一昨日、ラジオから森高千里の「渡良瀬橋」が流れてきた。
おお、この歌もあったなあ…、
僕は渡良瀬川のことをブログに書きながら、「渡良瀬橋」の曲とはまったく結びつかなかった。もっとも、僕には、この歌になんの思い入れもないけれど…というか、全曲を聴いたのはこれが初めてだと思う。この歌の歌詞は、「私、この街が好き!」っていう内容の曲のようで。
ただ僕は、以前TVで、森高千里さんがこの曲を思いついたきっかけを話していたのを聞いたことがある。この歌を聴くと、まるで森高さんはこの橋のある足利市に住んでいたかのように思えてしまうが、そうではない。この渡良瀬橋にも足利にも、何のつながりもなかった彼女が、作詞に悩んでいるときに地図を開いて「渡良瀬橋」の名を知って気に入り、その後たまたま足利市の学園祭で歌ったときに、その橋の名前を聞いて「あっ、あの橋ね!」と行ってみたのだと、そういう話だったと記憶する。
渡良瀬橋は栃木県足利市にある。渡良瀬川に最初に架けられた橋が渡良瀬橋(1902年)だという。今の渡良瀬橋は鉄橋だが、当時のは木造の橋のようだ。
(これは明治35年__、ということはこのあたりが鉱毒被害で騒いでいたときには、この川には一本の橋も架かっていなかったということになる。舟で渡っていたのだ。)
僕も最近、関東の地図をよく眺めている。「川」を辿ってみたりする。いろいろと発見があっておもしろい。
(たとえば新人プロ棋士及川拓馬四段の出身地埼玉県北葛飾郡松伏町は江戸川の辺にあることとか。また、荒川と多摩川の水源は、とても近いこととか。)
…深きところ狭きところに長々隠れておりました鯰(なまず)や、鱒(ます)、鰻(うなぎ)などが、今までの一夜の中に堰(せき)さしますとどことなく一面水に相成りますものでございますから、いずれも喜んで喜んで、午後六時四五十分頃より、沼や池、川筋に一面泳ぎ歩きました。これを取りまするには、枯竹を割り、これを天日によく干しまして、さいとうと申しまするたい松を造り、水を照らし、やすをもって突きまして取ったものでござりますが、鉱毒以来取れません。
もっともこの辺は年々洪水のたびごと、深山より朽葉または木あくなどが多く流れ来り、八九寸位土が置きますると、非常に肥料になりましたゆえ、大麦小麦など作りましても、出来すぎて、とても…(不明)…が起きてはいませぬから、菜種や、辛子、また晩菜と申す菜を多く作りました。菜種は丈が六尺位もありました。また辛子は八尺から九尺にも昇りました。その節に至りますと、田も畑も一面黄色な花になりまして、何となくゆかしうござりました。諺(ことわざ)に菜の花に蝶といふ事がござりますが、これ等の花に種々の蝶が飛びちがひましたものでござりますが、ただ今では鉱毒被害の為め、蝶も、菜の花も、至って少ししかござりません。 …
(渡良瀬川の詩 庭田源八)
これは、木下尚江が渡良瀬川を歩いて取材したある古老の語り。これは、そのほんの一部で元はもっともっと長い。魚たちが夕刻になると「喜んで喜んで」といういうのがいい。そうそう、川の魚って、夕方になると、跳ねるんですよね!
これを読むと、渡良瀬川がどれほど深く美しく豊かだったか、そして、「洪水」さえもまた、栄養を含んだ土をもたらす「神の恵み」だったことがわかる。
ところで、書店で、「石井桃子コーナー」を見かけたので、あれっと思ったのですが、ああ、やはり石井桃子さん亡くなられていたんですね。101歳! すごいですね~、101歳! これだけ長生きすると、悲しいというより、なんか、ピカピカほのぼのしたものを感じます。(長生きって素晴らしい!) 僕は「くまのプーさん」をしっかり最後まで読んでいないので、これを機会に読んでみようかと思いました。
石井さん、あの世で雲のおじいさんに会ったでしょうか。スワンダイブ、してみたでしょうか。
おお、この歌もあったなあ…、
僕は渡良瀬川のことをブログに書きながら、「渡良瀬橋」の曲とはまったく結びつかなかった。もっとも、僕には、この歌になんの思い入れもないけれど…というか、全曲を聴いたのはこれが初めてだと思う。この歌の歌詞は、「私、この街が好き!」っていう内容の曲のようで。
ただ僕は、以前TVで、森高千里さんがこの曲を思いついたきっかけを話していたのを聞いたことがある。この歌を聴くと、まるで森高さんはこの橋のある足利市に住んでいたかのように思えてしまうが、そうではない。この渡良瀬橋にも足利にも、何のつながりもなかった彼女が、作詞に悩んでいるときに地図を開いて「渡良瀬橋」の名を知って気に入り、その後たまたま足利市の学園祭で歌ったときに、その橋の名前を聞いて「あっ、あの橋ね!」と行ってみたのだと、そういう話だったと記憶する。
渡良瀬橋は栃木県足利市にある。渡良瀬川に最初に架けられた橋が渡良瀬橋(1902年)だという。今の渡良瀬橋は鉄橋だが、当時のは木造の橋のようだ。
(これは明治35年__、ということはこのあたりが鉱毒被害で騒いでいたときには、この川には一本の橋も架かっていなかったということになる。舟で渡っていたのだ。)
僕も最近、関東の地図をよく眺めている。「川」を辿ってみたりする。いろいろと発見があっておもしろい。
(たとえば新人プロ棋士及川拓馬四段の出身地埼玉県北葛飾郡松伏町は江戸川の辺にあることとか。また、荒川と多摩川の水源は、とても近いこととか。)
…深きところ狭きところに長々隠れておりました鯰(なまず)や、鱒(ます)、鰻(うなぎ)などが、今までの一夜の中に堰(せき)さしますとどことなく一面水に相成りますものでございますから、いずれも喜んで喜んで、午後六時四五十分頃より、沼や池、川筋に一面泳ぎ歩きました。これを取りまするには、枯竹を割り、これを天日によく干しまして、さいとうと申しまするたい松を造り、水を照らし、やすをもって突きまして取ったものでござりますが、鉱毒以来取れません。
もっともこの辺は年々洪水のたびごと、深山より朽葉または木あくなどが多く流れ来り、八九寸位土が置きますると、非常に肥料になりましたゆえ、大麦小麦など作りましても、出来すぎて、とても…(不明)…が起きてはいませぬから、菜種や、辛子、また晩菜と申す菜を多く作りました。菜種は丈が六尺位もありました。また辛子は八尺から九尺にも昇りました。その節に至りますと、田も畑も一面黄色な花になりまして、何となくゆかしうござりました。諺(ことわざ)に菜の花に蝶といふ事がござりますが、これ等の花に種々の蝶が飛びちがひましたものでござりますが、ただ今では鉱毒被害の為め、蝶も、菜の花も、至って少ししかござりません。 …
(渡良瀬川の詩 庭田源八)
これは、木下尚江が渡良瀬川を歩いて取材したある古老の語り。これは、そのほんの一部で元はもっともっと長い。魚たちが夕刻になると「喜んで喜んで」といういうのがいい。そうそう、川の魚って、夕方になると、跳ねるんですよね!
これを読むと、渡良瀬川がどれほど深く美しく豊かだったか、そして、「洪水」さえもまた、栄養を含んだ土をもたらす「神の恵み」だったことがわかる。
ところで、書店で、「石井桃子コーナー」を見かけたので、あれっと思ったのですが、ああ、やはり石井桃子さん亡くなられていたんですね。101歳! すごいですね~、101歳! これだけ長生きすると、悲しいというより、なんか、ピカピカほのぼのしたものを感じます。(長生きって素晴らしい!) 僕は「くまのプーさん」をしっかり最後まで読んでいないので、これを機会に読んでみようかと思いました。
石井さん、あの世で雲のおじいさんに会ったでしょうか。スワンダイブ、してみたでしょうか。