はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

一平の嫁取物語

2007年11月30日 | はなし
 大根のおいしい季節になりましたな。
 図書館に寄って歯医者に行き、そのあとコーヒーを飲みながら三笠宮崇仁著『文明のあけぼの』を読む。レンタルビデオ屋でエロビデオを借り、「『バーバーハーバーNG』(漫画、小石田マヤ著)が出ているはずだが…」と本屋に入る。小池田マヤはなかったが、そのかわりすばらしいものがあった! 花輪和一著『刑務所の前 第3集』である! うおおおお、ついに!!
 『刑務所の前』は、21世紀の最高傑作である。まだ第3集は1ページも読んでいないのだが。ああ、わくわくするぞ。この表紙は…不動明王か?
 古墳壁画から始まって、岡本一平、杉浦茂、手塚治虫、吉田戦車と流れてきた日本漫画の河は、こんな妙ちくりんな場所に流れ着いたというわけである(笑)。 オイオイ、未来は、あるのかい?


 明治43年8月8日から降り続いた大雨は多摩川を洪水にした。その記事を新聞で読んだ岡本一平は、玉川電車に飛び乗った。終点の多摩川べりで降りてみると、多摩川は赤茶色の濁流が逆巻いていた。
 「おれはどうあっても、この濁流を渡って娘の家に行く」

 娘とは一平の恋人大貫かの子。出会って2年、二人のつきあいは順調にすすんだ。すすみ過ぎて、かの子、妊娠してしまった。さあどうするか。24歳の一平は決心した。「結婚しよう。」 かの子21歳。
 この時代、結婚は親の承諾を絶対的に必要とする。かの子は、二子玉川の大和屋の長女であり、大和屋は沢山の蔵をもつ大地主であった。

 一平は渡し守を見つけ、言った。
 「大将! 五円はずむから渡してくれないか」
 「冥土へなら渡してやんべえ」
 「冥土でもいい」
 だが、この大水ではとても無理であった。渡し守は行ってしまう。
 一平は、ずぶずぶと水のあふれる川べりの道を歩いて、やっと鉄橋を見つけた。しかし通行止めになっている。それでも一平が渡ろうとすると、巡査が「コラコラコラーッ、貴様、言うことを聞かんか」と止めにきた。
 しばらく考えて一平は突然行動を起こした。
 「オーイ、田越君! 田越君!」
と、一平は怒鳴りながら鉄橋めがけて走り出した。
「田越君! 田越君! 田越君! 田越君! 田越君!」
 息の続く限り一平は叫び続け、疑いの余地を与えぬ速さで鉄橋を駆け渡った。奇襲は成功した…。

 大和屋にたどり着いたころには日が暮れていた。一平を、大貫家では好奇の目と同情の念で出迎えた。一平は風呂に入り、酒がふるまわれた。
 昼間の多摩川での冒険などの話をしたあと、一平はきりだした。
 「じつは、お娘御をいただきに来たのですが、私に下さいませんか」

 かの子の父・寅吉は、娘はやれない、と断った。しかし一平は引き下がらない。「娘さんを下さい」と繰り返す。
 なにしろ大和屋大貫家は大資産家である。寅吉にすれば、こんな将来の見通しのつかない画家青年などに大事な娘をやりたくはない。そしてそれ以上に心配なのは、娘「かの子」のキャラであった。
 まったく変わった娘だった。大貫家では、この変わりものの娘が将来結婚して家庭がもてるとはとても思えず、それだから一生、かの子を大貫家に置いておく覚悟であったようなのである。
 多摩川の水は簡単には引かない。3日間一平は大貫家に宿泊した。

 3日目、どうあってもかの子を連れて行きたいと、一平はまた頭を下げた。
 「岡本さん、この子をお貰いになってどうする気です。取り出せばいいところのある子ですが、普通の考えだとずいぶん双方で苦労をしますよ」
と言ったのは、かの子の母アイである。しかしアイは、すでにかの子の妊娠を知っていたようで、結局は二人の結婚を後押しした。
 やがて寅吉は決断した。一平の熱意にしびれを切らせ、「かの子を決して粗末にしない」という一札を血判入りで一平に書かせ、二人の結婚を認めることとなったのである。


 さあ、こう書くと、いったいかの子とはどういう女だったのか、と知りたくなったでしょう? よしよしよし、オモウツボです。では、それはまた、別稿で。

パルミラ遺跡

2007年11月29日 | はなし
 竜王戦第5局は佐藤勝ち。強烈な渡辺の攻めをかいくぐって佐藤玉が入玉! 観戦していて「これはもう渡辺防衛だ」と思ったけどな。あれを凌ぐとは…不調ながらもやっぱヤスミツだな~。
 渡辺明 3-2 佐藤康光


 パルミラ遺跡はシリア国のシリア砂漠にあります。パルミラは2000年ほど前に栄えていました。
 マルコ・ポーロがシルクロードを渡ったのは13世紀ですが、それよりはるか昔から東西の交流はありました。そのシルクロードを通じて、中国の文化は西へと流れメソポタミア(現在のイラク)へと行き着く。ここにはインド・インダス文明からの文化・商品も集まります。その富を地中海に持って行けば、商売になるわけで、そのメソポタミアと地中海の中間にあったのがシリア砂漠と「都市パルミラ」です。
 この都が栄えたのは、そこに「エフカの泉」という豊富な水があったから。パルミラの首長は、通過する隊商から通行税をとりました。大もうけです。運ばれる商品は、木綿、絹、染料、香料、オリーブ油など。パルミラの神殿は紀元前44年に造られたといいます。
 パルミラは、東のペルシャ、西のローマ帝国にはさまれ、中立を守っていましたが、3世紀にペルシャが攻め込んで来たました。パルミラはローマ帝国と外交をすすめつつペルシャと勇敢に闘いました。ところがそこで頼りになるパルミラの王オダイナト(ちいさい耳の人という意味)が、身内に暗殺されてしまう。それを受け継いだのが、王オダイナトの妻ゼノビアでした。
 ゼノビアはクレオパトラと並ぶほどの美貌の持ち主だったそうです。それだけじゃない、野心も持っていました。ゼノビアは、ペルシャと和解して、なんと、混乱の中にあったローマ帝国に「チャンス!」とみて戦いを挑んだのです! まず、エジプトを奪取しました。そうして次にカッパドキア(現在のトルコの地)に軍隊を送り占拠しました。
 ところが、ローマ帝国にアウレリアヌス帝が現われて、一気にゼノビア軍を壊滅させてしまいます。パルミラ帝国の栄華はここで終わりました。

 このシリアの砂漠には、現在はイラクと地中海とを結ぶ石油パイプラインが走っています。イラクとアメリカとの湾岸戦争時には、イラクの行動(クウェート侵攻)に反対してシリアが送油を停止したそうです。今はまた再開されています。

佐々木慎、7連勝!

2007年11月28日 | しょうぎ
 竜王戦第5局、始まっていますね。相矢倉の戦型から、渡辺明竜王がとくいの穴グマに…。と思っていたが、よくみると穴グマにしたのは佐藤康光でした~。


 佐々木慎五段が快調です。順位戦(C2組)で7連勝負けなしでトップ快走!
 順位戦はC2組の場合1年をかけて10局を指します。50人ほどの棋士の中で上位3人がC1組に昇級できます。が、7戦全勝でもまだ昇級と決まったわけではない。プロって、しんどいなあ。
 この佐々木五段、彼を僕はいつかブログにかきたいと前から思っていました。理由は「顔」。 個性的な、印象に残る顔立ちをしています。スター棋士になる要素十分。
 それに佐々木慎五段には次のような特別エピソードもあるのです。

 それは2003年朝日オープン選手権での対局で、相手はアマチュアの強豪の竹内俊弘さん。最近は棋戦の予選にアマ棋士も参加できるようになりました。ですから実力さえあれば、アマだって羽生さんとタイトル戦を戦えるのです。
 さて、佐々木-竹内戦。持ち時間は各3時間。プロにしては少なく、アマにとっては普段よりたっぷり多い持ち時間です。将棋は佐々木五段(当時は四段)が優勢にすすめました。竹内さんは時間をしっかり使って一手一手丁寧に考えます。そのうち、佐々木五段優勢の将棋があやしくなりました。100手を超えました。竹内さんは時間を使いきり、1分将棋です。厳密にはまだ佐々木五段が優勢だったでしょうか。しかし、頑張る竹内さんを佐々木五段はもてあましています。
 そのとき、その「事件」は起こりました。
 1分将棋のアマ竹内さんがトイレに行ったのです! 佐々木五段の手番なので竹内さんの時間は減りません。ええ、佐々木五段が指さないで待っていれば。でも…、それは佐々木五段の自由です。佐々木さんにはまだ十分持時間がありました。
 ふつう、プロはどうするか? その対局を観ていた泉正樹プロは言います。「ボクなら指さない。おそらくプロの8割は指さないと思う。」

 佐々木慎は、指しました!
 そして竹内さんは1分でトイレから帰ってこれず、「時間切れ負け」となったのです。

 いろんな意見があるようです。
 竹内さんは後日、竹内さんは「トイレに行っても大丈夫と確信していた。プロがこんな大舞台ですぐに指すわけがないと思い込んでいた」と観戦記者に話したそうです。
 さあ、みなさんはどう思いますか? 僕は「勝負なのだから、当然。でも、指すのは勇気いるよなあ、相手はアマチュアだし… 佐々木慎よく指したなあ」と思います。 クールに斬る、いいじゃないですか!

 ところで、瀬川昌司四段の『泣き虫しょったんの奇跡』には、瀬川さんが三段リーグでの重要な対局で、相手の勝又清和さん(現六段)が、一手指したあと、持時間がないのにトイレにダダダッと走り、瀬川さんが指せば勝又さんの時間が切れて勝ちになったかもしれない、というシーンが描かれています。瀬川さんは「指せ」という心の中の誘惑にかられたそうです。でも、瀬川さんは指さなかった。勝又さんがドドドドドッとすごい勢いで駆けて戻ってくるのを待って、それから指したそうです。そして負けた。
 その対局に勝利したのは勝又さん。26歳の勝又清和さんはその期、晴れてプロ四段となりました。その対局でのトイレへの往復は、勝又さんの、人生をかけたダッシュだったというわけです。
 それについて瀬川さんは、「だが、僕は大きな一番に敗れたことは悔しかったが、指さなかったことは決して後悔していなかった。その気持ちはいまも変わっていない」と書いています。


 さて、佐々木慎五段の顔を描いてみたが、1枚じゃまだまだ描き足らないぞッ。ぜひぜひタイトル戦にも出てくれッ!!
 上のエピソードの棋譜および観戦記はこちらで見ることができます。→朝日オープン
 

歯医者行きました

2007年11月27日 | はなし
小さなクリニックなのに最新設備でした。歯医者もいろいろだなー。
きたない(しかし大切な)我が歯らの記念写真をもらったが、どうする、これ?
おお、ほろびゆく肉体よ。
しかし身体も、医学も、ありがたいねー。歯医者なかったら人生、ジゴクですよー。


真部一男さん、亡くなられたんですね。
ご冥福をお祈りします。

アクセス数が昨日だけ妙に多いんです。(500越えじゃ。) どうしてでしょうね?


一平の恋

2007年11月26日 | はなし
 小説家になること。これが中学生の一平が抱いた夢だった。
 一平は思い切ってそれを父・竹二郎に申し出た。
 すると竹二郎は「これからは絵の時代だ。画家になれ」と言った。そういうわけで一平は、麹町の画家竹内桂舟の内弟子となる。この父・竹二郎のしごとは書家である。明治30年代のことで、この時代に自分の長男に「画家になれ」というのだからフツウとはちょっと違う都会人の発想である。一平はそんな父のもとで東京の下町日本橋に育った。
 明治39年、20歳の一平は東京美術大学西洋画科に入学する。
 明治41年の夏、級友の中井、渡辺が、スケッチ旅行を兼ね、信州軽井沢に避暑に出かけた。その中井が、旅先から一平にまめに絵葉書を描いて送ってくる。初めは気にも止めなかったが、その絵葉書に信州で知り合った「娘」のことが書かれるようになると、一平は気になりはじめた。いや、それどころか、まだ見ぬその娘に「恋」をしてしまった。
 一平は、自分の気を引こうと、娘が気に入りそうな絵を葉書に描いて「娘によろしく」と書きそえて送ってみた。ところが、その反応がどうであったか、一向にわからないので一平は落ち着かない。
 やがて、一平に朗報がもたらされた。その一平の書いた手紙は、住所がいい加減だったために、あっちこっち回り回った末に中井のもとに届いたのだが、それを知った娘が、手紙を見ながら腹がいたくなるほど笑って、
「なんという呑気な方でしょう。面白い方ね。私の兄にこういう性分を少し分けて下さりゃいいんだわ。いったいどんな方なの、見たいわ」
と言ったというのである。

 こうして、娘との手紙でのやりとりの後、一平と娘「かの子」の付き合いが東京で始まった。かの子は、多摩川の大地主・大貫家のお嬢様であった。晩年、これより28年後に小説家になる「岡本かの子」である。
← 一平の描いた漫画

跳ぶ男

2007年11月25日 | はなし
 「左手をポケットにこう入れてね、畦道を歩くんですよ。賢治先生は。
 首にペンシルぶら下げてね、菜っ葉服。それで実習の先頭に立って、猫背にこうして歩くんですよ。麦わら帽子で、歯出してね。
 それが、とつぜん天から電波でも入ったように、さっさっさっと、生徒取り残して、前の方に駆けてゆくのですよ。
 そうして、跳び上って、「ほ、ほうっ」と叫ぶんですよ。
 叫んで身体をこまのように空中回転させて、すばやくポケットから手帳を出して、何かものすごいスピードで書くのですよ。あれみんな『春と修羅』なんですね」 (長坂俊雄)


 「ほうっ、ほほうというのはね、賢治先生の専売特許の感嘆詞でしたよ。どこでもかまわず、とつぜん声を出して、飛び上がるんです。
 くるくる回りながら、足をばたばたさせて、はねまわりながら叫ぶんです。
 喜びが湧いてくると、細胞がどうしようもなくなるのですね。身体がまるで軽くなって、もうすぐ飛んでいっちまいそうになるのですね。」 (瀬川哲男)


 ど、どんな先生なんだ~!!?
      てか、動きが想像できん…。

ちひろの『草穂』

2007年11月20日 | はなし
 夜をこめて
 七つ森まできたるとき
 はやあけぞらに草穂うかべり
                     宮沢賢治  1917年7月

 賢治にしては平凡なこの作品は、賢治22歳の作である。この時期、このような定型の歌をたくさん書いている。まだ童話の創作もしていない。
 賢治の詩に、独特の才能のきらめきがあらわれるのは、1922年詩「屈折率」以後である。いったん爆発した才能は、定型詩におさまりきれなくなってゆく__。
 だが、この短歌にも賢治らしさの一端がみえる。「夜中に明け方まで山を歩く」というのが、いかにも賢治だ。とにかく、この男は、山を歩いた。


 いわさきちひろが没したのは1974年。
 『草穂』とタイトルがつけられたちひろの手帳が母の実家で発見されたのは、それから3年後だった。
 前にも書いたように、戦争が終わりラジオから玉音放送が流れたとき(1945年8月15日)、26歳ちひろは長野県安曇野の山の里にいた。『草穂』は、その翌日から記されている。

[八月十八日
 きのうから宮沢賢治の事で夢ごこちだ。先日から少しばかりはそうであったけれど、いまは熱病のようになってしまった。前に詩集をよんだ時、もっともっとよく読んでおけばよかった。
 アカシアの葉がチカチカ輝く八月の高い熱のように私のこころは燃えている。年譜を見ただけでなみだぐみ度くなるし、焼いてしまった法華経の経典がいまはほしくてたまらない。なくなった湖おばさまことも忍ばれる。そしてもう一つ大事な事がたえまなく私の心に去来する。]

 ちひろは、石川県で生まれ、東京で育った。

 信州・松本市にはちひろの母・文江の実家がある。『草穂』が見つかったのはここである。
 母・文江は女ばかり四人姉妹の長女として生まれた。文江は松本女学校を卒業し、見合い結婚をした。文江は、岩崎家の長女として家を継ぐ立場にあったから、婿養子に来てくれる人というのが条件であった。こうして文江と正勝は結婚した。初めて相手の顔を見たのは結婚式の当日だった。そのように結婚した二人の夫婦仲は、とてもよかった。
 こうして長女知弘(ちひろ)が生まれた。続いて妹がうまれた。三人姉妹である。やはり女ばかり…。
 男が稼いで女が子育てをするのが一般的なこの時代に、夫婦が共に十分な収入を得ているわけだから、ちひろの家庭はずいぶん裕福であった。三姉妹は小さいときから洋服を着て育った。(大正時代に洋服の少女__ずいぶんあか抜けている。)
 そして、ちひろは健脚でもあった。絵を描くのが大好きなこの少女は、妹達にくらべておとなしかったが、スポーツは万能であった。夏にはかならず北アルプスに登山をしていたし、冬はスキーに行っていた。
 少女時代、まだ戦争は、身近なところにはなかった。

 20歳のときにしたちひろの結婚は失敗だった。
 「もう結婚はしない」
と、ちひろは考えたようである。しかし「では、今後どう生きるか」などと思い悩む暇もなく、戦況はきびしくなっていく。ちひろは妹たちと一度満州に渡っているが、危険だということで戻り、東京で就職するが空襲に会い、長野へ疎開。そして、とつぜんの終戦__。


[思わぬ時に国が降伏したという事は  こんなにも一人一人をクタクタにする]
 
 どう生きるか____?
 突然、ちひろは考えなければならなくなった。たまっていた宿題がつきつけられたのである。
 そういう時に書き始めたのが『草穂』である。
 気になりはじめてきたのが宮沢賢治である。


 結婚。 戦争。 親しい人の死。 洋服。 東京。 山。 法華経。 父と母と妹たち。 絵。


 この手帳には、山のスケッチ、洋服のデザイン画、妹らを描いたクロッキー、詩や歌や思いが綴られている。この時期、ちひろは宮沢賢治に深く傾倒して、父母とともにこの田舎に住む決心をしているようだ。
 ところが消せない「火」がじぶんの中にある…。 「文化」の光への憧れ、「東京」への憧れがくつくつともちあがってくる。それが「洋服のデザイン画」に表れている。その思いを九月六日[南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経…]とくり返し書いて打ち消そうとしている。そして、また洋服を描きかけて___そこでこの『草穂』は終わっている。


 なお、いわさきちひろは左利きであーる。

<エリコの丘>

2007年11月19日 | ほん
タリューラはいった「人をまどわすような宝石を身につけぬこと。宝石の質は、時以外のすべてを物語ること」


 『エリコの丘から』(カニグスバーグ著)という小説から。 

 主人公は11歳の女の子(日本でいえば小学6年生)。場所はアメリカで、現代の物語と思っていい。
 女の子には気の合う友達がいない。いつも一人だ。それで学校の帰り、通学バスを降りて下をむいて歩いていた。下をむいて歩いていたのでアオカケスの死がいを見つけた。そこからこの小説ははじまる。

  アオカケス
  北アメリカに住む、青と白のカラスみたいな鳥だ。

 死んでいるのかな… と女の子が近づいて考えていると、韓国人の男の子メルカムが話しかけてきた。二人は、その死んだアオカケスの墓をつくろうということになる。儀式を考え、埋葬する。風見短冊を書いた。

 女の子は、女優になりたい、と思っている。
 ただの女優じゃない、偉大な女優に。その夢をだれかに話したことはまだない。
 世の中にはたくさんの女優がいる。すぐれた女優になるためには何をすればいいんだろう。才能と美しさも必要だ。努力も。だけど、才能も美しさの魅力もあって、努力をしていて、その上にチャンスに恵まれていても、それでも輝かない人がいる。逆に、それほどに美しくないのに、たまらないほどの魅力を発揮する女優がいる。その違いは何だろう。わたしは、偉大な女優になるために何をすればいいのだろう…?
 (女の子は、まだ自分でも気づいていない「何か」を探していたのである)

 メルカムがやって来て「またお葬式だよ」という。今度はモグラの死がいだ。
 こうして二人の「葬式ごっこ」はつづいた。
 団地のはしの空き地の、その墓地に名前が必要だ、ということになった。なかなか決まらなかったが、だまって二人で日の光にあたっていると、「エリコの丘」という声が聞こえた。しかもその声が自分自身の声だったので、女の子はおどろいた。女の子はもう一度
 「ここは<エリコの丘>よ」
といった。メルカムは、音のひびきがとてもいいといった。女の子は、自分でいったその意味がわからなかったが、メルカムは「とにかくぴったりだ」と賛成したので、女の子もそれでいいと思った。
 女の子は、家に帰って<エリコの丘>の意味を調べた。エリコは、聖書に出てくる世界最古の都市の名前だった。

 その次の葬式はリスだった。
 そしてその次は、犬だった。種類はダルメシア犬で、これまでに見つけたもののうち、一番あわれに思えた。犬は大きいので穴を掘るのも大変だ。
 メルカムがその穴を掘っているときだ。突然、空がライラックと緑の混じったような色に変わり、雲がキャラメル色になった。一瞬、女の子が、穴を掘っているメルカムから、目をそらした。「たーすけてえ」という声とともにメルカムは地面の穴の中に消えていった。

  ダルメシアン
  原産は旧ユーゴスラビアのダルマチア地方と言われている。(ただし証拠はなし)
  馬に慣れる性質があり、馬をリードするのがうまい。

 そして女の子もまた、穴の中に引っぱられる力を感じ、吸い込まれていった。女の子はわかっていた。<エリコの丘>と聞いたときから、こんなことが起きるのではないかと。

 穴の底の世界で、二人は「タリューラ」という名の女性に会う。このタリューラ、すでに死んだはずの「偉大な女優」だったのだ。ダルメシア犬もそこでは生きており、タリューラのそばでしっぽを振っている…。


 エリコ
 「エリコ」はパレスチナにある。エルサレムの東、ヨルダン川西岸地区にあり、現在ここは海抜マイナス350メートルだそうである。『旧約聖書』にも出てくる地名だが、この都市の歴史はそれよりもはるかに古く、BC8000年頃まで遡ることになる。
 『旧約聖書』は、ユダヤ教、キリスト教の正典である。海の道を開いてエジプトから「約束の地」へ渡ったユダヤ人が、最初に征服したのがこのエリコだと記されているようだ。
 パレスチナに、1948年にユダヤ人シオニストが「イスラエル」を建国したために、そこに住んでいたアラブ人(パレスチナ人)たちが難民として、ヨルダン川西岸地区に住むようになった。そこは「ヨルダン」の領土であったが、やがて紛争の場所となり、「ヨルダン」はその地の統治を放棄した形になっている。現在は「パレスチナ暫定自治区」である。


 『エリコの丘から』の女の子は、「穴」に吸い込まれ、世界で一番古い町とつながったわけである。そこで彼女は、タリューラに会った。女の子には、このような大人の女性に会う必要がどうしてもあったのである。
 「自分だけの宝石」を手にいれるために、深い穴の中に潜らなければならない、そういう時があるのである。「それ」さえあれば、じたばたしたり、おどおどしたり、個性があるふりをしたり、誰かを威嚇したり、計算しながら人とつきあったりする必要がない、そんな、<宝石>のことである。
 道案内人は、死んだアオカケス__。 鳥はこのようにときどき不思議な道案内をする。


  タルラ・バンクヘッド(タリューラ)
  アメリカの女優(1902ー1968年)  ヒッチコックの映画にも出演しているらしい 

クレタ島

2007年11月18日 | はなし
 「クレタ島」でおもいだすのが、加納クレタ。これは小説『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹著)の登場人物で、まず姉の加納マルタが登場し、それから妹の加納クレタが出てくる。つまり「加納姉妹」ってわけだが、TVに出ているあの姉妹のことではもちろんない。小説では、主人公の味方のような、でもどういう役にたつのかわからない謎の姉妹として現われる。
 ざっくり言うと『ねじまき鳥クロニクル』は、なぜか姿をくらました「妻」をさがす物語。消えた妻は夫(主人公)に「捜さないで」とメッセージを送ってくるのだが、それはつまり「捜してほしい」という裏メッセージでもある。男と女は、そういう具合にややこしい。裏メッセージを読んだはずが、ただの思い込みでストーカーになって転落人生というのもあるからねぇ。そういうわけでよくよく考えなきゃいけない。それでこの小説の主人公はどうしたか。井戸に潜った。家の近所に、どうしようもないほどの不吉な「井戸」があって、つまり『リング』の貞子のいる井戸のような、や~なかんじの井戸だ。「井戸」の底には「闇」がある。密度の濃い「闇」は、いろいろなものとつながっている。
 「井戸」の闇とつながる、古代エーゲ海のクレタ島。中央アジアのノモンハン…。

 ギリシャにアテネ等の都市国家が栄えたのはBC500年頃。それよりもずっと昔、BC2000~BC1500年頃に、クレタ島に文明があったというからすごい。宮殿があって、壁画には「牛」や、海を司どる蛇の女神などが描かれている。
 怪物ミノタウロスが迷宮に閉じ込められている、という伝説の島でもある。
 アチラのほうの伝説はよく「牛」が登場するねえ。なのに日本の昔話に「牛」が出てこないのはなぜだろう。


 アインシュタイン博士を乗せた北野丸は、そんなクレタ島の横を通り、エジプトのスエズ運河へむかっている…。1922年10月。

エーゲ海

2007年11月17日 | はなし
 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、ギリシャの島で生まれ、アイルランドで育った。生れた島の名「レフカダ島」からとって、パトリック・ラフカディオ・ハーンと名づけられた。(パトリックは、アイルランドの守護聖人の名前である。)
 この島で、ギリシャに駐留していたイギリス軍所属のアイルランド人の父と、ギリシャ人の母とが恋に落ち、そしてハーンが生まれた。レフカダ島にハーンは2歳までいた。その後アイルランドの父の実家へ行くが、ハーンの母とこの家の相性が悪く、母はハーンをおいてギリシャへ帰ってしまう。
 ハーンは、日本の昔話のなかで、とくに「浦島太郎」が好きだったという。ハーンの中で「島」というのは、特別のものがあったようだ。浦島をさがしてハーンは世界を漂流し、日本島へ流れ着いた。1890年のことだ。


 もともと僕の「世界史の知識」は、中学レベルである。高校では、おぼえることの多そうな世界史を避けていた。受験においてはそれは正しい選択だった。しかし、大人になって、時々世界史に興味がわいてくることがある。それで何度か本を読もうと試みた。しかしそのたびに挫折した。
 ワカラン! 世界史はフクザツすぎる!
 どうにも「足がかり」がみつからないのだ。どっから手をつければいいのやら。

 ところが先週読んだ本にこう書いてあった。
 「第1次世界大戦は滅びゆくオスマン帝国のぶんどり合戦であった」と。
 それをみて僕は、「ははあ、そうなのか!」と、こんがらがった紐をほどくヒントを見つけた感じがした。
 「オスマン帝国」か! そうか、それがキーポイントなのか!

 「オスマン帝国」をガンバッテ調べてみた。14世紀から、20世紀までにまたがって広大な地域を支配したトルコ人によるイスラム帝国…。イスラムか…なるほど。
 調べていくうちに、「東方」とか、「アラブ地域」とか、「中東」とよばれるこの地域こそ、「世界史の中心」ではないかと感じるようになってきた。そうなのだ、地理的にも、東西の物資や文化が交わる場所なのだ。ヨーロッパを基点にして「世界史」を観るより、この地域、「オリエント」を中心にして歴史を観るほうが、判りやすいのだ。これは大発見だぞ。
 かつての大帝国オスマンが落ち目になり、それをロシアやイギリス、フランス、ドイツが狙っていて、また、各民族がオスマンからの独立を目指していて…。それを「東方問題」と呼んでいたわけか。「東方」って…、ヨーロッパ中心の呼び名だなあ。
 はあ、ギリシャも元はオスマンの支配下にあって、独立戦争の末に1832年に独立…。(このときはまだギリシャ王国) ラフカディオ・ハーンが生まれたのは1850年だから、このときにイギリス軍が駐留していたわけだ。イギリスはきっとオスマンを見張っていたんだな…。で、第1次世界大戦の結果、オスマン帝国は敗れたので、オスマン家は解体され、現在の「トルコ共和国」になったんだと。

 「オスマン・トルコ帝国」の首都はイスタンブール。イスタンブールは、今はトルコ共和国で最大の都市だ。(首都ではないらしい)
 で、さらに時代を遡ると、ギリシャの東の、今はトルコ共和国であるこの地は「東ローマ帝国(ビザンチン帝国)」であった。(こんな場所にローマ帝国があるのだからまったく世界史はややこしい…) ローマ帝国に最初にキリスト教を採用したのが、この東ローマ帝国(ビザンチン帝国)のコンスタンティヌス大帝。彼が住んだ都がコンスタンチノーブルで、これが、後にオスマン・トルコ帝国に支配されたときにイスタンブールと名前が変わった。
 なるほど、するとイスタンブールという都市は、古くからずっと「世界の文化の中心」なんだなあ。

 うーん、だから、このあたりはずっと争いが多いのか。
 ギリシャの北の地は、「旧ユーゴスラビア」があった場所で、いまも緊張を抱えている。(コソボとか) サッカー全日本監督のオシムさんの生まれた国である。
 ギリシャ、トルコ、エーゲ海から、世界史をちょっと勉強してみた日。次回は、よーし、クレタ島を覗いてみるか。

ヨヅメにご注意!

2007年11月13日 | つめしょうぎ
11・9詰将棋の解答編です。  ↑こんな詰めあがり図になります(予定では)。

[解答(作意手順)] ▲7七金△6八玉▲6七金△同玉▲6八歩△同玉▲5七角△6七玉▲5八角△5六玉▲5五飛まで11手詰

 ところが! 
 藤田麻衣子さんのご指摘により、「余詰め」が発覚しました。
 「ヨヅメ」とは何か? 第2の答えであります。「別解」であります。答えが2つある詰将棋は、作品としては失格です。落選も致し方ないところですね。ハイ。
アー、はずかし。で、その余詰め手順は

[余詰め手順]▲7七金△6八玉▲6七金△同玉▲5七金△6八玉▲5八金△6九玉▲4八金△5八歩▲同角△5九玉▲7九飛△6八玉▲5七角まで15手詰め(駒余り)

 つまり、5手目の▲5七金以下、第2の詰み手順が存在していました。
 なぜ気付かなかったのか? この▲5七金△6八玉▲5八金△6九玉▲4八金は読んだんですよ。でもそのあと△5八歩合▲同角△5九玉▲4九金△6八玉となって、詰まないと思っちゃったんだなあー。これで▲6九歩は打ち歩詰めで反則、しめしめ~なんて思っていたから…。いやー、▲7九飛があったかー。

 藤田麻衣子さん、おおたさんにコメントをいただきました。
 藤田麻衣子さんは女流プロ棋士。LPSAの詰将棋カレンダーの担当者であります。今回、僕のブログでのぼやきに反応して、コメントをくださいました。ありがとうございます。僕としては「赤っ恥をかいた」わけですが、もしだれも余詰めの指摘をしてくれなかったら、もっと恥ずかしい状況になっていたわけで。それに、「印刷の締め切りの間際に余詰が見つかって」ということで、もし余詰めがなかったらこの作品も採用されていたかもしれない。そう考えると、うれしくなります。ブログの読者的にも、こういう展開のほうが面白かったことでしょう。
 藤田さん、将棋のほうも注目させていただきますから、がんばってください。
 おおたさんには、この作品の「修正案」をわざわざ作っていただきました。おおたさん、ありがとうございます。
 なるほど、金を飛車に替えるというのはアイデアですね。でも、そうすると何がどう変わるのか(5九香の意味など)がまだよくわからないのです。(どうも脳に血がめぐらない。) これから考えてみます。
 それと、これが11手詰め(カレンダーの募集は9手詰以下なのに)なのは、これが原型で、はじめの2手をはぶいて9手詰にして応募したからです。

 ところで、この詰将棋はほんとうに「ボツ」なのでしょうか。
 いや、カレンダーに不採用なのは、もういいんです。9手で「紛らわしい余詰め」があるものを採用はできません。ですが、「作品」としてダメかどうかは微妙です。詰将棋のルールというのも、微妙なところがあるからです。
 詰将棋には次のような原則があります。

 「攻め方は最短手順を選ぶ。玉方は最長手順を選ぶ」

 この原則ルールに従えば、上の[作意手順]の5手目で、「最短」であるほうの▲6八歩を選ぶということになります。(▲5七金ではなく)
 そうすると、おのずと「答え」は、こっち、つまり、▲6八歩以下の作意手順となり、[余詰め手順]は不正解となるわけで。そうすると[答え]は1コしかない。じゃあ、これ、OKじゃん。 …そんなふうに、詰め将棋というのも「微妙」な部分があるわけでして、まあ、そのスレスレの部分で遊ぶのが、マニアの醍醐味でもあるんですね。
 ということで、自分の中では勝手に、「天気輪の柱」復活! もんくあっか!

 詰将棋のコンピュータソフトはすでに人間を超えてしまって、でもそれが現われるまでは、自分のつくった詰将棋を友人に見せて「余詰めがないだろうか」と考えてもらって、余詰めが見つかったら悔しがる、というようなそういう楽しさがあったわけです。「余詰めを見つけてもらう」というのは、ですから、もともと嬉しいことなのです。自分のつくった詰将棋をそれだけ「真剣に」考えてくれるわけですから。

 それにしても、人生に一度くらいは、自作の詰将棋を本に載せてみたいものですなあ。 一度でいいよ。

アルパカ

2007年11月10日 | はなし
 まったく、宮沢賢治という人が存在したということが、夢のようだ。だが、賢治はたしかに存在したし、写真も残っている。賢治の親戚にカメラの好きな人がいたが、そのわりに賢治の写真は少ないのは、賢治が写真に写ることがきらいだったから。
 賢治の顔写真を何枚かみていると、「口もと」に特徴があると気付いた。そして、24歳で夭折した妹トシもおなじ口もとをしているのだ。

 先にも登場した賢治の教え子だった長坂俊雄さんはこう言う。
 「『宮沢先生』… われわれはそんなふうに言いませんよ、われわれは『アルパカ』って。尊敬なんぞしていませんよ。賢治は歯が出っぱっている。だから、アルパカ

 ははあ、賢治の写真の、あの「口もと」は、出っ歯をかくすためか!


 長坂さんは言う。
 「(賢治は)いたずらものの茶目っ気なんですよ。演劇だって、あれですよ、喜劇が多いですよ。何ていったって宮沢賢治から演劇を取るわけにはいかないな。私が一番感激したのが、あの『飢餓陣営バナナン大将』です」
 「尊敬なんぞしていない」という長坂さんの言葉は、えらくなって高いところに上げられてひとりぼっちになりそうな賢治を、「えいやっ」と自分の側まで引き寄せる、そんな優しさから出た言葉だろう。それが、「バナナン大将の精神」だ。(あっ、まだ読んでなかったわ。カンでいってみました)

 バナナン大将、これこそ私の進むべき道だと、これを人生訓とした。そしてそれを忠実に守りました。結果はすべてよく返ってきました。」

 1907年生れの、この長坂俊雄氏は、宮沢賢治の詩の中にも、「俊夫」として重要な役割で登場している。(その話はまたの機会に。) お元気ならば、今、100歳である。


 アルパカの写真 ←歯、出てないじゃん。でも、似てるっちゃあ、似てるネ。

 図では、賢治の学帽の上に「蜂鳥」を載せてみました。ハチドリは、日本にはいませんが、宮沢賢治の本にはよく出てきます。おそらく賢治は、博物館でハチドリの剥製を見たのだろうといわれています。
 ハチドリは、蜜蜂のように、飛びながら、花の蜜を吸います。英語ではハミングバードといい、そしてその美しさから「飛ぶ宝石」と呼ばれています。小さい鳥で、体重は2グラム以下!
 (そして、ナスカの地上絵の鳥は、ハチドリなんだってさー! へえーへえー! ←20へえ)