はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

「端攻め時代」の曙光 1

2012年11月17日 | しょうぎ
 今日紹介する棋譜は1946年の升田幸三七段vs木村義雄名人戦。「木村・升田五番勝負」の第3局です。

 それまでの木村と升田の対決は
  1.1939年 香落ち 升田勝ち(→『無敵木村美濃伝説とはなんだったのか 3』)
  2.1943年 平手  木村勝ち
 戦前はこの2回しかありません。(たぶん、ですが。) この2回目の対決はあとで触れますが、これに勝っていれば升田幸三は八段になれた、という勝負でした。ここで八段になれなかったので、戦後1946年に新しく創られた順位戦のA級に所属できず、升田さんは悔しい思いをしていました。ブッチギリでB級で勝ちまくって翌年にはA級に上がりそこでも1位になるのですが。1940年から45年までの6年間で、升田幸三が将棋を指せたのは1943年の1年間だけです。升田22歳~27歳の時です。20代の升田幸三は勝率8割はあたりまえ、くらいの勢いで勝っていますから、実力はとうに八段だったのは確かなことです。
 こんなに自信満々な若い才能が、はやる気持ちを押さえられないというのは当然のことですが、それでどうしても木村名人と思う存分将棋を指したい升田さんは、新聞社に「対戦させてくれ」と話を持ちかけます。升田さんも“だめもと”で言ってみたようですが、これが思わず実現したんです。手合いは一応、「半香」(まだ駒落ち制度は完全には廃止になっていなかったようですね)ということで。しかも五番勝負。主催は毎日新聞社。
 で、その第1局は、香落ちで升田幸三の勝ち。
 第2局は、平手で、相掛りの戦型になりました。先手の升田は浮き飛車、後手の木村は5五歩と位を取り、5二飛とまわる形。中盤で木村名人に失着が出て、それを捉えて升田七段、勝利。名人は「馬鹿な手だった」とつぶやいていたらしい。 これが升田幸三が、平手で木村名人に勝った最初の将棋となりました。
 それで、じゃあ第3局の手合いはどうする?、ということで揉めました。(決めてなかったんですね…。) 木村名人がもし負けたら名人の権威が失墜する…という例のやつです。2勝3敗とかならともかく、3連敗ということがあったらこれは…、という心配ですが、「中止だ」という声もありました。升田はじっと静観していました。
 そこで木村名人がこう発言しました。「半香を負けたのだから今度は平手で指しましょう。」その一言で、将棋界の幹部などの反対を退けて、第3局が行われました。男ですね、木村義雄!

 1946年12月6・7日。(二日制ですね。) 持ち時間は各9時間。 対局場は奈良三笠山の料亭。


初手より▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同歩
▲同飛 △2三歩 ▲2六飛 △3四歩 ▲7六歩 △8六歩 ▲同歩 △同飛
▲8七歩 △8二飛 ▲4八銀 △6二銀 ▲1六歩 △1四歩 ▲5八金 △9四歩
▲9六歩 △4一玉 ▲3六歩 △7四歩 ▲6九玉 △5二金 ▲4六歩 △7三銀
▲4七銀 △8四銀 ▲4五歩 △6四歩 ▲3五歩 △同歩 ▲1五歩

 後手木村名人が△6四歩と指して、先手升田七段が▲3五歩△同歩▲1五歩と攻めを開始したところ。
 名人の△6四歩はどういう意味かというと、本当はここで9五歩と端攻めに出たいのです。でもそれが先手から5五角と打たれる手があるためにどうもうまくいかない。それで△6四歩として、次に9五歩という意味です。

 ところで、戦後になって、将棋が次々と変わりました。その大きな変化の中心は、「5筋の歩を突かない」ということです。この将棋、先手升田も後手木村も5筋の歩を突いていませんね。先手升田の4七銀型は以前から指されている型ですが、「5六歩を突かない」ままというのが新しいのです。升田幸三はこの時期、この形を試していたようです。今ならばすぐに5六銀と上がりそうですが、(相掛りで)それを始めたのは、小堀清一です。当時は「小堀流」と呼ばれました。
 後手の木村名人は棒銀。これも当時はめずらしい。戦争が終わって、「新しい時代」を二人とも感じ取っていたのかと思えます。
 大正時代、昭和初期という時代の将棋は、相居飛車で、ほとんどが相掛り。「相掛りにあらずば将棋にあらず」とさえ言われていました。で、お互いが5筋の歩を突く。先手は5七銀、後手は5三銀として、そこからどう指すのがよいか、これが盛んに試され、研究されました。そこで生まれた「銀歩三定跡」や「花田定跡」というような、今はほとんど知る人のいない定跡も、戦前までは「王道」なのでした。
 5筋を突くのが好きなので、角交換将棋には基本的にしません。(「角交換将棋に5筋はつくな」です。) 銀が中央に出るので、端攻めもほとんどありません。棒銀ももちろんしない。そういう特徴が「戦前の将棋」にはありました。(例外はあります。)
 ところが、“戦後”。 升田は「5六歩突かず4七銀型」を試み、小堀は「5六銀型」を披露。あの5三銀型を得意とした木村名人までも、本局では「5三歩」のまま「棒銀」に出て「端攻め」を狙っている。(この木村・升田五番勝負の第2局の後手番の木村名人は5四歩から5三銀とする、“古い型”でした。)――新しい風が吹いてきていました。「5筋を突く」という古い“常識”から解き放たれ、その結果が棒銀や端攻めや腰掛け銀、角交換将棋、銀矢倉といったそれまではマイナーな指し方だった戦法が試され掘り下げられていったのが“戦後”です。5筋を突かない相掛りを「新式相掛り」と呼ぶようになります。
 とはいっても、この対局ではまだ“戦後”の将棋はまだ始まったばかり。手さぐり状態です。


△1五同歩 ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △2三歩 ▲6四飛 △6三歩 ▲3四飛
 「端攻め」自体は古くからあり、知られていましたが、上でも述べた通り、明治、大正、昭和初期という時代は、「中央指向」だったことで、端攻めが少ないです。それが“戦後”になって、急に進化を始める。


△8八角成 ▲同銀 △2二銀 ▲1三歩 △7三銀
 先手升田幸三は、3筋、1筋を突き捨て、▲2四歩から▲6四飛と歩をかっさらい、「▲3四飛」と歩の裏に飛車を持っていきました。新手法の攻めです。かっこいいこの指し方、升田幸三が始めたんですね!
 升田幸三〔当時としては経験のない形であるから、非常な勇気を必要とした。〕


▲3五飛 △1三銀 ▲1五飛 △2八角 ▲3三歩 △2二金 ▲1二歩 △同香 ▲1一角
 木村名人は△2八角、升田七段は▲1一角と角を手放す。
 ▲3三歩を同金なら、2二歩、同銀、1二歩、1四歩、同飛、1三歩、1八飛で先手勝ちというのが升田の読み。名人もそう読んで△2二金とかわした。


△1四歩 ▲3五飛 △3四歩 ▲同飛 △1九角成 ▲3七桂 △3三桂 ▲2五桂
 銀を使わない攻めですが、攻めきれるんでしょうか? ▲3七桂~▲2五桂と桂馬を参戦させます。
 ▲3七桂の手で、▲2二角成、同銀、3二金、5一玉、2二金には、△3三香があってダメ。これは木村名人の罠にはまった形。


△2五同桂 ▲2二角成 △同銀 ▲3二金 △5一玉 ▲2二金 △6一玉
▲3一飛成 △5一香 ▲4四歩 △3七桂成 ▲5六銀 △2五角
 飛車を成りこんだが、攻めきれるのか。升田は、「4四歩があるので指し切りの心配はない」と見ていた。「と金」作りの錬金術がある。 


▲3四銀 △5八角成 ▲同玉 △4四歩 ▲4二歩 △6四桂 ▲6五銀 △2九馬
▲6六歩 △3九馬 ▲4一歩成 △4八馬 ▲6八玉
 升田解説〔かまっちゃおれんと名人は△3七桂成だが、▲5六銀に△2五角が失着。私の俗手▲3四銀を見て顔色が変わった。悪くても▲4四歩を同歩と取り、私の3二金から4三歩にはじっと耐えるよりなかったのである。△5八角成と切って、△4四歩と手が戻るようでは調子がおかしかろう。〕
 ところが升田にも失着が出る。


△5八金 ▲7七玉 △5九馬 ▲6八角
 升田解説〔 ▲4一歩成で勝ちが見えたと思ったが、△4八馬にひょいと▲6八玉とやったのがひどい落手だった。△5八金を見落としていた。△6七玉なら勝ちである。〕
 逆転したらしい。 ▲6八角と、角を合駒に使わされた。これは痛い。


△6八同金 ▲同金 △4九角 ▲7九銀 △8八歩
 ここで木村の残り時間は9分だったという。(もうちょっと残しとけよ、と僕らは思う。)
 升田解説〔一分で△4九角。こう打たれてはたしかに負けなんだが、対局中はなぜか負ける気がしなかった。もし弱気になっていたら負けていたろう。〕
 そういう時ってあるよね、たまに。
 升田は7五歩と突かれるのがいやだったが、木村は△8八歩。


▲5一と △同 金 ▲8六香
 升田解説〔残り五分――名人△8八歩。ここで初めて私は香を取って、▲8六香。「あっ」と言った名人。▲8六香はポカのお返しだったのである。〕
 「あっ」と言う名人、かわいいぞ~。


△8九歩成 ▲8二香成 △同 銀 ▲3二飛 まで111手で先手の勝ち
 ▲8六香に、後手は8八歩を打ってしまっているので、飛車先に歩が打てない。勝負は決着した。
 「君とやると、どうも見落としをする。闘志に押されるんかなあ」と局後の名人が升田に言ったそうです。(木村名人って、もしかしてイイヤツなんじゃね?)
 
 長らく「不敗の名人」と呼ばれた木村義雄名人が升田七段に0-3のストレート負け。これは棋界に衝撃を与えました。と同時に「新たな時代の幕開け」を予感させるものでもありました。
 このようなことがあって、翌年には「駒落ち制度の全廃」が実施される流れとなっています。これでやっと、重要な勝負で「手合いをどうする?」「もし名人が負けたら権威が」などといちいち揉めなくてすみますね。

 このように、1946年の木村・升田五番勝負は12月に升田の3連勝で幕。
 年が明けて、升田は順位戦をB級優勝で、八段に昇進。
 A級の優勝は塚田正夫で、木村義雄は春から始まる名人戦で塚田八段との闘いがまっていました。

 塚田正夫は32歳(升田さんより4歳上)、この時期、「矢倉」を得意戦法として指していました。矢倉戦法自体は古くからある戦法ですが、明治からからずっとこの頃までの主流は「相掛り」であり、塚田のように連続して「矢倉」を用いるものはいませんでした。塚田自身も矢倉を主流戦法として指し始めたのはやはり“戦後”です。戦後の「矢倉ブーム」の先端を切ったのは塚田正夫だったのです。塚田は、その名人戦で、矢倉での新しい「端攻め」を披露します。(それは次回にお贈りします。)





 さて、時を遡って、1943年の木村・升田の初の平手戦を以下に紹介します。
 これは朝日番付戦という棋戦で、関東では木村義雄名人が、関西では升田幸三六段が優勝したということで実現した東西の激突する日本一決定戦です。升田さんは関西で優勝したことで七段への初段が決まっていまして、しかも木村名人に勝つとなると八段になれるというそういう勝負でもあったのです。「二段跳び」ですね。


 この将棋は初手より▲7六歩△8四歩▲7五歩△8五歩▲7七角△7二金となって図のように木村名人が金を上がるんですが、升田六段の3手目を早くも「疑問手にしてやる!」という闘志を見せた手です。
 この時代(終戦より前)、平手での振り飛車自体が疑問視されていましたし、それを敢えて先手で、しかもこんな重要な一戦でやって来ようとしている升田幸三――。しかも素人戦法とされている「早石田」です。木村名人、「このやろう!」と思ったに違いありません。

 で、こうなって――

 こうなりました。見てください、後手木村陣の金銀のと玉の位置を! これはまさしく、「駒落ち上手」の指し方ですね。
 でもこれは振り飛車優勢ですよね。▲7七桂に、△7五金とかできたらいいんですけど、後手は飛車に弱い形なので――。それで木村名人、△6一飛。
 升田六段の次の手は▲6四歩。このあたりでは「もう必勝」と升田さんは思っていたそうですが、僕などでもそう見えます。

 ▲6二金△8三歩▲6一金△8四歩と進みました。結果、飛角の交換ですが、先手は「金」で飛車を取り、後手は「歩」で角を取った。先手の「金」はあんなところ(6一)にいて、後手は次に8五歩と桂が取れる。駒の効率でいえば断然後手に得な取引だったのですが、それ以上に後手の玉は“飛車に弱い形”なのです!
 ▲6九飛△7七歩成と、升田、銀を質駒にしておいて――

 その取った「飛車」を「▲2一飛」と打ったのが上図。
 ところが△2二角打と木村に打たれてみると、あれあれ? 先手が苦しそう…。「しまった!!」と升田六段、後悔したのでした。

 升田解説〔▲2一飛が手拍子で、△2二角打を全くうっかりしていた。▲6三歩成△同銀▲4一飛で、以下△3二玉なら▲3一飛成△同玉▲5三歩成で必勝だった。〕
 しかしあれですね、△2二角打をうっかりするようでは、そりゃ「甘い」と言われてもしようがないですね。(ちなみに持ち時間9時間です。) でも、凄い強いのに、こんなのをうっかりしてそれを素直に告白するところが親近感を誘う…、それが升田幸三。人気者の秘訣です。
 それでこの続きは、以下のように進みます。
▲5三歩成 △同銀 ▲6三歩成 △5四銀直 ▲5三と △同角 ▲5一飛成 △3一角左 ▲5五歩 △同銀 
▲5四歩 △4二角引 ▲6二龍 △4六歩 ▲5七金 △8五歩 ▲6三龍 △3二銀 ▲6七金 △同と
▲4三銀 △同銀 ▲同龍 △3二銀 ▲3四龍 △同玉 ▲3五銀 △4三玉 ▲6七飛 △6六歩
▲7七飛 △7六歩 ▲同飛 △7五歩 ▲6五金 △1七歩 ▲5五金 △1八飛 ▲3九玉 △7六歩
▲2九銀打 △4七桂 ▲4八玉 △6七歩成 ▲4五桂 △同桂 ▲同金 △3九桂成

▲4四銀 △5二玉 ▲5三歩成 △6一玉 ▲1八銀 △4九成桂
 これはいかにも「木村調」という終盤の図ですね。玉を舞わせたら木村名人に勝るものなし。
投了図。
 154手で木村義雄名人の勝ち。
 というわけで、25歳升田六段、二段跳びの昇段成らず。この年(1943年)の暮れ、召集令状が来て、升田幸三は戦地へ。
 3度目の木村名人との対戦が、上に紹介した、終戦後の1946年の木村・升田五番勝負というわけです。
 「この時に勝っておけば八段だったのに…!!」と、くり返し悔しがることになるわけです。

 「先手の振り飛車と美濃囲い」の升田幸三と、「三段玉と四段目の金銀」の木村義雄。結果的には、木村名人が勝利したというのは、その時代の空気がそうさせたのでしょうか。やはり若い升田さんの方が、‘現代的’なセンスであったことは確かなようですが、でも、勝ったのは木村名人なんですよ。ここに何やら、「理」だけでは割り切れない「妖しさ」があるように感じます。
 これが‘戦後’になると、木村名人の「妖しさ」が通用しなくなって、升田さんと立場がくるっと入れ替わった気がします。



・“戦後”、木村・塚田・升田・大山の時代、の記事
  『高野山の決戦は「横歩取り」だった
  『「錯覚いけないよく見るよろし」
  『「端攻め時代」の曙光 1』 
  『「端攻め時代」の曙光 2
  『「端攻め時代」の曙光 3
  『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り 』
  『新名人、その男の名は塚田正夫

・“戦後”の横歩取りの記事(一部)
  『京須新手4四桂は是か非か
  『小堀流、名人戦に登場!
  『「9六歩型相横歩」の研究(4)