はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

矢倉vs雁木 1  21世紀の雁木  羽生-中村戦

2014年07月29日 | しょうぎ
 この図面は、昨年9月の王座戦第2局の27手目までの局面。先手が羽生善治王座で、後手が挑戦者中村太地六段です。
 先手の羽生さんは「矢倉」ですが、後手の中村さんは「雁木」に囲っています。
 プロの現代定跡の解説書では、「雁木」はまずほとんど解説されません。なぜかといえば、「雁木」はプロの対局ではほとんど出てこないからです。(アマではわりと使う人がいます。)相手が使ってこなければ研究する必要もないですからね。
 ところが、最近、時々この「雁木」がプロの対局でも見られるようになりました。
 今月のA級順位戦の対局「広瀬章人-行方尚史戦」でもこの型「矢倉vs雁木」が現れたのです。

 そういうこともあって、ちょっと「雁木」についてあらためて考えてみたくなりました。


 ということで、本日は「羽生善治-中村太地」の王座戦第2局を鑑賞します。

 
第61期王座戦五番勝負 第2局   先手:羽生善治  後手:中村太地
対局日2013年9月18日   持ち時間:各5時間   場所:兵庫・中の坊瑞苑


▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀 ▲5六歩 △5四歩
▲4八銀 △4二銀 ▲5八金右 △3二金 ▲7八金 △4一玉 ▲6九玉 △7四歩
▲6七金右 △5三銀右

図1
▲5七銀右
 最近の「相矢倉」の闘いは、ほとんどが「先手4六銀3七桂」戦法となります。90年代には「森下システム」や、「加藤流」もよく指されましたが、今では見ることが少なくなくなりました。この「先手4六銀3七桂」戦法に対して、後手の対応もかつてはいろいろと攻め合う手段も試されましたが、どうも先手の攻めが厳しいということで、後手は△6四角として先手の攻めを封じる方針で応じるしかない、ということになっています。
 以前は、「矢倉中飛車」とか、「米長流急戦矢倉」とか、後手も工夫して速い攻めの形をつくっていました。「右四間」もあります。しかし、どれも先手の最善の対応が発見されていき、指されなくなってきています。
 それらの後手急戦策の中で、この図の、「5三銀右戦法」のみは生き残り、今でも優秀ということでよく指されています。
 2008年に渡辺明竜王が、挑戦者に羽生善治を迎えて、3連敗から4連勝で逆転防衛を果たしたことがありました。その時に第6局、第7局で後手番になった渡辺さんが採用して勝ったのがこの「5三銀右戦法」です。
 この5三銀右のねらいは、次に、(8五歩、7七銀とした後)5五歩、同歩、同角と角交換をして、角を7三に移動させ、5四銀型をつくる ことです。

図2
△5二金 ▲2六歩 △8五歩 ▲7七銀 △4四歩 ▲7九角 △4三銀 ▲2五歩
 後手の5三銀右には、2六歩が従来の先手の指し方です。
 ところが、先手の羽生王座はここで5七銀右としました。この手が、後手に「雁木囲い」を選択させたことになるのです。(ただし5七銀右は羽生さんの新手というわけではありません。)
 5七銀右に、後手が予定通りに、8五歩、7七銀、5五歩、同歩、同角と来れば、5六銀か、または6五歩(次に6六銀左)で先手が指しやすくなる。だから後手はここで5五歩とは行けない。 ――これが5七銀右の意味です。

 さあ、そこで後手がどうするか。
 その一つの答えとして、「雁木囲い」が出てきたのです。でも、なぜ「雁木」なのでしょう?

図3
△6四歩 ▲6八角 △3三角 ▲7九玉 △5一角
 もちろん、後手には3三銀と矢倉に組む選択肢もあります。以前はそう指されていたのですが、最近、この場合の「雁木」が見直されてきました。4三銀と雁木に組むと、角が使いやすいからです。

 及川拓馬著『すぐ勝てる!急戦矢倉』にはそのことが解説されています。

 この本の発売は昨年の2月ですから、この羽生-中村の王座戦よりも前のことになります。

参考図1

 上の「羽生-中村戦」の図3から、後手は角を3三~5一~8四と展開して、7三桂として、参考図1になったとします。これで攻撃態勢が整います。次に6五歩と攻める。
 対して先手の攻めのねらいは、4六銀として、次に3五歩です。3五歩、同歩、同銀となれば、後手の2筋は破れます。「雁木」の弱点は、1、2筋が弱いことです。「棒銀」と「端攻め」に弱いのです。

 ところがこの場合は、後手の6五歩の攻めのほうが速い。
 後手は8四角と、ここに角を移動させるのに“三手”かけています。しかし「矢倉」ならばこれが“四手”かかるのです。(だからこの角を「四手角」と呼ぶのですが。) 「雁木」なのでこの場合は“三手”で運べるのです。

 参考図1から、3五歩、6五歩となって――

参考図2
 後手は、先手の3五歩を取らない。
 そしてこの図で3四歩としても、後手は「矢倉」ではなく、「雁木」なので銀取りの“当たり”にならず、これも相手をする必要がない。だからここで6二飛とまわることができる。そこで先手は攻めるなら3五銀としたいが、6六歩、同銀、6五歩、7七銀、5七角成、同金、3九角、5八飛、6六歩と、後手の攻めが炸裂してしまう。
 このように後手は「雁木」の特徴をめいっぱい生かしている。
 要するに、後手の攻めの体勢が先に整って、先手の3五歩からの攻めは間に合わないという将棋になっているのです。
 「雁木」の駒組みの特徴である“角の使いやすさ”を生かした戦い方になっています。


図4
▲8八銀
 さて、「羽生-中村戦」。 おそらく中村さんの攻めのイメージも上の参考図のようなところにあったのでしょう。
 その参考図1とこの将棋との違いを見ていただきたい。羽生さんは2四歩からの歩交換のチャンスがあったのにそれを見送り、3六歩突きも保留、4六銀も出ない。この手を、6八角~7九玉に使います。
 つまり羽生さんは、上の参考図1のように組むと、相手の「雁木作戦」の術中にはまるとわかっているので、それで工夫をしたのです。ここで8八銀と指しました。「菊水矢倉(しゃがみ矢倉)」にシフトチェンジです。

図5
△3一玉 ▲3六歩 △7二飛 ▲1六歩 △1四歩 ▲5九角 △3三桂
 8八銀と早めに銀を引いて、後手のねらう8四角~7三桂~6五歩の攻めには、7七桂と応じるのが羽生王座の構想でした。ただし後手の「雁木作戦」に対してのこの8八銀という指し方は、羽生さんが最初に指したわけではなく、前例があります。すでに高橋道雄がA級順位戦リーグの対局で指しています。
 とにかく、ここで私たちが学ぶべきことは、この場合のように相手が「雁木」できたときに、参考図1、2のように素直に組むと不利になる、ということです。

 後手中村太地は、先手が8八銀としたのを見て、7二飛としました。
 羽生さんは1六歩。そこで後手が7五歩なら、7七銀、7六歩、同銀です。
 どうもこのあたり、羽生王座の対応が巧みで、挑戦者が苦労しているようです。

図6
▲7七銀 △7三角 ▲4六歩 △6二飛 ▲1五歩
 「雁木」は端が弱い。それなのに、中村挑戦者は3三桂と指しました。7五歩、同歩、同飛から、2五飛のようなねらいがあるが、どうも「ふつうにやっていると勝てない」ということのようです。
 羽生、7七銀。通常の「矢倉」に戻した。先手は5九角として、角が使えるようになったので、もう後手から7三桂~6五歩の攻めはこわくない。先手からは次に1五歩からの端攻めがある。

図7
△1五同歩 ▲同香 △1三歩 ▲1八飛 △2二金 ▲2六角 △3二玉
▲3七桂 △6一飛 ▲8八玉 △6二角 ▲1九飛 △4一飛 ▲4九飛 △4二銀
 やはり1五歩。
 これまでの“ながれ”を見ると、中村の「雁木作戦」失敗で、羽生快勝、という“ながれ”である。
 ところが、ここからの中村太地の踏ん張りがすごかった。

図8
▲6八金引 △9四歩 ▲9八香 △9五歩 ▲9九玉 △9三桂 ▲1九飛 △1二香
▲8八金 △1一飛 ▲7八金右
 中村さんは、苦心の駒組みで羽生王座の攻めをなんとか食い止めたのでした。
 この4二銀は60手目。 しかしこの将棋、実は200手超の長い戦いとなるのです。
 羽生王座、ここから攻めをいったん休止して、玉を「穴熊」に。 まさに21世紀ならではの展開です。

図9
△1四歩 ▲同香 △同香 ▲1五歩 △同香 ▲同角 △1二香 ▲1八香 △4五歩
 「雁木」も「矢倉」も、江戸時代初期からある古典的な「囲い」です。その「矢倉vs雁木」の戦型が、変形してこのような図に。江戸時代の将棋指しにこの図を見せたら、どんな感想を述べるのでしょうね。
 中村挑戦者は1二香から1一飛。そして、1四歩と逆に中村のほうから開戦。

図10
▲3三角成 △同銀 ▲1二香成 △同金 ▲4五桂 △4二銀 ▲3五歩 △同角
▲3八香 △7一角 ▲5五歩
 中村は4五歩と角筋を通す。次は1七歩がねらいだ。
 羽生、3三角成。

図11
△1八歩 ▲3九飛 △1七角成 ▲3四香 △2二玉
 羽生さんは最初3三歩、2二玉、1四飛が予定だったそうです。それが気が変わって5五歩。初めの予定通りに指すべきだったと局後の感想がある。
 残り時間は両者ともに10分くらい。

図12
▲3三香成 △1三玉 ▲4三成香 △同銀 ▲3三飛成 △1四玉 ▲2九桂 △2七馬
▲1三歩 △同金 ▲1七歩 △1九歩成 ▲1六銀
 中村、2二玉。これは1三玉からの入玉に勝負を賭けた手。
 羽生さんの3三飛成では、飛車を見捨てて1五歩とすれば後手玉は捕まっていたらしい。(しかしまあ3三飛成と指すよなあ。)

図13
△2六馬 ▲2四歩 △1五歩 ▲2三歩成 △同金 ▲2七歩 △3三金
▲2六歩 △2四金 ▲3三角 △3一飛
 1六銀は109手目。
 僕はこれをリアルタイムで追って観戦していましたが、結果の全く見えない将棋の終盤は、わくわくしてほんとうに面白い。

図14
▲5四歩 △1六歩 ▲5三歩成 △3三飛 ▲同桂成 △1七歩成 ▲1一飛 △1三歩
▲4三と △2九と ▲5二と △1五玉 ▲1三飛成 △1四銀 ▲3六銀 △2一香
 中村は1分将棋。羽生の持ち時間は5分。
 「入玉できそう」という評価が大きくなってきた。
 しかし2九とでは、1五玉とするところだった。これならおそらく入玉確定していただろう。

図15
▲1八歩 △2六玉 ▲4八銀 △3七歩 ▲2二歩 △2三香
 入玉さえすれば、中村の勝ち。

図16
▲2三同成桂 △3六玉 ▲2四龍 △2五銀打 ▲1七歩 △2七玉 ▲1三成桂 △2三歩
▲3五龍 △2六角
 この2三香は失着。この香打ちは無意味な手だった。2三同成桂に、同金なら、1四竜とされて、これを同金は3五銀打から詰んでしまう。
 だから2三香では、単に3六玉とすべきだった。「香車」を羽生にプレゼントしてしまった。

図17
▲2六同龍 △同銀 ▲6三角 △3八玉 ▲1八角成 △4八玉 ▲2九馬 △3八銀 ▲5九金
 ギリギリの攻防が続く。 図の2六角は152手目。

図18
△5九同玉 ▲6八銀 △5八玉 ▲4九香
 羽生は5九金と金を一枚捨てる。同玉に6八銀。5八玉に、4九香。

図19
△4八歩 ▲5九金 △4七玉 ▲4八金 △3六玉 ▲3八金 △同歩成
▲4七銀 △2五玉 ▲3八馬 △1五銀上 ▲2一歩成 △3七金 ▲2九香 △2七桂
 さっきタダで渡した「香車」がここに使われた。1分将棋でよくこんな手が浮かぶものだ。なるほど、4九同銀成なら、6七銀として詰む。

図20
▲3七馬 △同銀成 ▲3八歩 △4七成銀 ▲同香 △3六銀 ▲3七銀 △同銀成
▲同歩 △3六銀 ▲同歩 △3七金
 中村玉は中段まで押し返された。
 羽生、2一の香車も取って、2九香。

図21
▲1八銀 △4九角 ▲2八銀 △同金 ▲同香 △2六銀打 ▲4八金 △3六玉
▲4九金 △1九桂成 ▲2七銀
 中村はまだ頑張るが、どうやら勝負のゆくえは決着した。
 後手の持駒が「飛飛角角」というのが、ちょっとめずらしい。

投了図
まで203手で先手羽生善治の勝ち



 結局、王座戦5番勝負は3-2(羽生さんからみて●○●○○)で羽生王座が防衛しました。
 この第2局と、それから第4局は、中村さんに勝ちのある将棋でした。そのどちらかを勝っていれば…。

 しかし観戦者にとっては、とても見ごたえのある五番勝負でした。
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5月、東京タワーに近づいて横を通る

2014年07月11日 | はなし
 5月の初旬のある日、東京の神田にちょっと用事があって、その用事が思わず早く終わって時間が余ったので、「そうだ、愛宕山へ行こう!」と思いました。
 それならせっかくなので「東京タワー」の横を歩こうと思い、地下鉄に乗って、日比谷線の神谷町駅で降りました。

 この写真は、その神谷町駅を出たところの歩道陸橋の上から取りました。


 ところで、「神谷町」は駅名としては残っていますが、町名としてはもう「神谷町」という町は正式な住所としては今はないようです。
 この辺りは、「愛宕」、「虎ノ門」、「麻布台」、「芝公園」の町名が残っています。「愛宕(あたご)」という町も、消えてなくなりかけていたのを、住民が必死で抵抗して、なんとか残されたようです。
 僕の生まれた故郷も、「町」としてはなくなり、今は「市」に吸収されています。過疎化が進んだ結果、「市」になるとは、妙な感じです。
 冬にでこぼこの田んぼで野球をやって、その途中でSLが通るとみんなで手を振って、運転手が手を振り返してくれてよろこんだ子供時代が、ほんと、“夢のような記憶”です。



 「飯倉」と名のついた交差点を左に曲がって、この道をまっすぐ進むと「東京タワー」にたどり着く。少し坂道になっている。


 今回、この周辺の地図を確認していて“新発見”したことで、「麻布狸穴町」という町の存在がある。これは「あざぶまみあなちょう」と読みます。
 知っていましたか、みなさん。こんな町名が今も東京の真ん中にあるんですよ!
 この町は、「麻布台」、「麻布永坂町」、「東麻布」に囲まれて、しっかり残っている。きっとこの町名に愛着のある住民が何人かいて、どうしても、どうしても、「狸穴町」という町名を残したかったのでしょうね。
 「まみあな」で漢字変換すると、ちゃんと「狸穴」ってなるじゃないの。なんかすげえ~。



 「東京タワー」に到着。
 撮影時はまったく思わなかったけど、この写真でみると、背景がみょうに芸術的だよね。絵の具で描いたみたいに。



 5月はバラの咲く季節。
 「東京タワー」の道路側はこんなふうに「バラの生垣」が続いていて、たいへん美しかった。みなさん、「5月の東京タワー」はお薦めですよ。このバラの生垣がずっと続いています。



 この電波塔は、「紅葉山」と呼ばれていた丘陵地に建てられた。
 高さは333メートルと知られているが、海抜でいえば351メートルなのだそうだ。



 「55th」って、何が?
 つまり「東京タワー」生誕55周年ということです。正式名称は「日本電波塔」。1958年(昭和33年)12月23日に完工式。翌日より一般オープン。

 ビアガーデンがありました。5月の天気の良い日の昼間のビールはとてもおいしそうですね。
 僕はビールも日本酒もウイスキーも味は大好きなのですが、どうも体質がアルコールと合わないらしく、少しでも飲むと1週間くらい体調がわるくなることがわかってきたので、最近は一切飲まないと決めています。
 だからコーヒーなのですが、居酒屋などで宴会すると、メニューにコーヒーがないので、それが不満です。
 まあ最近は、誘われることもなくなりました。
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アカシヤ書店とコバケン四間飛車

2014年07月03日 | しょうぎ
 ズラッと並んだ将棋の本。これは神田の「アカシヤ書店」の本棚。許可をもらって撮影した。
 「アカシヤ書店」は、囲碁と将棋の古本の専門店である。


 御茶ノ水駅東口を出て左に行き、しばらく歩くと「神田古本街」に出る。日本一の規模の古本屋街である。
 
 そこに「アカシヤ書店」がある。




 僕はここを訪れるのは2度目で、前回訪れたのはずいぶん前だ。今は時々ネット注文でこの店で本を買っている。

 今回訪れて、初めて「アカシヤ」であることに気が付いた。僕はずっと「アカシア書店」と思い込んでいたのだ。「アカシア」といえば、はちみつが取れるアカシアの木だが、その「アカシアの木」と囲碁将棋と何かつながりがあるのだろうか、などとここへ行く道中に考えていて、到着してその店の名前を見て、「あっ、アカシヤだった!」と気づいたわけだ。 「アカシヤ」は、“明石屋”だろうか。



 これを買った。
 小林健二著『鍛錬千日・勝負一瞬』。 この言葉は、高校野球で有名だった池田高校野球部監督の蔦文也さんの色紙に書かれた文章を小林さんが見て、そこから拝借したものだそうだ。

 小林健二(こばやしけんじ)、1957年生まれ、香川県高松市出身、板谷進門下。


 小林健二さんは、「矢倉」が得意な“オールラウンダー”だった。
 その小林さんがある日、決心した。

 振り飛車党になろう、と。 1990年、すなわち平成2年のことである。



 当時、小林さんが所属する順位戦のクラスは「B1」だった。このクラスには13人の棋士がいて、総当たりで闘い、上位2名がA級に昇級するしくみである。ただしこの1990年度は二上達也が引退したので、参加棋士12名だった。

 小林健二はここから「四間飛車」一本で闘い始める。
 大山康晴と森安秀光の勝局の棋譜をくり返し並べ、「四間飛車で勝つ」イメージを刷り込んだ。練習将棋をたくさん指した。弟弟子の杉本昌隆(当時は奨励会)が振り飛車党だったのでともに研究した。


 小林さんは「四間飛車」でB1順位戦を勝ち続けた。その1990年の順位戦は12月までの成績は7勝1敗。
 年が明けて1月。小林さんはトップの成績で、次の9回戦で勝てばA級への昇級が決定するという状況だった。 その9回戦の相手は、小野修一だった。

小林健二-小野修一 1991年1月
 小林健二の“居飛車穴熊対策”は、このように“5六銀”と早めに出るのが特徴。
 (あとで紹介するが、杉本昌隆の場合は、“7八銀”型で6五歩と角道を開ける戦い方をしていた。)
 5六銀と出て、居飛車側が4四歩とすれば、4五の地点が争点となる。
 先手の小林さんが4七金左と上がっていないのも意味があって、これは、飛車を6九→4九と動かして、4筋からの攻めを狙っている。実戦もその構想通りに進んだ。


 小野修一の3二飛(△3五歩からの歩交換を狙った)がどうもよくなかった。小林ペースとなる。
 ここから、4四歩、7五飛、8二歩、9六歩、9四歩、4八金左、6二角、6三歩、7三角、9七桂、と進んだ。


 シロウトがみても、これは振り飛車好調とはっきりわかる。
 7四歩、同飛、9五歩、7五飛、7四歩、8五飛、9六歩、8二飛成、同角、8三飛、7三角、8一飛成、9七歩成、1五歩。


 以下、先手勝ち。

 こうして、小林健二八段はA級に復帰した。当時32歳。
 あまりに見事な勝ちっぷりなので、「四間飛車の達人」などと呼ばれたりした。

 ちなみに、小林さんは息子に「一二三」と名付けている。これはもちろん加藤一二三の名前を意識して付けたものだが、小林さんの棋士番号が123ということもある。


 小林健二が一念発起して「四間飛車党」になったのは、「居飛車穴熊」を退治する、というのが目的であった。この「居飛車穴熊」がますます幅を利かせてくることになると、将棋全体が面白くなくなるのではないかと、小林さんは危機感を持ったのだ。
 それなら自分が「四間飛車党」になって、「居飛車穴熊」をやっつけてやろう、と。 男だぜ、小林。


 さて、そのように小林さんは著書に書いているのですが、当時、それほど「居飛車穴熊」が流行っていたでしょうか。
 どうも僕にはそのようには思えなかったので、ちょっと調べてみました。調べてみると、やはりそれほど「居飛車穴熊」が多いわけでもないんですよね。1980年代の、振り飛車に対しての「居飛車穴熊」率はざっと見たところ、多めに見ても2割というところです。“穴熊率”は現在よりもずっと少ない。

 ただ、80年代の特徴を言えば、“若手”に振り飛車党がほとんどいなかったということがあります。
 80年代の“若手棋士”といえば、筆頭が谷川浩司で、それに続く棋士がいわゆる「花の55年組」です。高橋道雄、島朗、中村修、南芳一、塚田泰明…、こうした才能のある“若手”の中に、一人も振り飛車党がいないのです。
 それはつまり、これらの80年代の若手は、皮膚感覚で「振り飛車には未来がない」と感じていたのかもしれません。
 振り飛車をよく採用していた“オールラウンダー”の棋士たちもその振り飛車採用率が下がってきていました。中原誠、米長邦雄も、もともとは“オールラウンダー”で、振り飛車も指していたのですが…。
 「振り飛車穴熊」でタイトルを獲った福崎文吾も、居飛車中心となっていきました。

 このように、才能のある若手振り飛車党が、80年代には一人も現れなかった、という事実があるのです。
 ですので、80年代は、振り飛車の棋譜そのものが、それ以前と較べるとずっと少ないのです。それは確かに、「居飛車穴熊への怖れ」というものが根底に横たわっていたかもしれません。
 まだ大山康晴十五世名人がA級で頑張っていたのですが…、トップ棋士の対局から「振り飛車」が消えかけていたのです。

 だから、もしも藤井猛、杉本昌隆、久保利明のような才能があと5年早くプロ棋界に出現していたならば、小林健二さんも振り飛車党に転身することもなかったのかもしれません。

 そんなことを僕は思いました。


有森浩三-杉本昌隆 1988年
 杉本昌隆のまだ奨励会三段時代の新人王戦の棋譜から。
 杉本流の“居飛車穴熊対策”は、この図のように、3二銀型で4五歩と角道を開ける。居飛車がそのままなら「角交換」をする。6六歩と居飛車が角交換を避けて来れば、その場合は2通りある。1つは左銀を4三→4四とする指し方。もう1つの指し方は――


 このように4四飛と浮いて、“立石流”のように戦う。ここから杉本は3四飛型に。
 ただし、これは1988年なので、アマ界でもプロ界でもまだ「立石流」は出現していない。つまりこの指し方は「立石流」出現以前からあったのです。
 ではこれは杉本昌隆の考案だろうか。 いや、それは違います。


大内延介-山口千嶺 1985年
 四間飛車を得意戦法としていた山口千嶺さんが、以前からこの指し方をしていました。杉本は、おそらくはこの山口さんの棋譜から学んで、それを採用したのでしょう。
 山口千嶺(やまぐちちみね)、1937年生まれ、茨城県水戸市出身、飯塚勘一郎門下。
 それにしても、振り飛車党の大内延介さんの居飛車穴熊というのも、なんか不思議な感じですね。
 

 杉本昌隆(すぎもとまさたか)、1968年生まれ、名古屋市出身、板谷進門下。

 杉本昌隆のプロ四段デビューは1990年10月で、21歳の時。(つまり上の対局は杉本が三段の時のもの)

 その半年後の1991年4月に、藤井猛がプロ棋士デビュー。20歳。
 さらに2年後の1993年4月、久保利明が17歳でプロデビューしています。

 彼ら“若い才能”の登場によって、「振り飛車党」もにぎやかになりました。


平藤眞吾-杉本昌隆 1991年
 杉本昌隆は1991年に、すでにこのような将棋を指しています。「藤井システム風」の戦い方ですね。


小林健二-平藤眞吾 1992年
 これは杉本の兄弟子(師匠は板谷進)の小林健二の将棋。
 4八玉のままで、1七桂と右桂を跳ねていく――。 
 これまた、後の「藤井システム」につながっていくアイデアです。
 小林勝ち。


小林健二-浦野真彦 1993年
 小林さんは、さらに新しいアイデアを提供します。この将棋に見られるように、美濃囲いを崩して“3七銀”という指し方も小林さんは実行しています。


 この将棋はこのような陣形に。“下段飛車”というのが、小林流の特徴ですね。
 ここから激しく攻め合って、小林さんが勝ちました。


小林健二-淡路仁茂 1993年
 まだまだあるぞ、小林流。
 やはり“下段飛車”にして、6二玉型のまま、8五歩と仕掛ける。飛車を8一に展開するために、玉は6二のままがよい。
 ただし、この将棋は、小林負け。
 実はこの年(1993年)、小林健二さんは絶不調となり、A級も陥落してしまいます。
 こんな風に面白い指し方をしているのに、それがあまり注目されていないのは、結果が出ていなかったからだと思います。また、小林さんとしても、なぜか勝てなくなって、だからいろいろ試してみた、ということもあっただろうと思います。


 
 
 ところで、この当時は、「居飛車穴熊」以上に、「居飛車左美濃」が、「四間飛車」の強敵として立ちはだっていました。この2つと、さらに「急戦」という手段も居飛車側にはあり、そのすべてに対策をもっていないと四間飛車は指しこなせない、という大変さがありました。 けっして、“敵は居飛車穴熊”という単純なものではなかったのです。
 「藤井システム」というのは、その居飛車側の全ての戦術に対応する指し方をきわめていって、その一つの結果として形が整っていったものです。

 この当時、先手の「居飛車四枚左美濃」で、“こうやって組んでこう仕掛ければ必勝”というような指し方が生まれつつありました。いわば「左美濃必勝システム」です。
 それをバーンとひっくり返して“振り飛車指せる”としたのが、藤井猛の考案した「対左美濃藤井システム」です。これが完成したのが1995年1月。 これによって四間飛車は、一つのヤマを越えたのです。「左美濃」を怖れる必要がなくなった。
 この時期から、「居飛車対四間飛車」の戦いの注目点は、“居飛車穴熊との闘い”に移って行きました。「居飛車穴熊」というのは、居飛車側にとっては、いわば“奥の手”です。居飛車側がその“奥の手”をもったいぶることなしに出して、振り飛車党が知恵と気力を振り絞って全力で立ち向かう、というガチンコ対決の構図です。


久保利明-高橋道雄 1995年10月
 いわゆる「対居飛車穴熊居玉藤井システム」が登場するのは、1995年12月です。
 この久保-高橋戦は、それよりも2か月前の将棋です。
 「居飛車穴熊」に対し、このように、角道を通し、4八玉型のままで攻めていく、ということを久保利明が、藤井猛よりも前に指しています。そして、この“4八玉型のままで攻めていく”は、もっと前に小林健二が指していたことはすでに上で触れた通り。
 久保さんが「藤井システム」を指していたときに、久保は何か藤井のマネばかりをしていると批評するようなそんな意見も聞きましたが、それはまったくの見当違いな意見だったとこれでわかります。「藤井システム」の技術の要素は、たくさんの人々のアイデアの結晶であり、藤井猛が一人でつくったように勘違いしてはいけません。
 久保さんはこの高橋戦の前(長沼洋戦)でも、この4八玉型での仕掛けを実行しています。
 念のためくり返しておきますが、これは(対居飛車穴熊の)「藤井システム」誕生前の将棋です。


佐藤康光-羽生善治 1995年11月 竜王戦3
 上の久保-高橋戦から1カ月後、羽生善治と佐藤康光との「竜王戦」の番勝負で現れたのがこの図の「9三桂」。
 藤井猛は、この羽生さんの指した「9三桂」を見て、藤井システムのヒントを得たと言っています。
 しかし、上で述べた通り、この桂跳ねも、部分的には、小林健二がすでに指していますね。
 “オールラウンダー”である羽生さんは、この頃は6、7局に1局くらいの割合で振り飛車を指していました。


藤井猛-井上慶太 1995年12月
 ついに現れた藤井猛の「居玉型藤井システム」。
 藤井猛は、相手の井上が、「居飛車穴熊」でくると“決め打ち”して、それで「居玉」のまま戦うことになった。これがびっくりするほどうまくいったので、あらためて真面目に「居玉」を評価することになったのです。藤井さんは、この対局までは、対居飛車穴熊に対してはオーソドックスな対応が多かった。銀冠美濃に組んで仕掛けを待つような。
 ちなみに、この対局はB2順位戦の対局で、井上慶太は藤井猛に敗れたが、その他の対戦は全て勝ってB1へ昇級している。井上は翌年も順位戦を昇級し、ついにA級棋士に。

 藤井猛が谷川浩司を撃破して「竜王」になるのは、1998年のこと。


 以上、見てきたように、「居飛車穴熊」に対し、角道を開けて、4五歩(後手なら6五歩)と攻めていく筋を「藤井システム」と呼んで、それを藤井猛が全て開発したように思っている人はけっこう多いと思いますが、それは間違いです。たしかに、この攻め方に「居玉」という要素を付け加えたのは藤井さんです。しかしその藤井猛よりも前に、小林健二、杉本昌隆、久保利明、羽生善治がこの攻め方を開発したということを、押さえておきたいと思い、この記事を書きました。さらに、今回は触れていませんが、80年代には、森安秀光がこういう攻め筋を見せています。
 むしろ遅れてこの分野に参入した藤井猛が、今ではこれらの全てをつくったように思われてしまいがちなのは、藤井さんが四間飛車で「竜王」を獲ったからでしょう。そうしてみると、やはり、「プロは勝つことがすべて」という気がしますね。



 「藤井システム」は、四間飛車の序盤の駒組みをとことん突き詰めて、磨き上げていったものと思います。
 これによって、居飛車のあらゆる戦術に対応できるようにしたのです。

 ところが、そうすると、居飛車側も、“本気になって”その「穴」を探すようになった。もともと居飛車党は人数的に多数派なので、トップ棋士らによって、よってたかって研究されると、その「穴」を探すのにそれほど時間はかからない。「小さな穴」を見つけて、それを勝ちに結びつける道を探す――。
 そう言う意味では、「藤井システム」の誕生は、結果的には、四間飛車の寿命を縮めた、と言えるかもしれない。実際、「藤井システム」登場前よりも、登場後のほうが、はっきり居飛車の穴熊採用率は高くなっていると思います。(居飛車穴熊の得意な渡辺明の影響も大きいように感じます。)
 「藤井システム」の誕生は、四間飛車と居飛車との“最終決戦”の幕開けだったということかもしれません。

 今、その“最終決戦”で敗れて、(昔ながらの角道を止める)四間飛車党はほぼ絶滅という状態になっているようです。

 四間飛車の復活はあるのでしょうか? 第二のコバケンは現れるのでしょうか?
 まったく未来はわかりませんねえ。



 まあしかし、アマの間では普通に指されていくのでしょう。「ひねり飛車」がプロでは見られなくなっても、アマではわりとよく見かけるように。
 ただ、これから将棋を学ぶ子供が、「四間飛車定跡」をまったく知らないという状況が生まれるかもしれません。「藤井システム」がブレイクした頃は「四間飛車」本がたくさん出版されましたが、いまは逆にほとんどないですからね。




 四間飛車ではありませんが、“小林流”では、こんなのもあります。『将棋世界』の付録です。
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