はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

いのしし詰め

2011年02月26日 | つめしょうぎ
 駒数が多いですが、手数は短く、11手詰め。



 僕の初代PC(ノート)は、鼠にキーボードのキーを10枚くらい剥ぎとられていまして(笑)。 それでも使えていたのですが、もう4年も働いたことだしと、昨年2代目(デスクトップ)を買い、それでも一応ネットにつなげるようにしとこうとしたところセットアップに失敗(引っ越しでプロバイダーが変わった)、大往生を遂げました。バックアップもしなかったので中の記録もだめかも。とはいえ、大事なファイルといえば、ほとんどない。ただ、詰将棋の、ここに未発表のもののいくつかはもう、記憶のかなたで思い出せず。どんなん作ったっけ? やっぱりノートにつけとくべきだった。


 で、このたび、期待の星の2代目が、ついにダウン。 最初からなんか変だったんですが、このところ大荒れで、一昨日、リカバリーさえ不能に。 修理に出しました。

 修理に送り出した後、気づいたのですが、『東大将棋7』のインストールが不調の原因ではないか? Windows7に対応しているとは、メーカーのホームページにもどこにも書いてないではないか!! あらら、なぜ今までわたしは気づかなかった!? 迂闊!! …とはいっても、このソフト自体は普通に調子よく使えていたんですがねえ。
 なんにしても、詰将棋検討用に別の新しいソフトが必要ということか。


 ていうか、2代目、ちゃんと元気になって戻ってくるんだよ。



  ↑
 初代。 4年も働いてくれてどうもありがとう。

NZの地震

2011年02月23日 | らくがき
 気になりますね、ニュージーランドの地震。

 僕は昨年まで、本棚の傍でいつも寝ていまして、大地震が来たらつぶされるなあ、と思っていました。 引っ越して、その問題は解決しました。


 テレビでは「クライストチャーチ」の地名がアナウンスされます。「クライストチャーチ」は僕にとっては馴染みのある名の都市で(行ったことはないんですが)、それで僕が連想する人物は、

 アーネスト・ラザフォード(故人、実験物理学者、20世紀前期の世界の物理学をリードした)
 ビック・ルンガ(シンガーソングライター)
 マーガレット・マーヒー(作家、作家になる前クライストチャーチの図書館に勤めていた)

というところです。



 性悪パソコンと格闘の日々。


 

キャラづくり

2011年02月22日 | らくがき
 漫画を描こう。
 と、思っているのだが、いくつか越えねばならぬハードルが前方にある。

 その中でも、もっとも重要なものが「キャラをつくる」ということ。

 だけど僕は同じ顔を何度も描くのが苦痛でしてねえ。
 それじゃ、だめじゃ~ん。


 あと、PCが不調です。ほぼ毎日強制終了。
 それじゃだめじゃ~ん!!!

王将戦は?

2011年02月19日 | らくがき
 王将戦が終わってしまいました。
 久保さんの防衛です。


□王将戦
  久保利明 3-1 豊島将之

 豊島さんはまだ似顔絵を描いたことがないので、描こうとしていたら、ぐずぐずしているうちに決着がついてしまいました。

 それで今なんとなく書いたのが、上のこれ。 これもペンタブレットで。




 …って、バカ!!  
 王将戦は7番勝負じゃないか。


 猫は浅田真央が気になる。

小川洋子の‘盗作’

2011年02月15日 | らくがき
 どうもタブレットとPCの相性がわるいらしく、いつの間にかPCのやつが勝手に新入りタブレットのドライバーをアンインストールしてやがる(笑)。 これで3回目のインストール。 どうなる、このケンカ?
 (先住猫と新入り猫のケンカみたいなものか? 仲良くやってほしい、それがわたしの望みだ。)


 PC画にはインクがいらない、というのも利点だ。(欠点でもあるが。味わいがないという点で。)
 実際にペンにインクを着けて描くと、途中でインクがなくなる。線を引く途中で急に終わったり。 だからといって、ペン先にたっぷりのインクをつけると、ドバっとインクが落ちて絵が台無しになったりする。
 そういうところに注意しつつ描く、という緊張感はPC画では必要がなくなる。よくもわるくも。

 PCではまた、ホワイト線も黒線と同じように引けるのがすばらしい。
 実際にペンで描く時は、ホワイトは、ポスターカラーの白を溶いて使う。しかしこれがなかなか思うように紙に乗らなかったりする。 (なので僕は、ホワイトの場合には、ペンではなく筆を専ら使っていたものだ。)


 雪見猫。



 さて、小川洋子さんのこと。
 図書館から『猫を抱いて象と泳ぐ』と一緒に小川さんのエッセイ集を一冊借りてきたのだけれど、その中に『盗作』というのがあった。


 「エッセイというのはラクでいいよなあ。」と、ある漫画家の人が呟いていたことがあるんだけど、僕も、「そうだよな」と思う。 たしかに、小説書くとか、漫画を描くとかに比べると、格段にラクちんに思える。実際にそうだと思う。
 あれが好きだ嫌いだとか品格がどうのとケチをつけておいて、それでお金をもらうというのは、妙なお仕事だ。
 けども小説というのはそんなに売れないし、いい小説なんてそんなにポンポン生まれるものじゃないだろうし、それだけでは食べていけないのかもしれない。 そもそもエッセイに需要があるからお金になるわけだ。
 僕自身も、小説よりもエッセイのほうを好んで読む、そういう時期があった。エッセイを読むほうがラクなのだ。
 「小説を読む」にはそれなりにエネルギーがいる。
 とすると、「小説(物語)」は、「エッセイ」よりも深い場所に潜らなければならない、ということか。


 まあそれはいい。 小川洋子のエッセイ『盗作』のことについてしゃべらねば。これはでも、お気楽エッセイとはちがいますよ。 (スゴイです。)

 このエッセイの冒頭は、ずっとボツになっていた小川洋子さんの原稿がやっと文芸誌に採用されて載ったその作品『バックストローク』が、実は‘盗作’だったということから始まっている。
 そして読み進めると、びっくりするようなことが次々と書いてある。


 たとえば、小川さんの付き合っていた同じ職場に勤める恋人(病院の研究室員)が、突然に横領の容疑で逮捕された、とか。まったくそんなことは知らなかった小川さんだが、あれが金を貢がせた女だとか噂され、彼女も辞めざるを得なくなった。
 (付き合っている恋人が職場の金を横領し逮捕された、なんて経験をもつ人がこの世に何人いるだろう? )

 その少し前、小川さんの弟が突然に亡くなった。病気や事故で…というのではない。不良グループの少年達に殴り殺されたというのだ。教会のバザーの手伝いをした帰りに。
 (そんな死に方をした肉親をもつ人がこの世にどれほどいるだろう? )

 その弟の葬儀から戻ってすぐ、浴室の水道を締め忘れて部屋を水浸しにしてしまい、弁償金を払い、アパートを引っ越さねばならなくなった。貯金も体力も使い果たした。
 (そんな経験をした人…、そんなにはいないだろう。)
 その次に起こったことが、恋人の「横領事件」なのである。

 まだ続きがある。
 小川さんはこの後、パン工場の自動車にはねられてしまう。
 そのライトバンは小川さんを跳ね飛ばし、花屋に突っ込んだ。小川洋子の身体は道に横たわり、その周囲にはフランスパンと花びらが散っていたという。小川さんはその日、生活に困り家賃の相談に行くために外に出たのだそうだ。

 全治3カ月の重症だった。両膝、肋骨、顎、右手首の骨が砕けた。見舞客は、運転手、パン工場の常務、警察官だけだった。(親とはケンカ中だった。)



 ね。なんともすごい話でしょう?
 (しかしここまでくると、あまりの密度の高さに笑いさえこみあげてくる。)


 小川洋子さんは病室で目覚めたとき「自分は死んだんだ」と思ったそうである。だが、そうではなかった。

 小川さんは退院し、それからしばらく松葉杖をついてリハビリのため病院に通った。顔の半分はプロテクターにガードされ、左膝と右手首にはギブス。
 そんな姿で電車に乗って病院へ向かっていた途中、うっかり寝過ごしてしまったかと思い駅名を確かめようとしていたら、見知らぬ女性が「まだ二駅ありますよ」と声を掛けてきた。 その女性は「私も病院へ行くんです」と言った。それからこう言った。
 「弟が、入院しているものですから。」
 その女性の膝の上には紙袋が置かれ、そこから甘い匂いが漏れてきた。
 「お土産のホットケーキ。弟の好物なんです。」

 それで毎週火曜日は、小川さんはその女性と電車で会うことが重なった。
 ある日、小川さんは勇気を出して、その女性にこう言った。
 「お願いがあるんですけれど…。 弟さんのことを聞かせてくれませんか」

 彼女の弟は水泳の背泳ぎの選手だったという。そのときに聞いたその話を、小川さんは小説にして書いた。書きながら小川洋子は回復していった。
 その小説『バックストローク』が小川洋子のデビュー作となった。
 その女性と会ったのは、彼女のその弟の話を聞いた時が最後だったという。



 7年後に、小川洋子さんはその病院を訪れた。残っていた膝のボルトを除去する手術を受けるためだった。
 “彼女”の姿がないかと捜してみた。彼女の弟は精神科病棟だったからそこを歩いてみた。見つからなかった。“弟さん”らしき人はいないだろうか。ホットケーキの匂いは…。突き当りの談話室は日当たりのいい場所だった。小川さんはふとサイドテーブルに目をやった。そこには『BACKSTOROKE』というタイトルの英語版のペーパーバックが置かれていた。古くて、表紙は擦り切れ、変色していた。
 小川さんはそれを読んだ。そこには、自分が書いたのと同じ、あの女性が語ったのと同じ話が書いてあった。水泳の背泳ぎのの選手だった弟が、左腕から徐々に死に近づいていく話…。作者は1901年生まれの聞き覚えのない女性で、その名前のスペルはとても発音できそうにない綴りだった。


 自分の書いたものが‘盗作’だったと知った時、小川洋子さんは、戸惑いよりも、むしろある確信が生まれたという。
 「私を救い出すためにあの小説がどうしても必要だったのだ」と。


 こんなディープなエッセイも、時にはある。

多磨霊園の人々(6)

2011年02月14日 | はなし
 岡本かの子の墓。 岡本太郎作。


 かの子が死んだとき、太郎はパリにいた。芸術家としての栄養を充填していた時期である。7年前に、パリの北停車場での別れが母子の最後の別れとなった。 父一平からの電報で太郎はそれを知った。
 1939年2月のこと。
 
 かの子の遺体を埋葬したのは岡本一平と新田亀三。
 二人はありったけのバラの花を買い集めた。 二人で穴を掘り、バラの花を敷き、その上にかの子の棺、そしてまたバラの花を入れた。 日本ではめずらしい土葬である。生前に彼女が、火葬をひどくいやがっていたことを二人はおぼえていたので、多磨霊園には例がないのを無理矢理頼んでそうした。






 新田亀三はかの子の恋人で、青山の岡本一平の家に一緒に住んでいた。

 新田亀三は医師で、岡本かの子の主治医であったが、ある日、かの子は夫の一平にあの医師のことが好きでたまらない、と訴えて泣いた。それでとうとう一平はかの子に、「それなら家に連れて来れば」と言った。
 新田は、はじめは断っていた岡本家の熱心な招待についに応じ、やがて怪物かの子の愛にからめとられてしまう。新田は岡本家に出入りするようになるが、それをゆゆしき事態とみた病院は、新田を北海道札幌へと転任させた。
 それでも一平かの子夫婦の異常さは、止まらなかった。
 熱烈なラブレターを書くだけではかの子が満足できなくなると、彼ら夫婦は息子太郎も連れて東北行の汽車に乗り、青森まで行くと、一平と太郎はそこで待ち、青函連絡船で海を渡って新田に会いに行くかの子を「必ず帰ってくるんだよ」と言って送り出した。
 そんな異常に、新田亀三はとうとう我慢ができなくなった。 岡本一平に頭を下げ、こう言った。
 「奥さんをぼくに下さい。正式に結婚したい。」と。
 これを聞いた一平は、さらに深く新田に頭を下げ、懇願した。
 「かの子をぼくから奪わないでくれ。ぼくらはもういわゆる夫婦の生活はしていないけど、ぼくにとってかの子は生活の支柱だ。いのちだ。」


 その後新田は東京へ戻り、岡本家に暮らすようになる。この岡本家の家計・食事等を切り回していたのが、垣松安夫である。女一人におっさん三人、プラス太郎という岡本家である。

 そんな新田亀三の様子をうわさに聞いて猛烈にに腹を立てたのが、その父母である。そこで新田の母は岡本家に乗り込んだ。ところが――――。
 新田の母は、かの子に会った途端、すっかり彼女のことが気に入ってしまったのである。かの子は、どんな魔術をもっていたのだろう。





 岡本一平、かの子、新田亀三、垣松安夫、の4人は、一緒に生活をしながら、そのうち皆でヨーロッパに行きたいねえ、などと話していた。
 それが実現したのが、1929年。 『岡本一平全集』が刊行され、それが売れてお金が入ったのである。「全部使っちまえ」と一平は思っていた。


 岡本一平は、もともと“小説家になりたい”と思っていた男である。
 絵画の勉強をしたのは、親がそうせよと言ったからだった。そうして美術学校を卒業したが、芸術家としての限界を知っていた。だから依頼されるまま漫画をかいた。そうしたらそれがウケて漫画家になった。
 夏目漱石にも褒められた。しかし漱石が褒めたのも、その画ではなく、文章であった。
 しかし一流の小説家になるには、自分には何かが決定的に足らない、と思っていたのではないか。 その「決定的に足らない何か」を、余るほどに持っている女がここにいる―――。 岡本一平はそのように考えていたのではないか。

 

 2年間、彼らはヨーロッパに滞在した。初めは参加しない予定だった太郎も連れていくことになり、そして太郎はそのままずっと留学を続けることになった。

 その2年間の滞在の間に、一平はかの子に、「日本に帰ったら小説を書くわ」と言わせることに成功した。
 一平には、小説への意欲も、アイデアも、知識もたっぷりと用意できていた。 しかし心の中の、「どろどろした何か」を掬い取るのが芸術だとしたら、それが一平にはなかった。
 かの子がそれを持っていた。


 『金魚撩乱』『東海道五十三次』『老妓抄』などの作品を残し、かの子は50歳でこの世を去った。書きかけで止まった原稿の続きは、一平が書き足して完成させた。


ペガスス座51番星

2011年02月13日 | らくがき
 フキダシを付けてみた。 まだ、フキダシの大きさの変え方がわからない…。


 今日は日曜日。 GOOD WEATHER、でした。


郷田真隆vs糸谷哲郎
どっちが勝つのか??



糸谷が勝った。A級に競り勝つなんてすごいな。




 小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』を読了。

 どうやら小川さんは、猫を駒のポーン(将棋でいえば歩)、象をビショップ(将棋でいえば角)のつもりで、この設定を創作したのだね。
 チェスの6種類の駒のなかで、ポーンとビショップの2つの駒だけは、8×8の升目のうち、どうやっても行くことのできない場所があるのです。その不器用さがいい、愛すべき、と考えたのでしょうね。
 
 

なにはともあれ

2011年02月12日 | らくがき
 なにはともあれコマ漫画、です。

 「人類にとっては小さな一歩だが、私にとっては大きな一歩だ」、です。


 これだけのものに、2時間以上も格闘してやってます。
 使っているソフトはコミスタ(ComicStudio)。

 PCだとトーンがタダで使えていいですね。 集中線に‘ひねり’を入れられるなんて素敵ッス。

 



 ところで、『猫を抱いて象と泳ぐ』は、第13章まで読み進めました。
 面白いですね! 設定がおもしろい。チェス盤の下(テーブルの下)にいちいち潜って猫を抱いて指し手を考える少年…。


 そして第8章にはこんなシーンが出てくるのですが…

 〔 “リトル・アリョーヒン”は令嬢と握手をした。カムを伝わってくる掌の感触は、はっとするほどに冷たかった。無言のまま令嬢は初手、d4と指し、“リトル・アリョーヒン”はNf6で受けた。二つの駒の音が、コツン、コツンと響き合った。黒のナイトは花梨の指によって最後列から前線へと躍り出し、一ミリもはみ出すことなくf6の升目に着地した。素晴らしい妙手を目の当たりにしたかのような歓声が沸き上がり、天井にこだました。 〕


 「令嬢は初手、d4と指し、“リトル・アリョーヒン”はNf6で受けた」とありますね。 ポーン(P、歩)をd4、そしてナイト(N、馬)がf6へ。
 これが、昨日書いた“アリョーヒン・ディフェンス”のオープニングです。
 ナイトをおとりにして先手(白)のポーンをあえてのびのびと前進させ、そこにできたスキをつく、という後手番(黒)の作戦のようです。

アリョーヒン・ディフェンス

2011年02月11日 | らくがき
 小川洋子『象を抱いて猫と泳ぐ』を読み始めました。
 この本は図書館から借りてきたのですが、これを借りたのは、本を開けた時に「アリョーヒン」の語が飛び込んできたからです。主人公の少年の名前が、リトル・アリョーヒンというのです。ただし、この少年は、どうやら別の、いまの時代の少年で、「リトル・アリョーヒン」は、ニックネームのようです。 (僕は、あのアリョーヒンのことを書いた小説か、と思って借りたのですが。)


 この名前の元になったアレクサンドル・アリョーヒンは、ロシア生まれのチェス・プレイヤーです。およそ100年ほど前に活躍した人で、「アリョーヒン・ディフェンス」の用語が残されています。


 それにしても、かっこよくないですか、「アリョーヒン・ディフェンス」!

 その中身については、ほとんど知らないのですが(このまえ調べて、後手番で初めにナイトを動かす手だと知ったばかり)、その言葉の響きだけははっきり僕の心に刻まれていたのです。ボビー・フィッシャーについてのブログ記事を書いた時に。
          → 『ボビー・フィッシャー、1772』 『ボビー・フィッシャー再び、1992




 この本です。

 読むと、そのタイトルの意味も解かります。 
 「象」はインディラという名の象のことで、「猫」の名はポーン。
 「泳ぐ」とは、チェスの海を泳ぐ、ということです。


 これから第4章を読むところ。 では、また。




 ん?  …ああ、いかん!!!

 『猫を抱いて象と泳ぐ』だった(笑)。 失敬。