はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

南禅寺の決戦 3  木村の5六歩

2012年11月04日 | しょうぎ
 スカイツリーですが、これは浅草雷門の前から撮った写真。雷門からこんなにしっかり全体が見えるとは。
 スカイツリーは押上(おしあげ)という場所にあるのですが、浅草からは隅田川を挟んで徒歩20分くらいの距離。浅草から東を見て、隅田川の向こうスカイツリー方面のこの地区を「本所(ほんじょ)」と呼びます。

 明治時代の初め頃、相川治三吉という少年がいて、「本所小僧」と呼ばれました。この“小僧”とは、スーパーな少年、凄い少年、というような意味で、本所で生まれた相川治三吉はもの凄い将棋の強い少年として「本所小僧」と呼ばれ、その名が関東の外にさえも轟いていたのです。関根金次郎や坂田三吉と同じ世代の人物で、床屋の息子だったそうな。伊藤宗印十一世名人との角落ち対局の棋譜(相川勝ち)等が残っています。
 その棋譜を残して相川治三吉は忽然と消えてしまいます。どこに行ったか、あるいは死んだか、だれも知りません。とにかく、消えたのです。

 その本所に、大正になって新たな「本所小僧」が現れた。下駄屋の息子で、めっぽう将棋が強かった。それで近所のおじさんたちはよくこう言った。「よっちゃんは強いなあ。相川の生まれ変わりだ。」

 木村義雄のことです。

 
  
  
 木村義雄の指した3手目「▲5六歩」について。
 何故、「▲5六歩」なのか。

 木村さんは初手▲7六歩と角道を開けました。それで坂田さんの「△9四歩」に、▲2六歩はどうなのか。これもあります。ありますけれども、木村さんは「▲5六歩」を選びました。この手の意味、目的について述べたいと思います。

 最近僕は「後手5筋位取りvs先手横歩取り」の古い将棋についていくつか調べまして、それでこの「南禅寺の決戦」を改めて見ると、ちょっと何かしらが見えてきました。大正時代から昭和初期にかけて、プロ棋士は「中央」をかなり重要とみています。ですので、先手では「▲5六歩」、後手では「△5四歩」という手の価値が高いと見ています。飛車先の▲2六歩(後手では△8四歩)と同じくらいか、あるいはそれ以上という価値観かと思われます。それで「5筋位取りvs横歩取り」というような戦いが現れるわけです。
 特に右の銀に注目して考えると理解しやすい。右銀を居飛車では「5七」に出たいのです。「5七」の地点がもっとも銀の働きがよく、「4六」に攻めに行くこともできるし、「6六」にも行ける。そのままでも守備のかなめになっています。「▲5七銀」これが攻守ともに万能の可能性を持った銀の位置、“理想形”なんです。だから先手は「▲5六歩」と歩を突く。後手も「△5四歩」と突いてやはり右銀を5三へ持ってくることを考えます。(「棒銀」は軽視されていたと思われます。)そうしてお互いに5筋を突き合いという将棋、それが相居飛車の基本で、平手の将棋はほとんど振り飛車はありませんでしたから、矢倉でも相掛かりでもやはり5筋をだいたい突き合います。

 それで、もし先手が「▲5五歩」と位(くらい)を取ればどうなります? すると後手は銀の“理想形”である「5三銀」型が作れない――相居飛車で位を取るというのはそういう意味があるのです。自分だけ理想形の「銀」の位置がつくれて、相手はつくれない。それで、「どうだ、わしの優勢じゃ!!」というのが5筋位取りの意味。
 
 さて、そこでこの南禅寺の対局を考えていきます。
 木村義雄の▲7六歩に、後手の坂田三吉が仮に2手目△3四歩とした場合を想定しますと、そこで先手が▲5六歩と突いたらどうなります? その場合後手から△8八角成▲同銀△5七角、となって馬をつくられてしまいます。ですから「3手目に▲5六歩は突けない」ということです。
 後手の場合になると少し事情が変わりまして、いわゆる「ゴキゲン中飛車」のオープニングの手順を踏めば、5筋の位取りが可能になります。ただし先手に飛車先の歩を交換させるという(それと横歩を取らせる)こととの交換取引として。それが「後手5筋位取りvs先手横歩取り」という昔(大戦前まで)そこそこ流行った戦型になるわけです。
(1948高野山の決戦第三局升田大山戦、1944木村花田戦、1941萩原木村戦をすでに紹介しました。)

 
 それらの当時の“常識”を踏まえた上で、南禅寺の2手目と3手目を鑑賞してみると、これが味わい深い(あるいは激しい)闘いだなあとわかるのです。

 ▲7六歩に、この対局では坂田は2手目「△9四歩」と指した。
 対して木村の「▲5六歩」。

  
△3四歩 ▲5五歩

 ▲5六歩と先手が突けば、先ほどの当時の将棋の“常識”からすれば、後手は△5四歩としたいところ。けれどもこの対局の場合、それはやりにくいのではと思います。仮に4手目に後手が△5四歩と指したとします。それで例えば次に先手が5手目▲5八飛としたら、この瞬間、先手は中央への力を増やす手を3手指しており、しかし後手の坂田の方は、まだ1手ということになります。中央での戦いは、すでに先手の優位にあるわけです。中央での戦いとなれば、後手坂田の「9四歩」は完全に“緩手”(ゆるい手)になってしまう。
 こうして木村義雄は▲5五歩と5筋の「位(くらい)」奪取にやすやす成功。
 つまりですね、木村義雄は、坂田三吉の「△9四歩」を全力で咎めようと考えて、この「▲5六歩」を選んで指したということです。おそらくは坂田が何日も考えて「こう指そう」と決めてきた「△9四歩」に対して、木村は知恵を振り絞って「▲5六歩」と指したのです。これは「坂田さん、その手は緩手ですよ」と言っているわけです。


△4四歩 ▲4八銀 △3二銀 ▲5七銀

 そういうことで、実際の指し手は、4手目△3四歩、そして▲5五歩と進みました。先手は中央の位を押さえたのです。坂田の2手目の弱点をついて、木村は▲5六歩から▲5五歩と位を取った。
 この木村坂田戦では、先手番の木村が、なんのリスクもなく、5筋の位を押さえたということなんです。そうすることで、「坂田さん、あなたの端歩突き、咎めましたよ」と主張していることになります。



△4三銀 ▲2六歩 △3五歩 ▲2五歩 △3三角 ▲6八玉 △2二飛

 これです! この図の「5七銀」、これが居飛車の右銀の理想の位置です。このままでも受けに働くし、三種類の前進の手を選べる。そして相手にはそれをさせない。(5三銀型をつくらせない)
 「5七」がいいんですね。前進の“可能性”が3つもあり、このままでも守りに働いている。


 それで後手坂田三吉はどうしたか。
 飛車を振ったのです。

 中央の位を取って、木村は「どうだ!」と胸を張った。
 そして坂田は「位(くらい)? そんなの振り飛車にすれば関係ないやん」と答えたのです。振り飛車ならば、後手の右銀(または左銀)が「5三」に行けなくてもそれほどの“残念な感じ”はありません。

 振り飛車は昔からあります。最古の棋譜というものも戦型はたしか振り飛車(四間飛車)だったと思います。
 明治、大正、昭和の初期というこの時代では、大体の棋士はみな、振り飛車を指せました。というのは、大事な将棋の半分以上は「駒落ち」ですので、その中で「香落ち」の場合、上手(強い方)は振り飛車が基本ですから。
 しかし、平手の対局となると、これがほとんどが相居飛車でした。平手で振り飛車はおかしい、と思われていたようです。実際に振り飛車を平手でも指している棋士もいたようですが、それはまだ少なかったようです。あの振り飛車の雄、大野源一も振り飛車を平手で常用し始めたのは戦後の事らしいです。(追記:この大野さんの件は実際のところはよくわかりません。)


 南禅寺の棋譜に戻りまして、△4四歩から後手坂田三吉は「振り飛車」にしました。
 「向かい飛車」です。


 僕はこの文を書くにあたり、手の解説として大山康晴(十五世)名人のものを読んでいますが、それにはこうあります。
 〔9四歩の手を見て、さらには、5五歩と位を占めて、「作戦勝ち!」と先手は見たと思う。後手は4四歩と突く。当然の手で、この形で居飛車作戦をとるのは面白くない。この局面になれば、私も、4四歩と突くだろう。〕
 大山さんは、坂田三吉が飛車を振ったのは、△9四歩を突いてあり、5五の位を押さえられたこの状況では「当然だ」と見ているわけです。僕が上で書いたことをさらっと述べていますね。大山名人とすれば、当たり前のことにすぎないから簡単に述べていますが、でも僕にとっては、“やっと最近理解できるようになったこと”なのですよ。


 整理しますと
 (1)坂田は2手目△9四歩と端歩を突いた→(2)それで木村は5筋の位を取った→(3)5筋の位を取られると相居飛車はつらいので、坂田は飛車を振った
こういう流れです。

 
  
▲4六歩 △3二金 ▲5八金左

 序盤の続きを見ていきます。     
 坂田三吉は、12手目△3五歩とこの位を取り、それから飛車を振りました。△2二飛。向かい飛車です。
 こう進んでみて後手陣を見ると、あの9四歩もまったく違和感はありません。9四歩と突いてあるので、振り飛車はその分、玉のスペースが広くなって「意味のある端歩突き」になっています。
 20世紀までは、9筋の歩は、先手から突くことが多かった。けれども対居飛車穴熊の「藤井システム」以来、早めの振り飛車の「9四歩」はむしろ見慣れた感覚がありますね、私達には。


 ところで、“見慣れた感覚”といえば、向かい飛車で「△3二金」とするこの後手の坂田さんの陣形、これは現代でもよく見ますし、アマチュアではとくによく目にします。僕も時々この「3二金型向かい飛車」を使います。
 この攻撃的な向かい飛車、「もしかしたら坂田三吉がオリジナルではないか」と僕は最近思い始めています。よく調べなければはっきりしませんが。 
参考図
「坂田三吉の向かい飛車」といえば、序盤早々、角交換して3三金となったこの「坂田流向かい飛車」のことを普通は想起しますけども。(土居市太郎・坂田三吉戦 1919)
 



 そして坂田の「向かい飛車にするわ」という宣言に対して、木村の返事は、「じゃあこう指すさ、▲5八金左。」

〔当時は5八金右が定跡手順となっていて、棋士たちは一様に驚きの声を放った。少年の私も並べてみて、なるほどと、すぐれた将棋感覚に感心したことを記憶している。5八金右では、2四と逆襲され、同歩、同飛で先手が悪い。〕(大山康晴)


 さあ、木村義雄がやりました!「名人に定跡なし」。(木村さんが名人になるのは1年後ですけどね。)
 木村の「▲5八金左」、これは坂田の「攻める向かい飛車」を全力で迎え撃つ、そのために木村が編み出した手でした。「左の金」、これで攻めにいこうというのです!




 この「南禅寺の決戦」(1937年)の主催者が、読売新聞社であることは前回記事で述べました。
 1935年に、関根金次郎十三世名人が引退を表明し、そこから実力制で次の名人を決定するためのリーグ戦が当時の八段(九名)の総当たりで二年半をかけて実施されました。木村義雄がこの1937年の時点でトップだったのですが、「名人戦」のスポンサー契約、すなわち主催者は、毎日新聞社だったんですね。
 読売とか、朝日とかは、そうすると、ちょっと面白くないわけですよ。「名人戦リーグ」ばかりが注目されることになると。そういうことで、読売新聞社が「どうだ!」とばかり持ってきたのが、“坂田三吉”なんです。坂田は元々ずっと大阪朝日新聞社の嘱託で囲われていたのですが、読売はその坂田三吉を何年もかけて口説いていた。そしてついに、坂田が「指す」と言ったのです。(「南禅寺の決戦」の1年前に坂田は朝日新聞との契約を解除した。)

 それで、坂田三吉との対局の話が次期名人候補の木村義雄と花田長太郎のところへ来ました。二人とも、対局したい、と考えました。
 ところが周囲は猛反対でした。とりわけ「名人戦」のスポンサーとなった毎日新聞社とすれば、「冗談じゃない、やめてくれ!!」でしょう。そりゃそうです、木村が坂田三吉にもしも敗れたらどうするんですか。66歳の老将に敗れた木村義雄が新名人って言ったって、それでは「名人」の価値が大暴落じゃないですか!
 まあ、それが読売新聞社の狙いでもあるわけですね。ですから毎日が反対するのは当然です。同じ理由で、将棋連盟も大反対。木村がそれに従えば丸く収まったのですが…

 木村義雄の後日談
 「連盟の決議として私に『対局まかりならず』と二度か三度きましたね。勝負だから万が一負ける恐れがあるからね。私が負けたら毎日新聞の名人戦がどこへいってしまうかわからない。なんのために名人戦をしたのか、大新聞の面目がなくなってしまう。だから『まかりならん』の決議文は三度きた。が、これをケッってもしこれをやらせないなら脱会するといった。」

 ここまで覚悟を決めて、木村義雄はこの対局、「南禅寺の決戦」に臨んだのです。これに敗れればもう「名人」はあきらめる、そういうつもりです。もし木村が敗れていたら…、どうなっていたのでしょうか? (木村は「名人戦」を棄権すると言い、周囲が説得して留まらせ、坂田三吉翁も含めたリーグ戦を改めて開始、というようなことになったかと想像します。)

 そういう「覚悟」の入った木村の、19手目▲5八金左なんですね。木村はこの将棋をこの“左の金”に託したのです。
(サッカーの今朝の試合インテルの長友みたいに、“おまえディフェンダーなのにそこまで行く!!!”的な。)


               「南禅寺の決戦4」につづく
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南禅寺の決戦 2  坂田の9四歩

2012年11月03日 | しょうぎ
 さて「南禅寺の決戦」で、先手木村義雄の7六歩に、後手坂田三吉9四歩の2手目。

 この手が話題を呼びました。「なぜ、坂田は二手目に9四歩、なのか?」 常識外の手でした。要するに、あまり重要ではなさそうな手を指したのですが、「なんでだろう?」と。

 『9四歩の謎』(岡本嗣郎著)では、坂田三吉がどういうつもりでその2手目「△9四歩」を指したかということが調べられています。坂田三吉本人が何も語っていないので真実は飽くまで“謎のまま”なのですが。それぐらい興味をそそられる“手”ということですね。
 この本には、その坂田の「△9四歩」についての朝刊記事を当時手にして読んだ青年作家織田作之助の反応が紹介されています。というのは、織田作之助は後に『聴雨』という短編作品の中でその時の自分の心情を書き残しているからです。織田は
 「私は九四歩つきという一手のもつ青春に、むしろ恍惚としてしまったのだ。」
 「私はその夜一晩中、この九四歩の一手と二人でいた。もう私は孤独ではなかった。」
 と書いています。
  この織田作之助という作家は『夫婦善哉』という作品が映画化もされてよく知られている。それと当時は違法ではなかったというヒロポンという薬を打って仕事を頑張っていたことでも割と出てくる名前である。ヒロポンは戦後の多忙な漫画家などもよく使ったらしいです。いや、そのことはどうでもいい。
 織田作之助はこの1937年の当時24歳、結核を患い、学校へ行かなくなり、大阪の街をとぼとぼと歩く…というような生活で、まだ作家になる前の青年でした。その暗い気持ちで毎日を過ごしていた織田が、なんと「坂田の9四歩」に出会ってから孤独ではなくなった、というのだから、これは“大変な一手”でした。
 
 『9四歩の謎』は力作ノンフィクションで、非常に面白い本です。ここには坂田三吉の「△9四歩」についてプロ棋士等の様々な意見が取材されています。(能条純一への取材はいらなかったんじゃないかな~。)


 数年前に僕はこのブログに『銀が泣いている』という記事を書いて関根金次郎・坂田三吉の対局の棋譜を一つ紹介したことがあります。その時に坂田三吉の指した将棋の棋譜を解説を読みつつ十数局並べたのですが、以下にその時に坂田将棋について感じたこと等を書いてみます。一素人の感想としてお聞きください。


 それでまず1913年の、関根金次郎・坂田三吉五番勝負の第2局から。
 この将棋は、この二人の初めての「平手」戦です。第1局が、例の『銀が泣いている』の将棋で、それは「香落ち」だったのですが、この第1局に坂田さんが勝利したので、ついに「平手」戦が実現したというわけです。当時の段位は関根八段、坂田七段です。
▲7六歩 △3四歩 ▲4八銀 △8四歩 ▲5六歩 △8五歩
▲5七銀 △8六歩 ▲同 歩 △同 飛 ▲7八金

 二人の初の平手将棋はこういう出だしです。そう、僕がこれまでカテゴリー「横歩取りスタディ」の記事中でいくつか紹介してきた“古風なあの形”の類似型ですね。先手の坂田はじつにあっさり後手の関根に飛車先の歩を切らせています。ただし本局の場合、坂田は「5五の位」は取っていませんね。そこが違う。一応先手の主張としては、「素早く理想の銀の位置5七銀を実現した」ということにあります。
 この場合は、後手も‘横歩’は取りにくいです。角交換がすぐにできるので横歩を取ると乱戦になりやすいからです。というわけで関根八段は飛車を引き飛車にするのですが、その前に8八角成と角を換えます。これはどういうことかといいますと、「角交換将棋に5筋をつくな」という格言を思い出していただきたい。要するに、坂田は5筋を突いている、だから角交換すれば先手が模様を取りづらいだろう、という主張。

 それでこのようになりまして、先手坂田は25手目に▲3五歩と仕掛けます。解説を読むと「この仕掛けは早すぎる、それで先手は苦しくなった」とあるわけですが。
 この「仕掛けが早すぎ」というのはアマの僕でも判ることで、先手はまだ飛車先の歩をまったく伸ばしていませんから攻めにはならないわけです。それで3筋の歩交換となると、後手にそれを逆に利用されてしまう…。ですから、「早過ぎる」。
 だけど坂田三吉はプロ棋士七段ですよ。そんなことはわかっている筈です。判っててやっているということです。
 …じゃあどういうことになるのか?

 この図は、後手関根が△3六歩と打って(これが坂田の仕掛けを逆用しようとする手)、坂田三吉が▲6六角と持ち角を自陣に打ったところ。
 ここはもう坂田さん、苦しめなんです。いろいろと隙もあり動きづらい。
 そういうわけで坂田は角を打った。とりあえずこれで後手からの△3九角打ちはないし、関根がひそかに考えている△4二飛から△4五歩というような攻めも防いでいます。▲6六角は受けの手なんです。苦しいけれど、これで坂田陣はすぐには崩れません。
 それでここからまた駒組みになるんですけど、後手関根は「角」を手持ちにしていますから、その分だけ後手が優勢です。

 こうなりました。関根が△6五銀(52手目)と銀を出たところ。 以下、3九角、7六銀、5七金…。

 この図を見てください。
 上から少し進んだところですが、ここから関根八段は、3三の銀を2四、1五と出て、角を取りに来ます。さらに△7五銀で8筋から攻め、本格的な殴り合いに突入していきます。
 僕は最初この棋譜を追っていた時、「なぜ関根さんは玉を入城させないのか?」と思いました。関根金次郎は、‘居玉’のままで攻めました。なぜでしょう? せっかく「矢倉城」をつくっているのに…。
 解説をよく読むと、書いてありました。この図をよく見てください。坂田陣の右の「角、銀、桂」、これは“矢倉崩しの理想形”になっていますね! つまり後手が4一玉などとしていると、▲4五歩からの先手の攻めのパンチが後手に強烈に響いてきて、こらえきれない。つまり、後手が勝つためには、それより早く攻めるしかないんです。
 6六に打った角が、3九に追われ、後手が調子が良いように見えていたのに、その角を1七角とするだけで、もう後手陣への脅威になっている、ということです。こうなると、坂田は関根の△6五銀(52手目)を、むしろ誘っていたのかもしれません。角を逃げたように見せかけて、実は攻めに活用するための予定の行動だったのか?
 「後手余裕で優勢」に思えた将棋がいつの間にか、もうぎりぎりの勝負将棋になっているわけです。

 そこからは攻め合いになり、形勢はというと、あとで調べると「関根良し」のようですが、素人の目にはもうどっちが勝つやらわかりません。観戦していた人たちははらはらして、面白かったでしょうねえ。
▲5二銀△同玉▲8二飛△6二銀▲5三金△同玉▲4六金△5四角(逆王手!)▲同飛△同玉▲7六角△6四玉…(以下略)
というようなハードパンチの応酬が続き、決着は…!?
投了図
 関根金次郎の勝ち。ごつい投了図ですね。


 まず一つ例を挙げたわけですが、「この頃の坂田三吉はまだ序盤が下手だった」などと書かれているんですが、そうでしょうか。僕はそれは違うと感じたんですね。しっかり考えて作戦を練った結果ああいう手を指そうと決めたという気がするんです。
 坂田三吉の将棋を、競走馬に例えてみると、“追い込み馬”ではないかなあ、というのが僕の思ったことです。『銀が泣いている』の将棋もそうなんですが、自分よりも強い相手と「ちょっと苦しい」という感じの将棋を、その苦しさの重みに耐えて、そこで何か“アイデア”を得て、苦しさから抜け出して逆転、そういう将棋が多いです。そのアイデアの核に「角打ち」というのが坂田さんの場合非常によくある。強い相手に逆転をするためには、相手の意表を突かなければいけませんから…、その意表を突くというのが、坂田の場合は「自陣角」としてよく表われます。「そんなところに角を打つのか!」という感じで。(中原誠名人は大山康晴との対局を重ねるうちに、「桂馬で意表を突く」ことで大山の読みをやっと上回ることができるようになったと言っていますね。)
 この将棋は関根金次郎のリードに追いつけなかったようですが。でも、敢えて相手に一歩リードを許すのが“坂田流”ではないかと。

 坂田三吉はまた、他にも序盤、後手番で変なことをやって話題になっていますね。「角頭歩突き」、「後手一手損角換わり」、それから後に「坂田流向かい飛車」と呼ばれるようになった戦法。それらを指すことで序盤早々むしろ坂田は苦しめになる。だけどそれが“坂田の土俵”だったのではないかと思うのです。
 サッカーでいうところの「カウンター戦術」です。相手にボールを持たせて前のめりにさせて、自分は苦しめだけども、相手も隙ができやすいからそれを狙っている。ちょっとつらいぐらいが楽しいというか、最後に勝てばよい、と思っている。相手の前進する力、圧力を利用するわけです。坂田三吉の勝負の性格、将棋のつくりはそういう型であったのではないかと思うのです。
 そういうタイプが、逆に“逃げ馬”の勝ち方はをしようとすると、結局は転びやすい。序盤から優勢になって、完勝してやろうとする、そういう理論派によくあるタイプの将棋とは対極のところに、坂田将棋はあったのではないかというのが僕の感じたことです。
 ですから坂田さんは‘ほんの少し’相手にリードさせる、そういう手を常に探していたのでは、と思うのです。この‘少し’のさじ加減が重要で、ちょっとでも大きすぎると強い相手だともう追いつけなくなりますから、もう慎重に慎重に手を選択する必要があります。けっして「どうやっても勝てるさ」といい加減に序盤を指しているわけではないのでは、ということです。


 もう一局見てみましょう。次は4年後、1917年のやはり関根金次郎八段戦。この時は坂田三吉も八段に昇っていました。「名人位」への野心ギラギラの時です。

 中盤で、今、後手の関根八段が、2四角と打ち、坂田が4八飛とまわって受けたところ。
 この将棋は後手の関根の金銀が四枚全て前進してきていて、これらの圧力で坂田の右側を押しつぶそうとしています。そうなれば後手の勝ち。それを坂田が持ちこたえれば、後手は‘歩切れ’ですし、先手に攻めの手番がまわって先手勝ち、という場面。勝負所ですね。
 ここから、△2六歩▲同歩△同金▲2七歩△2五金▲6八玉となりました。

 この▲6八玉が坂田「狙いの一手」でした。ここから、△3四銀▲3七歩△5五歩▲6七銀△3五銀右と進みましたが、またまた得意のアレ、“意表の自陣角”を坂田三吉は打ちました。▲6九角です。

  ▲6九角――この手が決め手になりました。これを打つための、数手前の6八玉でした。
 「どうやっても勝ちがない」と悟った関根八段は、△4六銀以下の攻めに出て、散ります。△4六銀▲同金△同角▲同飛△3五金…(以下略)  
投了図
 もう関根より坂田が強いのでは、とも噂されるようになりました。これが坂田三吉の絶頂期です。「6九角」はまさに“八段の角”という感じですね。(八段=名人格の実力の意味)

 『9四歩の謎』(岡本嗣郎著)の中に出てくる内藤国雄九段の言葉。
 「あの人は茶目っ気はありますが、対局では、ものすごく真剣で、とにかく苦しんでいるんですよ。苦しんで、苦しんで指している。」
 「南禅寺の決戦」の坂田さんは娘のタマエを連れてきました。娘に「苦しむ父の姿を見ておいてもらいたい」からだというのです。

 苦しんで苦しんで、指す。そうすることで、坂田三吉は、そこでなにか「光が見える」。 つまり「いい手が浮かぶ」。 そういうことを経験上何度か体験し、その苦しみの中から生まれてくる「いい手」を強く信じていたのではないでしょうか。
 だから敢えて苦しい状況に身を置く――。


 
 もう一つ。阪田三吉・土居市太郎戦。坂田47歳、土居29歳。
 これは上の関根戦の1週間後の対局。関根は撃破しても、まだ土居市太郎がいました。土居は関根の1番弟子で七段でしたが、この時の東京の最強者と見なされていました。自信漲る坂田の挑戦に土居は「平手なら、やる」と受けました。これで坂田が勝てば、「日本一強い男は大阪の坂田」という証明になる、という重みのある一戦。

 後手番坂田、一手損して角を交換。この将棋がプロで初の「一手損角換わり戦法」となります。この重要な対局でこんな手を指す、それが坂田の勝負術。

 「相腰掛銀」の形から、先手土居が仕掛けた。4五歩、同歩、2四歩、同歩、3五歩、4三金右、に土居市太郎、▲4一角と角を打ち込む。
 以下、飛車を切っての猛攻。土居の攻め、坂田の受け。

 坂田、2四歩とすれば取れる銀をとらず、△2五角と打つ。またしても重要なところで出た、「坂田の角」。3四の桂馬を守る受けの手です。 坂田三吉、これで勝ちを確信。(この手は「意表を突く」というほどではないですが。)
 ところがこの数手後、坂田、誤る。勝ちと見切ったはずの手が、土居の勝ちになっていた。逆転。 土居市太郎の勝ち。

 この将棋で坂田は終盤、土居が手洗いに立った時、「この将棋わての勝ちでっせ」と周囲に話しかけたと記録されています。そして、終わりの方は、「負けや、負けや」と言いながら指していたとあります。


 
 こうして見ると、坂田三吉が序盤でむしろ自分にとって不利となりそうな手を指すのは、坂田流の“戦術”の一部にすぎず、すると、「南禅寺」での「9四歩」もなんら不思議な手でもなく、坂田さんが全力でお馴染みの“坂田三吉らしい一手”で勝ちに来たということだろうと思えるのです。

 坂田は、「木村はん、どうしますか?」と、9四歩とぬるそうな手を指して、相手にボールを渡したのです。


               「南禅寺の決戦3」につづく


 過去記事
 『銀が泣いている』 (1) (2) (3) (4) (5)
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南禅寺の決戦 1  決戦の前

2012年11月02日 | しょうぎ
▲7六歩 △9四歩

 

 初手木村の▲7六歩に、2手目坂田の△9四歩。
 これが有名な「坂田三吉」の端歩です。京都東山の南禅寺で行われた対局なので「南禅寺の決戦」。1937年2月5日より開始。「より開始」ってどういうことかといいますと、持ち時間両者30時間で、1週間かけて指された対局だからです。
 主催者は読売新聞社で、ですから読売新聞はこれを1週間、大々的に報じたわけですよ。ひとつの戦争ドラマのように。
 
 「坂田将棋の真髄、忽ち奇想天外の駒九四の歩」
 「雌伏一六年 忍苦の涙は九四歩の白金光を放つ」

 こんな見出し付きで。
 そりゃあ盛り上がったでしょう。「伝説の男 坂田三吉」ですから。「あの男が帰ってきた!」ですよ。16年ぶりに。16年ぶりってどういうことかって?16年将棋指していなかったんですよ。
 坂田三吉の弟子に星田啓三という棋士がいましたが、彼の話によればほんとにまったく指していなかったそうです。『9四歩の謎』(岡本嗣郎著)というのはそのあたりの事実に迫ろうと調べた本ですが、この本の中に坂田三吉はよく、「星田、やいとすえてくれ」といって星田に灸を頼み、「ええ気持ちや、よう効く」と言いながら、レコードで『曲垣平九郎』などの浪曲をくり返し聞いていたとあるんですね。それを読んで僕は、浪曲の好きな父に頼んでカッセトテープに『曲垣平九郎』の浪曲をダビングしてもらって聞いてみたということがあります。曲垣平九郎(まがきへいくろう)という人物は“馬乗り”の名手でして、「馬」の大好きだった坂田さんは、この人物がお気に入りだったようです。

 なぜ16年間将棋を指していなかったかというと、対局する相手がいなかったからです。坂田さんが「関根はんが名人なら、わいは大阪名人や!」ということを名乗ってしまって、撤回しなかったからです。将棋界と、大阪坂田一派が“冷戦状態”で交流禁止になったのです。坂田三吉が「大阪名人を名乗る」と発表したのは大阪朝日新聞で、坂田は朝日新聞の嘱託でしたが、つまりまあ坂田三吉のバックには大阪朝日新聞等の大阪財界人が付いており、見方によっては坂田さんは彼らに利用されたとも言えますね。しかし将棋指しは所詮は芸人、スポンサーにお金払ってもらって生きていく、そういう立場なので…。

 関根金次郎が30歳のころに、実力ナンバー1だったわけですが、結局政治力で小野五平が十二世名人に襲位しました。この時、小野五平は68歳でしたが、この小野が90歳まで生きたんです。で、やっと関根の順番がやってきて、1921年、関根金次郎十三世名人の誕生となります。この時、関根はすでに53歳で指し盛りを過ぎています。坂田三吉は51歳、関根の2つ下です。

 1906年、「千日手は攻めている方が手を変えなければならない」というルール(今とは違う当時のルール)を知らずに、それを相手の関根に指摘され負けになった坂田三吉は、その対局をきっかけに「関根を倒す!」とプロ棋士への道を決意しました。その時、坂田三吉は36歳。
 そして15年の月日、その間の関根金次郎と坂田三吉の対戦成績は15勝15敗です。互角の成績。
 坂田三吉は40代でも怪物のように強くなり、このときはすでに坂田三吉の方が関根より強いのでは、と周囲にはみなされていました。でも、この時の実力ナンバー1はこの二人ではなく、関根の一番弟子の若い土居市太郎で、すでに、いわば“土居時代”だったのです。
 坂田三吉はその土居市太郎との雌雄を決する一戦(1917年)に、「後手一手損角換わり」という奇策で臨み、土居の攻め、坂田の受けという展開になりました。土居の必死の猛攻を二枚の角打ちでしのぎ切り、勝ちが見えてきたというところまで行っていたのに、失着があって土居の逆転勝ち。そういうことで、坂田三吉は関根と同格といってよいほど強いけれども、どの時代でも実力トップに立ったことはないことになります。土居市太郎は坂田三吉に(おそらくですが)勝ち越しています。

 だれも皆当時はそういう経緯がわかっているし、坂田自身も心ゆくまで勝負をしてきたのだし、関根金次郎の名人襲位はだれも納得ずくでしたし、坂田三吉も了解していた事なのです。
 ところがその後でいろいろと事情が変わってきまして、きっかけは関根新名人が新たに「八段」の棋士を四人誕生させてしまったことでした。この「八段」という格はかなり重要なもので、これは“名人に準ずる”という格なのですが、その時点では坂田と土居と二人しかいなかった「八段」を、関根名人が(坂田の表現を借りて言えば)「石鹸会社のようにぶくぶくと」簡単に発行してしまったわけです。坂田さんはそれに腹をたてた。
 それに乗っかって、東京中心に色々なことが決められることに何かと憤慨していたらしい大阪の財界人たちが集まり、「坂田三吉大阪名人」が誕生した、といういきさつです。坂田三吉はうっかり乗せられてしまったのかもしれませんが、言った以上は自分の責任ということです。

 『9四歩の謎』には、「やがて関根名人が引退して、次は坂田が名人に、という密約があったのではないか」と考察しています。つまり、「53歳で名人になった関根金次郎が60歳を超えるころに引退し、次いで坂田三吉が――」という話です。口約束のようなものはあったかもしれません。
 しかしそれがあったとしても、坂田三吉が「大阪名人」を自称してそれを撤回しない以上、その“約束”を履行することも関根側にはできないわけです。

 そういうわけで、坂田三吉の「将棋を指さないで浪曲を聞く」という16年間の生活が続くわけです。
 舞台や映画の影響で、坂田三吉は貧乏というイメージがありますが、将棋を始めてからの坂田三吉は貧乏でありません。むしろ人気者で応援者もいましたから肉を食べたり、ひとに小遣いをあげたりという生活です。律義で静かな物腰で、おしゃれでよく手の爪を油で磨いていた、しかし声をだすと頭から声が出ているようなキンキン声だったそうです。この16年間もお金にはそれほど困ってはいなかったようです。
 さてそんな坂田空白の16年間の間に、なんとか坂田三吉を引っ張り出させたい、とずっと狙っていたのが読売新聞社です。「伝説の坂田」の将棋なら売れますからね! しかし坂田さんも「はいはい」とはそれは出ていけないでしょう。

 そのまま時がすぎ、1935年、関根名人は突然、引退を発表します。自分は引退して、次の名人は「実力制で」と宣言したのです。
 おそらくは、これに吃驚したであろう坂田三吉、こう思ったでしょうか。「じゃあ、わいの“大阪名人”はどうするんや!?」
 最初からそれを認めていない将棋界からすれば、どうするのなにもないことですが、坂田本人からすれば、重大事です。坂田三吉の気持ちは、関根金次郎のその決断を、「その決断、良し」と認めたことでしょう。「強いものが名人になる」それが一番良いことです。ただし、関根がそうやって「名人位」を返上したならば、自分も「大阪名人」を返上しなければおかしなことになる…。
 そのあたり、坂田三吉は何もしゃべっていません。ですから“謎”なのです。



 1935~37年、八段者による実力名人制度が進行していました。坂田の思いに関係なく…。
 その第1位が木村義雄(31歳)でした。2位で追うのが花田長太郎(39歳)、3位は土居市太郎(49歳)。 この三人は、みな、関根金次郎門下生です。
 「次の名人は木村義雄で確実だ。」 世間はそう見ていました。


 そのような時期、読売新聞社が「南禅寺の決戦」(坂田三吉vs木村義雄)、「天竜寺の決戦」(坂田三吉vs花田長太郎)を発表したのです。
 「伝説の男・坂田三吉がまた将棋を指す」というのです!


                           「南禅寺の決戦2」につづく


 過去記事
 『銀が泣いている』 (1) (2) (3) (4) (5)
 『曲垣平九郎
 『ゴテ一手ゾン角カワリ~
 『初代通天閣
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