はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

ひさびさの、詰将棋

2007年08月30日 | つめしょうぎ
 ほんと、久々の、詰将棋です。
 一昨年は詰将棋を3つ作りブログで発表、でも去年は0、そして今年は4月に3つ作りました。上の詰将棋はそのうちの一つ。タイトルは「奥で話しましょう」。
 別の11手詰めのやつは、2手けずって9手詰めにして、LPSA(日本女子プロ将棋協会)の「日めくり詰め将棋カレンダー2008」に応募しました。採用してくれると嬉しいんだけど。僕の詰将棋は、雑誌で入選できるレベルにはないけれど、この「カレンダー」なら、入選数366(来年はうるう年なのだ)だから、いけるのでは? ねっ。

◇王位戦第4局は、羽生の勝ち(87手)
    羽生善治 2-3 深浦康市

◇王座戦  挑戦者に、久保利明 (王座は羽生)

◇竜王戦挑戦者決定戦(三番勝負)の組み合わせは
    佐藤康光 - 木村一基  (竜王は渡辺)

長谷川町子とアゲハ蝶

2007年08月28日 | はなし
 手塚治虫のことを書いたので、そのつながりで、「長谷川町子」と、それから「タカラヅカ」の関連本を図書館に予約した。そのうち『長谷川町子思い出記念館』が届いたと連絡があったので図書館にとりにいき、その帰り、アパートの前でアゲハ蝶(黄アゲハってやつだろう)を発見。しばらく遠くから、腰を落として見ていたら、アゲハ氏、サービスして近くにやってきてくれるではないか。
 座ったままアゲハを観察しつつ、町子さんの本をぱらぱら…。

 長谷川町子__言うまでもないが、『サザエさん』の作者である。町子さんは1920年生まれで、15歳で漫画家デビュー。だから手塚治虫よりもずっと先輩なのである。
 この町子さんがまた、佐賀県で生まれていたとは! (オレの偶然力も、あきれるねエ。あまり実用的でないけど。) 佐賀で生まれ、その後福岡で育ち、戦争中は東京と福岡を行ったり来たり。
 東京の桜新町が彼女の暮らしていた「サザエさんの街」で、長谷川町子美術館がある。一度行ったことがあるけど、落ち着いたいい美術館だと思います。おすすめの美術館です。サザエさんの絵が展示されているのではなく、町子さんの買い集めた絵のコレクションが展示されています。あと、町子さんの作った陶芸作品なんかも。僕はその中の「柿武士」ってのが好きでね。
 長谷川町子の20代の写真を見て、似顔絵を描いてみた。アノコに似ているね、ほら、卓球の、天才少女の… イシカワナントカだっけ…?(→このコだ

  ↑
 町子14歳のとき(このとき東京に住んでいた)、行動力のある2歳年上の姉が、町子をごういんに漫画家・田河水泡(『のらくろ』の作者で僕はさっきまで「ほうすい」だと思っていた) のところに連れて行って、弟子にしてくださいとお願いした。この絵はそのときに持っていったスケッチの一つ。男の子の採った蝶を、なんとか姉妹で横取りせんとたくらんでいる図だろうか? (わたしの本質は「いじわるばあさん」なのよ、と町子さんは語ったことがあるという。)
 水泡の内弟子にしてもらった町子は15歳で漫画家デビュー。しかし1年してホームシックになって家にもどることになる。その後、戦争が激しくなり、長谷川一家は福岡に疎開。『サザエさん』が誕生するのは、戦争が終わった翌年のことである。

 いつのまにかいなくなったアゲハ蝶が、また戻ってきた。で、また、どっかへ行った。
 …オレ、なんか、ご隠居みたいな生活だなあ。でもご隠居はサンボマスター歌わんだろ。この頃高い声が出しやすくなって「歌声よおこれ」がもう少しで歌えそうなのさ。

開門岳

2007年08月27日 | はなし
 なんとなく開門岳
 かいもんだけ____ふしぎな名です。こんな名前の山なら、龍が飛来していてもおかしくない。

 深く、眠って、起きられず、出かける予定をキャンセル。
 夢を見ていました。
 その夢のなかで、父が言うんです。「お前、もう、ばあちゃんの家には行くな」 その夢のなかでそれを2度も言うんです。どういう意味でしょう?
 祖母は12年前に他界しています。穏やかなひとでした。

 こころの奥ふかくにどんどん行きますと、ふしぎなことが起こります。そこは「この世」のルールとは違う法則でなりたっているようです。そういう場所で、ひとり、もがいていると、死んだはずの人が現われて助けてくれたり…。時間の流れがへんだったり…。
 そこは、ファンタジー小説『ゲド戦記』にあるような、「さいはて」の場所です。
 いま僕はブログでなにかを「表現」をしています。だれかに何かを伝えることができる状態というのは、比較的「浅い」ところにいるからです。ふかく深く潜ってしまうと、もう言葉は発せられません。
 夢の中の父は、「お前はもうあそこへは行くな」と言っているのでしょうか。そうだとしたら、僕は「明るい場所」に一歩すすめるのかもしれません。

 11年前の秋、僕は、九州の南の果て、開聞岳まで行って、車の中で夜をすごして、翌朝その姿をうしろに見ながら、帰りました。

 その年、谷川浩司が竜王戦の挑戦者になり、羽生善治を倒して竜王へ返り咲きました。

手塚治虫 メタモルフォーゼ

2007年08月26日 | まんが
「火の中に飛び込み、再生する」と言えば、手塚治虫『火の鳥』を思い出します。そこで今日は、手塚治虫の「メタモルフォーゼ」について語ります。

メタモルフォーゼ Metamorphose(ドイツ語)
変容。変身。転生。  

 手塚作品『ふしぎなメルモ(ママァちゃん)』のメルモは、メタモルフォーゼからつけた名前です。
 手塚漫画の特徴を語るとき、この「変身」テーマが多いことを指摘することがあります。でも、それは、長い手塚治虫の執筆生活の「途中から」で、初めからではないのです。なぜ手塚さんは、この「変身」テーマを描くようになったのでしょうか? 
 結論から書きます。
 手塚さんは、中年になって、「自分」に行き詰ってしまったのです。ですから「自分」を新しいスタイルに変える必要があったのです。それが「変身」というテーマの作品に反映されています。その時期というのが1967年から1973年頃で、これは手塚治虫38歳~44歳に当たります。


 手塚さんのプロデビューは17歳です。ですからそこから20年の間には、手塚作品にはとくに強いメタモルフォーゼ願望は見られません。つまりその20年間、天才手塚はべつに変身する必要もなく、描きたいように描いていたというわけです。
 たとえば初期の代表作ジャングル大帝』(1950~54年)の主人公は「白いライオン」ですが、これは初めから最後、死ぬまで「ライオン」です。変身などしません。
 また鉄腕アトムも、やっぱり最初から最後まで「ロボット」です。ただし、アトムの場合は「できるなら人間になりたい」というような願望を持っていそうですね。アトムは子供の姿をしていますが、生まれたときから「完成品」です。もう成長しない、「子供の姿をした大人」なのです。 『鉄腕アトム』は、1952~68年の作品です。

 そして1965年にマグマ大使、1966年バンパイヤが連載開始。このあたりで少し変身願望が見えてきます。『マグマ大使』はロケットに変身するし、火の鳥とおなじく「溶岩の精」です。そして『バンパイヤ』は、狼男です。ただ、この作品のテーマとしては変身願望は強いものではありません。

 さて1967年には、『COM』という雑誌が創刊されます。ここに手塚治虫は、大作火の鳥・黎明編を発表します。この作品は、当時大人気だった白土三平の『カムイ伝』を意識して(つまりライバル視して)描かれたといいます。「劇画」というブームがやってきて、手塚さんはどうも焦っていたようです。「自分のスタイルを変えなければ時代に置いて行かれる」そんな気分だったのではないでしょうか。
 手塚さんは、「火の鳥」の卵を食べて「永遠」に漫画家のトップに君臨したい。あるいは、「火の鳥」のように、マグマの中に飛び込んで、「再生」しようとしたように思えます。

 さて、「火の鳥」としてマグマの中に飛び込んだ手塚治虫は、ばらばらに分解してしまいます。それがどろろ』(1967~68年)として描かれます。身体の48箇所を魔物に奪われた百鬼丸が、失った身体を取り戻そうと旅する話です。

 そしていよいよ手塚さんの変身願望は本格化します。
 I’L』(1969~70年); どんな人間にも変身できる女性アイエルが主人公です。
 人間昆虫記』(1970~71年); 主人公・十村十枝子は、次々と才能のある人間に接近しては、その才能を吸い取り、作品を盗んでは成長していく寄生昆虫のような女です。
 ふしぎなメルモ』(1970~72年); ご存知、メルモです。キャンデーを食べて、自由に大人になったり赤ん坊になったりできます。
 なぜかみんな女性ですね。手塚さんは、女性のもつ「再生する力」を借りようとしたのでしょうか。もしかしたらこの時期、手塚治虫には恋人がいたのかもしれません。(大胆な仮説でしょ! でも、いたらおもしろいね)

 この1970年の前後は石森章太郎の絶好調期で、手塚さんもライバル視していたようです。『仮面ライダー』に代表されるように、「変身もの」が流行っていた時代でもあります。でもその割には手塚さんは、この石森作品のような変身ヒーローものは描いていないですね。手塚さんの「変身」はちょっと屈折しています。苦労している感じです。たぶん手塚さんは、「人間→ロボット(動物・超人)」の変身ではなくて、「ロボット(動物・超人)→人間」の変身を望んでいたのだと思います。逆方向なんですね。実際にこのあと数年して、石森さんはプロの第一線からは後退しますが、逆に手塚さんは、復活します。
 時代が、ロボットヒーローから、「人間」の時代になっていきます。ちばてつや、本宮ひろ志、水島新司など、もともと「人間」を主役にしていた漫画家はベテランになっても生き残ります。
 生涯、売れっ子漫画家でありたいと願う手塚さんの巨大なタマシイは、時代の流れを正しく読む感性をもっていたのですね。

 1973年、もう終わりだ、引導をわたしてやろう、と編集者の間でささやかれていた巨匠・手塚治虫が見事、「再生」します。それが週刊少年チャンピオン連載ブラック・ジャックです。
 おもしろいのはこの主人公のB・J、彼はいったんバラバラになって、医療の力で「再生」するという設定なのですね。顔の手術あとがそれを示しています。ピノコって、メルモの変身した姿なのかもね。


 つまりこういうことです。(まとめに入ります)
 ジャングル大帝・レオが死んで、アトムの時代も終わった。これからはスーパーなロボットの時代ではなく、人間の時代が来る。アトムは「人間」に変わらなければならない。そこでアトムは火の鳥に頼んで、マグマに飛び込む。すると彼は、『どろろ』の百鬼丸のように「バラバラ」になってしまった。でも、死んではいない。苦しんで、時間をかけて、昆虫のようにメタモルフォーゼを果たす…。そして、「バラバラ」の身体をつなぎ合わせて、なんとか「再生」。それがブラック・ジャック、黒男。つまり彼は、「人間」として再生を遂げたアトムなのです。

 と、このようなことを以前から、手塚作品に対して、僕は思っておりました。でも本当に評論したいのならば、全作品を読まなければいけないのでしょうが、それは不可能というもの。ご勘弁を。

火と土

2007年08月25日 | はなし
 その11年前の佐賀では「世界炎博」というのをやっていました。佐賀には有田焼とかありますね、そういう関連のイベントです。
 陶芸って、やったことありますか。よく映画などで「自分を見つめる」人などがやっていますが。僕も少しあります。陶芸はリハビリの作業によく使われますしね。あれは「指で土をさわる」という感覚がいいらしいです。箱庭なんかもそうですが。
 子供のときには泥遊びをよくしました。川原に粘土をとりに行ったりもしました。土に触れることで、子供時代にもっていた何か(元気さとか)に、一時的に触れることになるのです。
 ところで、オクラもタケノコもそうですが、すぐに採って食べないと硬くなって食べられなくなるものってありますね。「若芽」のうちは食べられるけど、成長して大人になるともう硬すぎるわけです。
 陶芸もおなじで、火を通して焼くと、やわらかい粘土がカッチリとした「大人」になって、立派な陶器になるわけです。
 たぶん、人間もおなじです。

 人間の成長は、身体は15歳くらい、この年齢で大まかな骨格が確定します。そのあとは「微調整」の時期に入って、高校生、大学生、社会人となって、20代後半になると「大人」として完成します。もう「煮ても焼いても食えないヤツ」になるのです。
 だから30歳になって「おれは今日から生まれ変わる」と言っても、本心からそう思ったとしても、実際はむつかしい。「お皿」が「急須」には変われないのですね。
 だけどそうすると、ぼんやりと(あるいは頑張って)10代、20代を生きてきて、28歳くらいになって、でもそこで「ああ、しまった、これはおれのなりたい自分とちがう、やりなおさなきゃ」と思った場合はどうすればいいのでしょう? もうおそい、だからあきらめる… それしか道はないのでしょうか。

 実はこれは「僕」のことです。それが30歳の頃の僕のテーマでした。僕はそのころの「自分」に違和感があり、このまま一生を過ごしていくのはつらい、できることなら「変わりたい」と思っていました。
 「変わる」というのはしかし、どういうことか。子供が成長していくのとは違います。「大人」として出来上がったものが「変わる」というのは、いったん出来上がった「陶器」を、もう一度「炎」の中に入れ高温の火によっていったん「土」にかえすようなことなのでしょう。(イメージとしては、「いったん死ぬ」です)
 つまり「大人」になった人間が「変わりたい」のなら、火に焼かれるような苦しみを受け入れるしかないのかもしれない、そのようなことを30歳くらいのときに考えました。人間関係も、仕事も、喜びも、すべて行き詰っていたんですね。だから僕は「苦しくても、それでも、変わりたい」と願いました。 「違和感のない自分」になりたかったんです。
 そうしたらゆっくりと、そうなっていきました。
 

 昨日も書きましたが、それから数年後、体調がどんどん悪くなりました。どこといって悪いところはないのですが、体力がなくなり、とにかく苦しいのです。
 僕は「あ、始まったんだ!」と思いました。
 「僕」といういったんは成長して硬くなった心身が、炎の中で燃え始めたのだと思いました。「苦しい…」 ですからある程度は覚悟ができていました。しかし、こんなに苦しく、たいへんなことだとは…。後悔もしましたが、「もう後戻りはできないぞ」と身体の奥から言っています。望んだことです、行くしかないのです。行くといっても、ただただ、自分が炎のなかで溶けていくのを、がまんして待つだけなのですが。(ただし、同時に、生きることのために働かねばなりません。これも大事なことです。)
 「変わる」ことは「いったん自分を壊す」ということなのですね。家だって、壊してリフォームするでしょう。ただ、人間は生きていますから、数ヶ月でリフォームなんてのは、無理のようです。いっぺんに壊すと、死んじゃいますから。

 そんなふうに自分なりに理解していたことなので、医者に行こうとか、いい薬はないかとか、そういうことは思ったことがありません。病気ではなく、望んでいた「変化」だと思っていましたから。努力はいらない、ただ「待つこと」だけが唯一つの道なのだと、わかってはいました。自分の身体がやることを信用して。
 でも10年たっても終わらないとは思わなかったですね。体調が悪くなりはじめたとき、これは2、3年では終わらないと感じましたから、「それなら7年後には、同世代の男たちに追いつきたい」と思いました。追いつくというのは、仕事とか結婚とかのことですが。しかし7年はとうに過ぎて、こうなってみると(15年以上かかりそう)、「追いつく」なんてのはもう、あきらめるしかありません。
 ですが「違和感のない自分」には確実に近づいていると思います。全部手に入れることは無理のようだけど、いちばんほしい望みは、手に入れることができそうです。

←これは九州で僕がつくった陶器。ズッシリ重いです。

 『緋が走る』という漫画を読んだことがありますが、なかなか面白かったです。あれは山口の萩焼ですね。「せともの」って言えば瀬戸内海の焼き物____かと思っていたら間違いで愛知県瀬戸市の焼き物。(小説にはよく「織部」とか出てきます) そして九谷焼が石川県、信楽焼といえばたぬき、これは滋賀県。

遺跡とオクラと夕暮れと

2007年08月24日 | はなし
 甲子園、佐賀北高校が優勝! アレ? この話題、2日後だと、おそい?
 映画『夕凪の街 桜の園』の東子役、中越典子が佐賀の出身であることは、1ヶ月半前に日曜日の明石家さんまの番組(フジテレビ、斉藤舞子アナが司会のヤツね)に彼女が出て、佐賀をアピールしていたので知っていた。その優勝した佐賀北高校が彼女の母校だったとは。中越さん、「風」が来ているのでは? 美人だなあ~、身長163、体重44、細~!!!


 佐賀平野って、広いんだよねー。

 11年前、王位戦(羽生ー深浦)第4局が佐賀で行われたことは、前の記事で書いた。
 あの夏、実は僕は、2ヶ月間、佐賀で過ごしたのだ。だけど王位戦の対局がそんなにすぐ近くで行われているなんて気づかなかった。知っていても、行かなかっただろう。あの時はそれほど将棋に興味をもっていなかったし、忙しかったし、体調は最低だったから。
 オクラをたくさん食べた夏だった。

 僕はリハビリの専門学生だった。3年生で、実習生(OTS=オキュペイショナル・セラピスト・ステューデント)として、佐賀の病院で実習中だったのだ。
 その2年前から、体力が異常に少なく感じられていた。最初の1年は、気分転換をはかってみたり、運動をしてみたり、ジタバタしてみたが、それらがすべて無駄とわかり、その後は「学校だけは卒業しよう」と、他のことに使うエネルギーを極力温存して生きていた。「生き延びる」という感覚だった。そういう意味で、僕にとって「実習」は「大きな大きな山」だった。慣れない職場で、はじめての仕事。5時に仕事は終わるが、その後はレポートを書かねばならない。休む時間はなく、レポートに手間取ってしまうと眠る時間もなくなる。自信はなかった。もちろん実習はノーギャラだし。
 しかしそれでも、なんとか8月までは、きりぬけた。若い人のようなパワフルさはないが、それは「落ち着き」と評価された。若い人は頑張りすぎて、患者を疲れさすところがあるのだが、僕は、「患者のペースに合わせるのがうまい」とほめられた。それもそのはず、僕自身が、患者並みに、体力へろへろだったのだから。だから、活動的な、「こども」はニガテだった。
 病院には、別の学校からのリハ学生も来ていて、自然、親しくなる。佐賀では僕のほかに、女性二人。(先生もリハの分野はこの当時年下の女性が多かった。) だが、僕は、あまり親しくなりすぎないように気をつけた。もちろん、気持ちとしては、近づきたい。しかし、人間関係というのは、親しくなると、その分だけストレスが強くなるのだ。体力があれば、それも楽しめるのだが、体力がカラッポになる恐怖というのが、そのときの僕には常にあった。正直、遊び(ドライブとか、飲みとか)に誘われるのを警戒していた(←笑)。体力ないと、「断る」ことさえ大きなストレスのなるのだ。あー、苦労してたな~。
 一緒に勉強したOTSの女性二人のうちの一人は、偶然にも、次の実習地(熊本)も同じだった。そこの先生(これも女性)は「そんなの、聞いたことないよ、あんたたち、結婚しちゃえ」なんて言っていたが。そのコは、妙に、魚をよろこんで食べるのが印象に残っている。あと、会話の流れで「それは…深刻に?」と僕が聞いたら、その女、突然「スーハースーハー」とやりだした。〔それは、深呼吸!〕と僕は心の中でツッコミをいれて、笑った。こんなふうに書くと、実習すごく楽しかったみたいジャン! 実際、実習そのものは楽しかったよ、たしかに。あのコたち、どうしているかなあ。
 リハビリという分野は幅広く、陶芸や旅行や演劇をするというのも長期入院患者のリハプログラムにはある。「畑作り」の作業もその一つで、その夏の畑からは、オクラが毎日わんさと取れた。僕は病院の宿舎のキッチンで自炊していたが、リハ職員の女性が、オクラ入りカレーなどを作ってくれたりもした。あんなにたくさんのオクラを食べた夏はない。
 いちばんしんどいのが、やはりレポート制作だった。「考える」というのは、実は大量にエネルギーを消費する。ところが僕の欲求は、ただただ「休みたい」だった。
 1日の病院の仕事が5時に終わり、すぐにレポートに取りかかることのできない僕は、近くの吉野ヶ里遺跡のお土産屋の自販機で、紙コップ入りのコーヒーを飲みながら一人で夕暮れの中、空を見るのが毎日の日課となっていた。吉野ヶ里もまだ本格オープンの前で、その時間にはだれもいなかった。そこで僕は、コーヒーをすすり煙草をふかし、2時間くらいの間、暮れてゆく空をみていた。考えることは、来年は体力がましになっているかなあ、でも1年じゃ無理だな、今まで2年たってもこんな感じなんだから、だから、3年後… 3年後には、人並みになるといいなあ… というようなことだった。3年後の自分というのが、まったくイメージできなかった。
 

 11年たったが今だに体力は人並み以下だ。でも、「あのころ」よりはずっとまし。100倍はアップしているだろう。

 中越典子を描こうか、吉野ヶ里の空を描こうか、迷い、まよった末、「中越典子と吉野ヶ里遺跡の前で夕焼けを見るオレ」という妄想を絵にしてみた。あ、そうそう、愛しのぱそ坊、戻ってきましたよ。

深浦康市八段

2007年08月21日 | しょうぎ
 1996年2月、羽生善治が「奇跡の七冠」を達成した。
 7月、その七冠の一角を切り取って、三浦弘之が「棋聖」をとって驚かせた。それに続いて、羽生への挑戦者になったのが、深浦康市である。羽生より2才年下で、九州長崎の出身。佐世保の実家は居酒屋だそうである。
 深浦にとって初タイトル戦になるその王位戦の第1局、深浦さんは、初手「9六歩」と指した。深浦「羽生さんは強いです。でも、それほどの差はないと思います」と発言。三浦が「棋聖」をとった、それならオレは「王位」を… そう思っていただろう。


 その王位戦の少し前、深浦さんは風邪で入院したことがあった。そのときに、ナースの義子さんと知り合った。偶然、同じ長崎の出身で話も合い、つきあうことになった。結婚したいと思い、彼女の両親にもその意思を告げた。しかし両親は「将棋のプロ棋士? なんだそれ」と、不安げだ。
 王位戦は羽生2連勝のあと、深浦が1勝を返して、第4局が、九州佐賀で行われた。長崎県のとなりだ。「チャンス!」と思った深浦さんは、彼女の両親をその対局場に招待した。
 タイトル戦は、「両対局者」が主役である。二人のために、たくさんの人々が仕事をして盛り上げる。しかも相手は、有名人羽生善治だ! 両親はすっかり深浦の対局姿にやられてしまった。あとで「本当にうちの娘でいいんですか」と言ったそうである。

 タイトル戦では和服を着ることが多い(そうすべきという決まりはない)が、深浦さんが対局場で和服に着替えようとしたら、義子さんの用意した和服の足袋がふたつとも同じ足で、どうしよう… ということもあったそうである。

 その王位戦は4-1で羽生が防衛。羽生善治はやっぱり強かった。(ヨメさんを獲得することに力を使い果たしてしまった? いやそんなことはないだろう)


 それから11年。やっと深浦はタイトル戦にかえってきた。また王位戦だ。第4局の福岡での戦い(相腰掛銀)を勝ち、3-1。羽生を追い詰めている。
 第5局は、8月29・30日、徳島で行われる。

チェアマン

2007年08月20日 | はなし
 小堀清一九段(1912~1996年)の話。

 「腰掛け銀」という戦法があることは、前にも述べた
将棋の戦いは、序盤で大体▲5六歩と、5筋の歩を突くことが多い。そうすることで作戦の幅が広く、駒が使いやすい場合が多いからだ。しかし、「腰掛け銀」にしたいなら、▲5六歩は指してはいけない。▲4六歩として、右銀を4七から▲5六銀とする。これが「腰掛け銀」の定位置である。
 このあと、場合によっては▲4八飛として4筋を攻撃する… これが「右四間」である。

 小堀清一さんは「なにがなんでも腰掛銀」という人だった。腰掛け銀の鬼、と呼ばれたかどうか、それはしらないが、とにかく、腰掛け銀一本だったらしい。

 僕は高校生のとき、『将棋年鑑』を買っていた。たしか、3800円だったと思う。『将棋年鑑』には、1年間にプロが指した将棋の棋譜が500ほど載っていて、簡単な解説もついている。夜、受験勉強の合間に、その棋譜のいくつかを並べるのが楽しかった。
 その中に、小堀さんの対局の棋譜も1局あり、小堀さんが「腰掛銀しか指さない」ということが書かれていた。こういう棋士は、それだけで印象に残る。ガンコ職人、スペシャリスト… そういう人は、世の中には必要なキャラである。

 羽生善治は15歳中学生のとき、プロ棋士(四段)になった。
 その羽生四段が小堀清一と対戦した。小堀さん74歳くらいのときだ。
 その対局も当然小堀は「腰掛け銀」である。将棋は羽生が有利にすすめたが、小堀もがんばった。両者時間をいっぱいに使い、朝から始まった対局は夜になり、日付が変わり、深夜1時になって決着がついた。羽生の勝ち。
 そこから「感想戦」となる。ああだった、こうだったと研究、反省、ぼやく時間で、これの好きな人と、そうでない人といるらしい。小堀さんは感想戦が好きなタイプだったのか、このときの感想戦は延々とつづいた。なんと朝がきて、明るくなった。それでも小堀は感想戦をやめない。羽生少年はつきあったが、とうとう盤の前で寝てしまった。
 その記録をとっていたのが、勝又清和(現六段)で、まだ奨励会員だった。記録の仕事は終わったが、帰るわけにもいかない、勝又さんも、小堀と羽生の感想戦を聞いている。そして、朝8時になった。掃除のおばちゃんがやってきた。それでも小堀さんはやめない、眠りこけている羽生少年の前で一人で研究を続けている。9時になった。まだやめない。おばちゃんは、掃除ができない。
 10時になると、その日の対局がはじまってしまう。ようやく小堀清一九段は感想戦をやめ、羽生四段、勝又記録係は解放された。

 僕はこのエピソードが好きで。(羽生さんは高校へ行っていたんだっけ?) 
 この話は小堀九段の弟子の河口俊彦七段が書いた『新・対局日誌』(将棋世界)にあるのだが、「よく付き合ってくれた、と羽生四冠に感謝するのだが、こういうエピソードを知ると、大棋士になる人は、子供のときから違う、と思いませんか」と河口さんは書いている。
 小堀九段はこの羽生と対局の翌年に引退している。


 羽生善治と深浦康市が闘っている。

 自分も、相手も、お互いが「腰掛け銀」にすると「相腰掛銀」となる。この形が今、タイトル戦ではよく登場する。この前の名人戦第七局がそうだったし、佐藤・渡辺の竜王戦・棋聖戦でも出てきた。
 そして只今進行中の王位戦第4局も「腰掛け銀」になった!
 先手・後手が同じ型に… これは佐藤・渡辺の棋聖戦第2局と同じで、そのときは先手佐藤康光が堀口流▲2六飛で勝った。そして王位戦も、先手の深浦康市が同じように指し、後手の羽生の指し方が注目された。しかし、勝ったのは、深浦八段。どうも堀口流▲2六飛は優秀のようだ。羽生を持ってしてもうち破れないとは…。
 この堀口新手▲2六飛を僕が知ったのは、深浦さんの著書『最前線物語』なんだよねー。

 羽生善治 1-3 深浦康市

 あと一つ勝てば、深浦八段が初タイトルを獲得する。さて、それじゃあ、次は、その深浦さんのことを書きますか。

サバカン

2007年08月19日 | はなし
 日曜日にサバ缶(鯖のみそ煮)をおかずにめしを食い、『沈まぬ太陽』をさいごまで読み終える。99円のサバ缶を食べつつの、小説世界の中では1千億ドルの借金がどーのと、その対比がおかしい。読んでいて、くらくらした。
 この小説には、御巣鷹山の飛行機事故が出てくるが、あの時に墜落したジェット機のメーカーが米国のボーイング社で、B29爆撃機をつくったのもここだと、はじめて知った。で、大型旅客機をつくっているのはボーイング社だけなんですって。

 日曜日は将棋NHK杯。今日の対戦は、長沼七段窪田六段戦。200手をこえる闘いを、長沼さんが制しました。この二人は、表情がおもしろいです。ブログに描いた棋士が活躍してくれると、うれしいね。
 



初優勝は一生に1回きり

2007年08月18日 | しょうぎ
 職場に行ったら、犬がいた。
 「どうしたの!?」 聞けば、ドアを開けたら入ってきたんだと言う。大型の犬…アフガンハウンドってやつかな、人懐こくて毛並みがピカピカだ。「どうしたんだろうね」「散歩の途中で逃げて来たんですかね。でも外に出したら車が通るから危険でしょう。俺、外、見てきます。飼い主が探しているかもしれないので。こいつ、見ててもらっていいですか?」
 というわけで、僕と犬とふたりきり…。犬はエアコンのがんがんに効いた涼しい場所にいすわっている。外が暑いから入ってきたわけか。でも寒いのは平気なんだな…。僕は机に向かって書類を書く…すると犬が吠え出した。どうやら「暇だからかまってくれ」ということらしいが、エアコンの前に横になって動こうとしない。「かまってほしいなら、お前がこっちに来い!」と僕。「オン!」と吠える犬。でも動かない。またひと吠え。「何様だ! お前が来い!」「オン! オン!」


 今日は土佐浩司七段の話。
 1976年2月に土佐浩司はプロ(四段)になった。20歳でプロだから順調だし、才能があると言われていた。ところがその年の暮れ、谷川浩司がプロデビューした。こっちはなんと中学生だ。それからは「浩司」というば谷川浩司、ということになっていった。
 順位戦でいま土佐さんがいるクラスは「B2」というクラスで、これは150人以上いるプロ棋士の中で、上位から数えて30番目くらいの位置になる。ここからさらに上に上っていく棋士は一流になるし、40才くらいの棋士は「落ちてたまるか」とがんばる。1993年度B2順位戦、土佐さんは調子がわるく、落ちそうになった。最終局の相手は森内俊之。ご存知、現名人の森内だ。当時23歳。土佐さんはもちろん全力で戦った。そして敗れた。
 その日、終局後、土佐さんは大宮(埼玉県)の家までの道を、とぼとぼと歩いて帰ったという。歩いて帰りたい気分だったそうだ。深夜2時に東京千駄ヶ谷を出て、大宮に着いたのが朝8時。歩いて帰ったと出迎えた妻に告げると「あきれられた」と土佐さんは書いている。
 この「妻」というのが、きのうの記事で書いた真部一男八段の妹さんなのだ。(真部さんの妹なのだから、きっと美人に間違いない)
 「ああ降級した」と思って歩いて帰った土佐さんだが、実はライバルたちも次々と負けていて、結局たすかっていたのだった。この期では、森内俊之は上のクラスB1に昇級している。

 その土佐浩司六段(当時)が、1998年度早指し選手権戦の決勝に出た。これに勝てば優勝だ。それは150人の棋士の頂点に立つことっを意味する。相手は、あの、森内俊之だった。
 その対局は、200手を超える持将棋になった。これは「引き分け」で、決着をつけるためにもう1局指す。その将棋も熱戦になった。そして179手、土佐浩司が勝った! 23年目の初優勝だった。


 ところで、僕の「初優勝」は、39歳のとき。湘南の小さな将棋サロンの、わずか6人くらいのトーナメントだったけど。ふしぎなことに、その日は僕の誕生日で、そのあと数ヶ月の間に、僕はいろんな大会や道場で優勝できた。

美剣士・真部の妖怪退治

2007年08月17日 | しょうぎ
 ネットカフェで絵を描いてもダメらしい。PCがなおるまで我慢じゃ。

 僕の父親は電波オタクで、時代劇好きだ。テレビなどなかった若い時に映画館で観たふるい時代劇が見れるので、CS放送の時代劇チャンネルを契約している。それを横から覗いてみると、「美剣士もの」がけっこうある。主人公が美剣士で、悪い奴を退治にいく。この悪い奴が、ガマとかクモとかの妖怪の場合も多く、それをみて僕は、「ああ、これは『仮面ライダー』と同じつくりだなあ」と思う。
 日本人は昔から「美剣士」が好きだったんだな。
 友人の漫画家が『赤胴鈴之介』を持っていたが、鈴之介、途中からなぜか「仮面」をつけている。仮面の忍者赤影のような仮面だが、友人に「あれっ? なんで仮面つけだしたの?」と聞いたら「それが、理由がないんだ」と笑った。しかも鈴之介は「俺は『夜の帝王』だ!」と叫んでいる。どうやら「仮面をつけたほうがうける」ということで仮面をつけさせたらしい。貸本の時代の漫画だからね。それにしても『夜の帝王』って… アンタ、子供だろ?

 前置きが長くなった。真部一男(まなべかずお)八段のことを書こうと思ったら、「美剣士」を連想したのでこうなった。(せっかく絵も描いたのに、消えちまった!)
 僕がプロ将棋界に興味を持った時に、若くてかっこいい棋士の代表が真部一男だった。最近は顔をテレビで拝見することがなく、そのために僕の真部一男のイメージは、今も、若い美青年棋士、なのだ。真部さんはA級にまで登ったが、タイトル戦の経験はない。優勝暦は1回(早指し選手権)。 映画や小説では「美剣士」はかならず勝つが、現実はそうもいかない。現実の妖怪たちは、つよいのだ。
 真部さんは将棋世界誌に『将棋論考』という記事を連載しているが、これが面白いと1998年に将棋ペンクラブで評価をうけ、賞を取った。それで内輪でお祝いした時に、真部さんの妹さんが

「今はやさしくなりましたが、私の幼い頃、兄は、いちばんえらいのはで、次がゴジラ、その次がだ、といじめました」

と言ったそうだ。これは河口俊彦『新・対局日誌』に書かれている。

 先にコメントをくださった小暮さんが、将棋ペンクラブの観戦記部門の受賞をされているじゃありませんか! 王座戦、佐藤ー森下戦か、これはぜひ読んでみよう!

おわりとはじまり

2007年08月15日 | はなし
 1945年5月に空襲で東京中野の家を失ったいわさきちひろ一家は、長野県松本市へ疎開しました。ちひろの母の実家が松本にあったからです。8月、広島、長崎で新型爆弾が投下されました。原爆のことですが、これは新聞に載りました。長野県では「次は長野県の都市に新型爆弾が落とされるのではないか」と考えられていました。根拠は「松代大本営」という計画にあります。これは、東京は守りきれないということで、長野県松代に天皇と作戦本部を移転する計画で、75%までできあがっていたといいます。松本市は松代とは違うのですが、松本には軍需工場があります。そこでちひろ一家は機敏に動き、松本の西、安曇野へ再疎開したのでした。そしてその安曇野の地で、8月15日をむかえることになります。とつぜんの終戦です。

 ところで、長野県松代は、硫黄島決戦の総司令官栗原忠道中将の出身地でもあるらしいですね。先月の「硫黄島」の記事で、ほんとうに栗原中将が絵を描いていたか知りたいと書きました。調べてみて、わかりました。栗原忠道は、昭和3年からアメリカ留学をしています。映画『硫黄島からの手紙』のように車に強い興味を持ち、ドライブを楽しんでいたようです。あの映画のように絵心のある人ではなかったけれど、3歳の息子(太郎)に向けて、アメリカからの絵手紙を書いていたんですね。絵はうまくはないけれども、愛情に満ちた手紙です。(手塚治虫の母がオサム少年にへたな絵を描いてよろこばせてくれたというエピソードを思い出しました)



 「戦争をしらない子どもたち」という歌がありますね。僕も含めて、もうほとんどが、そういう「しらない子どもたち」の出身になりました。僕の子供時代には、大人たちは「しっている世代」でした。でも、ほんとうに、「しっていた」のかなあ…。
 僕は最近になって、しりたくなったので、調べ始めました。図書館で本を借りる程度のことですが。
 僕が知りたいのは、「なぜ日本は戦争をはじめたのか?」ということです。そしてなぜ、それを僕たちは明解に教えてもらっていないのでしょう? 原爆とか、空襲とか、そういうのを見せて、戦争の悲惨さを知らせ、戦争を起こしちゃだめだよ、という。そうだな、と思う。でも、「はじまり」を教えてもらうことがなかったのはなぜだろう?

 まず、太平洋戦争。アメリカとなぜ、戦ったか。
 どうやらそれは、日中戦争がこじれたためらしい、とわかってきた。
 日本は中国と戦った。「すぐに勝てる」と日本は思っていたのだろうか。確かに部分では圧勝した。主要な都市はほとんど取った。が、中国は広く、深い。「降参」と言わない。日本はやめたくなったが、中国が「負けた」と言わないので、どんどん兵を投入する。なりふりかまわず、捕虜虐待、無差別爆撃もやってしまった。それでも中国は「負けた」と言わない。言ってくれない。
 中国側もわかっていたのだ。日本も困っている、と。
 日本を主導したのは日本陸軍。その強引なやり方を見て、アメリカ等各国は、日本に対して、資源の供給を制限することを決めた。そうなると日本は困る。困ったからどうしたか。中国との戦いを止めればよかったのだが、それをせず、アメリカに奇襲を仕掛けたのだ。

 ではなぜ、日本は中国と戦争をしたのだろう?
 しらべていて、びっくりする。
 日本陸軍は、戦争の目的を持っていなかったのだ(!)。 目的もなく戦い、やめられなくなってしまったのだ。戦争が始まって、兵が死ぬ。金も使う。だけどそこで止めたら「負け」になる。ただ「勝利」という金メダルをもらわないと意地でも止められない…。それ以上の、理由らしい理由が、ないみたいなのだ。
 戦争(日中戦争)が始まったわけを、だれも教えてくれなかったのは、あの戦争には「たいした理由がなかった」からなのだ。たぶんはじめは、数ヶ月戦って、勝って、終わり、そんなつもりで始めたのだ。中国に「マイッタ」と言わせて、いい気分になりたいだけの空虚なおこないだった。


 ほんとうに恥ずかしい戦争でした。

重慶

2007年08月14日 | はなし
 『沈まぬ太陽』はアフリカ篇をもう少しで読み終えるところ。アフリカを舞台にした小説って、いいね。『野生のエルザ』を読みたくなりました。
 山崎豊子さんは、戦争中、工場で爆弾をつくっていたそうです。わたしはなぜこんな道具をつくっているのか、という疑問が小説家への道へすすませた、と読んだことがあります。

 今年のサッカーアジア杯は、東南アジアで行われ、イラクが優勝しました。感動的な試合だったと記事で読みました。
 前回、3年前に中国で開催されたアジア杯をおぼえていますか。ジーコ率いる日本が優勝しました。中国の観客の激しいブーイングと、試合内容が興奮させました。とくに準々決勝の日本ーヨルダン戦。1-1でPK戦になりました。日本は俊介、三都主がはずし、大ピンチ! ところがその後がすごかった。川口能活のスーパーなセービング! 忘れられない試合です。
 あのヨルダン戦は試合開始から、「異様な空気」がたちこめていました。あの「空気」が主役だったのかもしれません。

 あの地が、「重慶」です。

 ゲルニカ空爆、東京大空襲、沖縄戦をこのブログでは書いてきました。それらを書いておいて、「重慶」のことを書かないでおくのは、変だと思います。それで、大急ぎでこの記事を書いています。不勉強な点があるかと思いますが。

 「重慶」は中国・長江(揚子江)の奥にある大都市です。人口1200万人ですから、東京と同じくらい。この都市を、日本軍が「無差別爆撃」したのです。空爆したのは重慶だけではないのですが、代表的なのがこの地なんですね。
 日中戦争は1937年7月に始まりました。
 長江の河が海に注いでいる地が、上海です。そこから長江を上流にのぼっていくと、南京、武漢、そして重慶とたどりつきます。戦争当時、上海を制圧した日本軍は蒋介石のいる首都・南京を攻めます。南京を落としたら日本の勝ちだ、そう思っていたみたいですね。日本軍は南京攻略に成功します。でも蒋介石は降伏しませんでした。武漢に逃げました。日本はこんどは武漢を攻めました。それでも蒋介石は「負けた」と言ってくれない。蒋介石は重慶に逃げたのです。
 日本としては、本音をいえば、そろそろ戦争を終わりにしたかったでしょう。だから中国に「負けた」と言ってほしいのです。戦争を中止にしようという声もあったでしょう。でも、結局「強硬派」の意見が通ります。日本はさらに兵を中国に送ります。このころの中国での日本兵は(満州を除いて)85万人と推定されています。
 重慶を攻めるのは大変です。そこで「空爆」が大々的に行われることになります。表向きには「主要施設をねらって」となりますが、現実は「無差別爆撃」です。重慶の地は、霧や雲の出ている日が多いのです。
 重慶への爆撃は、1939年から1941年までの間、合計218回行われています。死者の数は、約1万2千人。
 1941年6月5日には、大防空壕の中で悲劇が起こっています。それは一八梯防空洞で起こりました。日本軍の空襲がくるというので、1万人の住民がその大空洞に入ったのですが、なんとほぼ全員が窒息死してしまったのです。施設の不備のせいですが、息苦しくなった人々はパニックになりました。外に出ようとしましたが、扉が内開きでした。落ち着いて開けば開くところを、パニックになった人達が扉の方向へと押してきてどうにもなりませんでした。

 重慶の都市は長江の中洲にあります。そこにはアメリカの軍艦も来ていました。
 アメリカのルーズベルト大統領は報告を聞いて、「日本はひどすぎる。一般市民まで爆撃で傷つけるとは、ゆるせない」と、日本本土へのB29による空爆の計画を推進することにしました。まだ日米が開戦する1年前、1940年12月のことです。

 あのアジア杯で騒いだ中国の若者達は、あの試合を楽しむために、日本チームを「悪役」にしただけなのかもしれません。スポーツに政治をもちこんではいけない… それはそうですが、僕はおかげであのときに「重慶」の文字を胸に刻んだのでした。知ってよかったと思います。
 重慶では、自転車をほとんど見かけないそうです。

カルガモが行く

2007年08月13日 | はなし
 佐藤孝吉『僕がテレビ屋サトーです』という本を本屋でぱらぱらとめくる…。「ゼロ戦と美空ひばり」という文字に目が止まる。ゼロ戦の番組を作って、しかし映像がないので、アナウンサーのアップばかりで90分… 「いいか、絶対に原稿に目を落とすなよ!」と佐藤Dが言う。 特訓後、アナウンサーの福留功男が台本に目を落とさずに最後まで読みきった。その番組を美空ひばりが観ていて「あなた、トメさんね。見たわよ、ゼロ戦。あなた、ホンモノよぉ」と誉めたという話。それが気に入って、この本を図書館で借りてきた。(美空ひばりのこともそのうち書きたいと思っています)


 面白そうなところを拾い読み…。

 カルガモの番組の話が面白かった。
 あのカルガモブームを作ったのはこの佐藤という日本テレビのディレクターだったのだ。
 初老になり、仕事のない、落ち目のディレクター佐藤が、机を片付けていると、ある記事の切り抜きが、パラリ、ハラハラ。気になるその落ち方…。
 それがカルガモの引越しの小さな記事。「今年も引越しするのかな?」 それでカメラマンに声をかけ、カルガモに張り付く。徳光和夫の『ズームイン朝』で毎日2分だけの時間をもらって流しだしたら徐々に人気が出て、他局もやってくるようになった。そうなると、「引越し」の決定的瞬間を撮れるかどうかが、勝敗を分ける。
 ある日、カメラマンネコ(金子だから、ネコ)が言う。「(今日、カルガモが)行きます。絶対です」 ネコ氏は、母親カルガモの、尻尾の動きがいつもとちがう、それに目がイロっぽい、という。「よし!」他局のクルーはすでに引き上げている。
 そして! 
 ついに、母カルガモと12匹の子カルガモは動く! 皇居のお堀をめざして。しかし… 朝9時、交通量がすごい。母カルガモは立ち止まる。
 「無理だ」とスタッフは思った。しかしカルガモ母は行く気だ。そういう顔だ。
 そのとき、カルガモ母の目と佐藤Dの目が合ったという(笑)。 びびびびびッ! 佐藤Dは決断する。
 「よし。車を止めよう!」
 「止まってくださーい!」
 「なんだ!?」 「カルガモ!?」
 カルガモ一家の堂々とした行進。
 警察「出動願いまーす。カルガモさんのお引越しです」「ガーッ、了解…」

 こうして「カルガモのお引越し」を取り終えた佐藤Dは、電話BOXから報道デスクに連絡したあと、泣き崩れたのであった。50代男が、カルガモの引越しを撮って、泣く。

 あのカルガモニュースはもう20年ほど前のことだったと思う。僕はあの頃TVを持っていなかったが、それでも話題になるほどだった。僕の友人はあきれて、「あんなカモ、どこにだっているのに!」と怒っていた。
 この佐藤孝吉ディレクターは後に『はじめてのおつかい』をつくる。四谷のとんかつ屋でロースかつ定食と食べながらカルガモさん母子を思い出していたら、この番組を思いついたのだそうだ。カルガモの12匹のうちの「チビ」が、一番の人気者だったそうだ。


 ぱらぱらとこの本をめくる…。とばしていたアフリカロケの話を読んでみる…。
 「え?」 驚いた。

 36歳のとき、この佐藤Dは、限界を感じ、テレビの仕事を辞めようかと悩む。父親の死も重なり、ドラマの仕事も下ろされる…。そんなときに、うまくいくとは思えないアフリカロケ…。「テレビ、やめちゃうか…」
 ところがアフリカに行ってある男と出会い、佐藤さんは「再生」する。
 佐藤Dが、アフリカ・ケニヤで出会ったその「男」、小倉さんは、航空会社のサラリーマンで、狩が趣味。佐藤Dは小倉さんと狩に行き、しとめたインパラの肉を食い、ビールを飲む。丘の上で夕日を見ながら『2001年宇宙の旅』の話をする…。

 この小倉さんが、山崎豊子『沈まぬ太陽』の主役のモデルだというのである!
 僕は先月、この小説は読む気になれないと書いたばかり。ただ、僕はこの小説を図書館で手にとって、その「あとがき」だけは読んでいたのだ。そこには、『大地の子』を書き終えたあと、書くものがないと困っていた山崎さんが、アフリカである「男」に出会って、「あなたを書きたい」と口説いた話が記されていた。
 それよりも10年ほど前に、佐藤孝吉Dは、「男」とアフリカで会い、「再生」したのだという。『沈まぬ太陽』を読みながら、佐藤Dは「まさかこの人…やっぱりだ、小倉さんだ! お久しぶりです小倉さん!」と思いながら一気に読んだという。
 この小説のことを佐藤Dはこう書いている。「名作です。もしまだ読んでいなかったら、是非、お読みください」

 まあそんなわけで僕は『沈まぬ太陽』を読みはじめました。
 この小説の冒頭は、主人公(恩地元)が、アフリカで、突進してくる象を仕留めるところからはじまっています。

はな子 60歳

2007年08月12日 | はなし
 象の体毛は長いのですが、野生の象はみじかいのだそうです。それは象同士がぶつかりあってコミュニケーションをとって暮らしているからだそうです。
 はな子は2歳のときにタイからやってきました。まだ子どもの象で、ちいさなからだでした。終戦後4年目のことです。はな子は戦後初めて来た象として、熱烈に歓迎されました。やがてインドから、インディラという名の象もやってきました。こちらはおおきなからだでした。大きいほうが、象は人気が出るんですね。やがてはな子はめだたなくなります。そのうち、他の象も上野動物公園にやってきて、はな子の仲間がふえました。ところがその後、「はな子がほしい」といわれて、はな子は井の頭公園へ。それからは、はな子には象の仲間がいません。ですから、はな子の体毛は長いのだそうです。
 はな子は60歳だそうです。いまも井の頭公園に行けば、会えます。

 昨日の記事に書いた友人のオケさんは、若いとき、広島の皆実町に住んでいて、そこで絵を描いているうちに面白くなって夢中になります。19歳のときです。それがあんまり楽しいのでやめられなくなり、やがて大学へ行かなくなって、絵ばかり描いて過ごします。それから1年半ほどして、また大学に行くようになり、そこで僕はオケさんと知り合います。その後、僕が同じようなこと(つまり学校さぼって絵の練習に励む)になるのですが。
 オケさんも僕も、ちゃんと卒業してるとこがえらいよね。(中途半端ともいう) 「卒業しても、なんの意味無いけどね」

 ところで、皆実町といえば「夕凪の街 桜の国」の皆実です。あの物語の中のキャラには広島の町の名前がついています。翠町、旭町、富士見町、打越町…。
 映画版「夕凪の街 桜の国」では少し広島カープの話題が省略されていたのが残念でした。カープが初優勝したときの市民の熱狂はすごかったといいます。街に外国人がいると、「シェーンだ」「ホプキンスだ」と胴上げされたとか。優勝パレードでは、おばあさんが選手の手をにぎり、「生きている間にカープの優勝が見られるとは思わなかった。ありがとう」と泣いたとか。
 広島の夏はほんとに暑い。あの「凪」ってやつは…。