今から50年以上前の話、私が養蜂の先輩から聞いた話です。貨物列車と車道が並んで走行し途中で道路が線路を横断する箇所で、貨物列車が停止してトラックを先に行かせたそうです。現在は遮断機が有るので不可能ですが、昔は貨物列車が道路を横断すると時間がかかるので、先にトラックを行かせたそうです。
以前もブログに書きましたが私の経験談を紹介します。大型トラックにばら積みの牧草を畑から乾いた状態で、牧草の梱包作業場に運ぶとき、大型トラックの両側に細い板か丸太を高く立てて、牧草を高く積み、私は運転席の後ろの高く積まれた牧草に乗って、途中の電線と交差する場所では、農業用のフォークで電線を持ち上げ、ゆっくり走るトラックの上を後ろに移動して電線がトラックの柱に引っかからないようしていました。次の電線と交差する箇所でも同じことを繰り返していました。トラックに牧草を積むときには自分が移動しながら牧草を積むので自分の足元より低い場所にトラックの屋根が見えました。工場に到着して牧草の上から降りる時は支えの柱にしがみついて降りる時には怖かったです。68歳の今は怖くて出来ません。道東地域の田舎で労基署もなく当たり前のように行われていました。冬の半年は仕事が出来ないので、夏場の数か月で収入を得るため労働は厳しかったです。30キロの重さの牧草の塊を必死に運んでいましたが、工場の娘さん20歳位のは30キロの牧草の塊を私より軽々と持ち上げていました。春から夏場、養蜂のしごとで体をがっちり使っていた先輩が仕事が終わってお風呂から出たら疲れて夕食を食べる力もなく直ぐに眠ってしまいました。私は夕食を食べないと体が持たないので何とか食べました。後で聞いた話ですが、自衛隊元隊員が2人で働きに来て、夕飯も食べないで脱走したそうです。牧草梱包工場の名前は、●●ヶ島牧場が正式名称ですが、鬼ヶ島牧場で皆さんには伝わりました。牧草の梱包作業工場は、牧草地から乾いた牧草を工場に高く積んで、機械で圧縮して番線で縛って圧縮が緩むと針金が食い込んでいる状況を5人位のチームで行いました。一番体が楽な仕事は機械に入れる前に牧草の重さをミニユンボのような機械で大まかな重さにする仕事でユンボの室内には強力な電気の暖房機が2台設置されていますが、北海道の秋の寒気には負けます。他の作業は休憩時間以外は機械のスピードに合わせて走り回っていますので体が温かいのです。
機械が圧縮して出来たの30キロの牧草の塊を工場内に積んでいきますが、最初は平済みで1列並べ手前に列が出来たら、次は奥を2段目にしますが、その並びで積むと10段目の高さの時には頂上で行けなくなるので、高く積むのと低く積むのを交互に行っていました。針金通しは牧草が30キロ毎に両面に3個の溝がある板を挟んで、片方から3本の針金を入れて反対側に引き出し、又反対側に回って絞る作業ですが、機械のスピードに遅れると間隔が広がり絞ることが難しくなりますので、毎日休憩時間以外は機械のスピードに合わせる流れ作業です。機械操作以外の人は少しでも休んだら寒くてしまいます。
当時の道東気温は、7月1日の夜中はストーブが無いと寒くて眠れませんでした。8月20日頃には寒くてストーブが必要でした。6月末の秋田と1日違いの道東の寒さの違いに驚きました。鬼ヶ島牧場の2か月間の労働は今でも懐かしいです。体力を厳しく使うので、食事は豪勢でお酒は飲み放題でしたが、早朝から仕事があるので、風呂に入って食事をしたら9時頃には眠っていました。私は直接経験しませんでしたが、農場の方の話では寒い日はトラクター中で1台は真夜中のエンジンを止めないで動かしているそうです。寒さのため朝セルモーターが動かないで、動くトラクターで引っ張って強制的にエンジンを動かすそうです。今は温暖化でトラブルはないと思います。当時8月のお盆時期に道東から置戸町方面に向かっていたら道路の横に雪が固まっていました。舗装道路の横に冬に降った雪が残っていましたので、そのまま解けないで冬になると思います。