はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

絵のない絵本

2008年01月30日 | ほん
 ふしぎなことです! わたしは、なにかに深く心を動かされているときには、まるで両手と舌が、わたしのからだにしばりつけられているような気持ちになるのです。そしてそういうときには、心の中にいきいきと感じていることでも、それをそのまま絵にかくこともできなければ、言い表すこともできないのです。しかし、それでもわたしは絵かきです。わたしの眼が、わたし自身にそう言い聞かせています。それにわたしのスケッチや絵を見てくれた人たちは、みんながみんな、そう認めてくれているのです。
 わたしは貧しい若者で… (中略)

 「さあ、わたしの話すことを、絵におかきなさい」と、月は、はじめてたずねてきた晩に、言いました。「そうすれば、きっと、とてもきれいな絵本ができますよ」


 これはアンデルセン著『絵のない絵本』の冒頭である。「月」が、「絵かき」にいろいろな話を聞かせるという内容のこの本の文庫本を僕は若いときに買って、いまも持っている。(タイトル通りに挿絵はなし) だが、全部は読んでいない。アンデルセンの他の童話と違って、この話は、面白さがわかりにくい。それぞれの話に「オチ」がないのだ。 
 いわさきちひろは、この作品に絵をつけている。『絵のない絵本』で「月」の語る話は第一夜から第三十三夜まであって、それは、中国であったりグリーンランドであったり、時空を自在に駆けめぐっている。上の絵は、第二十夜のちひろの絵を模写してみた。「月」が見かけた、ローマの少女の話である。

 第二十五夜ではドイツのフランクフルトの老婦人の話。それはユダヤ街の「みすぼらしい平民の家」に住むロスチャイルドの家なのである。
 ロスチャイルド__。この家はその後、世界を動かすほどの大富豪になった。
 ナポレオン戦争によって財産を築いたマイアー・アムシェル・ロスチャイルドの5人の息子たちは、ヨーロッパの各地に飛んだ。最も巨大になったのは、三男ネイサン・ロスチャイルドで、英国の金融王となった。フランスへ行った四男ジェイムズ・ロスチャイルドは鉄道王となり、オーストリアの最初の鉄道をつくったのもロスチャイルド家だ。そして、イギリスがエジプトのスエズ運河を手に入れるために株を買い占めたことは前に述べたが、そのときに英国にその資金を提供したのがロスチャイルドであった。彼らは、安全に、確実に、巨額の資金を運ぶ手段を持っていた。そうやって「信用」をつくっていったのだ。
 どういう思いでアンデルセンがこの本の中にロスチャイルドを描いたのか、それはまったくわからない。

 
 「月」は「わたしの話をかきなさい」と言ったけれど、「きっと、とてもきれいな絵本ができます」と保証してくれたけれど、そうは言っても、『絵のない絵本』を描くのは難しい。
 ちひろがヨーロッパ旅行をしたのは1966年、47歳のとき。自分の仕事に自信をつけ、『絵のない絵本』を描きたくなったちひろは、どうしてもアンデルセンの故郷を見なければ、と思ったのだという。アンデルセンの故郷は、デンマークのオーデンセという町だ。

 アンデルセンはこの物語のラスト第三十三夜を、ある四つの女の子の、次の言葉でむすんでいる。


 「お母さん、怒らないでね」と、小さな女の子は言いました。「あたし、お祈りしたのよ。パンにバターもたくさんつけてくださいまし、ってね!」
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犬と電柱

2008年01月29日 | はなし
 昨日はふだんあまり出会わないものに二つ出会いました。
 一つめは、乗用車の追突事故。僕のまえでスポーツカーが止まったとおもったら、その後にタクシーが追突。よけられるのにわざとぶつかったようにも見え、異様でした。その前からクラクションを鳴らしていたし、両者はケンカしながら走っていたようなのです。
 二つめは、電信柱にションベンする犬。ひさびさに見たなあ。

 「東中野の… … アア、つっ立ったまんま~ 電信柱にーひっかけた夢~♪」(by長渕剛)


 今日、『白夜のチェス戦争』(ジョージ・スタイナー著)が届きました。これはボビー・フィッシャーとボリス・スパスキーの1972年のチェス世界選手権の王座決定戦の模様を描写したもの。対決の場所はアイスランドの首都レイキャビーク。これから読みます!
 フィッシャーさんは今月17日に64歳で亡くなりました。将棋では9×9=81歳を盤寿といいます。将棋の14世名人木村義雄氏はその盤寿81歳で亡くなりましたが、フィッシャーさんは、チェスの盤寿8×8=64歳。 なんとも見事ですなあ。
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かれい

2008年01月27日 | はなし
 最近気になったニュースは、これだな、「15年前に川崎の小学生が風船でとばした手紙がカレイの背中にくっついていた」ってやつ。拾ったのは千葉の漁師さんで、15年前の小学生は今は21歳早稲田大生。で、この女子大学生の名前が「白髭(しらひげ)」っていうのが、すばらしい! 浦島伝説を想起させてくれます。手紙の文面にも「うたったりおどったり」とあるし。水深1000メートルに近い場所で捕れたカレイなんだと。


 おてがみをひろった人へ

 わたしは小がっこう1ねんせいです。いまわたしたちのがっこうは、百二十さいです。そのおいわいで、みやしょうおんどをうたったりおどったりします。このおてがみをひろったかたは、おへんじをください。


 それでカレイを買ってみたんだけど(笑)、お店では裏返しにして売っているんですね。ナルホド、表は黒くてヌメヌメしてるからねー。 さあ、食うか。

 あと、センター試験で、夏目漱石が出たんだそうで。


 それから、アイスランドで、ボビー・フィッシャーさんが亡くなられたそうですね。2年前、日本にいたんだってわかったときはびっくりしました。あの時、羽生さんは小泉総理に「フッシャーさんに日本の国籍を差し上げてはどうか」とメールを送ったのでした。僕は、ボビー・フィッシャーと羽生善治のチェス対決が実現するのではないかと、ドキドキしました。
 ボビー・フィッシャーについてはあらためてこのブログに書くつもり。でも資料がほとんどない。とりあえず『白夜のチェス戦争』を図書館で取り寄せてもらうことにしてそれを待っているところです。

◇王将戦  羽生善治 2-0 久保利明
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梨の月

2008年01月15日 | ほん
 『田辺元・野上弥生子 往復書簡』という本を見つけた。
 哲学者田辺元(たなべはじめ)と小説家野上弥生子(のがみやえこ)が恋愛をしていたらしい、という証拠の本である。二人ともに70歳の頃のことである。
 初めはお互いに夫婦同士のつきあいであった。それが、弥生子の夫野上豊一郎が1950年に他界し、その翌年に田辺の妻が亡くなった。もともと弥生子は田辺の妻と親しかった。その夫の元のことは、気難しい人という印象であった。ところが、独り身になった田辺元の心配をしているうちに、この男の内面に、魅力的な何かを弥生子は見つけ出したようなのである。
 

 1953年10月の弥生子の元への手紙。
 田辺元が野上弥生子に梨を送ったらしい。弥生子はそのお礼を手紙で述べたあとに、先生こそ梨をたくさんめしあがって栄養をとってほしいと書きそのあとにこう続けている。

 〔昨夜ひとりストーヴのまへに椅子をよせ、薪の燃ゆる音に耳傾けながら、赤い木彫りの鉢にもった梨をじっと眺めてをりました。そのうちに見てゐるのは私ではなく、梨から却ってぢつと眺められてゐる気がして参りました。そのうへ梨はその時私が考えてゐたことを、なにもかも見抜いてゐる感じがいたしました。果物のくせに少し生意気におもはれました。私は一つをとりあげ、窓から空にむかって投げて見ようか、さうしたらこのころ夜ごとにまるくなってゐるお月さまの外に、もう一つ青白い美しい月が出来るかも知れない、とふとそんな幻想に捉はれました。〕

 「果物のくせに」というところが面白い。ほんとうは「○○のくせに!」と元にむかって言いたかったのだろうか。
 そして同じ年の11月の手紙。その弥生子から元への手紙には長い文章の後に数編の詩が添えられていた。次の詩がその一つ。

   あたらしい星図
  あなたをなにと呼びませう
  師よ
  友よ
  親しい人よ。
  いっそ一度に呼びませう
  わたしの
  あたらしい
  三つの星と。
  みんなあなたのかづけものです
  救いと
  花と
  幸福の胸の星図

 これに応じて田辺元が弥生子に送った11月17日の手紙には、野上弥生子の師でもある夏目漱石の小説に関しての批評が書かれている。どうやらこの手紙の前に二人は会って話をしているらしく、そのときに言い足りなかったことをどうしても弥生子に理解してもらいたいようで、その熱情が手紙に表れている。要約すると、次のような内容である。
 漱石の初期の小説『坊ちゃん』『草枕』はまだ芸術とはいえない、『虞美人草』(漱石が本格的に小説を書き始めた最初の作品)もまだ不十分である。『虞美人草』の登場人物は、小説のための「将棋の駒」のようであり、活きた人間の血が感じられない。『三四郎』『それから』までその傾向は脱却できておらず、『門』『心』に至って漱石は立派な作家になった、というのである。そういう漱石の作品を例にとりながら、田辺元は、野上弥生子の小説の登場人物を批評して「まだ、活きた人間の血が通ってない」というのである。小説家としての才能があるあなただからこそ、そこに気付いて欲しいというのだ。
 この熱情は、老人のものではない。70歳をむかえて、まだ、手を伸ばして天を掴まんとしている。
 そのように率直に批評したあと、手紙に、田辺元は5篇の短歌を付け加える。そのうちの一つ目がこれ。

 君に依りて慰めらるるわが心 君去りまさばいかにせんとする

 あなたがいないとこまる、と老哲学者は言っている。
 なるほど。これは、恋であろう。
 文字の世界の深遠にいる二人の恋である。その深さについては田辺元のほうが上手だっただろうが、そこに弥生子はついて行こうとしている。野上弥生子の三男茂吉朗は物理学者だったので、その息子に最新の素粒子学について聞いたと報告していたりする。また、弥生子「ソクラテスが現代に生きていたらどんな行動をするだろう」などと手紙に書いているが、その返信で田辺元は、「哲学者としてソクラテスは至上の人でありますが、… 弱小の小生自身にとりあまり高邁に過ぎて、御恥づかしきことながら、彼を学び彼に似ることができませぬ。」と述べている。僕にはここがとても興味深かった。田辺は、プラトンには心惹かれるが、ソクラテスには近づけない、と言っているのである。
 ソクラテスは、本を書く人ではなかった。つまりソクラテスは「文字の世界に遊んだ人」ではなかったということである。そのソクラテスの存在に深い「知恵」を感じたプラトンは「学問」によってソクラテスに近づこうとした。プラトンは沢山の著作を残した。勉強のすきな人間だったのだ。この、プラトンとソクラテスの間に、「文字の学問をする人」と「文字の向こう側の世界を見ている人」の境界があると思う。(と、カンで言ってみた。僕はプラトンを全く読んでいないのだ。)
 田辺元も、やはり「文字の世界に魅入られた人」だったのだなあ、と思う。

 もう一つ、僕の興味をひいたのは手紙の中の次の野上弥生子の文章(1954年12月)。

 〔お正月と申せば四日の夫人の時間に放送するための所謂対談なるものを、中村屋のおかみさんのお良さん黒光女史といたしました。何十年ぶりかに逢ひましたので、明治女学校のむかし話が沢山でまして、ラヂオには出ない部分の方がいっそ面白いのでございます。お良さんは八十に来年なります由で…〕

 「中村屋のおかみのお良さん」…相馬黒光(そうま こっこう)のことである。新宿中村屋のことは去年このブログでも書いている。(8月11日「新宿中村屋のクリームパン」9月2日「恋と革命の味」) インドの革命家ボースを匿った話などである。黒光は、良(りょう)というのが本名だが、女学校時代、「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」ということから「黒光」というペンネームを恩師からいただいて使っていた。芸術のすきな人だったようで、僕が新宿中村屋の相馬黒光を知ったのは、去年の6月、安野光雅の画集『安曇野』を図書館から借りてきたとき。この画集のなかで安野氏は、臼井吉見著『安曇野』のことを書いていて、その主人公が、新宿中村屋の創業者相馬愛蔵・黒光夫妻なのだった。
 中村屋の黒光も野上弥生子も、明治女学校出身なのである。歳が離れているので同時には在籍していないが。
 ついでに書いとくと、僕が正月に買った夏目漱石『草枕』の文庫本(新潮)の表紙絵は、安野光雅氏が描いたものである。


 元と弥生子__二人の付き合いは田辺元が亡くなる1962年まで続いた。野上弥生子は99歳、1985年まで生きた。そこから約10年ほどして、二人の周辺からそれぞれが持っていた手紙が別々に発見され、21世紀になってこの本で一つにまとまったというわけである。(時空を超えた恋、ですなあ。)


 だらだらと書きました。(書きすぎじゃ!)
 しばし、ブログ、休みます。 ではでは。
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夏目漱石の顔

2008年01月14日 | ほん
 夏目漱石氏は、以前1000円札の顔でした。お札の漱石の顔のところを山折り谷折りにして下から眺めると「ニヤケ顔の漱石」になりますが、僕は夏目漱石といえばあのニヤケ顔を連想してしまいます。
 漱石っていろんなところで銅像になってるんですねえ。銅像にされる気分ってどんなかしら? 肖像権のしんがいだーって怒っているんじゃない? あの世で。
 アインシュタイン博士の、あの有名なアッカンベーの写真は、第二次世界大戦後に、ある記者の「博士、誕生日のこの日に、なにかひと言お願いします」という要望に応えたもの。あの写真は、ア博士もたいそう気に入っていたようです。

 僕はもともと1年に読む本の量は20冊くらいで、1年のうち50日くらいの間読んでいる。だからあとの300日以上は本を読まない日__そういう人間であった。ところがこの半年間(正確には8ヶ月)、毎日本を読んでいる。本を読むことは、「非日常世界」を旅することで、かなり疲れる。しかしおもしろいので、なかなかやめられない。(そろそろ着地できそうな気がしているが。)
 この読書の長い旅は小川未明作いわさきちひろ画『赤い蝋燭と人魚』、それから角田光代『あしたはうんと遠くに行こう』からはじまった。『あしたは…』は全然読んでいないのだけど、今思えばこの本のタイトルが、僕の読書の旅を暗示している。
 最近読んだ本は『ユダヤ人の歴史』(ポール・ジョンソン著)。2ヶ月前から少しずつくりかえし読んでいるが、ユダヤ教とキリスト教の成立の歴史が面白い。これを読み始めたきっかけは、アインシュタインがユダヤ人だからだ。ユダヤ人の歴史は4千年前から始まっており、それが文書に記録されているというからクラクラする。その記録はヘブライ語で書かれているが、このヘブライ文字も、ギリシャ文字も、アラム文字も、もとはエジプト文字なのだそうだ。つまり西洋の文字文明のルーツがそこにあるのだ。「本」という海を遠く遠くへ航海していたら、古代エジプトにまで行き着いた。そして…
 では、「文字」のむこうにはなにがあるのか。「文字」のない世界…

 話を変えよう。
 ラフカディオ・ハーンは1890年にやってきて、島根県松江に住んだ。そこで小泉セツと結婚するのだが、僕らの印象ではこの松江にずっと長くくらしていたように感じているが、事実はそうでなく(実際は2年)、その後就職の関係で、熊本、神戸と移り住む。だが、熊本や神戸はどうもハーンにとって水が合わなかったようだ。東京もハーンは気がすすまなかったが妻のセツが東京へ住みたいと望むので、帝国大学(東大)の講師の依頼を受ける。ハーンが「怪談」のシリーズを書いたのはこの東京時代の7年間である。14年日本に住みながらもハーンは日本語が読めなかった。妻セツが古本屋などから探してきた本を、子どもに寝物語をするようにハーンに読み聞かせた。それをハーンがあとで英語に書いたわけである。
 1903年、7年勤めた帝国大を解雇される。これはハーンにとってショックだった。またハーンを愛していた学生達にとっても同じで、これに対する反対運動が起こる。だが決定は覆らなかった。ハーンが解雇されたのは「次の予定」が決まっていたからである。夏目漱石がイギリス留学から戻って来てハーンの後に英文学を教えた。そういう環境だったので、漱石もずいぶんやりにくかったようだ。
 ハーンが帝国大を解雇されたと聞き、早稲田大学の学生達が騒ぎ始めた。早稲田にハーンを呼んでくれ、というのである。こうしてハーンは早稲田の講師になった。その生徒の中に小川未明がいた。小川未明の卒業論文テーマはラフカディオ・ハーンである。
 しかし早稲田大の講師となったその年1904年にハーンは亡くなった。 墓地は雑司が谷(池袋の近く)で、ここにはたくさんの有名人がねむっており、夏目漱石の墓もここにある。

 夏目漱石は大学で講師をしながら、やがて小説を書きはじめる。その後、朝日新聞社に入社し、本格的に小説を書く。
 晩年、岡本一平と交流があったことはすでに述べた。それは1914年頃からのことである。一平の、解説文を付けた新スタイルの漫画は「漫画漫文」とよばれ、人気となった。漱石もこの漫画のファンだったようで「鋭くて風刺的だが苦々しいところが無い。そして残酷さがない」と誉めていた。
 漱石は1918年に亡くなった。(ついでながら、この年にはいわさきちひろ、升田幸三が誕生している。)
   ←一平画
 岡本一平は朝日新聞に入社して漫画を描くようになり、収入は安定した。収入は安定しても、生活は安定しなかった。一平の「放蕩」が始まったからである。稼いだお金をすべて遊蕩につかってしまう。
 一平の文学への憧れが一平を「放蕩」へと走らせたのであろうか。ほとんど家庭を顧みず、妻かの子は精神を崩していった。また、芸術家の大好きなかの子にとってみれば、一平が売れたといっても、画家としてではなく漫画家というのが気にいらなかったということもあるようだ。そういう中で、かの子の親愛なる兄・雪之介が世を去った。岡本かの子はこの時代を、暗黒の時代とのちに呼んでいる。
 「遊蕩文学論争」というのがあったそうである。当時の「遊蕩」は売れっ子小説家の間でのブームであったようだ。当時は日本流の自然主義が文学の主流になっており、その考えの根底に、「経験していないことを書くのはリアリズムじゃない」というのがあったようだ。しかしそれなら、一日中机の前で小説を書いていても、なにも面白いことは起らない。書くことがない。そういうわけで、酒を飲み、女と遊び、後悔して、自分の内面の黒々としたものをリアルにみつめる…というのが流行文学だったのだろう、と僕なりに解釈している。
 当時、「遊蕩文学でないのは、夏目漱石と小川未明だけ」と言われたそうである。夏目漱石の小説は、自然主義が流行る以前の主流だったロマン主義にちかいといわれている。

 小川未明は、20代から多くの小説を書いた。そのうち、未明は、童話創作を主な仕事としていく。
 未明が1921年2月に発表したのが『赤い蝋燭と人魚』。この作品はのちに未明の代表作となるのだが、掲載紙は朝日新聞である。(そしてここが重要なポイントなのだが)その挿絵を描いたのが岡本一平なのである! (ソースはこちら) つまりちひろの前に、一平がこの童話の絵を描いていたわけだ。
 僕がこのブログで岡本一平のことを書いているのは、実はアインシュタインがきっかけだった。アインシュタインの訪日について去年の8月に調べていたら、岡本一平とアインシュタインが話をしているらしいとわかったのだ。それで一平のことを調べたくなったのだった。(内容についてはまたいつか)
 その岡本一平が、いわさきちひろがまだ2歳の時に、朝日新聞で『赤い蝋燭と人魚』の絵を描いていた、そしてその1年後にア博士は日本にやってくるのである。ちひろが亡くなるのは55歳の時であるが、すでに書いたとおり、その最後の仕事が絵本『赤い蝋燭と人魚』(未完)だった。

 1922年11月、神戸港に到着したアインシュタイン博士は、日本に来た理由を聞かれこう言った。「理由は二つあります。まず一つ目は、ハーンの描いた日本をこの目で観たかった。二つ目は、科学を通じて日本との交流を深めるためです」
 真っ先に、博士は、ハーンのことを言っているのです。

 ところで、4日前の記事「哲学はエロいのだ(たぶん)」で書いた中の小説家野上弥生子さんは、夏目漱石門下なのでした。僕は野上弥生子って全然知らなかったけど、図書館の検索機では190点もの検索数がありました。野上弥生子『ギリシャ・ローマ神話』ってのが棚にあったけどこれは彼女が20代に出したもので漱石先生の監修らしい。『秀吉と利休』…あ、これはタイトルだけは知っていた。野上弥生子は、骨太の小説を書く人のようで、できれば読んでみたいとおもいます。

 が、本音を言えば、そろそろ「本の海」の航海は終わりにしたい。でも、どうなるか… 風に聞いてくれってかんじ~。
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ラフカディオ・ハーンの漫画

2008年01月12日 | まんが
 ハーンの写真を鉛筆で模写しました。ハーンは写真に写るときはいつも左を向いています。なぜかというと、自分の左目を「醜い」と思っていたから。16歳のとき、友人と遊んでいて誤ってロープの結び目が当り、左目を失明しました。以後、本能的に談話中も相手から隠すように傷ついた目の上に手を置いていました。
 でも、もとはかなりハンサムですね。

 ギリシャのレフカダ島で生まれたハーンは、イギリスで育ち、成人してアメリカに渡りました。そこでの仕事は新聞記者です。ハーンは、ある殺人事件の記事を書いて有名になります。こんな感じの…

 〔近づいて観察するとその遺体の恐るべき状態がだんだんと判然としてきた。___半焦げの腱によって互いに引吊られ、半ば溶けた肉によって恐ろしい様で膠状に引きついた。ボロボロに崩れかかった人骨の塊と、沸騰した脳髄と、石炭と混ざってにごりになった血。 … 〕

 ずいぶんくわしく観察した死体の描写です。新聞記事にしてはくわしすぎるこのような描写がえんえんと続くのだそうです。


  ↑
 これらはハーンの描いた漫画です。
 1879年に、ハーンは2年間働いた『アイテム』紙が経済的に破綻寸前であることを知りました。そこでハーンは、自分が絵を描くので記事に挿絵をつけてはどうかと編集長に提案します。この提案は受け入れられ、そして成功でした。『アイテム』紙はもちなおします。
 ハーンは、その後2年間に175点の挿画を描いています。味のある、街の観察日記のような内容です。

 これを見て僕は、岡本一平を思い浮かべました。
 画家としての才能に限界を感じていた岡本一平は、縁があって朝日新聞へ入社します。一平は漫画(一枚画)を描いて、ちょっと長めの味のある文章をつけ加えました。もともと「小説家になりたい」と父に申し出たくらいですから文章を書くのもすきなのです。
 同じ朝日新聞に、夏目漱石がいて、漱石はある日、岡本一平を自宅へ招き、「君の文章はとてもいい。時には画よりも文のほうが優れていることさえある」というようなことを言っています。以後、漱石と一平は親しくなります。
 岡本一平の活躍は1910年代以後のことですから、漫画家としては、ハーンのほうが、なんと30年ほど先輩ということになります。ハーンが日本に来たのは1890年、その時、一平、まだ4歳。 漱石はその年に帝国大学(東大)入学。
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ボールペン画

2008年01月11日 | はなし
とくに意味はありません。
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哲学はエロいのだ(たぶん)

2008年01月10日 | はなし
 哲学は、わからない。いまさら判ろうともあまり思わぬが、哲学者に興味はある。「あんた、なんでそんなこと考えるのさ?」 その答えが知りたい。知りたい、といっても、じつのところ、すでに僕の中では答えがほぼ、でている。
 哲学者がテツガクするのは、それが「エロい」からだ。そうにちがいない。哲学者が「考える」というアホなことに時間を浪費するのは、それが「恋」だからなのだ。
 人はなぜ「恋」をするのか。理由はない。いや、あるのだろうが、それがはじまったときにはわからない。わからないから、謎だから、面白いのである。
 自分を突き動かす「野生」によって「恋」はすすむ。その自分の内側にあるそいつ「野生」は、「なにか」を求めている。それが何かわからない。「謎」にむかってすすむ…。
 そうして、やがて、自分の内の「野生」と、「なにか」が交ざり合う。エロい。それが恋であり「テツガク」だとおもうのだ。

 中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』という本は、20世紀前半に日本の哲学の礎を築いた二人の哲学者が何を考えていたのか、を解説した本です。二人の哲学者とは、西田幾多郎と田邊元(たなべはじめ)。このうち西田は有名なのですが、田邊の「考えたこと」は影のように隠れてしまっています。それを中沢氏が掘り出してこの本で明らかにしている。西田以上に、個性的でおもしろい(つまり僕流にいえば「エロい」)ことを考えていたと、中沢新一は田邊元を再評価しています。(たなべはじめ…と書いたとき、「たべはじめ?」と思いました。)
 西田幾多郎と田邊元、二人とも京都大学の教授だったのですが、実は僕はこの二人ともに、すでにこのブログの中に脇役ながら登場させています。アインシュタインがらみで。
 西田幾多郎→07年9月19日「詠う物理学者」9月22日「ヒヤデス星団」
 田邊元(田辺元)→07年10月4日「伯林の月」
 (こんなふうに、いま、僕の読書はつぎつぎといろんなものがつながっていきます。これまた、エロい。)
 西田幾多郎は、改造社の社長山本にアインシュタインのことを教え、ア博士の訪日のきっかけをつくった人として。西田は、アインシュタインが京都で講義をしたときに「今日は相対性理論のできるきっかけを話してもらえないか」と注文をだした。その話をア博士はなぜか欧米ではほとんどしておらず、しかしア博士は承諾してくれた。それで博士の日本・京都での講義は貴重なものになっている。
 そして田邊元は、ドイツでの、ア博士と改造社との訪日計画の最終交渉の場にいた。交渉にあたったのは「伯林の月」秋田忠義であったが、秋田だけではドイツ語に自信がない。それで、当時ドイツ留学中だった37歳田邊元の協力をあおいだわけだ。
 田邊元は、東京神田生まれ、初め東京大学数学科に入ったが、やがて考えることは好きだが数学的な計算処理が苦手だと気づき、哲学の道へと変更する。

 さて、僕はこの本をよみながら、結局、「田邊元の思想」のリクツがさっぱりわからなかった。なめるように(考えずに)読み飛ばすので当然だが。だが、「テツガクはエロい」というその感じをつかもうとした。哲学者は「テツガク」に「エロいなにか」を感じている、それはどのようなものか。彼らが「学者コトバ」で構築する文章の底を、流れている「エロいもの」があるのだ。
 学者は、学者として評価されなければならないので、「それ」を学者の言葉で描く。同じものを、神話は「熊」や「ねずみ」や「亀」をつかって描く。底に流れているものは…
 テツガクはきっと、エロい。

 こんなエピソードが書いてありました。
 ヒトラーの勢力下にあったドイツで、哲学者ヤスパースは寂しくこころ細い誕生日を迎えようとしていた。ヤスパース夫人はユダヤ系の人であった。
 日本で、そんなヤスパースのことを心配しているシンチンガーという人がいて、ヤスパース先生を励ますために、日本の大学から「名誉博士」を送るなどできないだろうかと大学に相談に行った。その相談に乗ったのが田邊元で、日本の哲学者たちはヤスパース先生を師と思っている、しかしそういう称号を送ってもヤスパース先生はうれしくないだろうから…と知恵を絞った。そして田邊はヤスパースに手紙を書いた。
 孤独と暴力的圧力による緊張の中で58歳の誕生日をむかえていたヤスパースは、その日本からの手紙を読んでよろこんだ。そこには、誕生日のお祝いの言葉と、そして京都大学で刊行している『哲学研究』にぜひともヤスパース師の原稿を賜りたいと書かれていた。ヤスパースはすぐに「世界知の限界と自由」という論文を書いて日本に送った。
 田邊とヤスパースとは、かつて面識はあったが、親しく交際していたというわけではないようだ。だが、ヤスパースは田邊のことを覚えていた。戦後、ヤスパースはその手紙について「これは、当時のドイツで、かろうじて私の身を守ってくれた唯一のものでした」と記している。

 田邊元は、晩年を北軽井沢ですごしました。そこで、どうやらプラトニックな(とおもわれる)両思いの恋愛をしていたらしいのです。その相手は同年齢の女流小説家・野上弥生子。そしてこれを証言したのは、哲学者の梅原猛。 中沢新一は、そのことを書いたその梅原の文章を読んで、なるほど、そうか、と思ったそうです。晩年の田邊元の哲学論文には、難解な文字の中に「愛」という字が多くみられるというのです。

 370ページに及ぶこの本の、p287にこう書いてありました。

 〔田邊哲学とは、いかにも厳格で禁欲的なその外見とは裏腹に、じつは精妙な概念として語られた「愛の哲学」なのである。いや、むしろ、構造的に言えば、性愛の哲学だ。〕

 また、別のページ(p270)には、こう…

 〔「種の論理」に結晶していく田邊元の哲学思考は、エロチックな構造を潜めている。それはリゴリズムで武装しているかのような外見に反して、柔らかい皮膚に包まれた女性性を内部に湛えている。〕

 ほーら、やっぱりね。


 むううー。 じっくり眺めてみると、だんだん田邊元のすごさがわかってきたぞ。

〔神愛即隣人愛という往相即還相の転換的統一こそ、積分と微分の愛と自由とに相当する相関関係を、全即個として個の連帯にまで展開するものでなければならぬ。この宗教的愛と媒介せられた個の自由が、連帯的に微分の内包的秩序と積分の愛的全体との相即としてルベエグ計量に象徴せられるのではないか。… 〕

 ル、ルベーグ積分を使って「愛」を語っているぞ! 「積分の愛的全体」ってなんだよ!?
 こりゃあ、ヘンタイだ!! 
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絵のちから

2008年01月09日 | まんが
 手塚治虫『ファウスト』のキャラをいくつか筆ペンで模写してみました。『ファウスト』は昭和25年手塚さんが21歳のときの作品。元ネタはゲーテですが、この主人公ファウストはゲーテの創作上の人物ではなく、15~16世紀にドイツに実在した人物とのこと。

 「絵のちから」がほしい。それが僕の望みです。
 ただし、上手くなりたいのではない、ということはハッキリさせておきたい。(だれに対して? …さあ)
 では「絵のちから」とはなにか? 絵の底で、なにかが力強く流動しているような絵です。色気のある絵です。(それが今の僕にはちょっと足りません。いや、ちょっとじゃない、だいぶ足らないな。)

 下の絵は手塚治虫『ファウスト』の中の1コマですが、なんと「ちからのある絵」なのでしょう! そして線の色っぽいこと! この『ファウスト』、今読んで「おもしろい!」とは感じないのですが、1コマ1コマの絵の華やかさにうっとりさせられます。20代の手塚さんは、まさに、天才でした。
 お姫さまのふっくらした衣装を見てください。なんだかおいしそうなパンのようで、食べてしまいたくなります。


 その次のコマは、主人公ファウストが探していたものを見つけて跳びかかるシーン。こんなふうに全身で気持ちを表すというマンガって、今はとても少ないんですね。(それがマンガの持つ特色なのに。) この跳びかかり方は、まるでネズミを見つけたネコのようです。つまりそこには、人間的な喜びだけでなく、「野生的なもの」が同時に現われているんですね。


 手塚治虫の「天才」は、「野生的ななにか」とつながっていたと思います。でも、文明の中で仕事ばかりしているとその「野生」はだんだんと擦り切れて磨耗していきます。30歳になった頃には、もう思うようには「野生のちから」が出てこなくなったのではないでしょうか。
 手塚さんは、そこでいったんそれまでのスタイルを壊して作り変えます。そうして生まれたのが『鉄腕アトム』。 この物語は人間の子供である「飛男(トビオ)」の代用品としてのロボット「アトム」が活躍する話です。アトムのもつ力の源・原子力は、たしかに「野生のちから」なのですが、自然にわいてきた「野生」ではなく、人工的に取り出された「野生」なのです。
 (と、テキトーなことを言ってみました。あっちょんぷりけ。)
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アオウミガメ

2008年01月08日 | はなし
 ウミガメってシッポあったけ、なかったっけ? 僕は山育ちなもんで川のカメならわかるけど…。テキトーに描いてみました。

 『浦島太郎はどこへいったのか』(高橋大輔著)という本を読んだのですが、いろいろと面白いことが発見できました。その一部を紹介します。

 いちばん古い浦島太郎の物語は『丹後国風土記』にあって、この話では「亀=乙姫」で、玉手箱は出てくるんですが、「箱を開けたらおじいさんに」というオチはなし。まあそんなところからはじまり、著者の高橋さんは「浦島太郎の実像」を探す旅に出るという、そんな内容の本です。
 いちばん古い、といってもそれは「文字にした物語として」であって、実際はもっともっと古いのでしょうが。

 高橋さんは、「日本ウミガメ協議会」ってのがあることを知り、その会長さんに会いに大阪市枚方市へ行く…。その会長さんの名前が「亀崎」さん(笑)。

 鹿児島県日置市には「ウミガメ保護監視委員」というのがいるらしい。
 「四国や沖縄ではウミガメは食料、みんな食べていたね。けど、鹿児島では聞いたこともない。習慣がないんだな、カメの肉を食べるという。それでもウミガメの卵は食べていたねえ」
 鹿児島ではウミガメは特別な存在で、漁の定置網にウミガメがかかると縁起がたいへんいいとされ、カメに酒を飲ませたそうです。

 亀卜(きぼく)という神事があります。亀の甲羅を焼いて占う(神様のコトバをもらう)儀式です。奈良時代は朝廷の公式行事だったという。高橋さんは、亀卜の盛んに行われていたのは九州の対馬一帯であることをつきとめ、さらに対馬の南端雷神社で「サンゾーロー祭り」として今も亀卜神事が行われていると知り、行ってみます。
 目の前で亀卜の儀式が始まりました。亀卜の伝統を受け継ぐのは岩佐氏。岩佐氏は亀甲を焼いてそのあと筆を手に半紙にむかい、一気に言葉を書きだしました。次から次へと神のご託宣は筆からあふれ出て、並べられた半紙で足の踏み場もないほどになります。占いの内容は、政治、経済、天候… それだけに収まらず、ファッション、スポーツ、流行色にまで及んでいるという。その年に流行る色は「ベージュ・紺」、流行るレジャーは「スキー・ダンス・占い」、ファッションのキーワードは「知的・シンプル」。
 そして、流行る服は「タートルネック」。 「亀を追っかけてここまでやってきたらタートルネックかよ!」高橋さん、笑いをこらえる。

 「新年、新年、改まって候(そうろう)。 あれひきみるとナムチョウ、これひきみるとナムチョウ、ただ白銀黄金と見え渡って候」
 「おお、さん候(サンゾーロー)」
 「前の河原の石の固さと、賀茂川の石の固さと、見え渡って候」
 「おお、サンゾーロー、そのことにて候」

 亀卜は、他には、新しい天皇が即位する時の大嘗祭で行われるのだそうだ。


 さて、20年前の僕の体験から。
 夏、与論島の浜辺でボーッとしていた時です。浜辺には10人ほどの人がいました。
 浜辺の監視係がスピーカで「ただいまウミガメが孵化しました。ぜひごらんください。ただいまウミガメの…」と伝え始めた。「ウミガメ?」と思って僕も人が集まっているところに行って見た。
 ちいさな、ちいさな、たくさんの(200匹以上と思われる)カメの子が、一生懸命に海のほうをめざして走っている。大きさは人間の親ゆびくらい。「きゃーかわいい」と歓声があがる。とにかくひたすら、走っている。わずか5メートルほどの距離だが、彼らは必死だ。

 ↑
 これがその時の写真。
 浜辺にうちあげられた珊瑚のカケラの中に、小さなウミガメたちがいるのがわかります? もう少しで、海です!!
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新春指し初めの一局

2008年01月07日 | しょうぎ
 この半年、将棋を指していない。(わずかにネット対局をしただけ。)
 昨日、ひさびさに駒を持って将棋を指した。この図がその僕の2008年第1局。相手は80代のじいさんで、コンビニオーナー。実際には店は息子さんにまかせてあるようだ。この人は将棋に関しては闘志をかくさないからおもしろい。将棋を指した日は、「寝る時にも将棋の駒がぐるぐる頭をめぐってああ指せばよかったとか考える」そうである。
 半年も将棋を指していないと、「定跡の細かな変化」は忘れてしまう。だから序盤はかなり大雑把になる。年寄りはふだんからあまり定跡研究などしていない人が多いのでお互い様なのだが。細かな変化をうろおぼえでは、定跡などに頼ってもいみがない。頼るは自分の「ちから」のみ。
 そういうわけで、定跡にはずれた序盤を「力将棋(力戦)」とよぶのだろう。
 僕と最初に対戦することになったコンビニオーナー氏、「いやあ、正月そうそう強い人に当たっちゃったなあ。まいった、一発目から負けかよ~」という。内心では勝つ気マンマンなのである。ほめ言葉にお金はかからない。相手を言葉でおだてておいて「勝利」という果実をもぎとる…さすが年季のはいった商売人である。

 さて、上の図。後手コンビニ氏の優勢である。このように持ち角(馬)を使って、飛車角をいじめてくるのが大好きなコンビニ氏なのである。いつのまにやらその術中にはまってしまっている。
 △3五銀と出られては困るので、しかたなく▲3六歩と打った。そしたらコンビニオーナー氏△3五歩。対して▲4七角と打ったのがこの図の局面。あきらかに先手(はんどろや)不利である。以下、コンビニ氏、△4八馬▲同金、△3六歩。
 これはこまった。△3六歩を同角と取れば3五銀、同飛なら3五銀打で飛車か角が取られてしまう。△3六歩は素直には取れない…。
 それなら攻めなきゃ。
 僕は▲6五桂とはねた。コンビニ氏、悠然と△4二銀。後手の陣形は堅い! しばし考えて▲5五歩。コンビニ氏は素直に△同歩。△3七歩成りと桂馬をとらないところが余裕だ。優勢を意識しているのだろう。ここで僕は▲5四歩。
 これを△5四同金と取ったのがどうだったか。ここで僕は▲3六角と歩を払う、これは金取りになっている。後手コンビニ氏は△4五歩と防ぐ。▲同桂。ここで僕は「棋勢好転」を意識した。後手の金銀がばらばらになった。手持ちの角もある。チャンスあり、いけるぞ!

 以下、△3五銀打▲3三歩△2二金▲7一角△7二飛▲5三桂右成△同金▲同角成△3六銀▲同飛△3三金▲6三馬△9二飛▲5三桂成△5六桂▲同銀△同歩▲4二成桂△同玉▲2四歩△3五歩▲2三歩成△同金▲2四歩△同金▲2六飛△2五歩▲2九飛△5七銀▲7七玉△6五歩▲5三銀△3二玉▲4四桂△2二玉▲4一馬△6六銀成▲8八玉△7六成銀▲5二歩△5五角▲9八玉△4三銀▲3二銀△3四銀▲2三歩△同金▲同銀成△同銀▲同馬△同玉▲3二銀、まで先手の勝ち。(あとは詰み)

 勝った! 新春一番目の苦しい将棋を勝てたのでした。
 この日は二勝一敗でした。将棋はやっぱり楽しいね~。


◇朝日オープン
 今日、羽生善治二冠が、木村一基八段、佐藤和俊五段を吹っ飛ばして10連勝! すごいね!! エンジン全開だ!!(←まちがい。11連勝でした。)
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ユキの太陽

2008年01月05日 | まんが
「それはとなりの国の王子さまでした
 その王子はからだはがっちりしていておまけにすごくいい男でした…」

「まてよ… 」
「ガッチリとかいい男とかじゃムードこわしちゃうな。 ええと…」
「うん! りりしいといこう」

「りりしい、りりしい、と…  ふん、こいつあいい!」

 コツコツ

「りりしいんだから絵もうんとハンサムにかかなくっちゃね。 よっ、われながらうまくできたぞ。 いや… ちょっと顔がゆがんでいるかな?」

「なにをかいてるんだい?」
「ひょう!」
「おじさあん。 お、おどかさないでよびっくりするじゃない」
「ごめんごめん。いくらノックしてもへんじがないものだから」
「いまじぶん病院から帰ってきたの?」
「あ、そしたらユキちゃんのへやからあかりがもれているだろう。どうしたのかと思ってね。 …なんだいこりゃあ」
「へへへ… 紙芝居」
   

「どう? ちょっといいできでしょ! おもしろそうでしょ!」
「う… うん」
「怪物はともかく… この王子はよくかけてるな」
「よっ。いってくれましたね! にくいよだんな。 その王子はあたしも気にいってたんだ。いい男でしょ。りりしいでしょ。」
「うんうん、りりしい」
        
 このマンガは『ユキの太陽』といってちばてつやの初期の作品。僕はこの『ユキの太陽』が大好きで。子どものかわいらしさを描かせてこの頃のちばてつやにまさるものはないと思う。

                           
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まだ八月の美術館

2008年01月04日 | まんが
     この絵は、岩館真理子さんのマンガ『まだ八月の美術館』の1コマを、鉛筆で模写。


 それは突然決まったことだった。クラスメイトの明智くんは明日北海道へ転校してしまう。それで初めて2人きりで東京へコンサートへ行こうということになった。ところがその日コンサートのチケットは風に飛ばされてひまわりの中に。
 あ、あ、あーああー…。
 まだ8月。太陽がじりじりと顔を焼いて…。

 二人は駅前の小さなひっそりとした美術館へ。
 その美術館の絵の中には「冬」が描かれていた。涼しい。
 二人で話を…。ああ明智くんは明日北海道へ行ってしまうのだ。
 女の子は「この絵の中に入って時間を止めてしまいたい」と明智くんにいう。

女の子「思い出なんて幻と同じ。同じ幻だったら、あたしは絵の一部になってしまいたいの」
明智くん「… 」
女の子「… 」
明智くん「わかった。じゃあ一緒にこの絵の中に入ろう」

女の子「どうやって、入るの」
明智くん「こうやって手をつないで思いっきり走るんだ。集中して…」
女のこ「うん。」
明智くん「余計なこと考えちゃだめだ。幸せな未来だけ考えるんだ」
女の子「幸せな未来だけ…」
明智くん「いくぞ。」
女の子「うん。」
      
      ミーン ミーン ミーン ミーン ミーン ミーン ミーン ミー

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かしわばやしの夜

2008年01月03日 | ほん
 「画かき」の登場する話ということで、宮沢賢治『かしわばやしの夜』から。


 清作が夕暮れに歩いていますと、向こうの柏ばやしのほうから
 「ウコンのしゃっぽのカンカラカンのカアン。
とどなるのがきこえました。みると赤いトルコ帽の画かきがぷりぷり怒って立っていました。清作は、画かきに歩き方を馬鹿にされたので喧嘩してやろうとおもってどなりました。
 「赤いしゃっぽのカンカラカンのカアン。

 すると画かきは「うまい。じつに、うまい。」と清作をほめ、林のなかをあるこうとさそいます。
 二人は十九本の手をもつ柏の木大王のところへ行きました。大王は画かきにいいました。

 大王「もうお帰りかの。待ってましたじゃ。そちらは新人らしい客人じゃな。が、その人はよしなされ。前科者じゃぞ。前科九十八犯じゃぞ。」
 清作(怒って)「うそをつけ、前科者だと。おら正直者だぞ。」
 大王「なにを。証拠はちゃんとあるのじゃ。また帳面にも載っとるんじゃ。貴さまの悪い斧のあとのついた九十八の足さきがいまでもこの林の中にちゃんと残っているのじゃ。」
 清作「あっはっは。おかしなはなしだ。九十八の足さきというのは、九十八の切株だろう。それがどうしたというんだ。おれはちゃんと、山主の藤助に酒を二升買ってあるんだ。」
 大王「そんならおれにはなぜ酒を買わんか。」
 清作「買ういわれがない」
 大王「いや、ある、沢山ある。買え」
 清作「買ういわれがない」

 画かき「おいおい、喧嘩はよせ。まん円い大将に笑われるぞ。」

 東のとっぷりとした青い山脈の上に、大きなやさしい桃いろの月がのぼったのでした。



 『かしわばやしの夜』は1922年8月の作品で、賢治が自費出版した『注文の多い料理店』に収められています。この本は1924年12月に発行されたのですが、さっぱり売れませんでした。
 上の文は、『かしわばやしの夜』の導入の部分を略して書いたものです。この後は、清作と画かきと柏の木々、それからふくろうの大将も加わって、月の下で歌って踊っての大宴会となります。しっかり読んでみると、どうしてこんなセリフが生まれてくるのかまったくこれは人間わざじゃないなって思います。脱帽です。カンカラカンのカアン、です。
 この話の中で、清作を「柏の林」の夢世界へと誘ったのが「画かき」です。つまり、清作は『柏の林をかいた絵』の中にすいこまれて、柏の木どもとしゃべり喧嘩をし歌い踊ったというわけです。
 そういう、ちからのある絵を描きたいものです。
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草枕

2008年01月02日 | ほん
  山路を登りながら、こう考えた。
  智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい。


 の有名な文章で始まる夏目漱石の小説『草枕』、元旦にBOOK・OFFで買いました~。

 みなさん、新年明けましてお目出とう御座います。本年も宜しくお願いします。

 この本を買ったのはその主人公が「画家」だから。今年は「色気のある絵」が描ける様になりたいと願うので~す。
 「本」の世界にはまっている…と僕はいってますが、小説(フィクション)はどうも読みにくいのです。初めからきっちり読まねばならぬのでね。ぱらぱらとめくって読みたいところから入る、というのがこの頃の僕の読み方なのさ…。 そういうわけで、この本もぱらぱらぱら…  と、

  女「じゃ何が書いてあるんです」
  男「そうですね。実はわたしも、よくわからないんです」
  女「ホホホホ。それで御勉強なの」
  男「勉強じゃありません。只机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
  女「それで面白いんですか」
  男「それが面白いんです」
      (中略)
  女「初(はじめ)から読んじゃ、どうして悪るいんでしょう」
  男「初から読まなければならないとすると、仕舞まで読まなけりゃならない訳になりましょう」
  女「妙な理屈だ事。仕舞まで読んだっていいじゃありませんか」
  男「無論悪るくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
  女「筋を読まなけりゃ何を読むっていうんです。筋の外に何か読むものがありますか」
      (中略)
  男「全くです。画工(えかき)だから、小説なんか初から仕舞まで読む必要はないんです。けれどもどこを読んでも面白いんです。あなたと話をするのも面白い」


 アッハッハ。こりゃ意見が一致しましたな、漱石先生! 気が合いそうです。

 さて、後ろの夏目漱石年譜を見てみよう。
 本名夏目金之助…アレレ、夏目金…「金目」ですか! ワハッハハ。漱石先生、あなた、金の目の魚でしたか!
 なになに、33歳のときイギリス留学…神経衰弱…そうですか、漱石先生、神経症(ノイローゼ)でしたか。それで気分転換に自転車を、そうですか。100年前のロンドンで漱石先生が自転車に!
 帰国して帝国大(東大)の講師に。神経衰弱が昂じて、それで水彩画を…そうですか、漱石先生、水彩画を描かれていたんですね! ほうほう。


  女「ええ鏡の池のほうを廻って来ました」
  男「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが…」
  女「行って御覧なさい」
  男「画にかくに好い所ですか」
  女「身を投げるに好い所です」
  男「身はまだ中々投げないつもりです」
  女「私は近々投げるかもしれません」
      (中略) 
  女「私が身を投げて浮いている所を__苦しんで浮いている所じゃないんです__やすやすとして浮いている所を__奇麗に画にかいて下さい」
  男「え?」
  女「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」
 女はするりと立ち上る。 …

 
 この画工(えかき)、鉛筆持って考え事をして、結局、画をかかないで詩を作ったり本を読んだりしているんだよな。アッハハハ。
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