時: 200mg または175mg モディオダール

午後: 500mg アセチルLカルニチン; 150mg Co-Enzyme Q10

夜: 66mg TTFD, 1000µg B12, 66mg B6, 69mg ビタミンE, 66mg dl-α-as トコフェリルスクシナート, 20mg パントテン酸カルシウム, 6.6mg γオリザノール (2錠のEX-PLUS アリナミン、武田製薬)


初めの、2013年の11月から20142月の間、50mg のTTFD と150mg のマグネシウム、それにマルチビタミンだけでした。

現在、逆説フェーズが終わったので、TTFD サプリメントで私のエネルギーレベルは急上昇しています。徐々にTTFD を83mgに増やしました。今は、116mgです。私の症状がミトコンドリアによるものと思われたので、March 2014年3月上旬に、アセチルLカルニチンとCo-enzyme Q10を追加しました。また、薬による損傷に備えて、プロバイオティクスも追加しました。今は、モディオダールレベルを徐々に減らすよう検討しています。

後記:私は修道院で自分の健康について重要なことを教えられた

病気が最も悪かった間、手掛かりはペアとしてあるいはトリオとして与えられた。トリオは、チャンドラー・マース博士、デリック・ロンズデール医師、そし て、ガーダシルで障害をうけた患者の母親であった。このトリオは、答えを見つけるための道順ではペアをなしていた。この文で、私が意味することを説明させ てください。 私はフランスで博士課程を略終える段階でした。この大変な時期に、精神的および知性的に、また経済的に、私は修道院に安心して身をおくことができました。

私の健康の悪化は激しかったのです。この祈りの文脈で、博士課程の論文を書き口答試験のための勉強をする間、宗教的共同体の保護の下に、修道院でWiFiの接続がとても良かっため、私は答えを一心不乱に探し始めたのです。

私の身体に体現しているこの複雑な生化学的混乱を理解する必要がありました。医者たちが常に見落としているものが理解するのにこれほど複雑なわけがありえ ませんでした。この症候群の症状は、心因性ではありません。それらは、化学物質のまったく関与しないところで起こるはずはありませんでした。にもかかわら ず医者たちは困惑しました。そして、私の症状を解決不可能な謎として片付けたのですが、それは一つの国だけでなく、3つの国、オーストラリア、フランス、 アメリカでのことでした。

ホルモン・マターに掲載されていたガーダシルの有害反応への研究が、私のこの病気に対する考え方を変えました。増え続ける証拠が、ガーダシルと体位性起立 性頻拍症候群(POTS)から、小脳失調症、自己免疫疾患、衰弱性嗜眠までにわたる副作用群との間に関連があることを示唆しているようでした。

無数の一般医の診察の後、3人の病院の専門医に様々な病状を処置してもらいました。睡眠専門医、内分泌科医そして免疫専門医です。 ガーダシルワクチン誘発過眠症とワクチン誘因橋本病は、氷山の一角であることがわかりました。

私は、中枢性塩類喪失症候群、体位性起立性頻拍症候群、および脚気に罹っていました。これらはすべて、自律神経障害であり、チアミン欠乏症に関連している 可能性があります。私が診察を受けた医師たちは、これらのことを一つとして見つけることも、考え及ぶことさえしませんでした。例外として、皮膚科医の医者 No.8は、私の病気にビタミンB類が関係している可能性に言及しました。もし医師らがチアミン欠乏症を疑ったとしても、商業的な研究所での検査はそれを 検出するのには不十分であり、私の場合のように患者は自分で対処しなくてはならないのです。

しかしながら、ホルモンマターのマース博士の研究と記事が、ガーダシル後のにより苦しい体験の各々の点をつなぐことに役立ちました。チアミン欠乏症により 起こる一連の症状を示すロンズデール医師の仕事も合わせて、私は今より正確な診断と治癒に必要な処置がわかりました。それとともに、ロンズデール医師の研 究とマース博士のミトコンドリア損傷についての記事は、過去5年に私が経験した複雑な症状を包括的に説明しています。彼らの仕事は、私と私の医師らに、他 の方法では知り得なかった処置の選択肢を提供しています。

数日前、François-Jérôme Authier博士とRomain K. Gherardi博士の研究を見つけました。彼らの仕事は、この多面的な症候群の核心での複雑な化学相互作用を明らかにしています。


私が学んだこと

複雑な病気には、時として単純な解決策がありますが、そこに辿り着くには、患者、医師、研究者のつながりと協力が必要です。私の病気は医学の境界を越える もので、学際的なアプローチが必要でした。すぐにわかる診断も、病気に効果的な薬もなく、そのため、多くの医師たちが、私の症状を解決不可能なものとして 無視しました。最悪なのは、幸い限られた数でしたが、私の病気を心因性であると結論付けたことです。

もしホルモンマターという、患者と研究者と医師が協力して複雑な病気や副反応の解決法をみつけるウェブサイトがなかったら, 私はこの記事を書いていることはなかったでしょう。私はひどい病気の状態だったでしょう。

症例(ガーダシル)20 デンマーク 30代

2013-09-20 | ガーダシル症例
ガーダシル:私の家族も私と一緒に苦しんでいます

2014年3月1日
ハイディ・ユール・ペデルセン
デンマーク・ユトランド半島北部フレゼリクスハウン在住


私と夫には、3人の小さな子供がいます。ガーダシルの前、私たちはとても活発な家族で、様々なことを子供たちと一緒にしました。楽しんでいました。私は、いつも日に15~20キロほど歩き、福祉介護者としての仕事で、毎日20キロ自転車に乗っていました。最後のガーダシル接種から1年以上になります。副作用を克服するために、いまだに仕事は病欠となっています。

私の末の息子が11ヶ月で、育児休暇の最後の週で、ここユトランド半島北部のSkallerupの海辺の観光地で冬の休暇中でした。私たちの休暇が始まる前日の2013年2月15日に、HPVワクチンのガーダシルの最初の注射を受けました。 私がワクチンを受けたのは、小さな子供がいるので、注射を受けることが一番安全なことだと思ったのです。医者とも話し合い、彼も賛成しました。実際には、私と夫が13年も一緒に生活しているのだから注射は必要ないものだったのですが、医者はそのことについては何もいいませんでした。

最初のワクチンを接種した2月15日に、私の生理が、予定よりすこし早く始まったことにすこし驚きましたが、その時は、家族の旅行の楽しみで頭がいっぱいで、生理のことはちょっと面倒なことくらいにしか思いませんでした。

14日間も出血があったあと、どうしてかと考え始めました。その後、避妊具のコイルが身体からでてきたことに気が付きましたので、医者の予約をして、それを完全に取り除いてもらい、代わりに避妊薬を処方してもらいました。未だにすこし出血していましたが、それはコイルを取り除いたせいだと思いました。次の生理は4月にあり、このときも数週間続きました。このときは、ひどいめまいがあって、気を失いそうな感じでした。医者に行ったところ、血圧がとても低いといわれましたが、医者はなぜなのかわかりませんでした。その時点で、ワクチンを疑う人はいませんでした。

数日後、2回目の接種を受けました。2013年4月18日でした。接種後2日以内に、つまり4月20日に、私の生活は完全に変わりました。私は突然何もできなくなりました。私の片脚は突然麻痺し、私はその脚を引きずっていました。私の両腕も、短期間でしたが麻痺したので、すべてのことに夫の手伝いが必要でした。手の指の形が変わり、曲がった鉤爪のようで、どうしてもまっすぐにできませんでした。この症状は、ありがたいことになくなりましたが、以下に列記した他のことが徐々に現れました。

· 記憶喪失 · 頭痛 · 顕著な疲労 · 突然起こる体全体のしびれや痛み、数分から数日に及ぶ。 ··集中力の低下/記憶困難 ·めまい ·極度の低血圧 ·高パルスレート ·発疹 体重減少、BMI値が24.6から21.4まで減少 内部熱/発熱 - 一瞬で凍えるほどの寒さから、汗をかくほど暑くなる 視覚の問題 - 焦点が合わせられない あご、首、背中に痛み 背中にこむら返り ·動悸 ·腹痛 ·短期間の耳鳴り - 耳鳴症 ·足が重い - 横になった位置から足を挙げるのにひどく集中しなければならない ·首尾一貫した話しができない ·悪性貧血 - B12欠乏 手と足に力がはいらない ·下痢 ·吐き気

写真:謎の症状の1つ




2013年11月、私は、体位性起立性頻拍症候群(POTS)と診断されました。安静時心拍数は100-115であり、心臓の動悸が頻繁にあり、胸を締め付けるようで、とても気分が悪くなります。このようなときは、走ることも子供たちと遊ぶこともできません。私は依然、感覚障害があり、痛みも起こったり消えたり、身体中を移動したりします。両脚も時々悪くなり、ほとんど歩けなくなります。 私は娘を学校まで迎えに行きますが、それ以上は歩けません。幼稚園や保育園から2人の息子を迎えに行くことはできません。夫が彼らを迎えにいきます。 時々頭痛がひどく、一日中ベッドで横になっていなくてはならないほどです。子供たちが、この状態を理解することはとても大変なことです。 私の腕に力が入りませんから、末の息子を抱きかかえることができませんが、幸い、彼はもう歩けるようになりました。 ここに、娘の描いた絵と、母親についてのコメントがあります。言葉はデンマーク語です。7歳の娘が数ヶ月前に1年生になった時に学校の宿題で母親について書いたことです。

病気
ソファの上にいる
家にいる
病気
長い間

私は力の限り闘い、どうしてこんなことが起きたのかを探り、健康を取り戻します。私は、将来、オムツをかえたり、掃除機をかけたり、床を洗ったり、洗濯をしたり、窓を拭いたりなど、家庭の行事のすべてに参加できるように、健康で希望をもって生きていきます。このワクチンを受けてからできなくなったすべての普通のこと。それが私のゴールで、子供たちと楽しいときを過ごすことです。このひどい経験は、私にだけでく、私の家族5人のすべてに影響しています。

私は、デンマークの首相、厚生大臣などに手紙を書きましたが、何の有用な返事をもらっていません。

実際私が必要なのは返事ではなく、行動です。私だけでなく、このワクチンによって傷つけられたデンマークのすべての被害者にとっも同じです。私たちのすべてが正しく診断され、健康と生活を取り戻せるような治療を受けることです。必要なのは、今です。来年ではありません。


コメント欄から

あなたは、リベド血管炎に罹患しています。私は、背中に発症しています。調べてみてください。私の場合、正しい診断を得るまで何年もかかりました。幸運を祈ります。

症例(ガーダシル)19 アメリカ アリー

2013-09-19 | ガーダシル症例
ガーダシル:娘の最悪の悪夢


2013年11月27日

ドナ・マロン記す


癌は、恐ろしい言葉です。世界中のすべての親が、この恐い病気から子供を守るためにできることは何でもするでしょう。保護する方法のリストにガーダシルを付け足すことが、私たちの人生を悪夢にするとは思ってもいませんでした。

アリーは、私の12歳になる美しい娘です。彼女は3人兄弟の末っ子です。兄や姉より12歳年下で、少し甘やかされて育ちました。アリーがいると、いつもとてもにぎやかになりました。何年もの間、食事のときはいつもアリーが言ったことに笑いころげて誰かがミルクをこぼしたりしていました。彼女は、賢くて、機知に富み、おかしな女の子で、絶えず私たちを楽しませてくれました! 彼女は、時々気管支炎や連鎖球菌性咽頭炎が数回あった以外はとても健康でした。そのすべてが最近変わりました…

アリーは、髄膜炎のを含めて他の3つのワクチンと一緒に、1回目のガーダシルを2012年2月2日に受けました。2月は、重度の鼻血、頭痛、胃の問題、そして全体的に気分が悪かったひと月でした。小さな出来事すべてについて電話したりしないので、私は医師に報告しませんでした。そのときは、何も考えていませんでした。

そして3月の初旬に、アリーの太股に、蜂の巣状またはレースのような、変な「パターン」が現れました。それは膨らんでいたかったので発疹ではありませんでした。それが、リベド血管炎だとは当時知りませんでした。それは、自己免疫疾患、おそらくループスをの兆候で、医者に連絡すべきでしたが、私はたいしたことはないと思っていました。ただ、それがとても奇妙だったので、アリーは写真を撮りました。

2012年4月3日、2回目のガーダシルを受け、出口の受付カウンターでアリーは失神しました。彼らはアリーを仰向けにして、数分間寝かしました。4月17日までに、アリーは、まるで筋肉を引っ張ったような、足に痛みがおこました。4月18日の夜の10時30分には、ベッドに座ることができなくなりました。彼女を1階まで持ち運んで車に乗せました。緊急治療室へ行き、足に体重をかけられなかったので、松葉杖で帰宅させられました。翌日、整形外科医に診てもらうよういわれました。医師は、MRIをとるようにいい、それは、仙腸関節の近くに小さな感染があることを示しており、翌日また整形外科に行きました。

このときまでに、アリーには極度の痛みがありました。松葉杖で、整形外科医は何をしたらいいかわからず、小児科に送られました。小児科医は、彼女の痛みをどうやって処置したらいいかわからず、バンダービルト子供病院へ送られました。

アリー は2012年4月20日に、バンダービルトに入院しました。そこに10日間滞在しました。この期間の6日間は歩けませんでした。2回目のMRI では、感染がすこし広がっていましたが、どの種類の感染かを確かめるために液体を採るには深すぎました。彼女のCRP レベルは166でした。通常値は1-3です。CRPは、彼女のシステムの炎症量を測定するために使われます。

アリーは、モルヒネの点滴を受けても、極度の痛みを感じていました。その後、酸素とさまざまな薬剤を使用しました。まず、クリンダマイシン、その後バンコマイシン、オキシコドン、モルヒネ、トラダール、タイレノール、ベネドリルです。バンコマイシンについて何か知っている人なら、それが最も強力な抗生物質のひとつである事を知っているとおもいます。医師は、24~48時間以内に、アリーの痛みに大きな変化があると言いましたが、実際には、バンコマイシンをはじめてから変化が現れるのにほぼ80時間かかりました。ある時点で、アリー がとても不安がっていることが、医師には気がかりのようでした。2日前に走り回って遊んでいて、今ベッドからでられなくなった11歳のこどもに医師は何を期待していたのかわかりません。アリーは、私たちがすべてのことを彼女に話しているのか信じられず、すべて話しているのだと納得させたとき、彼女は癌なのかと聞きました。私はすぐに、「違う!」といいましたが、その言葉が口から漏れるや否や、医師が何が悪いのか依然わからないので、違うことが確かなのかわからないことを知っていました。その時点で、私の末っ子の娘のことを思って心が張り裂けました。アリーがバンダービルトに入院している間、彼女の症状がワクチンと関係あるかどうか医師たちに聞きました。彼らは関係ないといいました。そして、彼女が、化膿性筋炎であると診断しました。そのときでさえ、私はそれがガーダシルであったと知っていましたが、他の多くの人と同じように医師たちを信じました。彼らは専門家です!

アリーは、歩行器や松葉杖を使って階段の上り下りや歩くことを学ばなくてはなりませんでした。彼女は、退院時腰が痛くて松葉杖を使っており、強力な抗生物質のZyvoxを処方されていました。当時は、リハビリをするようにとは言われませんでした。アリーは最初の週に半日だけ学校に戻りましたが、それは彼女を大変疲れさせました。入院に続く一年間、アリーは自分の殻に閉じこもるようになりました。私は、ある日学校で彼女とランチを食べたとき、テーブルの向かい側の男の子が「彼女が話している!」と言ったのです。私は彼に、私のことを言っているのかと聞いたら、「そうではなくてアリーのことです」と答えました。以前は、娘は、おしゃべりが過ぎるといって怒られていたのです。彼女は本当にすべての人と仲良くなりました。私たちは、心配していましたが、その理由も、どうしたらいいのかもわかりませんでした.

翌年は、際立ったできごともなく過ぎました。いつもの鼻血と、それから背が173cmに伸びました。アリーは依然、腰と骨盤の問題があり、2回ほど医者に行きました。痛みに耐えるており、筋肉を悪化させたくなかったので、彼女はスポーツなどせずにすごしました。小児科医は、痛みが、成長のためだといいました。彼女は3年間でほぼ30センチ伸びました。

6年生のときサッカーをしていましたが、チームで一番年が小さかったので、試合に出る機会はあまりありませんでした。けれども、2013年6月に、アリーのサッカーチームは、7年生のサッカーシーズンのための準備を始め、彼女の腰は再びひどく痛むようになりました。小児科医に戻ったところ、腰の筋肉を引っ張ったせいではと言われました。翌週はもう一方の腰が痛くなりました。娘は、それでもプレイし続け、チームでの練習に励んでいました。痛みが他の場所に移っていくようなので、私は心配していました。私は、「感染」が戻ってきたのかと心配しました。

2週間後、アリーは、不安発作に襲われたようでした。今まで、不安発作の人をみたことがなかたので、私にははっきりはわかりませんでした。8月の下旬、サッカーのシーズンが始まり、娘はたくさんサッカーをし、試合や厳しい練習の後、アリーはまるで「ゾンビ」のようでした。これは普通の成長痛ではなかたので、医者に再び行きました。

2013年10月、入院そして2回目のガーダシル接種から1年半後、整形外科医は、腰の痛みのためサッカーを禁止しました。リハビリを3週間し、痛みがひどくなった後、整形外科医は、再度アリーの腰と骨盤の領域のMRIをとりました。2013年10月1日のMRIには、感染は示していませんでしたが、小さな卵巣嚢胞が3つ見つかりました。医者は、卵巣嚢胞は小さいので痛みを生じるものではなく、それは12歳のこどもではよくあることで、嚢胞は自然と消えるだろうと言いました。それで、アリーは週に2回のリハビリを続けました。アリーは今も、毎日、腰と尾骨を含めた骨盤の辺りに痛みがあります。

症例(ガーダシル)18 アメリカ ジュリー(26歳)

2013-09-18 | ガーダシル症例
ガーダシル: 今までの私の人生で最悪の出来事

ジュリー・デイビッドソン

英文へのリンク

私は、ジュリー、26歳です。ガーダシルによって受けた被害を話すことはとても大変なことだったので、接種以来あまり話さずにいました。私の心に受けた痛みはとてもひどいものだったので、ガーダシルなどまるで存在しなかったかのように振舞うほうが気が休まるものでした。この2年間、私は人生を盗まれたふりをして、毒を盛られたことは忘れようとしました。残念ながら、忘れることはできませんでした。毎日、起きるたびに、本当の悪夢を生きていることを思い知らされました。私は、他の少女が説明できない健康問題に苦しんでいることを知り、自分のことを話す決意をしたのです。彼女たちの診断は、心の病であるとか、あるいは何も治療法がないということでした。私自身と、これら何千という少女をつなげるものは何でしょうか。ガーダシルです。

ガーダシルの前の自分のことを考えると、それはまるで他人のことのようです。このワクチンは、文字通り、あらゆる面で私の生活を変えてしまいました。ある意味で、私は同じ少女ではないことを嬉しく思います。私は、衰弱する病に苦しむ人たちのことを以前よりも理解できるようになりました。何も考えずに車椅子の人の横を通り過ぎる代わりに、私は挨拶をし、そして泣くのです。彼らの苦闘がわかるから泣き、本当に心配してくれる他人がとても少ないことに泣くのです。私は誰が本当の家族で友達であるかを知りました。また真実を調べること、直感的に医学を信用しないことの価値を学びました。また、健康の本当の価値、それなしには何もできないことを知りました。これらのいくつかのことを除けば、昔の自分を失くしたことがとてもとても悲しいです。私はかつて非常に健康で活発でエネルギーに満ちた少女でした。私は、ジムのパーソナルトレーナーで、健康や運動に関するすべてのことに情熱を持っていました。私は、戸外での活動や、冒険が大好きでした。あらゆることに人生の美を見つけ出す自由な精神の持ち主でした。23歳で、たくさんの夢を持ち、未来をとても楽しみにしていました。

副鼻腔感染の治療の間に、ガーダシルと破傷風ワクチンを薦められたのです。どうして、医者のアドバイスに従ったのか?

2011年3月26日、23歳のとき、副鼻腔感染があって医者に行きました。そのとき、医者に、ガーダシルと破傷風ワクチンをするのが賢明だと薦められました。その後すぐ、私は気分が変になり、後悔しました。そして、副鼻腔感染で自分の免疫系がすでにフルに活動しているのに、ワクチンを受けることは賢明ではなかったと理解しました。私は母に電話して、恐くて泣きながら、何か悪いことが起きたと話したことを思い出します。私の直感は正しかったようでした。接種のあと数日で、極度の疲労が襲ってきました。日課をこなすのが難しくなりました。始終頭がぼんやりして、ときどき記憶がなくなりました。骨盤の痛み、吐き気、食欲喪失、2ヶ月で13キロやせました。絶えずインフルエンザにかかっているように感じていたので、パーソナルトレーナーの仕事をすることが難しくなりました。実際にインフルエンザのようなものではないかと思って、何回も仕事を休みました。7月までに、事態は急変しました。胸部から左の腕にかけてひどい痛みがあり、不整脈がありました。身体全体に刺痛があり麻痺する症状が、3回起きました。この時点で、私は何か深刻なことが起こっていることわかりましたが、それがどれほど深刻なことになるかは想像できませんでした。

ガーダシル後麻痺と中枢神経系損傷

2011年8月6日、ベッドで目が覚め、立ち上がろうとしましたが、床に転び落ちました。床の上で、左足が動かせないことを理解しました。数日後、同じことが右足に起こりました。両足が麻痺し、立ち上がることも歩くことおできなくなりました。10日間入院しました。ありとあらゆる検査を受けました。脊椎穿刺2回、CT スキャン、脳と脊椎のMRI、心エコー、腹部スキャン、たくさんの血液検査。医師たちは私のどこが悪いかはっきりとわからず、それで、高用量のステロイドの治療を受け、退院しましたが、病状はまったく改善していませんでした。9月には、朝起きたとき、右腕以外、首から下を動かすことができなくなっていました。首から下の麻痺でした。他の緊急病棟へ行き、1週間入院しました。さらに精密な検査を受けましたが、医者たちは原因がわかりませんでした。外来患者として神経筋専門医との予約をし、退院しましたが、このときも入院時から病状はまったく改善していませんでした。

これが、私と専門医たちと歩んだ2年間の始まりでした。今までに、多くの神経科医、神経筋の専門医、複数のリウマチ専門医、感染症の専門医、神経免疫医および神経生理科医にみてもらってきました。今のところ唯一の発見は、リウマチ因子が陽性であること、ANA価(抗核抗体価)が陽性であるころ、SED速度(赤血球沈降速度)が上昇していること、CK(クレアチンキナーゼ)が増加していることで、すべてのテスト結果は、身体の中で炎症がおきていること、そして私の免疫系が正常に機能していないことを示していました。これらのテストの結果が陽性であること以外にも、私は、括約筋が過活動性であると診断されました。もし、なんの根本的な原因がないとしたら、かつて健康であった23歳の女性が、どうして突然、過活動性膀胱と説明でいない神経疾患を発症するのでしょうか?

リウマチ専門医と神経科医は、長いこと私を相手に押し付けあって、自分の専門よりも相手の専門分野が私の診断にはより有効であると主張していました。そしてやっと、リウマチ専門医と神経生理科医が協力して私を見てくれることになりました。神経生理科医とリウマチ専門医は、検査の結果と、上位運動ニューロンに問題がある症状に基づいて横断性脊髄炎ではないかと考えました。検査で示された炎症は、おそらく脳および/または脊髄への損傷によるものではないかと説明しました。これについては、時間の経過を待つ以外何もできないといいました。今に至るまで、私の損傷や症状のどれも説明されていません。

ガーダシル後の一連の症状

ガーダシル後の私の症状は、麻痺、歩行障害、感覚異常、音に触覚に過敏、全身が震える、振戦、間接が硬く痛む、手足が青紫になる、副腎機能不全、内分泌障害、体重減少、吐き気、嘔吐、過呼吸、笑うこと、泣くことが制御不能、低血糖、匂いと化学薬品に過敏、暑さ寒さに不耐性、食欲不振、骨盤の痛み、過活動膀胱、胸の痛み、胸の動悸、息切れ、腫れ腺、記憶喪失とメモリのギャップ、混乱、脱毛、立ちくらみ、失神、簡単な日課を実行するのが困難な極度の疲労です。

私の身体的な症状は、処置するのにとても困難なものですが、このすべてが私の感情や精神にもたらした混乱は、それ以上に大変なものです。自由な精神の持ち主であった私は、今は人生を恐れています。車の運転中に、混乱し疲れて眠ってしまったらどうしようか。脚が突然動かなくなるかもしれないので、運転するのも一人でいるもの恐くなりました。病原菌に感染するかもしれないので、社交的なイベントも旅行へも行くのが恐くなりました。私は、風邪やウイルスで月に最低1回病気になりますが、そのたびに、私の回復は最低1ヶ月後戻りします。昔はとても自立していましたが、今は夫に完全に頼りきっています。昔はエネルギーにあふれていましたが、今はシャワーさえ疲労困憊します。かつて冒険や戸外活動が大好きであった少女は、今は、最近おこった極度のアレルギーのため外出することが恐くなっています。アレルギーが起こると、すでにフル稼働の免疫系が爆発し、私のすべての症状は悪化します。

でもこのことがもっとも痛みを伴う部分ではありません。もっとも困難で辛いことは、私がもし病気でなかったら、私の人生でやっていたであろうすべてを考えることです。たぶん、私は学校を終え、パーソナルトレーニングの事業を起こし、あるいは、子供を育てていたかもしれません。私は毎日病気で家にいながら、他の人たちがそれぞれの人生を生きていることを見ています。ある人たちは夢をかなえ、ある人たちは不運にも与えられた貴重なギフトを無駄にしています。私は毎日人生を渇望しているのですが、今は疲労し衰弱しているのでそれができないでいます。ガーダシルは、私を、自分の身体の中の檻に閉じ込めたのです。私はもやは未来を夢見ていません。なぜなら、私の身体が夢を実現することを阻むのではないかと思うからです。

でもあたなた病気のようには見えない

私は回復しようと闘っている間に、私は何度も、病気のように見えないといわれました。私は、病気の醜い部分をほとんどの人には見せないようにしているのです。私は、他の何千人の女の子と同じように毎日苦しんでいるのです。私たちは、理解されないので孤立しています。私たちはみな、沈黙の中で苦しんでいます。なぜなら、私たちは病気のように見えないとか、助ける方法はないとか、それは私たちの頭の中のことだとかいわれているからです。あるいは、私たちの病気には「病名」がないので、私たちのことを聴いたり信じたくない人たちに出会います。他の多くの人と同じように、私は最も必要としているときに友人を失いました。理解不足で、親戚の一部との間もこじれました。病気の後にあった人たちは、病気の下に閉じ込められた本当の私を知ることはないでしょう。私の夫は、自分が結婚した女性と人生をともに生きてさえいないのです。彼は、毎日新婚の喜びに満ちた生活の代わりに、私のお世話をしています。ガーダシルは私たちからそれを取り上げました。

ガーダシル後を治癒する試み

今私は、治癒することに焦点をあてて、毎日を過ごしています。いつか明るい未来がもてるように、改善から引き戻されないように注意して暮らしています。私の回復に手助けをしてくれた唯一の専門家たちは、自然および機能療法を実践しています。私の徹底した食餌療法とサプリメントプログラムにより、2年間車椅子ですごした後、はじめて歩くことができるようになりましたが、今でもまだ多くの症状に毎日苦しんでいます。2014年1月に、ホメオパシー医とともに、CEASE療法でワクチンを私のシステムからデトックスをする予定です。

私は、2年間の後で、自分の話を披露することに決めました。なぜなら、私たちを守るはずであったものにより美しい人生が破壊されることを傍観していることができなくなったからです。私は自分に起こったことにに意味があることを望み祈っています。もし私の話が、このワクチンの接種に反対するよう納得させることができなかったとしても、少なくとも、選択するまえに、調べることよう納得させることができるといいと思っています。調べることでわかります。私は注意も受けなかったし調べもしなかったことが、私の現実です。この話が、ガーダシルワクチンからあなた自身やあなたの愛する人たちを守ることに役立つことを望んでいます。