はんどろやノート

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1937 木村新名人誕生の一局

2012年11月09日 | 横歩取りスタディ
第01期名人決定大棋戦千日手指し直し局
「木村義雄八段」vs「花田長太郎八段」
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲5六歩 △6二銀 ▲2五歩 △3二金
▲6六歩 △5三銀 ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 (上図)

 これは坂田三吉との「南禅寺の決戦」(坂田・木村戦)、「天竜寺の決戦」(坂田・花田戦)の行われた年、1937年暮れ12月の対局。
 当時の最高段「八段」者9名によるリーグ戦がその2年前から行われており、それもいよいよ大詰め、これに勝てば成績1位の木村義雄が名人位に決定、という一局。
 この将棋は、どうやら「千日手指し直し局」のようです。双方慎重な駒組みで仕掛けることなく千日手成立、だそうです。当時の千日手指し直しは日を改めての対局で、1週間後に再対局。それが本棋譜です。持ち時間は各12時間、二日制。


 この将棋は、先手の木村義雄が2六歩と飛先の歩を突きながらも、後手花田長太郎の5四歩に対し、「5六歩」と突っ張ったオープニングに。もし花田が8八角成~5七角なら、先手も5三角と打ってお互いに成角(馬)をつくることになる。が、花田はそれを選ばず6二銀。以下、上図のようになって、先手が飛車先の歩を切って、さらに後手の望む「5五歩」の形をつくらせないという…。それはちょっとムシが良すぎる…?
 「なんだとっ!!?」
 こうなると後手は黙ってはいられません。5筋から反撃、と思うのは当然です。序盤から熱い闘志がぶつかり合います。

(上図から)△5五歩 ▲同 歩 △2三歩 ▲2八飛 △4四銀 ▲6八銀 △5二飛
▲5八飛 △5五銀 ▲6七銀 △5六歩 ▲4八銀 △3三桂 ▲4六歩

 と言うわけで花田、5五歩、同歩から△4四銀~5二飛で中央から先手陣へ襲いかからんとします。
 この場合は中央の玉頭付近が危険で、さすがにこの上に3四飛などと横歩をとる余裕は先手にもないでしょう。したがって木村八段は2八飛から5八飛。
 花田八段は3三桂。さらに桂馬を攻撃に加えようと。もちろん次は4五桂があります。そうなると相当の破壊力。先手は大丈夫なのか?
 木村八段はどう受けたか? ―――と、「4六歩」がその答え。



   △4六同銀 ▲5六飛 △5五銀 ▲2六飛 △5六歩 ▲5八歩 △1四歩
▲6八金 △1三角 ▲6九玉 △4二銀 ▲4七銀 △4一玉 ▲6五歩 △3一玉 
▲4八金 △5四飛 ▲4六歩 △3五角 ▲2八飛 △4四角 ▲7八玉 △6四歩

 4六同銀に「5六飛」が木村の予定の受け。 飛交換は先手に有利と見て、花田は5五銀。これで5筋の争いは治まった。なるほどこれで受かるのか、参考になる受けですね。

 〔4六歩の一手で先手は早くも、後手の3三桂の意図をうち砕いたということができる。 後手の4六同銀で、1四歩と突き、4七銀、1三角、5六銀左、同銀、同銀、4六角(参考図)と角を捌く手もあった。参考図となれば、先手は、5七歩と辛抱する一手となるだろう。〕と大山康晴の解説。
参考図

 花田の△4六同銀はわずか1分で指した手。次の△5五銀は約2時間の長考。
 木村の▲5六飛を花田が軽視していたとはっきりわかる。

 序盤は木村ペースとなった。序盤からリードして、中終盤でもゆるまず前に出て、そのまま一気に押し出すのが木村将棋。

 花田長太郎も、△6四歩から第2次の攻めを開始。



▲4五歩 △7一角 ▲6四歩 △同銀  ▲5六銀右 △5五歩 ▲4七銀 △4四歩
▲6六銀 △4五歩 ▲6五歩 △5三銀引 ▲5五銀 △7四飛 ▲6七金 △2二玉
▲5六銀 △9四歩 ▲5七金上 △9五歩 ▲3六歩 △5四歩 ▲6六銀 △9四飛
▲3七桂

 しかしこの△6四歩から攻めは、木村にすっかり逆用されてしまった。
 もっとも、この図ではもう、あるいは仕方ないのかもしれません。長引くと序盤の「3三桂」がねらわれて負担になってきます。(大山名人の解説は、6二角~3五歩~3四飛という石田流の構えを推奨している。) とはいっても、勝負はやはり“我慢”が必要でした。


 この最初の実力で名人位を決定する「名人位決定リーグ」の仕組みは、八段全員の総当たりで、其々の相手と先後二局づつ指していきます。それがすべて「持ち時間12時間二日制」ということなので、それは大変なものです。持ち時間12時間2日制って、大概終局は3日目の夜明け前後ですよ、きっちり時間を使えば。
 ここまでの木村義雄の成績は11勝2敗。敗れた2敗は、花田と、萩原淳に負けたものです。
 一方の花田の成績は、12勝1敗。(この1敗も萩原戦。萩原淳、つええー。)
 つまりこのようにダントツに強い二人だったのですが、実はこの毎日新聞社主催の「名人位決定のリーグ」だけの成績で名人位が決定されるわけではなかったのです。そこは他のスポンサーへの配慮ということでしょう。他棋戦の成績も加味されることになっていました。
 それで、花田長太郎という人は勝ち星にむらの多い人だったらしく、他棋戦の成績は12勝8敗、ところが木村義雄のほうは、27勝7敗で圧倒的。
 そういうわけで、総合ポイントとして木村義雄が1位で、花田が2位という成績でした。
 ただ、木村は最初の花田との「名人戦リーグ」の対局を落としていますから、ここでもまた花田に負けることになると直接対決で0-2、それで名人位に就くわけにもいかない。それで当時の規定は、もしこの対局で花田が木村に勝てば、あらためて両者による「六番勝負」が行われるというものでした。その半分、三つを1位の木村義雄が勝利すれば木村が名人に、4つ花田が勝てば花田が名人に、ということです。
 つまりこの1937年12月5日の対局は、木村が勝てば名人決定、花田が勝てばさらに「六番勝負」に突入、とそういう勝負対局なのでした。花田の崖っぷち対局ですね。


 しかし――、手が進むにつれ、これは木村新名人の誕生が明らかになってきました。 



   △4四銀 ▲4六歩 △同歩  ▲4五歩 △5五銀 ▲同銀左 △同歩
▲同銀 △3五歩 ▲4四銀 △4七歩成 ▲同金 △9三角 ▲3四銀 △6六歩
▲同角  △同角 ▲同金 △3九角

 こんな感じで金銀が前に前にと出るのが木村義雄の将棋。序盤での花田の中央からの攻めを逆用して、中央を圧倒的に支配しています。

 花田八段、△3九角。飛金両取りに攻めますが――、これは形づくり。



▲2三銀成 △同金  ▲同飛成 △同玉 ▲4一角 △3二銀 ▲2四歩 △同玉
▲3二角成 △2八飛 ▲2五歩  まで105手で先手木村義雄の勝ち

 2三銀成、同金、同飛成から、いつもながらのわかりやすいフィニッシュです。
 花田長太郎は、「奇麗に負けました」と言って投了しました。


投了図

 木村義雄新名人誕生!!!  
 
 名人になった木村は家に帰ってそれを父に報告すると、寡黙な父は、「そうか、俺も鼻が高いな。」と言ったそうです。木村義雄、32歳でした。




 この名人決定局の将棋は「後手5五歩位取り横歩取らせ戦法」の類似型ですが、実際には横歩取りにはなりませんでした。

■ 次に、若き日の木村十四世名人が「5五歩位取り横歩取らせ戦法」を用いて、がんがん攻めた将棋を2つ紹介します。

 これは1926年、木村義雄の21歳の時の将棋。相手は大崎熊雄。
 先手が「5筋位取り」をできるのは、初手から▲7六歩△8四歩▲5六歩△8五歩のとき。(2手目△3四歩または4手目△5四歩ならできない。)
 見てください、あの5段目の二枚の銀!
 後手の大崎さんが横歩を取ってきたので、木村さんはするすると銀を進めて、飛車を左右に振り回し、超攻撃的布陣が出来上がりました。そして5四歩から仕掛けます。以下、2、3筋から怒涛の攻めを開始します。
投了図
 が、届かず。 この図で投了となりました。
 ま、こういうこともある。しかし、若者らしい突進ですね。
 でももうこの時は木村さん、最高段の「八段」だったんですよ。戦後でいえば加藤一二三、谷川浩司並のスピード出世です。この将棋はちょっと自分の力を過信しすぎでしたかね。

 ひとつ余談を。この大崎熊雄八段は、坂田三吉が後手番(香落ち上手)で「角頭歩突き戦法」を指した時の相手でした。

 これです。大崎さんが勝ちました。


■ もう一つ。溝呂木光治戦。1927年、木村義雄22歳の時の将棋。
 
 後手の木村さんがやはり「5五歩位取り横歩取らせ戦法」で、先手の溝呂木さんが横歩を取りました。やっぱり銀2枚が攻めに出動。木村将棋の特徴は、どうやら2枚の金銀が攻めに出るというところにあるように思います。
 ここから7六同銀、同金、同飛、8二銀、と進みます。
 木村さんは4五歩~5六歩と攻める。(それはいいけど、後手玉はうすいなあ。)

 さらに7七飛成と飛車を切って猛攻をかけます。(飛車渡してだいじょうぶ~?)
 図から6七金、5七歩成、同金、7七飛成、同銀、3九角、3八飛、5七角成、同銀、4七歩成、
8三角、5八歩…(以下略)

 駒を渡して攻めると、当然反動が来ます。激烈な攻め合いに。

 溝呂木氏、微妙な所に香車を打った。取ると…? ああ、あの角(8三)が利いている…。取ると、ヤバイ…か??
 木村さん、その罠にあえて乗る。同飛成!
 4七同飛成、5三竜、5五玉、5四竜、同玉、5三桂成、同玉、4七角成、やっぱり飛車は取られた…が?

 木村7五香。 
 これで詰んでいるらしい。以下6七玉、7七香成、5八玉、6八飛、5七玉、4五桂、4六玉、3五銀、同玉、4四角。
投了図
 すごい攻め合いでした。どこまで読んでいたのやら。最後に、じっと戦況を見つめていたような角がスッと動いて、それで投了というのが、お洒落。
 この時代(戦前まで)の将棋はこんなふうにとにかく「中央」での戦いになります。
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