はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

わたらせの詩

2008年04月30日 | はなし
 一昨日、ラジオから森高千里の「渡良瀬橋」が流れてきた。
 おお、この歌もあったなあ…、
 僕は渡良瀬川のことをブログに書きながら、「渡良瀬橋」の曲とはまったく結びつかなかった。もっとも、僕には、この歌になんの思い入れもないけれど…というか、全曲を聴いたのはこれが初めてだと思う。この歌の歌詞は、「私、この街が好き!」っていう内容の曲のようで。
 ただ僕は、以前TVで、森高千里さんがこの曲を思いついたきっかけを話していたのを聞いたことがある。この歌を聴くと、まるで森高さんはこの橋のある足利市に住んでいたかのように思えてしまうが、そうではない。この渡良瀬橋にも足利にも、何のつながりもなかった彼女が、作詞に悩んでいるときに地図を開いて「渡良瀬橋」の名を知って気に入り、その後たまたま足利市の学園祭で歌ったときに、その橋の名前を聞いて「あっ、あの橋ね!」と行ってみたのだと、そういう話だったと記憶する。

 渡良瀬橋は栃木県足利市にある。渡良瀬川に最初に架けられた橋が渡良瀬橋(1902年)だという。今の渡良瀬橋は鉄橋だが、当時のは木造の橋のようだ。
 (これは明治35年__、ということはこのあたりが鉱毒被害で騒いでいたときには、この川には一本の橋も架かっていなかったということになる。舟で渡っていたのだ。)

 僕も最近、関東の地図をよく眺めている。「川」を辿ってみたりする。いろいろと発見があっておもしろい。
 (たとえば新人プロ棋士及川拓馬四段の出身地埼玉県北葛飾郡松伏町は江戸川の辺にあることとか。また、荒川と多摩川の水源は、とても近いこととか。)


 …深きところ狭きところに長々隠れておりました鯰(なまず)や、鱒(ます)、鰻(うなぎ)などが、今までの一夜の中に堰(せき)さしますとどことなく一面水に相成りますものでございますから、いずれも喜んで喜んで、午後六時四五十分頃より、沼や池、川筋に一面泳ぎ歩きました。これを取りまするには、枯竹を割り、これを天日によく干しまして、さいとうと申しまするたい松を造り、水を照らし、やすをもって突きまして取ったものでござりますが、鉱毒以来取れません。
 もっともこの辺は年々洪水のたびごと、深山より朽葉または木あくなどが多く流れ来り、八九寸位土が置きますると、非常に肥料になりましたゆえ、大麦小麦など作りましても、出来すぎて、とても…(不明)…が起きてはいませぬから、菜種や、辛子、また晩菜と申す菜を多く作りました。菜種は丈が六尺位もありました。また辛子は八尺から九尺にも昇りました。その節に至りますと、田も畑も一面黄色な花になりまして、何となくゆかしうござりました。諺(ことわざ)に菜の花に蝶といふ事がござりますが、これ等の花に種々の蝶が飛びちがひましたものでござりますが、ただ今では鉱毒被害の為め、蝶も、菜の花も、至って少ししかござりません。 … 
     (渡良瀬川の詩 庭田源八)


 これは、木下尚江が渡良瀬川を歩いて取材したある古老の語り。これは、そのほんの一部で元はもっともっと長い。魚たちが夕刻になると「喜んで喜んで」といういうのがいい。そうそう、川の魚って、夕方になると、跳ねるんですよね!
 これを読むと、渡良瀬川がどれほど深く美しく豊かだったか、そして、「洪水」さえもまた、栄養を含んだ土をもたらす「神の恵み」だったことがわかる。



 ところで、書店で、「石井桃子コーナー」を見かけたので、あれっと思ったのですが、ああ、やはり石井桃子さん亡くなられていたんですね。101歳! すごいですね~、101歳! これだけ長生きすると、悲しいというより、なんか、ピカピカほのぼのしたものを感じます。(長生きって素晴らしい!) 僕は「くまのプーさん」をしっかり最後まで読んでいないので、これを機会に読んでみようかと思いました。
 石井さん、あの世で雲のおじいさんに会ったでしょうか。スワンダイブ、してみたでしょうか。
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ある日曜日の朝のこと

2008年04月28日 | はなし
 何回かに分けて、「彼女」に起こったことを話そうと思う。 「彼女」とは、僕の母のことだ。


 僕が15歳か、15歳になる少し前のことだったと思う。
 その日、日曜日の朝、父と母は喧嘩した。この夫婦は1年のうち、1、2回喧嘩をする。たいていは、父の中に溜まっていた小さな不満が、母の言葉をキッカケにして、爆発する。(母への暴力はないが、モノを投げたり壊すのはある。) 怒りを爆発させた後、父は布団の中にカメのように退却する。(2、3日で通常に戻る。)
 「あーあ…」
 よりによって日曜日に喧嘩しなくても…、と、その日僕はがっかりした。土曜日の午後と、日曜日の午前中というのは自分の自由に過ごせる素晴らしい時間なのに、父と母が喧嘩するとその素晴らしきハッピータイムが台無しになってしまう。うちの場合、父と母の寝室が「居間」でもあったので、TVもそこに置いてあるし、そこに機嫌をそこねた父がカメ状態になっている…そんなところでくつろげるわけもない。

 僕は自分の部屋に引っ込み、「あーあ」と思いながら、マンガを読む。

 母は外に出て、草むしりを始めた。父と母の世代の人間は、1日中身体を動かしている。子どもの時から、それが当たり前になっていて、動かすのをやめると調子がわるくなるのではないかと思う。喧嘩をしていなければ父も日曜大工とかに精を出していたはずだ。
 母はすすり泣きをしているようだ。

 2時間が経った。午前11時。そろそろお腹がすいた。
 「あれ…?」 母がまだすすり泣いている。なんかへんだなあ…。そんなにずっと泣くものだろうか? いや、あれはすすり泣いているのとは違うのか?

 昼御飯になった。もう、母は泣いてはいなかった。


 だが、その日から時々、母は家事の作業中に、そういう声を発するようになった。「ヘッ」というような小さな声を出して、息を切るのだ。僕はそれが、気になっていた。あの日より前は、そんなクセはなかったが。


 ずっとずっとずーっと後になって振り返ってみれば、それが母の病気の、僕が気づいた最初の兆候だった。だけれど、それは、後から振り返ってやっとわかることで、他になんの問題も(その時点では)なかったのだ。
 やがて歩けなくなって、しゃべれなくなって、食べることが難しくなるなんて、そんなことになるなんて、その現実は、少年の僕の想像を、はるかに超えていたのだ。
 まったく、世の中は、凄すぎる。
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足尾の山々

2008年04月27日 | はなし
 「銅」は古くから採掘されていた。
 (以前書いた「クレタ島」の記事にトラックバックを頂きました。おもしろいタイミングです。というのも、世界最古の「銅の鉱床」はクレタ島にあったそうですから。5000年前だとか。)

 足尾では、江戸時代から。
 全国でとれた銅は長崎に集められ輸出されていた。「ジャパンの銅は質がいい」と世界で評判が良かったそうだ。江戸時代、日本の銅の生産量はなんと、世界第1位だったのである。儲けはもちろん、すべて徳川幕府のものだ。
 しかし幕末の頃には、足尾の銅山は廃坑となっていた。その山を、明治時代になって古河市兵衛が安い値段で買い、銅山を復活させた。まだ銅は採れた。が、はじめは細々としたものだった。その生産量が飛躍的に伸びたのは1884年(明治17年)、大鉱脈の坑道が開通してからである。

 銅の精錬を行うのに、火力がいる。その燃料としてとして使われたのが、足尾の山々の森林である。古河鉱業は政府から安く買った広大な地の木々を伐採して燃料に使った。山の木々をむしりとったために、渡良瀬川の保水力が弱まり、洪水がふえた。利根川は関東平野の真ん中を流れているのでもともと洪水の多い川であったのに対し、渡良瀬川は、足尾の山々がスポンジのようにその雨水を吸収してくれていたのだが…。
 銅の鉱石に硫黄が含まれている。精錬によって二酸化硫黄が含まれる煙が空を覆った。風にのったその毒の煙は、山の木々を枯らした。松木村は養蚕の盛んな村であったが、木がすべて枯れてしまい、人の住めない土地となり、廃村に追い込まれた。

 渡良瀬川には「鉱毒」が流れはじめた。
 流れはじめたのは明治12年からである。栃木県の知事(藤川為親)がこれを認め、古河にうるさく言うと、藤川知事は、島根県へと放逐された。以後、新しく栃木県の知事となった者は、この件について口にできなくなった。「国」は、古河鉱業の銅の生む「利」をとったのである。
 それによって、渡良瀬川の流域の農民・漁民は、10年の間、鉱毒のことを知らずにいたが(いや、気づいていた人は沢山いただろう)、明治23年になって、あまりにひどい被害が出て、さすがにこれは銅山のせいだと訴え始めた。渡良瀬川はたいへんに豊かな川で、魚が多かった。それでその魚を獲って暮らしている漁民も多くいた。ところが、鉱毒によって魚が白い腹をみせて浮かんでいたり、その魚を買って食べた者が病気になったりするので、漁民は暮らしが成り立たなくなった。
 洪水が起こると、鉱毒を含んだ川の水が田畑を被う。明らかに異常な色をしていて、作物は育たなくなった。それでも農民は、その毒を含んだ土をいちいち取り除いては農業を続けた。
 誰が見てもおかしい、古河鉱業から毒が流れてくる。だが、県に訴えても「原因は不明、調査中」といい、どうにもならない。被害民の訴えを聴いて、小中村(現在の佐野市)出身の政治家田中正造が議会でこの問題を最初に採り上げたのが、明治24年である。

 古河鉱業がおこなった「捨て石」の処理がすさまじい。
 「捨て石」というのは、採掘した銅鉱石のうち必要でないものであるが、多量の有毒物質が含まれている。これをどこに捨てるか、古河は悩んだ。遠くに運んで捨てるにしても費用が嵩む。それで古河は大量に出る「捨て石」を足尾の山の「谷」に捨てた。が、それもあっという間に、埋め尽くされた。
 山の木々が伐採され、また、工場の煙害で枯れたために、渡良瀬川の洪水がふえたことはすでに述べた。その洪水を古河は利用した。雨が降って洪水が起きそうな日を見計らって、毒を含んだ「捨て石」を川へ放り込んでいたのである。これを何年も古河鉱業は行ってきた。この「捨て石」は「凝集性」をもっていてそのまま積んでおくと粘着してくっついてしまう。それで、洪水が起きそうな暴風雨がくると、ダイナマイトでそのくっついた「捨て石」の巨大な塊りを吹っ飛ばして川に投機したのだった。

 「洪水と一緒に流せば、なに、判りはしない」というのが古河の考えだったのだろうか。だが「判りはしない」というような小さな被害ではなかった。
 実際には、洪水の後、そのたびに下流では大騒ぎになっていた。生まれた赤ん坊がすぐに死んでしまう。多くの村で住民の死亡率が出生率を上回っていた。全国の平均に比べ、死亡率は2.5倍。 生活も困る。そんな田で育った米が、売れるわけがない。だいいち、育たない。
 この鉱毒問題は、もはや栃木県内に納まらないものになっていた。渡良瀬川の鉱毒は利根川にそそぎ込む。利根川は関東の大河であり、もともと洪水が多い。その水が、毒なのだから__。

 国会での田中正造の強烈な訴えによって、足尾の鉱毒被害問題は、何度か世間に注目されるようになった。それでも、国は動かなかった。そのうち、注目もされなくなった。それでも鉱毒は流れつづける。
 当時の県知事は天皇に任命されるものとなっている。天皇に任命された県知事が「鉱毒被害はありません」と言っている。それを信用しないことは、天皇を信用しないことになる。そういうこともあって、国会の政治家達はうかつに動けなかったということもある。
 だとしても、では、「政治家」とよばれる人たちは、何のために存在しているのか。世の中をより良く改革するためではないのか。

 「鉱毒問題は存在しない」 それが国の判断であった。

 そういう答えをしておきながら、明治政府は、関宿(せきやど)の工事を行い、利根川から江戸川への水の流れをできるだけ少なくした。東京方面に鉱毒が流れて来てはたいへんだ、ということらしい。関宿の江戸川への水路を狭くしたために、その分だけ利根川下流域(千葉県、茨城県)の水が増え、その方面では、いっそう洪水が起きやすくなった。もちろん、鉱毒入りの水である。

   (はあー、こんなん書いてたら、頭おもくなるわ…)
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水草

2008年04月25日 | はなし
 谷中湖から渡良瀬川を上流に行きます。すると足利市(栃木県)から桐生市(群馬県)となり、みどり市(群馬県、2年前に新設)になります。そしてこの奥が足尾(ふたたび栃木県、)になります。桐生市から足尾まで「わたらせ渓谷鉄道」が渡良瀬川に沿って走っています。


 最近まで知らなかったったのですが、星野富弘さんの生まれ育った場所が、このわたらせ渓谷にあるんですね。それで富弘美術館がここにあります。草木ダムの近くです。
 星野富弘さんの画集はたいてい本屋に1冊は置いてありますね。僕も手にとってみたことが何度かあります。文字が、良いんですよ。文字が、描いた花の一部になって咲いているようで、気持ちいいんですよね。ほんとうに、どうやったらこんな可憐な字が描けるのだろう…。
 星野さんは中学の体育教師でした。とはいってもわずかに2ヶ月勤めただけ。事故(体育の模範演技の失敗)で頚椎を損傷して、首から下がまったく動かなくなってしまいました。治る見込みはなく、一生、そのままです。

 上の絵は、星野富弘詩画集『花よりも小さく』から、「水草」(アギナンという草花らしい)というタイトルのページを模写してみました。文章も、星野さんの文をそのまま写しました。星野さんを真似て、口にペンを咥えて…なんてできるはずもないのですが、左手で、描いてみました。

 星野さんの詩画を観ていると、(キリスト教というのは、たしかに、なにかを持っているようだ。どん底の人にそっと寄り添ってはげますちからのような… )なんてことを考えました。
 星野富弘さんは、初めからキリスト教信者だったわけではありません。いくつかの縁が重なってゆっくりとちかづいていったようです。そのことが著書『愛、深き淵より』に書かれていました。紹介してみましょう。


 星野さんがそういう状態になって、大学の二つ先輩の米谷さんが見舞いに来てくれた。米谷さんは、大学時代、星野さんがキャベツしか食べるものがないときに、即席ラーメンを半分食べさせてくれたいい先輩なのだ。その先輩としゃべっているときに、星野さんはなぜかつい、「ああ、冷やし中華が食いてえ」と言ったそうだ。まだ肌寒い初春で(今とちがってスーパーで冷やし中華の即席めんを売っている時代ではないし)食べられるわけないのに、なぜか口走ってしまった。脊椎損傷というのは、全身の発汗機能も止まってしまっているので、熱が身体にこもってしまい、熱くてつらいことが多いのだという。
 米谷さんは帰るときに「お祈りさせてください」と星野さんに言った。米谷さんは、キリスト教信者なのだった。星野さんは本心はいやだったけれど、断れず黙っていると、米谷さんは病室でお祈りを始めた。宗教心はとくにない星野さんは、周囲に他の患者さんがいるし恥ずかしくなって、「米谷さん、悪いけどもう少し声を小さくしてください」と言った。
 米谷さんは帰っていった。 
 1時間ほどして、(米谷さんもキリストの名さえ出さなければいい人なんだがなあ…)などと星野さんが考えていたところに、米谷さんはまたやって来た。手には風呂敷包みを持っていた。その包みを開けるとそこには、冷やし中華が!
 (やっぱりキリストはすげえ!)
と感心しながら、星野さんは夢中で冷やし中華を食べたという…。

 それからしばらくして、米谷さんから『聖書』が贈られてきた。
 しかし星野さんは、その本をずっと開かないまま、ベッドの下に押し込んでいた。それを人に見られるのがいやだったという。自分の弱みをさらけだすようで…。

 またあるとき、星野さんは親しくなった女性に借りて読んだ三浦綾子のいくつかの小説にふかく感動する。とくに『道ありき』には心ゆさぶられた。三浦綾子はキリスト教信者だという。(三浦綾子さんの著書では『氷点』が有名)
 星野さんは、母に頼み、ベッドの下に押し込んでいた『聖書』を、本箱にそっと立てかけてみた。
 中を読むことはせず、でも、『聖書』の表紙の文字を横目で見つめながら一日を過ごす日々が続いた。
 そんなふうに、ゆっくりと、星野富弘さんは、そこに(信仰に)近づいていった。



 20年ほど前、僕は「青春18切符」を二枚余らせていて、それを使うために「鉄道の旅」を実行することにしました。1枚目は、長野県松本方面から軽井沢まで行き、うどんを食べて、群馬県高崎をまわって東京へ帰りました。2枚目は茨城、栃木方面からやはり高崎へ…この時に、足尾銅山跡へ寄ったのです。
 「わたらせ渓谷鉄道」は今は私鉄になっていますが、その当時はまだJRだったのだと思います。僕が乗っていると、その日は授業が半ドンだったみたいで高校生が大勢入ってきた。男女がわいわいやっていて「こいつら、やけに仲が良くてあかるいなあ」と思ったことを覚えています。
 そのにぎやかな高校生達が大方降りて行き、列車は、終着駅に。そこが足尾銅山でした。


    ↑
 これが、その時に、駅のホームから撮った写真です。 
 見ての通り、緑がない。あるはずの、緑が。

 僕は足尾銅山のことに特に興味があったわけでもない。たまたまなんとなく行っただけだ。何も知らなかった。そこにどういう歴史があったかを、つい最近になって知りたいと思いはじめた。なぜだかはわからないが。


 追記:
  思い出した! 一昨日、「冷やし中華食いてえ!」と思い、スーパーで買ったんだった。 (まだ、食べていないけど。) 
  こ、これは…、導かれているんでしょか!?  キリストマジック…!? ええええ~!?
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ゴテ一手ゾン角カワリ~

2008年04月24日 | しょうぎ
 上は、布団の中で描いたラクガキ。
 僕は一年の内、三分の一は横になって過ごしている。眠くてしようがない。昨日も一昨日も。 ま、ま、ま、これが、オレノジンセイ、なのさ。

 足尾銅山のことについて書くとかいたが、それは後回しにして(それを期待している人もいないだろうしなあ)、昨日の将棋名人戦の事などを。


 森内-羽生の今期名人戦第2局は、羽生さんが勝ちましたね。今期の羽生さんは「攻めるゼ!」という感じです。

 対局の場所は大阪市堺市でした。ここは坂田三吉の生誕の地。明治3年、生まれた当時は舳松(へのまつ)村といい、今は協和町だそうです。
 昨日の対局は、立会人が谷川浩司(17世名人の権利をもつ)、そして久保利明が副立会人でしたが、この二人、坂田三吉の「ひ孫弟子」なんですね~。


 さて、この対局の戦型は「(後手)一手損角換り」となりました。

 数年前からタイトル戦にもよく現われるようになったこの戦法、じつは「どシロオト戦法」としてプロでは指されることのなかった戦法です。おそらく、シロオトの間では400年前から指す人がいたでしょう。しかし、プロは使わなかった。なぜか。「そんなの、いいわけないじゃん」と思っていたからである。
 この「一手損角換り」についてかんたんに解説してみる。
 将棋には「先手」と「後手」がある。先に指す「先手」のほうがやはり少しだけ(ほんのわずかだけれど)指しやすい。「後手」は一手遅れているので、先手と同じように進めた時に、先手優勢となるカタチがある。後手はそれを避けなければならず、だから作戦の幅が後手の方が狭くなる。
 で、「一手損角換り」というのは、その一手遅れている「後手」が、さらにもう一手損をする、つまり先手が指した瞬間には「二手」ほど遅れているというカタチなのだ。「そんなの、理論的に、いいわけない」はずで、だから、ずっと「どシロオト」戦法だったわけ。プロの将棋というのは、考える時間がたっぷりあるので、小さな有利を拡大して「勝ち」に持っていく、そういう将棋になりやすい。アマチュアと違ってそれでメシを食っているのだから、序盤そうそうあえて「損」をするなんてありえないわけだ。
 そのありえないと思われていた戦法が、「ん? よく考えたら利点もあるぞ」と、5年くらい前から流行り始めたというのだから、面白い。(でも、流行ってはいても実際はこの戦法、後手の勝率、良くないそうです。)

 で、この戦法をプロ棋士として歴史上一番初めに指した棋士はだれか?
 坂田三吉なのです! (←おそらく、ですが。今日の記事はこれを言いたかったのです)
 90年前に!


 時は1917年(大正6年)10月16日。
 坂田三吉・土居市太郎戦。 東京有楽町。
 この一戦で、後手番の坂田は「一手損角換り」を用いたのです。この対局は余興ではありません。坂田にとって、重要な、勝負将棋でした。ジンセイを左右するほどの。

 大正のこの時期、おそらくは坂田三吉の実力は、関根金次郎を上回っていたと思われます。関根金次郎よりも坂田は2歳年下ですが、その坂田ももう48歳です。ですが、坂田三吉のおそるべきところは、この年齢にしてまだ、強くなろうとする意志が見られるところでした。どうも坂田という男、常人とちがう。その異様な「馬力」が関根金次郎を圧倒していたのです。大阪には敵はいない。関根とも対等以上。名人になるためには、坂田三吉は、「自分が一番強い」という証明をきっちりしておく必要がありました。
 実はこの時期、一番強かったのは、あるいは東京の、若い30代の土居市太郎ではなかったかと思われます。ですから、坂田が名人になるには、この土居に勝っておく必要があったのです。坂田は土居に対局を申し入れました。
 土居は「平手なら」と、その対局を承知しました。(段位は坂田が八段、土居が七段だった) 土居市太郎は、関根金次郎の弟子でした。(出身は愛媛県) 将来、師の関根金次郎が名人になることに、坂田が異を唱えることのできぬよう、土居はこの勝負に勝つことが求められていました。土居にとってもプレッシャーのかかる勝負です。

 先手土居市太郎、後手坂田三吉。そして、坂田、後手番ながら、あえて一手損をして角を換えたのです。そう、「一手損角換り」!! この重要な勝負に、わざと一手遅れるという…!!  坂田将棋のふところの深さを表すところです。
 その将棋は、相腰掛銀となりました。先手土居市太郎がガンガン攻めます。後手坂田三吉が受けます。そしてどうやら、坂田の受けがまさりました。
 坂田、△2五角。 (←でました! 坂田得意の、角打ち!)
 「どうやっても勝ちが見つからない」と、土居は観念しつつ、さらに攻めました。坂田も「一手勝ち」を意識して攻めを返しました。ところが、その優勢な坂田の読みに、「抜け」があったのです。
 土居▲4一飛。
 「これで勝ちや」と思っていた坂田は、愕然としました。勝ちと思っていた局面が、負けになっていたのです。

 土居市太郎が勝ちました。
 もしこの対局で坂田三吉が勝っていたら、坂田名人が誕生していたかもしれない、そう言われています。

 その後、小野五平12世名人が亡くなり、関根金次郎が13世名人を襲位しました。さらにそれから16年後、関根名人が名人の座を退いた後に、実力制名人戦の制度が始まりました。そうして生まれたのが木村義雄名人(この人も関根の弟子)。木村は、「木村時代」を築き、その後14世名人となりました。
 関根が名人であった16年間、一番将棋の強かったのは土居市太郎です。もし、制度が今と同じであったなら、土居も永世名人になっていたと思われます。名人を手にするには実力と、それに加えて、十分な「天運」が必要なようですね。(土居市太郎には「名誉名人」が贈られています。)
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谷中湖

2008年04月21日 | はなし
 関宿(せきやど)からもう少し利根川を上流に行ってみますと、ほんの10数キロ行ったところが、関東の4県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県の交わった場所になります。

 ここが「渡良瀬遊水地」で、渡良瀬川が利根川にそそぎこむ場所です。この「渡良瀬遊水地」は「谷中湖」ともよばれます。むかし、ここに谷中村がありました。100年前の昔です。人間の生んだ「悪」が、谷中村を水の中に沈めました。
 「谷中には神さまがいる」と田中正造翁は言いました。先月の記事で書いた、島田宗三さんの家があったのがこの村です。
 
 いま気づいたのですが、利根川は、栃木県をまったく通っていませんね。昨日の記事で「利根川は関東5県を流れる」と書いたけど、間違いでした。

 渡良瀬川は、魚のたくさん泳いでいる、豊かな豊かな川だったといいます。

 「谷中湖」から渡良瀬川を上流にさかのぼって行くと、足尾の山に入ります。そこに、有名な足尾銅山跡があります。次の記事でその事についてすこし書こうと思います。
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関宿と東宝珠花

2008年04月20日 | はなし
 この頃雨がよく降りますが、晴れると、春の空気が心地良いですね。きみどり色の新芽が眼を洗います。

 まず、映画『フーテンの寅さん』(男はつらいよ)シリーズの冒頭シーンを思い出していただきたい。、だいたい野宿して眠っていた寅さんの変な夢のシーンから始まりますね。で、夢から醒めて、あの主題歌が流れ、寅さん渥美清が歌います。映像は、のどかな土手で人々があそぶ風景へと変わります。たいへん気持ちのよい風景です。
 さて、問題です。
 あれは、何川なのでしょうか?  

 ハイ、江戸川ですね。

 江戸川は東京都と千葉県の境に流れる川です。この川を上流にさかのぼってみましょう。右手は千葉県のままですが、左手は東京都から埼玉県に変わります。さらにずっと北へのぼると、江戸川は利根川に突き当たります。利根川と東京湾とを結ぶ川が江戸川というわけ。そして突き当たった向こう(北)は、茨城県になります。
 利根川は関東の奥地、群馬県と新潟県の県境のあたりからその流れを発し、関東5県を流れて西から東へと流れ、銚子市で太平洋に出ます。関東の中心となる大河です。
 江戸時代、東北から船で銚子まで送られてきた物資は、この利根川と江戸川を通って船で江戸へと運んでいました。ですから、利根川は、そうした水路としてたくさんの船が行き来していたのです。

 で、今日語りたいのは、その利根川と江戸川をつなぐ場所のこと。「関宿」とかいて「せきやど」と読みます。千葉県西の(そして北の)端っこにあるこの関宿、そういう地理ですから、船で働く人々や、それから鹿島神社や香取大社への参拝者などで大いににぎわっていたはずです。ただし、明治時代になると、運送の主要手段が鉄道へと代わっていったために、徐々にさびれていきましたが。

 「関宿」の江戸川沿いのすぐ隣に「東宝珠花(ひがしほうじゅばな)」という村がありました。(やがて関宿町に吸収される)
 この東宝珠花こそ、関根金次郎13世名人の生まれ育ったところなのです。関根名人は明治初年の生まれです。

 西宝珠花という村もありました。これは、江戸川をはさんで対岸の、今は埼玉県になっている地区です。すこし向こうには春日部市があります。春日部市といえば、『クレヨンしんちゃん』の家族が住んでいる街ですね。
 関宿も東宝珠花も今は「野田市」に吸収合併されています。「野田といえば、醤油」と、中学の社会科で覚えましたね。野田市にはキッコーマン(亀甲萬)があって、全国の醤油のシェアの30パーセントを占めるそうです。


 関根金次郎にはたくさんの優秀な弟子がいます。たとえば木村14世名人(東京・本所生まれ)。それだけでなく、棋士系統図を観ると、今の関東の将棋棋士のなんと三分の二(!)が、関根名人の孫弟子かひ孫弟子になるのです。(小野名人はゼロ)
 渡辺東一(1905-1985)という棋士がいたのですが、この人も関根金次郎の弟子で、生まれも同じ東宝珠花。その渡辺東一の弟子に、二上達也、勝浦修がいます。二上さんは羽生善治の師匠、そして勝浦さんは森内俊之の師匠。つまり、[関根-渡辺]という流れをくむ羽生・森内が、今年は名人戦を闘っているというわけ。(ずいぶん優秀な一門ですなあ)

 そういうわけで野田市東宝珠花には関根名人記念館があります。そのうち行ってみようかと思っています。(つぶれてなくならないうちに行かないとナ)


 さあ、名人戦第2局は、明後日、大阪府堺市にて。
 どうでもいいけど「名人戦」でブログ検索すると、将棋より競艇の名人戦の方がヒットが多いのさー。ギャンブルって人気あるのね~。
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吝嗇女房と半額にぎり鮨

2008年04月19日 | ほん
 昨日ふれた『うつ病の妻と共に』という本についてもう少し書きます。
 こういうタイトルを聞くと、だいたい内容が想像できてしまう気がして読む気になれないという人も多いでしょう。想像通り、この本の内容は、著者(御木達哉氏)が、突然うつ病になった妻との生活について綴ったものです。その苦労が描かれています。
 ですから内容も暗くなりがちですが、ところが僕の場合、この本を読んだ後の読後感がすごく爽やかだったのです。「ある老夫婦のオモシロ日記」のような印象です。ええ、ホント。


 妻の美紗子さんは、52歳で突然、「うつ病」になった。もともと社交的で活発な女性で、運動神経も良い。ただ、家事全般が苦手なところがあり、それが夫御木達哉氏の不満でもあった。ところがその美紗子さんが発病して「うつ病」になったので、この夫婦の生活はガラッと変わる。夫の達哉さんが家事を行うようになった。食事も達哉さんがつくる。美紗子さんの症状は、全身倦怠感、意欲減退、睡眠障害、それに食欲不振だ。今日はどのくらい食べただろうか、今日は眠ってくれるだろうか、妻の一挙手一投足が気にかかる。その内、夫の達哉さんが不眠ぎみになって体重も減ってきた…。
 達哉さんが恐れているのは、「うつの発作」だ。昨日の記事で紹介したような「うつの発作」が爆発するのではと、どきどきしながら毎日を送っている。
 休日の過ごし方も重大テーマだ。ずっと家の中にいると重苦しくてやりきれない。かといって妻にとって好きでないことをさせて、例の「うつ爆弾」が発火してはたまらない。美紗子さんは、少年野球を観るのが好きらしいとわかり、日曜日には、夫婦であちこちの野球グラウンドを見学に行く。
 そうした生活を送るうち、達哉さんは、美紗子さんの小さな変化も見逃さないようになる。なにがきっかけで「うつ爆弾」が爆発するのかわからない。精神科医に聞いてもそれは(一般的なことしか)わからない。しっかり観察するしかないのだ。
 ある時、美紗子さんが小さく「鼻歌」を歌った。その時達哉さんは

 〔私の胸は喜びのあまり破裂しそうになった〕

そうである。あんまりそれが嬉しいので、だれかに話したいと思い、嫁いでいて子どももいる娘にそれを話すと、娘は「でもまだ本調子じゃない」と冷静に言う。達哉さんにすれば、(そんなことはわかっているさ、でも「よかったね」のひと言がほしい)のである。


 僕はこの夫達哉さんのこういう一喜一憂を、「かわいいなあ」と僕は思うのです。
 そして妻美紗子さんのキャラも、またこれがおもしろい。


 御木達哉さんは、子どものとき、孤児になった。縁があって、育ててくれた人が「雄大な気宇」の持ち主であった。その人が達哉さんに「きみが勉強したいのなら、いくらでも勉強させてあげよう」と言ってくれた。それに甘えるように達哉さんは、大学の法学部を卒業して大学院にまで行った後に、今度はなんと、ドイツ文学の道へ進みたくなった。それをその「育ての父」に申し出ると彼はいやな顔ひとつせず「好きなだけ勉強したらいい」と許してくれた。それで達哉さん、スイスへ行きチューリヒ大学文学科に入る。そこで順調に学び、達哉さんは博士号をとるまで続ける予定でいたが、ある日「育ての父」から手紙が来て、そこには「今度は医学をやったらどうか」と書いてあった。達也さんは、彼のことを深く尊敬し感謝していたので、その言葉に素直に従うことにした。日本へ帰り、大学の医学部に入り、そうして医者(内科医)になるのである。
 これほどの人だから、この御木達哉という人は相当能力の高い人だといえる。その人が、妻の「うつ爆弾」にびくびくしながら、家事をしている。次の日曜日はなにをして過ごすかを思案している…。

 人間ってかわいいなあ、と(僕は)思うのですよ。ええ。


 この妻の美紗子さんは、その、達哉さんを育ててくれた人の娘なのである。孤児である達哉さんをひきとって、このように存分に学ばせたことからわかるように、経済的に裕福な家庭だった。
 僕がおもしろいなあ、と思ったのは、そんな裕福な家庭に育った美紗子さんが、すごく吝嗇家、すなわち、「どケチ」なことである。(どうやら環境に左右されない「個性」というものが、人間の中にはあるらしい。)

 美紗子さんはうつ病になって、食欲がない。それで、おいしい鮨屋があるからと高級鮨店に連れて行ってもまったく食べない。ところが、安い庶民的な鮨屋だとけっこう食べるという。さらに可笑しいのは、これが、「スーパーの半額鮨」だと喜んでぺろりと一パックを食べるというのである。「食欲」と値段の「安さ」が連動しているのだ。
 達哉さんは医師としてずっと働いてきた。経済的な余裕はある。節約せねばならぬ理由などなにもないのに…。

 「どうして美紗子はこうも吝嗇(ケチ)なのだろう? 謎だ。」

 達哉さんは、不思議に思う。それについてよく考えたことがなかったが、彼女がうつ病になったことで、あらためて考える機会ができたのだ。そしてこの妻の「30年来の謎」が、おぼろげながらも解けてきた。おそらく、「彼女にとって、ケチは趣味なのだ」、と。
 若いときには二人でフランス料理もよく行った。ところがそれについて「あのころは、あなたの見栄に付き合っていたの」と妻は言う。ほんとうは嫌だったのだと。
 美紗子さんが発病して夫婦で精神科へ行ったとき、美紗子さんの手が達哉さんの眼鏡にのびてきて、その眼鏡をむしりとり、手の中でグシャッとまるめた。なぜそんなことをするのかと夫が聞くと、妻「いちど、こうしてみたかったんだ。」 その眼鏡は女店員の巧妙な話術にのせられて買ってしまった20万円の眼鏡なのだった。


 美紗子さんは、うつ病なのだけど、もともとスポーツが得意で、ゴルフも上手い。それで夫婦でゴルフに行ってみる。ところが、夫の達哉さんが下手で、どうにもならない。60近くのトシで体力もない。美紗子さんの足手まといになってしまう。あまりの下手さに、ついに美紗子さんが音をあげた。
 「もう、あなたとはゴルフしたくない」
 それでゴルフに行くのはやめになった。「それに私、ゴルフは好きじゃなかったのよ。父がやれというからやっていただけなの」 得意だから好きとは限らない、人間の内面はかように微妙である。
 そして、病人のほうが、体力があってスポーツがうまい、というのも可笑しい。ゴルフが好きではないというのも、お金がかかるからなのかもしれない。

 このように、もしも美紗子さんがうつ病になることなく元気なままでいたら、決してうまれなかったであろうおもしろエピソードがこの本の中には沢山あるのです。

 
 しかし、私が胸を躍らせるような日もある。健康管理センターが休みのある日、美紗子が、ビデオテープが必要か、と尋ねてきた。近所の家電ショップでテープの特売をやっているので、必要なら買ってくる、と言うのである。この四年というもの彼女が一人で買い物に行ったことは只のいちどもなかったので、私は少なからず驚くと同時に、大声を上げて誰かと喜びを分かち合いたい気分であった。


 こんな小さなことで、こんなに喜べる… この夫婦、もしかして、すごく、しあわせなのでは?
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鬱型爆弾

2008年04月18日 | からだ
 「」ってスゴイ字だよね。  その「ウツ」が今日のお題です。

 僕のなかに「ウツ」があります。かなり巨大で、ガンコな「ウツ」です。岩のように僕のなかに存在しているその「ウツ」の塊を、いかに解きほぐしていくか、それがこの15年くらいの間の、僕のテーマでした。その「ウツ」は主として10代の時に形成されていったものと思います。 (その6割くらいはやっと処理したと思っているのですが。)
 この「ウツ」は、たぶん、だれにでもあるものと思います。ただ、人によって大きさや固さが違う。これは僕の(カンによる)考えですが、こういう「ウツ」は、「神経性」のものと思います。「神経」というやつは、人によって、その敏感さにかなり個人差がある。3倍敏感な「神経」をもつ人は、同じストレスに対しても3倍の反応をしてしまう。すると人の3倍疲れるから、3倍の休息時間が必要になるのだけれど、そういう疲れというものは目に見えないものだからついつい働きすぎて、それが「ウツ」として蓄積される… と考えます。この場合、ストレスの蓄積量が多くて、処理するスピードが追いつかんわけですな。まじめ人間は、ついつい我慢しちゃいますからねえ。そうすると、流動的なカタチのストレスが、固形化して残ってしまう…これが「ウツ」となる。
 これはだれにでも当てはまることと思います。「神経」はみな持っていますから。
 
 ところが、精神病としての「うつ病」というのは、そういう神経的な、「だれもが理解できるようなウツ」とは、次元を異にするものであるらしい。

 『うつ病の妻と共に』(御木達哉著)という本があるのですが、この本の冒頭は次のような著者の体験から始まっています。

 [ 心臓が凍えるような衝撃を、私はそのとき受けた。明け方、何やらただならぬ雰囲気にふと目覚めて横を見ると、寝ている筈の妻の美紗子が見当たらない。家中を探し回った挙げ句に、私は玄関から外に出ていた。そして、家のアスファルトの小路で仰向けに横たわっている彼女を発見したのである。その姿を見たとき、私の心臓はまさに凍えた。彼女は眠っていたのではない。大の字に横になって、まだ明け切らない夏の早朝の青空に向かって大きく目を見開いていたのである。
 「さ、こんな所で寝ていないで家に中に入ろうよ」
 私は辛うじてそれだけの言葉を囁いて彼女の腕をとり、抱き起こして玄関の中に引き入れた。彼女は… (以下略) ] 

 どうやら、爆弾のようなものが破裂して、人格の一部までこなごなにしてしまう___そういうものであるらしいのです。
 「ウツ」もいろいろということですな。 野菜にも、岩石にも、いろいろ種類があるように。
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銀が泣いている(5)

2008年04月14日 | しょうぎ
◇マイナビ女子オープン5番勝負
   矢内理絵子 1-1 甲斐智美

 前回記事「銀が泣いている(4)」が長文になったので、2回に分けました。



 考えみれば、坂田三吉という男は、じつに「ドラマの演出家」である。意識的にではないのだろうが、自分(坂田三吉)というものをドラマチックに演出する。「坂田が銀になって、悪うございましたと泣いている」などと言って、すっかり世間を自分のペースに巻き込んでしまっている。死んだあとでさえも。

 ところで、僕は以前に映画『王将』を観て、それをこのブログの記事にしている。それは三国連太郎主演のものであった。この映画の中にも、「銀が泣いている」というシーンは出てくるが、状況設定は別のものだし、また、盤上の局面もこの将棋ではない。この映画の将棋の「銀泣き」の局面は、おそらく升田幸三が創作したものである。映画には、「将棋指導 升田幸三」とあったから。




 関根も坂田も小野も、「庶民の出」である。
 将棋の「名人」というのは、江戸時代、ずっと「大橋本家」「大橋分家」「伊藤家」の代表者から選ばれるものと決まっていた。それ以外のものは、権利がなかった。
 だから庶民である小野五平が名人になったのは、画期的な出来事なのである。なので、大橋家や伊藤家ならともかく、「小野がなるのなら、俺のほうがふさわしいだろう」と、若い関根金次郎は思ったわけだ。
 小野は、徳島の生まれである。 小野五平という人は、若いときは別として、将棋で一流の域に達したあとは、将棋界との交流を拒んでいたらしい。一匹狼なのだ。政界や財界の人達とばかり交流していた。そいいう孤高の性格の人だから、将棋の世界での人望は実はあまりなかったのである。
 そこへいくと、関根金次郎は「話のわかる気さくなアニキ」であったから、将棋が強いだけでなく、将棋仲間の信望も厚いものがあった。11世名人が没した時に「関根金次郎」の名前が挙がらなかったのは、その時に彼がまだ20代だったからであろう。そうであるから、小野五平が名人に就いた後も、東京の将棋指しはほとんどが「関根派」であり、小野はやはり「孤高」であった。
 そんな小野12世名人を、坂田三吉は尊敬していたという。「小野名人の将棋は心もちが澄み切って毒気がなく、自分もどうかああなりたい」と。小野はすでに、80代の翁である。大阪の坂田は、おそらくは、小野の若い時期のアクの強い部分を知らない、ということもある。
 そういう事情だから、関根と小野はあまり良い関係ではなく、そして小野五平は坂田三吉びいきだった。好かれれば、「かわいいやつ」と思う、それが人情というものである。小野は坂田に名人を譲りたいと思っていたという。

 そんな中での、次の名人をにらんだ関根・坂田五番勝負だというわけだ。
 この五番勝負、これが、「名人戦のルーツ」と言っていいと、僕は思う。

 考えてみると、この五番勝負は、坂田以上に関根にとって、より重要な勝負である。
 坂田三吉の方は、「死の覚悟で東京に来た」というが、仮に負けても「次こそ勝てばいい」とファンは応援してくれる。ところがずっと第一人者であった関根金次郎はふがいなく負ければ、確実に評判が下がるのである。「勝たねば」というプレッシャーは、関根のほうが、多い。
 そしてこの対局の傍らには、小野12世名人がいる。小野の前で、負けるわけにはいかない…。負けたら、「わたしの後継者は坂田君に」という口実を小野にあたえてしまう。

 第1戦、関根は敗れた。だが、まだ、緒戦である。それに「香落ち」だ。
 第2戦は一週間後、名古屋で行われる。今度は、坂田先手の「平手」戦である。関根と坂田の平手戦はこれが初になる。最強棋士関根金次郎と平手で指す__。ついに坂田はここまで来たのだ。
 関根は、強くなり続ける男坂田三吉の勢いを、ここで止めなければならない。



 この時期の名人は「終身制」となっていた。名人の引退の時、それはすなわち、名人が死ぬ時である。
 小野12世名人の、次の名人はだれがなるのか? 関根か、坂田か。
 巷の将棋ファンの関心は沸き立った。

 それをあざわらうかのように(そんなわけはないが)、小野五平は長生きした。 91歳まで、生きた。
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銀が泣いている(4)

2008年04月12日 | しょうぎ
 ここでどう指すか…。ここで坂田三吉は長考した。二日目の昼になった。
 関根金次郎は、前の手△6六香を大きく悔やんでいた。△5五馬と指すのがよかったと。せっかく作った成角を「泣き銀」と交換してしまった…。
 △5五馬▲7五歩△7三飛▲8四歩△4五歩… たしかにそう指せば、3三の桂も働いてくる。 △6六香に対しての坂田の応手▲7七金(前回記事・図e)が関根の意表を突いたのだ。
 (それにしても、徹夜で将棋を指していて、相手に何時間も長考されるというのは… きっと、眠いだろうなァ。)

 図fからの指し手
  ▲6六角△同金▲7四香△同銀▲同歩△同飛
  ▲9三角△8二歩▲6六角成 (図g)

 「何を考えているんだ」観戦中の棋士のささやき声が坂田に聞こえた。その言葉には「もう考えても無駄だろう。関根さんの勝ちだよ」というニュアンスがあった。坂田は「黙っとれ! 坂田の将棋があんたらにわかってたまるか!」と激しく一喝した。ここは東京…、坂田にとってはアウェーなのだ。見守る東京の棋士達は、関根八段の優勢を信じていた。


 ▲6六角、と坂田は指した。

 関根、△6六同金。 
 この手が「敗着」とされている。(きっと眠かったのだ)
 △7五桂が正着という関根の感想が残っている。

  

 図gからの指し手
  △7八飛成▲7三歩△同銀▲7七飛△同竜
  ▲同馬△4八歩▲同金△7五角▲6六銀△9七角成
  ▲7四歩△同銀▲7五歩△同銀▲9一飛△6二玉
  ▲7四桂  …  以下164手にて坂田の勝ち


 △7八飛成に、▲7三歩△同銀▲7七飛と自陣の飛車をさばいた坂田。これで坂田陣の駒はすべてさばけた。関根も反撃するが、▲6六銀△9七角成となって坂田陣に隙なない。あとは坂田の寄せが炸裂した。
 「いやはや、とんだ失策で負け将棋にしてしまった」と関根八段、投了。

 終了は二日目の午後5時。30時間に及ぶ激闘は坂田三吉の勝利となった。


 この将棋を並べるまでは、「銀が泣いている」の坂田三吉のセリフのために、僕はてっきり坂田が負けた将棋だと思いこんでいた。ところが、事実はこのように逆転で勝っていたのであった。
 しかし、だが、この将棋、ほんとうに「逆転」なのか? 

 関根金次郎の側からこの将棋をふりかえってみる。

 関根は△8五歩として、坂田の銀出を誘った。坂田は▲同銀と誘いに乗った。ここから坂田のいう「銀の泣き」のドラマがはじまった。が、よく考えれば、この銀は、ぱくぱくと8筋9筋の「歩」を食べて、しかも生きたまま坂田陣に生還した。坂田が「泣いている」と大げさに(ファンサービスの意味があったと思われるが)アピールしたために関根優勢となっているが、われわれはその言葉にだまされていたのではないか。この中盤の攻防は、「銀」を殺そうとして、結局「歩損」をしたにもかかわらず銀を殺せなかった関根の、「失敗の図」ではないのか。関根は△7三桂とはねたが、そのために端(9三)がうすくなり、これが弱点としてつきまとった。確かに「桂得」をしたが、その桂を8三に打って、坂田の「泣き銀」を追い返したのは、そうしないと、端があぶないからだろう。それも一時しのぎで、桂を8三に打てば、こんどはその桂頭も弱点になりねらわれる。それに関根の3三にいる攻撃の桂はずっとはたらきそうにないし、関根がぼやぼやしていると、坂田の駒がはたらきだして、坂田の「歩得」が生きる展開になる。
 つまり、この坂田の言う「泣き銀」の攻防は、決して坂田不利などではなく、苦しいのは、むしろ関根ではないのか?

 そのあたりを確かめるために、内藤国雄九段著『阪田三吉名局集』を借りてきた。この本によると、関根の△8五歩に坂田▲同銀はしかたないようだ。▲9七銀と逃げると△7五歩以下飛車が取られてしまう。(そうか、そうだな。) そのあと坂田の▲9四銀に、△9三歩があせりすぎの失着で、△8四歩なら関根は銀が取れた。これを逃したために、やはり、あとは形勢不明なのだ。
 ただ、このあたりで坂田は「負けや、負けや」とつぶやいていたらしい。その言葉に周囲が惑わされたところはありそうだ。

 どうあれ、見応えある熱戦であった。


      (『銀が泣いている(5)』につづく)
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銀が泣いている(3)

2008年04月10日 | しょうぎ
図c(前日記事)からの指し手
  △4六歩▲同歩△6四歩▲8五歩△6五桂
  ▲8六銀△7一玉▲4八角 (図d)

 坂田三吉の100手目、▲4八角。これが名手だった。
 この手を見た関根金次郎は、
 「うーむ、これは良い手じゃ。うかつには指せんわい。」
といってうなり、長考に入った。
 五番勝負第1局の対局は、徹夜明けの二日目の朝になっていた。


図dからの指し手
  △7九角▲6九歩△8八角成▲9二香成△同香
  ▲9三歩△同香▲6七飛△7五歩▲7六歩△9八香成
  ▲9五歩△4七歩▲同飛△6六香▲7五歩△7三飛
  ▲7七金 (図e)


 ▲4八角。
 これによって坂田陣は息を吹き返した。
 この自陣に打たれた角は、敵陣の9三をにらんでいる。ここ(9三)が、関根陣の弱点なのだ。だからこそ、関根八段はその前に△7一玉と避難している。ここではすでに関根にとって、この将棋は難局になっているのかもしれない。見れば、あの「泣き銀」もはたらいてきたし、9九の香も敵陣に直通だ。(手元の本には、まだ関根優勢と書いてあるが…)
 この坂田の▲4八角、例の「真部の4二角」にちょっと似ているではないか。坂田の▲4八角の場合は、ねらいの9三との間に、6六に自分の「飛車」がいる。だから4八に角を打つというのは一層に気づきにくい。 

 坂田三吉には、こういう角打ちの名手が多い。
 また、升田幸三にも。

 この関根・坂田五番勝負が行われたのは1913年で、まだ、升田幸三は生まれていない。(5年後に生まれる)
 これより20年以上後になるが、まだ10代で将棋修行中だった升田幸三は、坂田の弟子の星田啓三と対局したことがあり、その将棋を目に留めた坂田三吉は、以後、升田の身辺に現われては「最近あんたが指した将棋を並べてみなはれ」と言ったという。言われた通りに升田が並べて見せると、坂田は何も言わず帰って行く。それが何度かくり返され、ついに升田は、なぜか、と聞いた。すると坂田三吉は升田にこう言ったという。
 「あんたの将棋は大きな将棋や。ええ将棋や。あんた、うちの星田と指したやろ。あん時に、角、打ったやろ。あの角や! あれは八段の角や!」
 (「八段」とは、当時の最高段で、「名人と同じ格」という意味をもつ。)

 4八角が置かれた図dの局面をあらためて見てみよう。
 関根陣は四枚の金銀で守られている。しかしこれらの駒には「動き」がない。
 ところが、坂田の盤面左の駒、香、銀、飛車、金… これらはバラバラに置かれているが、今にも動き出して行きそうだ。このバラバラの、苦しく喘いでいた駒に「生気」をあたえたのが、「4八角」なのだ。

 △7五歩。関根は必死で角の効きを止める。
 ▲7六歩。坂田、それをこじ開けに行く。

 1日目の夜にいったん自宅に辞した12世名人小野五平が2日目、また観戦に来ている。83歳の小野翁は言った。
 「こりゃえらい勝負になった。わしは四十年来こんな凄い将棋は見たことがない

 坂田、香車を成り捨てた後、▲6七飛と角筋を通す。カッコイイ手だ!
 関根、△4七歩。 ▲同飛に△6六香。 坂田は7七金と応じる。
 そして図eになった…。

  

 図eからの指し手
  △7七同桂成▲同銀△5六金▲8八銀△同成香

 ▲8八銀! あの、「泣き銀」が、使い道に往生していたあの「銀」が、関根の角との交換になった。「泣き銀」は最後に笑ったのである。これは坂田サイドの応援者にはたまらない展開になってきた。
 しかし、(本によれば)まだここでも関根優勢だという。
 対局が始まってからほぼ1日が経過した。二人とも寝ていない。(飯はなにを食べたのだろう?)

 今度は坂田が長考に沈んだ…。


 この対局の結末は次回ということで。(まだ続きます、笑。書くのもしんどいです。)



 今年の将棋名人戦第1局のほうは、昨日決着。森内俊之名人の勝ち。
 羽生さんは、序盤でふんわりした手で局面をリードしたと思ったら、いきなり「豪速球」で攻めかかり、ところがコントロール・ミス、それを森内さんが落ち着いて捉えて勝利、という感じでした。
 それにしても、羽生善治の指し手には、意外性がありますね! 羽生さんは久々の名人戦なので興奮して、「豪速球」を投げたくてうずうず…それで気持ちのままに投げてみた、そんなところでしょうかね。「俺は全力投球で行くよ」と。
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銀が泣いている(2)

2008年04月09日 | しょうぎ
 昨日の図から

  ▲6六歩△8五歩▲同銀△7三桂▲9四銀△6六歩
  ▲8六飛△8三歩▲6六飛△9三歩▲9五歩 (図a)

とすすんで今日の図aとなる。さらにこう続く。

 図aから
  △7五歩▲8五銀△8四歩▲9六銀△7四飛▲7八歩
  △6四飛▲6五歩△7四飛 (図b)


 これが坂田三吉「泣き銀」の局である。
 この「銀」は、初めは7九にいた左銀だが、6八、5七、6六、7五、8六という軌跡をたどって、そしてこのように9四にやってきた。
 関根金次郎の△8五歩が挑発的な手であった。そして坂田は、その挑発に乗ったのである。乗ったはいいが…
 じつはこの「銀」、坂田としては関根に取って欲しいのである。取ってくれると9九の香がはたらいて攻めになる。ところが、関根は、取らない。そのほうが坂田は困る、とわかっているから。
 「銀」は「殺せ、殺せ!」と叫んでいるのに、敵は殺してくれない。それで彼(銀)は泣いているのだ。死に場所をもとめて。
 ここからさらに「銀」の「泣き」が続く。



 こうなった。
 ▲7八歩がなんともつらい。攻めに使いたい7筋の歩をこんなところに使わされては…。関根八段は次に△7六歩をねらっている。

 図bから
  ▲9四歩△同歩▲9五歩△7六歩▲9四歩△9二歩
  ▲9五銀△7七歩成▲同歩△8三桂▲8六銀△8五歩
  ▲9七銀△9四飛▲5八金引△6八角成▲同金△7四飛
  ▲8六歩 (図c)


 坂田三吉は後日、このあたりを振り返ってこう言った。

 〔… (あの銀は)ただの銀じゃない。それは坂田がうつ向いて泣いている銀だ。それは駒と違う、坂田三吉が銀になっているのだ。その銀という駒に坂田の魂がぶち込まれているのだ。その駒が泣いている。涙を流して泣いている。今までわたしは悪うございました。強情過ぎました。あまり勝負に焦り過ぎました。これから決して強情はいたしません、無理はいたしません、といって坂田が銀になって泣いているのだ。この一番を負けたら何年かの苦労が泡と消える、スゴスゴと旗を巻いて退却せねばならぬ。何でも勝ちたい、勝ちたいと …(以下続く)〕

 (うーむ、坂田さん、こんなにだらだらと長くしゃべっていたのか…。)  

 ここから坂田七段、▲9四歩△同歩▲9五歩となんとかこの「銀」をさばこうとする。しかし、この9六の「泣き銀」は、さらにもがくことに…。



 そして、こうなった。
「泣き銀」はさらに退却を余儀なくされ9七にバック。それでも坂田はこの銀を使わないと勝負にならないから、▲8六歩と指したのが図cだ。
 関根の桂得となり、関根優勢が明らかになってきた。午前に始まったこの対局は深夜をまわり、夜が明けようとしていた。(すでに書いたが持時間は無制限である) それでも観戦者11人が勝負の行方を見届けようと残っている。
 たしかにこの局面、関根八段が優勢なのだが、戦っている場所が関根玉の玉頭だけに、関根としてもまだまだ慎重を要する場面なのである。差はわずか。勝負はまだ、決まっていない。

 ここから関根の手番だが

  △4六歩▲同歩△6四歩▲8五歩△6五桂▲8六銀
  △7一玉

とすすんだ。

 100手目、ここで坂田三吉、起死回生の妙着を放つ。
 ちからのある人は、その手を考えてみてほしい。当たれば、あなたは、坂田三吉並の将棋センスを持っていることになる。  
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銀が泣いている(1)

2008年04月08日 | しょうぎ
 名人戦が始まりました! 森内俊之名人に、羽生善治が挑戦します。
 昨年は、森内さんと挑戦者の郷田さんの「扇子の音と鼻血事件」で開幕しましたが、あれから1年になるんですね。この1年はほんとうに、おもしろい将棋が多かったと思います。
 森内さんは昨年名人位を通算5期保持となったので、「18世名人」の称号を得る権利を得ました。これを永世名人といいます。羽生さんはあと1期で永世名人になれるのですが、これまでは森内さんがそれをはねかえしてきました。


 永世名人というのは、江戸時代初頭から続いた「名人」の位を受け継ぐもので、江戸時代家元制度の最後の名人(11世)が伊藤宗印という人。その伊藤宗印さんが、明治26年、西暦でいうと1893年に亡くなった。そのときに、どういうわけか、名人にふさわしいとおもわれていた人が、突然死んだり、犯罪を犯したりということがあって、じゃあだれが名人に? ということになった。「小野五平氏がいるじゃないか」ということで、ああ、そうだそうだ、小野五平氏でいいじゃないか、あれは立派な人だし、となった。
 ところが、「ちょっとまったぁ!」と言った男がいる。
 それが、関根金次郎である。
 「俺のほうが強いじゃないか。」と、関根は小野に「果たし状」を送った。実力で決めようじゃないか、勝負だ、というわけである。
 もし、このとき、この「果し合い」が実現していたら、関根が勝ったという可能性がかなり高い。当時実力的にNO.1は関根金次郎という評判であったし、本人もそう思っていた。ただし、年齢を考えるとそれも当然で、この時、関根32歳、小野五平68歳であった。
 「名人」というのは、将棋所の「顔」である。将棋の実力だけでなく人望も求められる。その面では、関根は、若すぎて損をしたかもしれない。一方の小野の後ろ盾には、年齢相応に有力な政財界の大物が多くいた。小野五平を押す人々から「小野氏はもう高齢だから…」と言い含められ、関根金次郎はしぶしぶ小野五平の名人就位を認めた。つまり、「(小野名人の)先は長くない、(彼が死んだら)その次は関根さん、あんただよ」というような意味である。(なんの保証もないが。)
 そういうことがあって、12世名人には小野五平がなった。これが1900年のこと。
 ところが、68歳の小野翁の寿命は意外に長かった。

 1912年、明治時代が終わり、大正時代になった。小野五平12世名人は80歳になっても元気で、また、関根金次郎は44歳八段となっていた。当時の「八段」というのは、「名人と等しい格」という意味があった。実力NO.1は変わらず関根である。
 ところが、大阪の坂田三吉がめきめき力をつけ、七段にまで登っている。関根の実力第1位の座をおびやかす存在となってきたのだ。坂田には大阪のファンが多くついている。坂田は大阪朝日新聞の嘱託にもなっており、実力で坂田のほうが強いとなれば、将来の関根の「13世名人」の地位もゆらいでくる。
 そんな状況の将棋界で、1913年(大正2年)、関根金次郎・坂田三吉の五番勝負が企画された。これは両者にとって重要な勝負であった。関根がここで坂田を一方的に下せば、次の「名人」の地位は磐石になるだろうし、逆に、坂田のほうが強いという印象を世間にあたえれば、「坂田に名人を」という声が吹き荒れるだろう。もしそうなれば、関根は、なんのためにここまで待ったのか、ということになる。
 一方の坂田三吉も、大阪の大きな期待を背負って、覚悟をきめてやってきた。「明日~は、東京に~出て行くから~は~♪」である。
 「坂田はもし負けたら、生きて大阪には帰らぬ覚悟だそうだ」と、東京の棋士の間で風評が飛んだ。
 この五番勝負、死闘になるだろう。

 第1局、場所は東京の築地。持時間は(なんと!)無制限。いくら考えてもよいのだから、勝負は夜を徹して行われることになるだろう。おそらく、1日では終わらない。


 上手八段関根金次郎△3四歩。下手七段坂田三吉▲7六歩。 …

 小野五平名人の観戦する前で、その五番勝負の第1局が始まった。第1局は「香落ち」で、関根八段が左香を落とす。

 12手目▲7八飛。坂田は飛車を振った。相振飛車になった。

 そして53手目関根△8四歩。(これが上の図)
 上手の関根八段の陣形は現代なら「ダイヤモンド美濃」とよばれる形。金銀四枚で守り、「さあ、攻めて来い!」という受けの構えである。
 下手の坂田は、5七金が、ちょっと妙な形である。だが、何とか攻める形をつくりたい。坂田はここで、▲6六歩と突いた。△同歩なら、▲同飛で一歩を持ち駒にできる。
 が、関根は素直に△同歩としなかった。△8五歩!
 これがねらいの一手だった。▲同桂なら、△8四歩で坂田の桂が死ぬ。坂田は▲同銀と取った。関根△7三桂。坂田▲9四銀。…
 こうして、坂田の銀が立ち往生してしまう…。

 「銀が泣いている…」と、坂田三吉。

 これが有名な坂田三吉の「泣き銀の局」である。 続きは明日。


 森内-羽生戦は、先手森内の「右四間」になりました。プロではあまり見ない戦型ですね。
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もう一度…

2008年04月05日 | はなし
 もう一度、同じ顔写真を描いてみた。 …きのうよりは、ましか?

 きのう、「すごいでしょう!?」と書いたのだが、それは元の写真の顔のことで、それなら、そのまま写真を載せればよいのだが、まあ、アッシにも意地があるんで(笑)。 描いた直後は「こんな感じか」と自分なりに納得してみても、時間を置くと、「全然描けてない」と気づく。僕は別に、写真とそっくりに描きたいとは思わない。(それなら写真でいいわけだ。) 自分のアートをしたいということでもない。ただ、この写真の、「いい!」と思ったものを、伝えたいだけなのだが、どうも無理だなあということがわかった。
 ただ、描いたことはムダではない。「それは無理だなあ」とわかったことだけでも。『アッシにも意地があるんで(笑)』と上に書いたが、その『意地』ってやつが「素直でよいもの」を汚しているんだよね。
 結局、たいていのアート(描く)なんて、「よけいなこと」なのだ。そう思う。
 努力して技術を磨く… それは一生懸命に「すばらしいフリ」をするということで、磨けば磨くほど「ニセモノ」を生み出す能力が高くなる。技術がくだらないと言っているのではなく、技術の力を過信することがオロカではないかと言っているのだ。『ゲド戦記』の大賢人ゲドが、極力魔法の力をつかうことを抑えていたことの意味は、そういうことではないだろうか。

 「いい顔写真」を見て、その顔の絵を描く。そこに描いた「顔」の中には、「描き手」の表情が入り込む。無意識が働いて、そうなるのだ。もはやその顔は、描き手の「自画像」になる。
 そう思って、きのう僕が書いた「顔」の絵を見ると、もとの写真にくらべると、「さびしげ」だ。そんなつもりで描いたわけではないのに。
 「絵」を描く意味は、じつは、そのことにあるのではないか。僕は、写真の、あの顔のようになってみたいのに、今の自分はそうなっていない。そのことが、わかる。ああ、これが今の自分か。絵を描いて、気づく。

 それにしても、ちょっと変えただけで、「顔」の絵は別の何かになる。
 顔って、ふしぎだなあ!!
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