はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

1955王将戦 升田の復活

2013年02月27日 | しょうぎ
 升田幸三の夫人升田静尾さんの語りによる『鬼手仏心』によれば、升田幸三はノコギリで木を切るのが大好きだったそうです。
 この頃の夫婦は、「○○ですか。」とか、「○○しなさい。」とか、敬語だったりするのがなんか、いいですね。その距離感が。(そういえば、『サザエさん』の波平さんとフネさんがそうか。)


 1955年第5期王将戦七番勝負第1局 升田幸三‐大山康晴戦

 対局日は1955年12月13・14日。王将は大山。挑戦者は升田。

 前年度1954年度の名人戦は升田幸三が挑戦者になりましたが、名人大山康晴が4-1で防衛。その年はその後升田はA級順位戦を病気休場。盲腸の手術で入院もしましたが、悪いのはそれだけではなく、いろいろあったようです。
 升田さんは1955年の順位戦には復帰して、しかし完調というわけではなく、体をいたわるように対局に臨んでいました。それまでの「全力で疾走するような将棋」ではなく、「マラソンのように相手についていくような将棋」を心がけました。
 それがうまくいったか、升田さんは、第5期王将戦の挑戦者になりました。(ちなみに第1期王将位のタイトル保持者は升田幸三です。)


初手より
▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩 ▲2五歩 △3二金  ▲7七角 △3四歩 ▲8八銀


△7七角成 ▲同銀 △2二銀  ▲3八銀 △6二銀 ▲7八金 △3三銀
▲2七銀 △7四歩  ▲2六銀 △7三銀
 「角換わり(かくかわり)」の序盤。ここで後手から7七角成と換えるのが定跡だし、現代の常識なのだけど、戦前、つまり昭和初期とそれ以前の将棋指しは角交換をしない。どうも角交換は「本格派ではない」というような、素人将棋扱いだったのだと思います。みんな「角交換将棋」を避けていたのです。
 だから1945年以前の将棋指しを相手にこの序盤をやっても、「角交換」を後手はしてきません。そうすると先手は2四歩から2筋の歩が切れるので先手が得だ――というのが現代の考え方で、だから「7七角成」とするのだが、昔の人はそう考えない。「2筋の歩を切らせてもよいが、角交換は嫌だ」が主流なのです。

天野宗歩‐香川栄松 1836年
 これは先手が「棋聖」と称された天野宗歩の将棋。江戸時代の、幕末の時期の人です。
 天野宗歩はどうやら「角換わり(角交換)将棋」が好きだったようです。ところが図のように相手(後手番)が角を換えてこない。先手から角を換える(2二角成)は、いったん7七角としている以上、やりたくない(二手損になる)。ということで、先手の宗歩は6八角と引いて、次に7七銀として「矢倉」にするのです。先手番としては、2四歩から歩交換ができるので不満なしの序盤です。
 でも、「たまには換えて来いよ、角換わり将棋、指そうぜ」と思っていたのではないでしょうか。
 この形で天野宗歩が後手番のケースだと、角交換将棋になっていくのですが。

 こんな感じで、戦前までの将棋指しは「角換わり将棋」を避けていました。
 1917年の「土居市太郎‐坂田三吉戦」は、坂田三吉が強引に角を換えて、プロ棋士初の「後手一手損角換わり」となったわけですが、こうでもしないと、当時は「角換わり将棋」にはならないわけです。坂田さんは、定跡形から外れた変わった将棋を指したいということで、その対局では「角交換将棋」を望んで、そうなったのでした。


 戦後になって、木村義雄や升田幸三が積極的に「角交換将棋」を指し始めました。



▲1五銀 △5四角
 先手の升田幸三、「角換わり棒銀戦法」です。
 戦後すぐの時に升田幸三が得意としていたのは「角換わり腰掛銀」でしたが、1950年の順位戦の塚田正夫との対局で後手の塚田さんが「角換わり棒銀」をやってきました。それを見て升田は「俺にむかって、ヘボの棒銀できおったか」と言いましたら、塚田が「いや、最初は腰掛銀のつもりだったが、隣の高柳君の顔を見ているうちに気がかわった」と答えました。対局中の会話です。(真面目か!)
 その将棋は先手の升田が勝ちましたが、1か月後、木村義雄名人を相手にして、(今度は先手番ですが)升田が「角換わり棒銀」を使いました。塚田との対局の経験で、これ(棒銀)はものになる、と感じたようですね。それ以来、棒銀は升田の愛用戦法になっています。
 塚田、升田が指せば、流行りはじめます。皆、指すようになりました。
 その頃は同じ「角換わり将棋」でも「角換わり腰掛銀」が爆発的に大人気だったのですが、それがあまりに沢山指されすぎて飽きられてくると、’50年代半ばになって、こんどは「棒銀」が流行りました。特に「棒銀」を得意としている棋士として有名だったのは、松浦卓造さんです。

 塚田正夫が口にした「高柳君」とは、高柳敏夫さんのことで、後に中原誠十六世名人や島朗(元竜王)さんの師匠になる人として、今では“名師匠”のイメージですが、その将棋は“異常感覚”などと当時は仲間内では呼ばれていました。戦後、「棒銀」を最初に指し始めたのがだれかは判りませんが、高柳さんがよく「棒銀」を使っていたことは確かです。プロの将棋で「棒銀」を用いることがそれまでは少なかったということです。高柳敏夫が“異常感覚”と呼ばれたのは、たとえば相掛りの「浮き飛車棒銀」が周囲を驚かせたのです。

高柳敏夫‐灘蓮照 1953年
 高柳さんのこういう手が“異常感覚”と周囲に呼ばせた。「相掛り浮き飛車棒銀」は高柳敏夫の創始。

丸田祐三‐高柳敏夫 1950年
 これは始めは「角換わり」の将棋で、8三銀と棒銀に出ると見せてそのまま動かさず。自陣角をお互いに打ち合って、ここで後手高柳5二金。こんなのが“異常感覚”の高柳将棋。



▲3八角
 棒銀対策はいろいろある。定跡の本によく書かれているのが図の「5四角」の手。
 これは先手が「2四歩」なら、同歩、同銀、2七歩で飛車先を止める。先手の棒銀戦法を逆手にとろうという作戦。と同時に、6四銀から7五歩の攻めもあって、この攻めも強力な攻めだ。
 この「5四角」、だれが最初に指したのだろう?

塚田正夫‐高柳敏夫 1950年
 僕の探した内では、この将棋が一番古い。先後が逆で一手ずれているが、先手の塚田正夫が「5六角」(5四角)を指している。

 さて、ここで「升田新手」が出ました。



△2二銀  ▲2四歩 △同歩 ▲同銀 △2三歩 ▲1五銀 △6四銀
▲4六歩 △7五歩 ▲同歩 △同銀 ▲7六歩
 「3八角」が、1955年度王将戦第1局で升田幸三が指した新手。この手はもう有名ですね。
 これなら、2四歩、同歩、同銀、2七歩を、「同角」と取って先手が優勢になる。
 この「3八角」では、他にも手はあるかもしれないが(たとえば5六歩と突いて後手の角をいじめにいくとか)、2六飛は指さない方がよい。2六飛には、2二銀で、次に1四歩で銀が死ぬので、また飛車を動かさなければいけなくなる。(2二銀に2四歩は、同歩、同銀、2三歩、1五銀、1四歩でやはり銀損になる。)実は筆者もうっかりこれをやって失敗した経験あり。経験は偉大なり。

参考図
 「5四角」に、この参考図のように「3六角」という手もある。
 僕はネット将棋で後手番を持って「5四角」と打ったときに、この「3六角」という手に何度も遭遇している。初めに見た時は「こんな手があったか!」と驚いて、5四角、3六角、同角、同歩、6四角、3七角、同角成、同桂、5四角と進んで、その後勝負には負けて、どう指すのが正解だったかとモヤモヤしたが、その対応は“正解の一つ”だったようだ。
 もう一つ、“正解手”があって、それは「3六同角、同歩、1四歩」。 これは先手も2六銀とバックするしかない。2四歩は、同歩、同銀、同銀、同飛、1五角で、王手飛車がかかる。
 どちらの“正解手”でも、一局の将棋。
 元々は、この「3六角」の方がよく採用されていた手だったようです。それが「升田新手3八角」がインパクトが強く、その後よく指され、将棋の教科書本にも載るようになったので立場が逆になり、以前は“平凡手”だった「3六角」のほうが、“秘手”のようになって使われているというのは、面白いことです。
 僕は今まで「3六角」を説明したものを読んだことがありませんでしたが、『升田幸三選集』の本局の解説には書いてありました。



△6四銀  ▲2六銀 △4四歩 ▲2五銀 △4三角 ▲5八金 △1四歩
▲3六銀 △3三銀 ▲6六歩 △4二玉 ▲6七金右 △5二金 ▲6八玉 △3一玉 ▲4五歩
 升田の「3八角」は、単に2七に利かせただけではなく、4六歩とすれば左方面に働くのが升田の自慢。図の7六歩を、同銀は、同銀、同角、6五銀で角が死ぬ。8六歩、同歩、7六銀は、同銀、同角、8三銀と指す。
 大山の銀は6四にバックするしかない。しかし一歩を手にした。


△5五銀 ▲4四歩 △同銀引  ▲4五歩 △5五銀 ▲4七銀 △4二金右
▲5六歩 △6四銀  ▲4六銀 △7五歩 ▲同歩 △同銀 ▲7六歩 △8六歩
▲同歩 △同銀 ▲同銀 △同飛 ▲8七歩 △8四飛
 4五歩と升田は仕掛けた。同歩なら、5六金と出るのだという。5六金、5四歩、4四歩、同銀、4五銀で先手させるが升田の読み。
 大山は5五銀。4四歩、同銀。
 次の4五歩が、「まずかった」と升田。ここは、5六金、5四歩、4五歩、5三銀と指すところだったと。
 以下、先手の5六歩から4六銀は次に5五銀と出る予定だったが…


▲2七角 △4七歩
 大山に7五歩~8六歩と銀交換をされてみると、先手の銀は取り残され、角道は止まっている。後手は三歩を手にしている。大山が良くなった。
 升田は2七角から角を使おうとする。
 大山の4七歩がまたうまい手で、次に3九銀~4八歩成がある。


▲4四歩 △5二角 ▲5七銀 △4四飛  ▲5五銀 △8四飛 ▲6五歩 △4一角
▲6四歩 △5二金
 それを防いで5七銀だが、その前に4四歩としたのがまた軽率だった。この歩は取られてしまう。
 しかし大山も間違える。4四飛ではなく、4四銀が正解だった。4四飛に、5五銀と先手で飛車を追い、6五歩で6筋をねらう。こうなってみると、今度は先手が優位に立っている。


▲3六角 △3五歩 ▲4五角 △3四銀打 ▲2七角 △5四歩  ▲同角 △5三金
▲2七角 △4八歩成
 悪くなったら悪くなったでなんとかするのが大山将棋。


▲6三歩成 △同金  ▲6四歩 △7三金 ▲4八飛 △4五歩 ▲6六銀上 △6四金
▲同銀 △同飛 ▲7五銀 △6二飛 ▲6四歩
 図の4八歩成は、先手が同飛なら、4五歩と飛角をおさえるねらい。そうなっては後手のペースになるので、先に6三歩成。6四歩に、5三金なら、7二角成、4七と、6六銀、5七歩、7五銀、5八歩成、7七玉で先手良し。


△7四歩  ▲5一金
 「ここで後手7四歩なら、先手はどう指すのか?、6三金か」と僕は棋譜を並べつつ考えていました。“答え”を見ると、「5一金」。なるほど!


△7五歩 ▲4一金 △同玉 ▲6三歩成 △9二飛  ▲5三角 △6六歩
▲同金 △6二歩 ▲2二歩
 他の手を後手が指した時には5一金は8五角と逃げられるが、7四歩と打った瞬間は角の逃げ場がない。
 4一金、同玉となれば、敵玉を危ない場所に誘導できる。それが大きい。
 6三歩成を同飛ならば、9六角の王手飛車がある。


△6三歩  ▲2一歩成 △5九銀 ▲同玉 △5七銀 ▲7五角成 △4八銀不成
▲同玉 △6九飛 ▲6四歩
 2二歩が、玉をそちらへ逃がさない手。同銀なら、4五角から攻める。
 大山名人、5九銀と捨て、5七銀。受け一方では可能性がないとみた。


△6四同歩 ▲7四馬 △4二玉  ▲5五金 △5四歩 ▲9二馬 △同香
▲8二飛 △5二金  ▲5三銀
 こういう、ここで6四歩のような手が、なかなか私らには浮かびません。(僕ならこの局面で逆転されている可能性大です。)

投了図
まで139手で先手の勝ち。
 後手玉は詰み。升田幸三、初戦で白星を挙げました。

 この将棋は「3八角」の新手を升田幸三が出したのですが、これはもう「角換わり棒銀」を指す人ならば、今では誰もがよく知っている手です。ただし、これで先手が優勢というわけではありません。
 先手は「棒銀」から飛車先の「一歩」を手にしたわけですが、後手も7五歩からの歩交換をしていますから、その点の条件は互角です。あとはお互いの「角」と「右銀」とが、どれだけ相手よりよく働くかという、中盤の勝負になります。
 この将棋、先手の升田さんは4五歩から仕掛けたのですが、後手が同歩なら、「5六金」と出る予定だったという。僕は盤上に出なかったこの「5六金」という手が、自分で指していたらまったく考えない手だったので、印象に残りました。大山さんもそれを読んでいて、それを実現させないようにしていたのです。木村、升田、大山の時代の棋士は、こういう金銀が中央へ出てくる将棋が得意です。
 この将棋を見ても、結果的に、大山さんの「4四飛」に、升田さんが「5五銀」と打てたことがこの将棋を勝ちへと傾けました。「やっぱり中央の制覇は大事なんだなあ、5六金のような手を指してでも中央を取ることがいいんだ」と勉強になりました。
 駒落ち時代の人はこういう金銀のせめぎ合いが本当に強い。だから50歳を過ぎてもA級で頑張れたのだと感じます。



 この1955年度の王将戦は、3連勝で升田が「王将位」を奪取。しかしまだこの七番勝負は終わりません。3つ勝ち越すと「王将位」の行方がそこで決まり、そこから「指し込み将棋」が始まる、そういう規定なのです。そういう特殊な「指し込み」七番勝負なのです。
 1952年に世間を騒がせた「陣屋騒動」も、王将位を4―1で手にした升田幸三が、さらに木村名人を相手に「指し込む」ことになり、その香落ちの対局を指すのが嫌で対局拒否をしたということが、本当の理由と考えられています。(表向きには「旅館の対応が悪かったのが…」となっている。)

 要するに、升田幸三は、再び大山名人を相手に、「香落ち」での第4局を行うのです。
 その将棋に勝ち、升田幸三は、伝説の「名人に香車を落とした男」となったわけでした。

伝説の男~♪ 伝説の男~♪



 さて、この1955年度の第5期の王将戦の挑戦者を決めるリーグは、升田幸三、花村元司、丸田祐三の三者が同率となり、三人での決戦が行われました。升田‐花村戦は升田勝ち、升田‐丸田戦も升田が勝って、この王将戦に挑戦者として出場したのでした。
 どんな将棋だったのか、その内容を、ちょっと見てみましょう。

花村元司‐升田幸三 1955年
 1950年代、「ひねり飛車」を指していたのは、A級では花村元司だけでした。(丸田祐三が指し始めたのはもっとずっと後年のこと。)
 7四歩、同歩、同飛に、7三金と後手の升田が指したところ。
 「7三金は当然で、7三歩では後手がわるい」そうだ。
 ここで花村は、7三飛成、同桂、7四歩。こういう“素人のような攻め”が花村の本領。升田はわかっていてそれを誘った。
 この場合、7三飛成も「当然」なのだそうだ。7六飛では、7四歩で後手が良い。
 本譜は、以下、7六飛、7七金、7四飛、7五歩、同飛、9七角。
 

 持ち時間はたっぷりある。各7時間だ。
 にもかかわらず、「昼食休憩」にもなっていないというのに、早くも優劣の別れそうな決戦になっている。
 元々花村は早指しだ。気合だろうか、それに合わせて升田も同じように早指しで駒をすすめ、それでこうなった。
 「昼までには終わりそうだなァ」と花村はこの時思ったそうだ。もちろん自分の勝ちだ。
 9七角に、7四飛、7五金で飛車を取る。飛車を取れば、後手の玉はひとたまりもないだろう。
 そんなことはない、まだいい勝負、と思っていたのが升田。
 升田、8六歩。
 同角、同飛、同歩、5五歩。


 花村、4七銀。
 しかしこの手では、先に7二飛と打つところだった。7二飛、4二銀、6七銀なら、後手は7三の桂馬を跳ぶことができず、花村が良かった。


 一直線の攻め合いの速度計算は、升田幸三の得意とするところ。
 2四玉と逃げて、2五香で、先手は参っている。歩がないので、どうにもならない。
 図以下、5一角、3三桂、2三金、同銀、2七歩と粘ってみたが、後手の勝ちは動かない。升田幸三の勝ち。

 この将棋を紹介したのは、『選集』に書いてあった、花村の「昼までには終わりそうだなァ」のエピソードを伝えたかったから。


 花村さんは、この1955年度、「九段位」の挑戦者になっています。
 もしもこの対局で、花村さんが升田さんに勝利していたら、この王将戦も挑戦者に――ということもありえたわけです。
 さらにはA級順位戦も好成績で、花村元司8勝2敗、これは升田幸三と同星。花村さんは、プレーオフ挑戦者決定戦三番勝負を升田さんと戦い、これに2―1で勝利して’56年の名人挑戦者は花村元司が名乗りを挙げたのでした。
 要するにこの時期、「花村元司は絶好調だった」と僕は言いたいわけです。



丸田祐三‐升田幸三 1955年
 先手升田幸三の「筋違い角戦法」。
 「筋違い角」は、アマでは割と指す人がいますが、プロではほとんどいません。でも木村名人は得意としていて、しかも重要な対局でこれを用いてだいたい勝っていた。
 この当時もこれは“素人戦法”とされていた。
 丸田祐三さんは1950年頃、王将戦のタイトル挑戦をするなど、目立つ活躍をしています。升田幸三より1つ年下。


 3四角で「一歩」を取り、5六に下がり、さらに3八角。
 その角を追いかけつつ後手は左銀をくり出す。
 升田は4六の一歩をすんなり取らせた。この発想はすぐには浮かばない。そもそも「一歩」の得を主張するために「角」を打ったのに、これではその「得」が消えて、角を打って目標にされるという不利だけが残るではないか。
 升田の狙いは、ここで「8六歩」。


 攻め合いに。先手は8筋を攻める。後手は5七。これは先手の玉頭が怖すぎる!


 しかし升田の読み切りらしい。先手は大丈夫のようだ。
 5五銀と下がらせて、2四歩、同歩、2三歩。

投了図
 升田の勝ち。
 相手の攻めを引っ張り込んで勝つ。大勝負に、こんな勝ち方ができるなんて、よほど読みに自信があるんだなあ。相手の攻めを読み切っていないと、これは怖くて指せない。そう感じました。


 この将棋は『升田幸三選集』にないんですが、なぜ選ばなかったのだろう、こういう一直線の迫力ある勝局は升田さんの好みだろうに――。
 そう思って調べたら、わかりました。類似局をこの前にすでに升田さんは3局経験しているんです。升田さんは先手で1局、後手で2局経験しています。
 そういうこともあって、読みに自信があったんですね。

升田幸三‐木村義雄 1951年
 これが、この形の1号局。4六歩を取らせるこの指し方は升田さんのアイデアでした。
 しかし、アマで「筋違い角」をやってくる相手は多いけれど、僕はこの形は見たことがないですね。
 これは1951年の第10期名人戦。これは例の舌戦「ゴミハエ問答」で有名な、そのときの名人戦です。
 升田幸三はこれが名人戦に初登場で、その七番勝負第4局の将棋です。ここまで木村名人の2勝、升田八段1勝。
 図の8四歩が好手で、升田さんが優勢に。8四同飛、8五銀、8二飛、8四銀、8三歩、7五銀となって、後手の飛車は使えなくなりました。


 ところがこの将棋は逆転で、木村義雄名人の勝ちとなります。
 図の、「5八と」を升田さんは完全に見落としていました。同玉なら、5九金で寄り。
 実戦は、5八同金、7七銀で、逆転。先手はもう、勝てません。
 この図の前に、升田さんはこれで勝ちだとばかり、7七の桂馬を跳ねて6五桂と指したのですが、この手で他の攻め、たとえば3四金ならば升田優位の形勢が続いていました。桂馬を跳ねたので、後手の7七銀が生じたのです。

 これで升田の1勝3敗。この3敗はすべて「筋違い角」で、そのうちの2局は木村名人が先手で打った「筋違い角」でした。この3つの将棋すべてに優勢を築きながら、いずれも勝ちきれなかったのが、升田にとって痛かった。
 この第4局を勝っていたら、ここで升田新名人が誕生したかもしれません。(この半年後から始まった王将戦では升田が木村に勝ってタイトルを手にしています。)
 結局この1951年第10期の名人戦は2勝4敗で、升田、名人位奪取成らず。

 つまり、木村義雄の「名人位」は、「筋違い角」に守られていた、と。
 

 翌1952年は大山康晴が名人戦挑戦者となり(升田は挑戦者決定戦で大山に敗れた)、大山が勝って新名人誕生。木村義雄は引退を発表しました。
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1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン

2013年02月23日 | 横歩取りスタディ
 当時の朝日新聞の将棋欄は夕刊にありまして、「家庭欄」の下段のほうにあったのですが、「家庭欄」にはこのように、「プロレスごっこはやめましょう」というような記事もあったわけです。
 僕はもちろんまだここでは生まれていませんが、しかし僕もプロレスごっこの経験者でして、「あれは楽しかったなあ」という記憶です。僕は「4の字固め」とかの技が習得できず、それで“独自の技”を編み出していました(笑)。 しかし子供っていうのは遊びに関してはやはり天才で、オリジナルな技を持っているとそれなりに一目置いてくれるんですね。あいつにはあの技があるから警戒しろ、なんて雰囲気をつくってくれる。そうやって遊びを盛り上げる。技に名前を付けたりして。あとで考えるとダメダメなしょぼい技なんですが。
 将棋の戦法に名前を付ける、なんてのも、そういう子供の遊びのノリに似ていますね。
 世のお母さんや、管理責任を意識する学校の先生たちが、プロレスごっこをやめさせたいというのは理解できます。
 しかし、それが“主流”の考えになって全体を覆ってしまうとしまうと、これは違う、という気がします。
 プロレスごっこや、けんかというのは楽しいのです。身体と身体がぶつかってもみ合って身体が熱くなるあの感触が、子供時代は楽しくてやっていた。
 たしかに、プロレスごっこや子供のけんかが元で、けが人が出たり、争いや面倒な事の原因になる可能性はあるわけですが、それ以上に、「育てる」という意味では、必要なものを育てていたと思うのですが。生きるために、より良い世界ををつくるために必要なものを。
 「たたかう気持ち」、これが私たちの未来には大事かと思います。

 ところで、『将棋世界』の最新号は、米長邦雄氏の追悼号でしたが、ここに寄せられた内藤国雄さんの追悼文の中に、余談として、「親睦会がこの1回で打ち切りになったのは予算の関係ではなく、酒が入ってあちこちで喧嘩が起こり始めたからだと思う。」と書かれていました。この1回きりの親睦会は1963年のことのようですが、昔は喧嘩っぱやかったんですねえ、みんな。50年代となるともっと荒れていたかもしれません。
 そういうことを考えると、この時代の人々が「けんかのない世界」を理想としたのも、当然の事とも思えます。

 しかし、「たたかう気持ち」を失ってはいけません。



 今日の将棋の棋譜は主に2つ。1955年の将棋。
  (1)松田茂役‐塚田正夫 A級順位戦
  (2)高島一岐代‐大山康晴戦 名人戦七番勝負第1局



(1) 松田茂役‐塚田正夫 1955年 A級順位戦


 塚田正夫の“佐瀬流”(横歩取り8二飛戦法)。
 図から、松田茂役、2二角成、同銀、7七桂。前例のない指し方だった。「天才」松田は独創的だ。


 しかしこれは2五角~4七角成があった。プロがこれをうっかりしたとは考えにくいが、当時の観戦記は「松田の見落としである」と断定している。
 2四飛、4七角成、4八銀、2三歩、2六飛、8三馬、8七金。


 馬をつくって「歩得」をした後手がうまくやったように思える。
 松田、8七金。善悪はともかく、こういう手を指すところが「天才」とか「ムチャ茂」などと呼ばれる所以だろう。
 松田茂役に関しては、「松田さんは奨励会のときからとても女性にもてた」と原田泰夫が言っていたそうだ。普段は口数が少なかったが、酒が入るとにこにこし、野球で巨人が勝つとご機嫌になったという。
 弟子に、加瀬純一、木下浩一、真田圭一がいる。 


 今、8五に打っていた歩を、松田茂役が「8四歩」と進めたところ。
 観戦記は、これを許さず後手はその前に、8三歩として備えておくべきだったと書いている。塚田が局後の感想戦でそう言ったのかもしれない。


 松田、駒台の角を4七に打つ。8筋をねらう。塚田はどう受けるのか。


 塚田正夫、5四馬。これで8筋は受かるのか?
 実は松田はここで3六角と指した。つまり8筋を攻めなかったのだが、攻めるとどうなったのだろう? すなわち、9四金、同歩、8三歩成なら、後手はどう凌ぐつもりでいたのか。
 以下、8三同金、同角成、同飛、同飛成、7一金、5二金、6三馬、4一飛、2二玉。これは先手の指し切りだという。
 ということで松田は、9四金以下の攻めを決行しなかった。


 5~6筋から戦いが始まった。


 ここで後手塚田は、3六歩。 同歩、同馬、3七歩に…
 「6三馬では8二歩で悪いと思った」と塚田の感想。
 そこで本譜は、6七銀。


 6七同金に、6九馬、同玉、6七歩成。



 5八銀、5七と、同銀、6七金、6八銀、6六歩、4九角、5八歩、同角、7八銀、5九玉、8八歩成、同飛、8七歩。


 9八飛、5八金、同玉、8九角、9六飛、6七歩成…(略)


 なんとか先手玉は右辺に脱出したが…



投了図
 捕まった。 後手塚田の勝ち。




黒澤明、小津安二郎の映画広告
い~のちみじ~かし恋せよおとめ~♪





松田茂役‐花村元司
 この年、九段戦の「松田茂役‐花村元司戦」で、「相横歩取り」が指されたらしいです。 これがプロ公式戦初の「相横歩取り」(8八角成~7六飛)で、花村元司が後手番でそれを指したのです。


 ただし、先手の松田茂役は、7七桂と指しています。(現代の相横歩定跡の主流は7七銀です。)


 上の図から、7四飛、3六飛、3三桂、2六飛、8七歩、同銀、4四角、7五歩、同飛、6六角、と進んだそうです。

 この棋譜は加藤治郎の著書に(途中まで)載っていますが、「後手有望の岐かれとみられるが、この後花村八段に失着が出て松田逆転勝ちとなった」とあります。


 ここ、どうもおかしい、です。
 というのは、1955年度の九段戦は花村元司が挑戦者になっているから。負けた花村さんが挑戦者になっていては、変です。
 これがリーグ戦か、挑戦者決定戦の番勝負なら花村負けでもよいですが、どうもそうではないようですし(準決勝だったという)、それなら「松田勝ち」では、意味不明。
 この対局が、この前年度1954年度の九段戦ならばつじつまが合う。この年度は松田茂役が九段戦挑戦者になっているから。
 とにかく、どこか記述に間違いがあると考えられます。

 ということで、僕は、この「松田茂役‐花村元司戦」は、1954年の対局ではないかという疑いを持っています。(「棋譜でーたべーす」にはこの将棋の棋譜はありません。)

 (後日注; 九段戦はトーナメント式でしたが、当時は準決勝も三番勝負だったのかもしれません。それなら、この対局が「1955年、松田勝ち」でも問題ありません。それが“正解”という気がしてきました。)


 それで、「相横歩取り」は、このとうり1955年あたりで「松田茂役‐花村元司戦」でプロ公式戦に初登場、その後数年、間をおいて、1959年「内藤国雄‐塚田正夫戦」で2号局が指されました。

内藤国雄‐塚田正夫 1959年
 今度は「7七銀型」です。
 以後、時々後手番で塚田正夫が「相横歩」を使うので、この戦型は“塚田流”と呼ばれるようになりました。




サザエさんとソ連の水爆核実験の記事



 (2) 高島一岐代‐大山康晴戦 名人戦七番勝負第1局

 この1955年は高島一岐代(たかしまかずきよ)さんが挑戦者となりました。(’54年度のA級順位戦で優勝した。)
 「日本一の攻め」などと呼ばれ、無理っぽい攻めを成功させるのが得意だったようです。大阪府八尾市の生まれで、藤内金吾の弟子。つまり内藤国雄の兄弟子になります。(内藤国雄はこの時、奨励会でまだ修業中。)
 高島さん、38歳での名人挑戦です。戦後、木村、塚田、升田、大山以外の者が名人戦に登場するのは初めてのことでしたので、フレッシュな感じだったと想像されます。でも、大山名人は32歳で、挑戦者のほうが年上なのですけどね。
 この頃のA級・名人の年齢はけっこう若いんですよ。平均年齢37歳、最高齢が44歳の大野源一さんです。(現在のA級の平均年齢は40.5歳)


 今ではめったに見られない戦型、「相腰掛銀矢倉」。
 戦前は「5筋を突く相掛り」がプロ将棋の主流でした。
 それが戦後になって、急に「5筋を突かない戦型」が流行し始めました。1950年代前半までは、「角交換相腰掛銀」と「相掛り相腰掛銀」が流行り、やがて千日手になりやすいということで「角交換相腰掛銀」が避けられるようになり、かわりに「銀矢倉」がちょっとの間、よく指されました。ということで、こういうような「相腰掛銀矢倉」もこの頃はたまに見られたのでした。(しだいに銀矢倉は角が使いにくくスピード感に欠けるということで捨たれていくことになります。)


 後手の大山名人は、2五銀と、先手高島の角を目標にしてきました。
 しかし、ここで1五角という手がありました。同香なら2五飛で、次に香車も取れますから「二枚替え」になります。これは名人も読んでいなかった。
 なので大山は3四銀とバック。2六角に、2四歩。やはり角を狙っていきます。


 高島一岐代の指し手は、いろいろと大山名人の意表を突いたようです。 
 先手がうまくやって、いま、8三金と打ったところ。これで角を獲りました。 


 高島は、その角を敵陣に打って、これを馬にして自陣に引きつけます。
 先手駒得で後手の陣形は乱れています。 高島、大優勢。


 149手目、3一飛。 
 これはもう先手勝ち、ということで周囲は“終局の準備”に入る。
 指していた大山もこれは負けと覚悟はしていた。投げどころを考えていて、図のしばらく後、よし投げるかと思った時、周囲の報道陣のざわつきが耳に入り、「大山負けと決めているな」とわかるとこれが気にくわない。大山名人、「もうひと粘り」と考え直して指し続けることにした。
 すると―――


 4七歩、同と、4五金、同金、4七銀で将棋は終わっていた。
 しかし高島の指し手は、5四金。
 4五桂、3九香、5八飛。この飛車を打って大山は「夢ではないかと心を弾ませた」と自戦記に書いている。以下、7三竜、同金、5五銀、3六玉、4九銀。
  

 4七玉、5八銀、同玉、7九飛、4七玉、4四銀、2八銀。


 2八銀と打って、これは完全に逆転した。
 ここから数手進んで、高島、投了。 190手、大山名人の勝ち

 〔 それにしても勝負とはあやしくも不思議なもので、報道陣のわずかな動きが耳に入ってから、勝利の女神が私に乗り移る感じになって頑張れた。 〕(大山康晴)



 これは高島さんは惜しい将棋を落としました。この期の名人戦は高島一岐代が2勝を挙げたましたが、結局、4-2で大山名人の防衛で終わりました。
 大山名人の“逆転力”はほんと、凄いですね。


 1955年度のA級順位戦を8勝2敗で勝ち抜き、翌1956年の挑戦者として登場したのは、花村元司でした。

 この花村さんは1955年度の「九段戦」(今の竜王戦の前身のタイトル戦)の挑戦者にもなって、塚田正夫と五番勝負を戦っています。
 「名人位」は大山康晴で、「王将位」も大山康晴。
 升田幸三は1954年の名人戦七番勝負に出場した後、体調不良のため一年休場。入院もしたりして、升田はもうだめだ、と思われていました。復帰してももうタイトルを争うような将棋は指せないだろうと。
 ところが、升田幸三はこの年、1955年度の「王将戦」の挑戦者となります。それだけでなく、このタイトルを大山康晴からストレートで奪取。その上、香落ち上手で名人大山にも勝利して「名人に香車を落として勝つ」を実現してしまったのが、この年なのでした。(正確には年をまたいでいるため1956年になる。)

升田幸三‐大山康晴 王将戦
 これがその1955年度王将戦の第1局。対局日は12月13日。
 「角換わり棒銀」を封じる後手の「5四角」に、升田幸三が「3八角」の新手を出したのがこの対局。

 流れとしては、このままこの将棋の内容をお伝えしたいのですが、長々となってしまいましたので、これは別記事とします。




李承晩ラインへの抗議デモ

 李承晩、りしょうばん、イスンマン、時の韓国大統領。
 彼が、「李承晩ライン」なるものを勝手に領海線として、その領海内に入った日本の漁船を拿捕し始め、約4000人の日本人が韓国に拉致され(死傷者も出た)、韓国政府は彼らを帰さず抑留して政争のための人質として扱いました。抑留者の食料など、その環境は良いものではなかったようです。
 漁民の拿捕は1952年から始まり、上の写真は1955年の記事。「李承晩ライン」が廃止されるまでにはさらに10年かかりました。

 僕はこの大事件のことを10年程前まで知りませんでした。そのことを恥ずかしく思いましたが、後で、ほとんどみんな同じように知らなかったんだとわかり、あらためて驚きました。こんな大事件をあんなにきれいに忘れてしまっているなんて!
 「過去のことは水に流して」という日本人のやりかたかと思いますが、逆に韓国の方が「独島は我が領土」などとアピ-ルしてくるので、1960年代以降に生まれた日本人も気づいたのです。黙っていれば日本人も気づかなかったかもしれないのに、なぜ彼らはアピ-ルしてくるのか。

 日本と朝鮮半島とが「併合」したのは、“話し合い”によるものです。しっかり条約を交わしてのことであり、強要もしていません。
 それでも、朝鮮人の中には「日本」になるのがいやだという人はいたでしょう。それが日本側にもわかっているから、日本政府は彼らに「日本人になってよかった、自分は日本人だ」と思ってもらえるよう、朝鮮半島や台湾、満州を「住みよい国」にしようとがんばりました。朝鮮半島は特に、国家予算の3分の1をつぎ込んでインフラを整備し、非人道的な制度をやめさせ、朝鮮人の代議士の誕生も日本人が後押しして進めようとしています。朝鮮半島という国土は資源もなく、農業にも適さず、そういう国土を持ってもあまり得することは実はありません。しかし日本という国は、「併合」となって、そこが日本になった以上は、とにかく「住みやすいところ」にしたいと真面目に身を砕いて働いたのです。一緒によい国をつくろうと、“日本人”となった朝鮮半島の人々と力を合わせて頑張ったはずなのです。
 戦争中から、アメリカは、自分たちの国には黒人をはっきり差別する制度が存在していることもあって、それ以上に「悪い日本」を国際的に印象づけるために、「日本は朝鮮を奴隷扱いしている」ということにしてきました。そう思いたかった、ということです。時のアメリカ大統領ルーズベルトによるプロパガンダなのですが。(中国のプロパガンダもありました。日本はプロパガンダ戦がまったく弱かった。)
 戦争が終わって、日本は敗戦国になりました。
 日本は誇り高くアメリカ、イギリス、中国と同時に戦って散ったのですが、本当はまだ戦争は終わっていなかったということです。宣戦布告して正面から激突することだけが“戦争”ではないということです。
 朝鮮の人たちは、「自分たちは敗戦国ではない」と主張しました。戦時中は、日本人と共に同じ方向をみて戦っていたのですから、“敗戦の苦しみ”を共有することができたらより絆の強い友になれたはずなのですが、そうはなりませんでした。彼らはアメリカなどに「自分たちは戦勝国と認めてほしい」とさえ主張しました。それは認められず、戦勝国でも敗戦国でもなく「第3の国」だということで、「三国人」とされたのですが。

 「李承晩ライン」、「竹島」をめぐるこの騒動は、結局これは“戦争”だったのだと思います。
 韓国側は、「戦勝国」になりたいのです。そのためには日本と戦って勝てばよい。つまり「竹島」は彼らにとって、“勝利の証し”なのだと思います。
 だから、「俺たちは勝ったんだぞ」と彼らはアピ-ルしたいのです。現実に実効支配(日本にすれば不法占拠)しているにもかかわらず、アピ-ルする。「勝った勝った」と自慢したいのです。

 だけど、それはないよ、と思います。
 あの時代、日本には軍隊もないし、国民は「もう戦争はしたくない」と思っていたでしょう。日々を生きることで精一杯の時代です。
 そういう時だからこそ、日本が弱いことをわかっているから、あの時代に李承晩は“戦争”をしかけてきたのです。あれを“戦争”と呼ばないのは、あの時の日本には軍隊がないし、だれももう戦争したいと考えてないし、戦争とは(西洋式の定義では)そもそも軍隊同士の激突なのですが、韓国がやったことは「漁民の拿捕」ですから。
 でも、それがあの国の“戦争”なのだということです。


 最近、中国軍の船が日本の漁船を追っていたというニュースもあり、気になることです。



憲法改正の世論調査
 これも1955年の記事です。当時も、やはり「憲法改正論議」はされていたようです。


 「横歩取り佐瀬流8二飛戦法」の本ブログ内の記事
  『“横歩取り8二飛戦法”を指してみた
  『創始者はだれなのか “8二飛戦法”
  『“それ”は、戦争中に佐瀬勇次が発見した
  『1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン
  『“佐瀬流”vs郷田新手2四飛
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“それ”は、戦争中に佐瀬勇次が発見した

2013年02月21日 | 横歩取りスタディ
 佐瀬勇次(させゆうじ、1919-1994)、千葉県出身、石井秀吉門下 


 “横歩取り8二飛戦法”は、佐瀬勇次さんが発見しました。
 戦争中、華北での4年間の軍隊生活中に思いついたんですって。実戦で初めて指したのは、1944年(まだ戦時中ですね)の奨励会での加藤博二戦。

 佐瀬さんは、先々月亡くなられた米長邦雄元名人の師匠ですが、上の棋士系統図を見ればわかるように、高橋道雄、丸山忠久、木村一基らたくさんの有名棋士の師匠でもあります。藤井猛、三浦弘行も佐瀬一門ですし、この図には載っていませんが、女流の中井広恵も佐瀬勇次の弟子です。
 「藤井システム」も「中座流8五飛」も、佐瀬一門から生まれ出たのですね!

 佐瀬勇次の順位戦の最高位はB1クラスで、1952年の1年間のみ。どうやら、B1に昇る原動力になったのが“佐瀬流8二飛”かもしれません。佐瀬さんは“8二飛”で5勝2敗と、加藤治郎氏の本には記されています。年齢は、升田幸三の1つ下となります。
 残念ながら佐瀬勇次の指した“8二飛戦法”の棋譜はみつかりません。


 ところでこの棋士系統図、佐瀬勇次の師匠の石井秀吉の師匠は、川井房郷という人物なのですが、この人がどういう人なのか気になります。ネットで調べても、わからないのです。わかったのは、名古屋生まれだということくらい。
 今の棋士は東京の棋士は3分の2が「関根金次郎一門」に属することになるのですが、この「川井房郷一門」は別系統ということになります。もとをたどれば、あるいは川井房郷氏も関根金次郎と同じ伊藤宗印(十一世名人)の門徒かもしれませんが。



 「二上達也‐熊谷達人戦」 1955年 順位戦(B1)

 今日の棋譜はこれ。
 二上23歳、熊谷24歳。“達達対決”ですね。この若さでB1クラスという前途有望な二人の一戦。

二上達也‐熊谷達人 1955年
 熊谷達人(くまがいみちひと)の“横歩取り佐瀬流8二飛戦法”となりました。

 〔 熊谷君は現役の指し盛りに顔面の奇病にとりつかれ、昭和五十二年の四月に四十六歳の若さで亡くなった人だ。大阪の旧制天王寺中学を出た秀才で、努力家でもあった。いつもにこやかな人で「極楽鳥」のあだ名があった。長考型の粘っこい将棋を指した。 〕(升田幸三 『升田幸三選集』から)
 升田と熊谷とは、とても仲が良かったらしい。
 

 先手二上達也(ふたかみたつや)は8三歩から8四飛。8四飛に、8八角成なら、「同飛」と取って、後手からの“王手飛車”の狙いは空振りになる。

 〔 二上君は攻めの鋭い棋風で“攻めの二上”と言われたが、その後どういうわけか“受け”に変わって伸び悩んだ。 〕(升田幸三 『升田幸三選集』から)
 二上のタイトル戦登場回数は26。(これは升田幸三、加藤一二三よりも多い。) 

 
 8筋は、後手から「8二歩」と歩を合わせて、図のような形になった。
 後手熊谷、ここで持駒の角を3一に打つ。
 7六飛、8四歩、3六歩、5四飛。
 3一角で7六飛とさせて、8四歩。次に8三銀とするねらい。


 5四飛の形はかっこいい。意味としては、先手の3五歩からの3筋の攻めに備えた手。
 ここから、3七桂、2四飛、2五歩、3四飛、2七金、5三角、3五歩と進む。
 後手の2四飛~3四飛がどうだっただろうか。ここはせっかくその前に8四歩としたのだから、8三銀と指すべきだったかもしれない。後手の玉はこのままでは危うい。金銀が左右に分裂しているから。


 二上は相手の動きに乗じて右金を前進させたが、これが機敏だった。
 図から、3五同角、3六金、6二角、3五歩、1四飛、4五桂。
 金が自由に動けるのも、後手が「角」を手離したため。相手の「角打ち」を怖れ心配する必要がない。それどころか二上は、熊谷の「角」を目標に攻めをスピードアップ。


 4五同桂、同金、2六歩、同飛、3四銀、2四角。
 後手熊谷も2六歩から3四銀と、技を繰り出す。この銀を同歩と取ると、2六角で後手は飛車を取れる。


 しかし二上、2四角。王手。この手があった。後手が玉を逃げれば、3四金で銀がただ取りできる。
 実戦は、2四同飛、同歩、4五銀、2三歩成、3一金、2五歩、6六飛。
 後手駒得だが…、ここからの先手二上の攻めが冴えていた。


 5二玉、3七桂、5四銀、3四飛、4四角、4三と、同銀、3一飛成、4一金、2一竜、1二角。 


 1二角。攻防の角。
 2五竜、5六歩、同飛、同角、同歩、6二玉、4五桂、7一玉。


 こうしてみると、後手の右辺の“コリ形”が痛い。
 2一龍、3二銀、4三角。

 
 4三角という手があった。(6一金の詰めろ)
 4三同銀、4一竜、6一桂、4三竜、3五角、5二金、8三銀、6一金、8二玉、3二竜、2六角打、5三桂成、同角、同桂成、同角、6五桂。

投了図
 先手は最後、左の桂馬まで寄せに参加させて、熊谷たまらず投了。 106手、二上達也の勝ち。
 この将棋は、先手の二上の攻めが俊敏だった。後手の角打ちを逆用して快勝。

 二上達也はこの年、10勝1敗で昇級、新A級八段となりました。
 一方の熊谷達人は3勝8敗、本来なら降級の星でしたが、運よく免れました。そして3年後にはやはりA級八段になりました。



 “佐瀬流8二飛戦法”は、先手の8三歩に5二飛として中飛車になりますが、すると「中住まい」に囲うことはできませんね。では玉をどう囲うか、また、2筋、8筋の歩をいつどこに打つか、それが大変にむつかしい。それを考えるのがこの後手の戦法の“楽しみ”でもあるのですけれど。




『平手相懸定跡集』の中にある“横歩取り8二飛戦法”

▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩  ▲7八金 △3二金
▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △8六歩  ▲同歩 △同飛 ▲3四飛


 この図で、先手が3四飛と横歩を取ったとき、1800年頃は、(1)3三角、(2)4一玉、(3)8八角成~4五角、(4)8八角成~3八歩、(5)8八角成~7六飛などがすでに指されていたようで、この『定跡集』に載っています。(『平手相懸定跡集』は江戸時代の将棋定跡書)
 「佐瀬流」の指し方、すなわち図ですぐに8二飛という手はこの本にはありませんが、ちょっと違う「8八角成、同銀、8二飛」の指し方は研究されているようですので、それを見てみましょう。

 図より、△8八角成 ▲同銀 △8二飛


▲8三歩 △同飛 ▲2四歩
 佐瀬流と違って、8三歩を「同飛」と取れる。
 (8三歩に5二飛の変化は後で記す。)


△3三歩 ▲3六飛 △2七角
 「2四歩」が定跡手なんですね。してみると、前回記事で紹介した「升田幸三‐塚田正夫戦」の升田2四歩は、これを知ってのものだったかもしれませんね。


▲5六角 △8八飛成
 後手の2七角に、5六角と打つ。飛車取りと同時に、2三歩成がある。


▲8八同金 △3六角成  ▲同歩 △7九飛
 後手は飛車を切って攻める。


▲6九飛 △7六飛成 ▲2三歩成 △5六龍 ▲同歩 △2三金  ▲4五角
 7九飛には、6九飛と先手で受け、2三歩成。

 これにて先手よし、だという。なるほど。



 さて、先手の8三歩に、5二飛とするとどうなるか。その変化についても考慮されています。
 △5二飛 ▲2四歩

変化図1
△3三歩 ▲3六飛 △2七角  ▲2六飛 △4五角成
 やはり「2四歩」と打つらしい。

変化図2
▲3六角 △3五馬 ▲2八飛 △2二歩

変化図3
▲6三角成 △7二金 ▲5二馬 △同玉 ▲4八銀

変化図4
 これにて先手良し



 後手にもまだ変化の余地はありそうですが、一応、1817年に出版された『平手相懸定跡集』にはこういう定跡が書かれています。
 この書物は、「大橋宗英(九世名人)の定跡書」とされていますが、実際に書いたのは宗英の門人の藤田桂立だとか。
 明治、大正、昭和初期の将棋指しはこの定跡書をよく参考にしていたようです。それで、この、先手が「3四飛」と横歩を取る将棋は、そこで後手から様々な手段があるのですが、しかしどの手段も概ね「先手良し」の変化が出てくる。そういう認識になって、昭和初期(戦前)には、もう、この型で後手が「8六歩、同歩、同飛」とすることも少なくなっていたようですね。20年とか30年とか指されなくなると、みんな忘れてしまうんですね。

 戦後、横歩取りの“佐瀬流”の発見は、先手が横歩を取ったところで、そこで「8六歩、同歩、同飛」もあるのではないか、と戦後の新しいプロ棋士たちに再考させるきっかけになったところに、おおいに意義があったのではないかと、僕は思います。


 
 1955年の広告。 新製品のラジオ、¥17,800。 超高級品だったでしょね。1960年代でさえ、サラリーマンの初任給は2万円以下だったといいますから。ちなみに、同じ1955年の広告でテレビの値段(シャープ)をみると、¥84,500になっています。 


 「横歩取り佐瀬流8二飛戦法」の本ブログ内の記事
  『“横歩取り8二飛戦法”を指してみた
  『創始者はだれなのか “8二飛戦法”
  『“それ”は、戦争中に佐瀬勇次が発見した
  『1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン
  『“佐瀬流”vs郷田新手2四飛
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創始者はだれなのか “8二飛戦法”

2013年02月19日 | 横歩取りスタディ
 1952年と1955年の朝日新聞の将棋欄のA級順位戦の観戦記を読もうと思い、図書館へ行きました。当時の将棋欄は夕刊に掲載されていました。
 上の映画の広告は1952年のもの。
 これら映画広告を見て、ついでに1954年の暮れの紙面も調べてみました。映画『ゴジラ』の広告を見てみたかったからです。
 しかし、見つかりません。考えてみれば、すべての映画の広告が新聞に出されるわけではないのですが。
 しかし、『原子怪獣現わる』という題名の映画広告があって、これが『ゴジラ』か!と、一瞬、思いました。
                                   ↓

 が、これは違いました。これは大映の配給らしいですが、アメリカのハリウッド制作の映画です。日本の東宝の『ゴジラ』は1954年11月の初上映とのことなのですが、この『原子怪獣現わる』はその1か月後の上映になります。
 そしてどうやら、この映画も、『ゴジラ』と発想がほとんど同じです。日本とアメリカとで、同時に同じような内容の怪獣映画が作られたことになるのですが、これは偶然でしょうか。偶然に同じ発想をしたとしても何の不思議もないですが、アメリカが、あるいは日本が、海の向こうからの伝え聞こえたアイデアを流用したということがあっても、これまた不思議ではありません。
 (『さいざんす二刀流』ってどんなのか気になる~。漫画キャラ“イヤミ”の源流か?)


 さて、前回記事の続き、1950年代に少し流行った“横歩取り8二飛戦法”のプロ棋士の棋譜を見ていきます。
 今日の棋譜は次の2つ。
 (1)升田幸三‐塚田正夫 1952年 九段戦
 (2)升田幸三‐松田茂役 1952年 順位戦(A級)

 

(1)升田幸三‐塚田正夫 1952年 九段戦

 先手が「3四飛」と‘横歩’を取ったところ。
 そこで「8二飛」と引くのが、“横歩取り8二飛戦法”。


 その「8二飛」に対しては、5八玉や、8七歩とする指し方もあり、その棋譜を前回は紹介しました。しかし一番人気の対応は、図の「8三歩」。
 「8三歩、5二飛、2四歩」と進みました。
 (「8三歩」を同飛と取るのは、2二角成、同銀、3二飛成で後手負け。)


 「2四歩」が升田幸三の決断の一手。「これで決めてやる!」というような手です。
 狙いは、次に3二飛成、同飛、2三金。
 単純なねらいですが、うまくいくのでしょうか。
 塚田さんは、3三角と指しました。これで先手3二飛成はなくなりました。次に2二銀とすれば、逆に升田の打った「2四歩」が負担になりそうです。升田、どうする?


 升田幸三、「3三飛成」!
 驚愕の一手ですね。「同桂」に――2三歩成、同金、2四歩を入れて――


 「3四角」。
 しかしこれで攻めが続くのでしょうかねえ。
 僕は思いました。3二銀で、先手は次の攻めがないじゃないか、と。
 3二銀には、きっと、2三歩成、同銀、同角成、同金、2四銀と攻めるのでしょうね。しかし攻めが細すぎる…。
 塚田さんはしかし、3二銀とは指さず、「2七飛」でした。
 2七飛に、升田さんは4三角成~5二飛と飛車を取って――


 「2八飛」と飛車を合わせます。
 以下、同飛成、同銀、4六歩、同歩、4七角、2三歩成、同銀、3一飛から攻め合いましたが――

投了図
 52手、塚田正夫の勝ち。
 升田の才能、カラ回りの一局、でした。

 1か月前の「塚田正夫‐花村元司戦」では、後手の花村元司が“8二飛戦法”を仕掛けたのですが、それを「これは有力」と思ったようです。
 今度は塚田正夫が後手番で“横歩取らせ8二飛戦法”を升田幸三を相手に仕掛けたのでした。そして、このとうり、結果は成功しました。(本局は戦法がどうこうより、升田さんの自爆っぽい内容ですが。)
 前局の「塚田正夫‐花村元司戦」は、先手の塚田さんの攻めが炸裂しましたが、序盤の内容としては「先手指しにくい」という塚田さんの感触だったようです。

 

伊藤宗看‐大橋宗英 1788年
 升田さんの「2四歩」は、失敗でしたが、あるいはこの対局の棋譜が頭の片隅にあったかもしれません。
 この図の将棋は、対局日が11月17日なので、「御城将棋」の対局ですが、12歳年上の宗英が後手番で右の香車を落としています。今では「右香落ち」の将棋は全く指されることはないので、この将棋も“横歩取り”ではありますが、序盤の研究としてはまったく参考にはなりません。後手の「右香」がないので、「9六歩~9七角」で敵の飛車先を受けるような手が成立しています。この将棋は、先手伊藤宗看の勝ち。
 この時は大橋宗英が32歳、伊藤宗看20歳。宗英は11年後に九世名人となり、さらにその10年後に宗看が十世名人になります。(谷川浩司―羽生善治のような年齢差です。)
 ところで、“名人伊藤宗看”は、歴史上、3名存在しています。初代伊藤宗看(三世名人)、三代伊藤宗看(七世名人)、六代伊藤宗看(十世名人)で、この三人はいずれも“強い名人”でした。詰将棋『将棋無双』で有名なのは、この真ん中の三代宗看。
 で、この大橋宗英と対戦している“伊藤宗看”は、六代宗看。
 この、初代、三代、六代、というのは、「宗看の○代目」ということではない。宗看はこの三人以外には存在しておらず、二代目宗看とか五代目宗看とかはいないようだ。「三代」とか「六代」というのは、伊藤家三代目当主、六代目当主、という意味であって、二代目は宗印(五世名人)だし、五代目もやはり宗印なのである。(ただし五代宗印は名人にはなっていない。)



 さて、盤上の将棋の話に戻って、1952年の当時の観戦記を読みますと、この戦法の注目点は、「8二飛」にではなくて、その前の、「8六歩、同歩、同飛」とする指し方にあったようです。この指し方が新鮮で、「成立するかどうか」がテーマとなっていたようです。
 すなわち、

  初手から、7六歩、3四歩、2六歩、8四歩、2五歩、8五歩、7八金、3二金、2四歩、同歩、同飛

 その局面で、「8六歩、同歩、同飛」とするのが、どうか、と。
 当時はここでは「2三歩、3四飛」と進んでいたのです。(または先手は横歩を取らず飛車を引く。) この“2三歩を打たずに8六歩”がこの時期生まれた新しいテーマだったのです。

 とはいえ、この手(8六歩、同歩、同飛)は江戸時代、それも18世紀の昔から指されています。
 たとえばこの一局。

伊藤寿三‐徳川家治 1775年
 「徳川家治」とは、江戸幕府第十代将軍徳川家治のことです。この人は聡明な人で、趣味も多く、将棋が大好きでしかも強かった。
 この対局の時は38歳ということになります。相手の伊藤寿三は、詰将棋の神様とも称される伊藤看寿(かんじゅ)の息子です。
 こんなふうに、18世紀に、徳川家治がすでに「8六歩」を指しているわけです。凄いですね、240年前ですよ。

 この後も少し見てみましょう。
 先手の寿三は「3四飛」と取ります。


 対して十代将軍家治は、「8八角成、同銀、4五角」と指しました。
 今で言う「4五角戦法」です。徳川家治はこの「4五角戦法」を先手後手両方をもって何局も指しています。「極めてやろう」と思っていたんですかね。
 現代の眼で見ると、この図では先手が良しとされています。4五角、2四飛、2三歩、2八飛となって、後手は攻めが続かない、というのが現代の定跡。

村越為吉‐花田長太郎 1920年
 現代の定跡は、横歩取りの「4五角戦法」を使うなら、8八角成から角交換した次に「2八歩」と打つことを示しています。
 1920年に花田長太郎が、「2八歩」を指しています。「村越為吉‐花田長太郎戦」。花田長太郎23歳の時の将棋。(花田長太郎は関根金次郎十三世名人の弟子で、塚田正夫の師匠です。)
 「2八歩、同銀」としておいて「4五角」と打つ。これならば、上で示した“2八飛”とする手が先手にはないので、後手もチャンスがでてくるというわけ。今でもこの手が最有力手として指されています。(ただし先手が正確に対応すれば後手が勝ちにくそう、というのが現在の評価。)
 この「2八歩」が、もしかして花田さんの考えた新手なのかとも思いましたが、違いました。「2八歩」はもっと前からあるようです。大橋柳雪(おおはしりゅうせつ、1794 ― 1839)の定跡書に、すでに記されているようですね。
 「村越‐花田戦」、この将棋は先手の村越為吉が勝利しています。花田長太郎の「4五角戦法」、不発の終わりました。
 それでなのかどうなのか、これより以後、ずっと「4五角戦法」は指されることもなく、その前の「8六歩、同歩、同飛」までも忘れ去られていたわけです。
 (「4五角戦法」は70年代になってプロ公式戦に現れる。)


 後日注: 後で判ったことですが、花田長太郎はこの対局前まで、なんと、22連勝の記録更新中だったようです。ここで村越に敗れて連勝ストップという話題の一局だったみたいです。 



 塚田正夫「後手が同形に8六飛と出るのは、従来の横歩取り先手よしを覆す新定跡になるかもしれない。」(1952年9月)


 
(2)升田幸三‐松田茂役 1952年 順位戦(A級)

 後手松田茂役(まつだしげゆき、元々松田茂行だったが晩年に改名したらしい)が“横歩取らせ8二飛戦法”。 升田幸三、受けて立つ。


 さて、先手は「8四飛」。
 「あれっ? 9五角で、「王手飛車」じゃないか!!」
 8八角成、同銀、9五角には、7七角、8四角、1一角成で、先手良し、なのでしょうか? いやいや、とても先手良しには見えない。
 前回記事で紹介した「松浦卓造‐高島一岐代戦」でも同じように「8四飛」と指しているし、これはすると両対局者の“うっかり”などではない。いったいどういうことなんだ――!? 
 と、僕は悩みましたが、しばらく考えて自己解決。8八角成には、“同飛”で何事も起こらない。
 こういうところが、素人の「序盤研究」の意義といえます。これが実戦でしたら、勘違いするか、時間を序盤で浪費してしまっているところです。


 後手の「7四歩」はなかなか凡人には浮かばない手です。同飛と取らせて、7三金と活用する。「どうせ歩損しているんだ、1歩も2歩もいっしょだ」ということか。
 松田茂役は「天才」とか、「名人候補」と呼ばれていました。この時、31歳。


 升田、角を換えて、7七桂。
 3三桂、4八銀に、松田はここで「8六歩」。
 以下、6五桂に、6四金と出る。


 この将棋を別室で研究していた者達は、「先手有利」と断定していた。先手の攻めを後手は受け切れない、と。
 升田も、初めはそう思っていた。8二歩成、同銀、2二飛成、同金、5三銀、6五金、5二銀成以下、攻めきれる、と。
 ところがよく読むと、5三銀に、3二飛とされた時に、6四銀成が、8七歩成で一手負けになると気づいた。ということで、升田は苦吟した。約2時間の長考の末、6六歩と指した。しかしここから形勢は後手に傾いていく。
 局後の講評で、木村義雄十四世名人は、6六歩では、3五角で先手良しと見解を述べている。しかし升田は「5三角には、6二角があってまずい。」と言っており、つまり木村名人の言う3五角にも、やはり6二角がある。(木村名人はこの年の春の名人戦で大山康晴に敗れ、引退している。)
 まあつまり、その前の、松田茂役の8六歩~6四金がすぐれていたのである。

 (後日注; 3五角、6二角、同角成、同銀、6六歩としておけば、次に8二歩成があるので先手良し、としている解説も別にあった。)

 6六歩、2三歩、2八飛、4四角、8四角、4一玉、7三桂成、と進む。


 松田、5五歩。松田の「中飛車」が働いてきた。


 飛車角をさばいて、後手好調。升田の飛車は働きのない駒になってしまっている。
 5六歩に、5四飛と引いて、4六歩には、5五金と出る。5五金は角取りになっている。
 7四歩、4六金、6五歩、7二歩。


 松田7二歩。これで持駒を補充する。
 8二歩成、7三桂、7一と、7四飛、7五銀、4四飛。


 升田は銀を得たが、その銀を7五銀と「打たされ」た。
 松田は戦力を4筋に。
 
投了図
 松田茂役の勝ち。 松田さんの会心の指し回しでした。


 この年度のA級順位戦は、升田幸三が4戦全勝で走っていましたが、ここで松田茂役が土をつけました。この年度は結局、升田、塚田、松田の三者が並び、プレーオフとなり、名人挑戦権は、升田幸三が獲得しました。
 実はその名人挑戦権争いと名人戦の将棋は、本ブログですでにいくつか紹介済みです。
 この年度は、A級に花村元司と小堀清一が初参加した年であり、前に紹介した“横歩取り小堀流4二玉”が流行した年なのです。
 つまり、トップ棋士達が、横歩取りの新らしい二つの風、“小堀流4二玉”と“8二飛戦法”を指し始めたのが、この1952年度なのでした。


 小堀流4二玉戦法の記事
  『横歩を取らない男、羽生善治 3
  『横歩取り小堀流4二玉戦法の誕生
  『小堀流、名人戦に登場!
  『「将棋の虫」と呼ばれた男
  『その後の“小堀流”と、それから村山聖伝説



 では、この“横歩取り8二飛戦法”を流行らせたのは誰なのか。

 この対局の観戦記に、升田幸三がこう言ったと記されています。
「3四飛と横歩を取り、8二飛と引かれた局面は、最近塚田君と二局、○○君と一局経験している。私の感じでは先手指せると思ったのでまた横歩を取った。」

 この「○○君」というのが、この“8二飛戦法”の創始者なのです。
 誰なのかは、次回記事で明らかにします。



1955年のソ連の水爆実験の記事


 Wikipediaで調べましたら、ハリウッド制作映画『原子怪獣現わる』の項目がありました。米国では、日本の『ゴジラ』初公開よりも1年前に公開されており、ということは、「日本で発想→アメリカがパクッた」という可能性は消えました。逆は、しかし残っています。
 日本の東宝が『ゴジラ』を構想するきっかけは1954年3月のビキニ環礁の水爆実験ということなのですが、アメリカはそれよりも前に「核実験によって復活した恐竜」という設定の映画を作っているわけです。
 もともとこの『原子怪獣現わる』のストーリーの原作はレイ・ブラッドベリの短編小説『霧笛』ですが、恐竜が「核実験によって復活する」という設定は、映画で付け加えられた設定のようです。



 「横歩取り佐瀬流8二飛戦法」の本ブログ内の記事
  『“横歩取り8二飛戦法”を指してみた
  『創始者はだれなのか “8二飛戦法”
  『“それ”は、戦争中に佐瀬勇次が発見した
  『1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン
  『“佐瀬流”vs郷田新手2四飛
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“横歩取り8二飛戦法”を指してみた

2013年02月14日 | 横歩取りスタディ
 昨年から「横歩取り」を勉強しようと思って調べていたら、“8二飛”とする戦い方があることを知りました。それでためしに、使ってみました。
 上の図は、「わたし」の実戦。後手番が「わたし」。
 初手より、7六歩、3四歩、2六歩、8四歩、2五歩、8五歩、7八金、3二金、2四歩、同歩、同飛、8六歩、同歩、同飛、3四飛、と‘よこふ’を先手が取った時に“8二飛”とする。そういう戦法です。
 (この手では、一番多いのが「3三角」(内藤流空中戦法)、他には、下平幸男さんが最初に指した「3三桂」戦法、それから、「8八角成、同銀、7六飛」の「相横歩取り戦法」などがあります。)

 で、先手「あいて」(仮)氏はどう指したか。
 「9六歩」と指しました。
 この将棋はネットの将棋倶楽部24の早指(持ち時間1分、あとは一手30秒)なので、この時はこの「9六歩」の意味を考えることもなく、後手番の僕は次の手を指したのですが、今考えると、「9六歩」は、次に7七桂の「ひねり飛車」をねらった手ですね。(9六歩とせずに7七桂なら8七歩で先手の角が死んでしまいます。)

 僕は、「8八角成、同銀」に、「3三金」と指しました。


 「3三金」は、先手「3六飛」に、「2二飛」が狙いです。
 以下、「2八歩、2七歩、3八金、2八歩成、同銀、2六歩」。


 「2六歩」では、2七歩もあるかもしれません。2七同銀なら、2八歩、同金、3九角。3九銀には2八角と打ち込むのです。
 「2六歩」は、次に露骨な「2七角」がねらい。さあ、先手はどうするか。

 「2三歩、同飛、4五角」と進みました。


 ここから「3四歩、6三角成、6二銀、8一馬、2七角、2四歩、同飛、2七銀、同歩成」が実戦の進行です。
 僕はこの対局時、この“横歩取り8二飛戦法”を特に研究して指したわけでもなく、知識としては「8二飛という指し方がある」ということくらいであとは白紙の状態でした。なので、先手の「6三角成」にどう対応するのがよいのか、この時初めて考えたわけで、どう指すか迷いました。7二銀や7二角は、5三馬が3一の銀取りになっているのが気に入らない。そこで「6二銀」と指しました。

 先手の「8一馬」に、「2七角」と打つ。

 「2七角」に、3九金は、3五歩(同飛なら、8一角成で角が取れる)があります。対局中はそれで後手がいいかと思っていたのですが、今見ると、2七角、3九金、3五歩、2七銀で、同歩成なら3五飛、3六歩なら同銀で、この変化は後手むしろ自信なし。

最終図
 ここで先手の「あいて」(仮)氏、時間切れとなり、終局。 
 後手の「わたし」の勝ちとなりました。

 相手の考慮中に、「先手が2五歩、同飛、1六角なら、8五飛が8一馬取りになっているから良し、2五歩、同飛、2六歩には、8五飛と2六同ととどちらが良いか迷うな…」というようなことを考えていました。
 先手が時間切れになったのだから、後手の「作戦成功」――ということかなとその時は思ったのでしたが…。

 もしこの最終図から、「2五歩、同飛、1六角、8五飛」(参考図a1)と読み通りになったとしまして――

参考図a1
 この先を考えてみますと、「2七角、8一飛、2六飛、2五歩、同飛、2四歩、8一角成、2五歩」。

参考図a2
 これは後手が銀桂交換の駒得ですが、先手は手番を握っていて、馬をつくっています。これは優劣不明。
 途中、8一角成のところで、飛車を取らずに、5五飛というような手もあり、その選択権を持っている先手のほうが有望な気もします。

 やっぱり「実際に指してみる」というのは一番の勉強法ですね。それを後でもう一度見るというのも大事。なかなかできませんが。



 この“横歩取り8二飛戦法”は、1950年代にプロ間で指されていた指し方でして、その実戦棋譜を見てみましょう。次の3つを用意しました。
 (1)大山康晴‐丸田祐三 1956年
 (2)塚田正夫‐花村元司 1952年
 (3)松浦卓造‐高島一岐代 1956年


(1)大山康晴‐丸田祐三 1956年
 
 この将棋は上の「わたし」の実戦と似た進行になります。
 後手の丸田祐三、“8二飛”と飛車を引く。
 ここで上の将棋では「9六歩」でしたが、この将棋の先手の大山康晴は違う手を指しています。


 大山さんは「5八玉、3三角、8七歩」と指しました。
 ここから8八角成、同銀、3三金以下――あとは「わたし」の実戦と同じに進んでいます。


 同じですね。
 3四歩、6三角成、7二角。
 7二角と丸田さんは指しました。


 5三馬、3六角、同歩、4二銀、6四馬、6二銀、7九銀。


 飛車角交換ですが、先手は馬をつくって「歩得」。 先手優勢に見えます。
 図の7九銀は後手の飛車打ちにあらかじめ備えた手。


 先手大山は6六角と打ちました。相手の飛車を間接的ににらんでいます。
 後手は歩切れで、大山さんが悠々角を打ったのですから、僕はこれで先手大山の押切り勝ちになると思ったのですが…。
 ここから、4五銀、同桂、同金。後手の丸田、勝負に出る。
 大山、5七馬。以下、5四桂、5五角、同金、同歩、4五桂。


 4八馬、5六飛、6七玉、3六飛、3七歩、6六飛、同馬、4九角。


 5六玉、6六桂、4八金、7八桂成、同銀、7六角成、6七金、5九角、5八金、7七角成、5四飛、5三桂。

投了図
 まで丸田祐三の勝ち。
 一気に後手丸田が攻め倒してしまいました。 「疾風の寄せ」でしたね!

 馬をつくったところでは先手良しと思うのですが。

 それと、こういう分かれになるのなら、後手の「8二飛」に対しては、大山さんの指した「8七歩」よりも、僕の実戦で「あいて」氏の指した「9六歩」のほうがよりgoodな手に思えます。「一歩」を多く手持ちにできますから。

 なるほど、「9六歩」、いい手っぽいですね。



(2)塚田正夫‐花村元司 1952年

 では次の棋譜。塚田正夫‐花村元司戦。後手の花村さんが“8二飛戦法”です。
 この将棋も、大山‐丸田戦と同じように、先手が「8七歩」とした将棋です。こちらのほうが古い棋譜です。


 ここで花村は、7二金。(前局では2七歩でした。)


 そしてこうなりました。
 ここで先手の塚田は激しい攻めに出る。


 なんと、8三飛成!
 同金に、5六角、8二金、2三銀。 これで後手の飛車を捕獲。
 同飛、同角成、3一銀。 

 後日注: 観戦記によれば、塚田さんも花村さんも8三飛成の攻めに気づいていなかった。花村が9四歩と指した後に、塚田が気づいた。


 とりあえず花村は、先手の攻めを止めた。馬はつくらせたが、後手は駒損はしていない。
 この将棋はA級順位戦での対局。1944年に「五段」を特別に認められプロ入りした花村元司はこの年(1952年)にA級八段となりました。塚田38歳、花村34歳の対戦。


 塚田、今度は左から攻める。7三馬(桂馬を取った)と馬を切ります。
 同金、7一飛に、花村は6二玉。 9一飛成に、6一飛。
 8二竜、7二金、9三竜、8二角。


 塚田、飛車を逃げずに、8五桂。
 9三角、同桂成、8四歩、8六歩、5一飛、8五歩。


 8六歩~8五歩と歩を伸ばします。僕なども、こういう手が1秒で見えるようになると良いのですが。


 後手花村も必死で攻め味をつくろうとしますが、先手塚田もそれを許しません。 
 どちらも、「さすが、粘り強い!」という感じ。
 この年、塚田正夫は大山康晴を3―2で破って「九段位」のタイトルを獲得しています。(「九段位」は現在の竜王位の前身。)その後4期「九段位」を保持し「永世九段」となる。


 8八角に、8九金。 塚田は花村の攻めを切らせば勝ち。
 図から、7八歩成、8八金、同と、2六香。 後手には受ける「歩」がない。
 5七桂成、同金、2四歩、同香、3三金、7七馬。

投了図
 ここで花村、投了。 塚田正夫の勝利。


 このように、引き飛車にして、飛車を振って使うのが“横歩取り8二飛戦法”。






(3)松浦卓造‐高島一岐代 1956年
 
 3つ目に紹介するプロ実戦譜。先手の松浦卓造、ここで「8三歩」と指した。
 実は、プロの実戦ではこの「8三歩」が最も多い。
 「8三歩」を同飛と取るわけにはいきません。取ると、2二角成、同銀、3二飛成で後手崩壊です。これを取れないのは後手悔しいような気がしますが、それは承知の上での“8二飛戦法”なので、本当はちっとも悔しい気持ちはないのです。


 後手の高島一岐代(たかしまかずきよ、1916-1986 大阪府出身 藤内金吾門下)は、「5二飛」。
 先手松浦卓造(まつうらたくぞう、1915―1977 広島県出身 神田辰之助門下)は玉を右に囲った。


 後手はさらに飛車を2筋に持って行き、「相振り飛車」になった。通常の「相振り飛車」と同じに見えるが、実は決定的に違うことがある。序盤に先手が「3四飛」から‘横歩’を取ったので、先手が「一歩得」になっているということ。
 その「歩得」を生かして、先手が攻めた。6四歩、同歩、6五歩、同歩、6四歩。これは俗に“ウサギの耳を掴む”という攻めだ。これを“ウサギの耳”というのは、いったいいつから言い出したのだろう? 江戸時代からか、昭和からなのか。


 後手に歩を渡したので、その歩を使って、今度は後手が2筋から攻める。

投了図
 先手松浦の勝ち。

 この将棋のように、先手が「歩得」を生かして先に攻める展開になるならば、後手のこの戦法は失敗です。


 まだほかにも“横歩取り8二飛戦法”のプロの実戦棋譜はあるので、次回にそれを紹介します。




  「横歩取り佐瀬流8二飛戦法」の本ブログ内の記事
  『“横歩取り8二飛戦法”を指してみた
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「9六歩型相横歩」の研究(4)

2013年02月09日 | 横歩取りスタディ
 「相横歩取り」は、江戸時代から指されていまして、九世名人大橋宗英(大橋分家当主六代目)の『平手相懸定跡集』に記されています。この書物によれば、「相横歩取り」は先手が有利になるとされているようだ。
 宗英は1799年から10年間、名人を務めました。よく、「近代将棋の祖」と紹介される人物です。江戸時代の名人の中ではだれが一番強かったか、というような話題になれば、まず名前が挙がるのがこの人、宗英さんです。
 そういうことで、一応、プロ棋士は“相横歩取りは先手が有利”、とそう信じていました。なので、先手番がまず「3四飛」と横歩を取った時、「8八角成、同銀、7六飛」と後手も横歩を取るという「相横歩取り」はプロ間では明治、大正、昭和初期と、この時代には指されることはまず、なかったのです。その定跡をまったく疑わなかったというようなことではないと思いますが(100年以上も前の定跡ですしね)、考え直すきっかけが特になかったということでしょう。
 しかし、戦後、木村義雄の後に実力制度のもとで2期名人になった塚田正夫が、1960年代、70年代に後手番でよくこれを指しました。それで「相横歩取り」の戦型は「塚田流」と呼ばれるようになったのですが、塚田元名人がこれを時々指すので、他の各プロ棋士たちも、塚田と対戦するときのために、この「相横歩定跡」を、改めて見直す必要が生じてきたのでした。“きっかけは塚田正夫”ということです。

内藤国雄‐塚田正夫 1959年

 1959年の内藤国雄‐塚田正夫の王将戦、これが塚田が「相横歩取り」をプロ公式戦で指した最初の将棋のようです。内藤国雄はプロ棋士になったばかりの四段。塚田さんは元名人の九段ですから、ふつうならまず対戦することはないのですが、おそらく新人の内藤さんが勝ちつづけてこの対局が実現したのでしょう。
 図から、7四同飛、同歩、8三飛、8二歩、8六飛成、と進みました。そしてこの将棋は、塚田が九段の貫録を見せ、勝利しました。
 なお、大橋宗英『平手相懸定跡集』の定跡手順は、図から7四同飛、同歩、8八飛、です。さらに進めると、8二歩、8三歩、7二金、8二歩成、同銀、5五角、2五飛、8二角成、8七歩、同歩、8六歩、同飛、8五歩、7二馬(以下略)、のように進んで、「これにて先手良し」と結論されているようです。


 そういう時代の背景があって、前回紹介したように、1962年棋聖戦、塚田正夫‐大山康晴で、「9六歩型相横歩取り」が指されたのでした。これもまた、仕掛け人は塚田正夫なのです。

 ということで、今回は「9六歩型相横歩」の第4回目、お贈りする棋譜は次の3つ。
 (1)升田幸三‐大山康晴 1964年 十段戦七番勝負 第1局
 (2)升田幸三‐大山康晴 1964年 十段戦七番勝負 第5局
 (3)升田幸三‐塚田正夫戦 1965年

 このうち、(1)(3)が「9六歩型相横歩」の棋譜です。

 

(1)升田幸三‐大山康晴 1964年 十段戦七番勝負 第1局

 トップレベルの棋士というのは、40代になっても強い。この時は升田46歳、大山41歳。
 しかし升田さんの46歳という年齢は、タイトルを獲るには最後のチャンスかもしれない、というような年齢ではあります。いつの時代になっても升田さんより大山さん方が5つ若い、というのは、“なんか、ずるい”という感じがします。これも持って生まれた運ですねえ。

▲7六歩 △3四歩 ▲9六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩  ▲2五歩 △3二金
▲7八金 △8六歩 ▲同歩 △同飛  ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △7六飛

升田幸三‐大山康晴 1964年 十段戦1
▲2二角成 △同銀  ▲3四飛 △3三銀 ▲8四飛 △8二歩 ▲5八玉 △7二金
▲3八金 △8三歩
 升田〔 第一局はたいへん珍しい横歩取りという戦型になった。 〕


▲8五飛 △2六飛 ▲2八銀 △2二飛  ▲7七桂 △5二玉 ▲8六飛
 大山は8三歩で飛車を追います。先手は飛車をどこに引くか。
 升田さんは8五飛としました。
 私見ですが、この戦型は先手なら「8六飛」、後手なら「2四飛」の浮き飛車がよいように思います。しかしこの場合、後手の飛車が7六にいるので8六に引けませんね。
 升田さんは、後手の2六飛に、2七歩とすぐには打たず、2八銀。このあたりが序盤に鋭敏な升田幸三の工夫が見られます。
 先に「8五飛」と中段に構えたのも、すんなりと後手に「2四飛」の形をつくらせないということでしょう。


△4四銀 ▲2七歩 △8二銀  ▲1六歩 △7四歩 ▲9五歩 △3三桂
▲6八銀 △7三銀  ▲3六歩 △6四銀
 ここで先手は「8六飛」と構えました。
 升田〔 △4四銀で△2六歩が気になるが、それは▲2七歩△同歩成▲同銀でお手伝いになる。そこは抜かりない。 〕


▲3五歩 △2四飛
 この将棋は、先手の升田幸三は「6八銀型」で構えています。この戦型は先手の左の銀は、後手の銀に対して出遅れる運命にあるので、それならいっそ「6八銀」のままの方がよいかもしれません。このほうが守備は堅そうですし、飛車の横利きも通っていますし。ただ問題は、攻めがあるかということ。先手からの攻めがないと、じわじわと後手に攻め形をつくられて勝負どころもなく負けてしまいそうです。
 升田幸三はどうしたか。 3五歩と指しました。
 升田〔 次の▲3四歩を防ぐには△2四飛はこの一手。 〕


▲2六飛 △2五歩  ▲3六飛 △5四角
 升田〔 ここで二つの順に分かれるので迷った。結局は本譜の▲2六飛を選んだのだが、今こうやって局面を見ると、この順は誤った。
 ここはもう一つの順である▲8四歩がよかった。△8四同歩と取るなら▲同飛△8三歩▲7四飛となるが、これは歩の食い逃げで問題にならない。
 そこで▲8四歩に対しては7五銀だが、以下▲8三歩成△8六銀▲7二とと進行する。
 一日目からこうまで激しくするのは、と思って躊躇したのだが、こう指しておれば一手勝ちの将棋だったようである。 〕


▲8六飛  △3五銀 ▲3七銀 △1四歩  ▲8五桂 △8四歩 ▲7三歩
 5四角のような角打ちは横歩取りではよく出てきます。しかしその角打ちを升田さんは軽視していたのかもしれません。先に持ち角を打つとその角がいじめられる展開になるのがいやなのですが、この大山の角は二枚の銀に守られてその心配がありません。
 升田〔 ▲8五桂以下、やや強引な感じではあったが、攻撃にふみきった。 〕


△7一金 ▲9三桂不成 △同桂  ▲8四飛 △8二歩 ▲9四歩 △2六歩
▲同歩 △同銀  ▲4六角
 升田〔 ▲8五桂以下は、作戦に齟齬を感じた焦りからだが、これでなんとか指せるという読みもあった。しかし、△2六歩から反撃されてみると事態は容易ではなかった。 〕


△3七銀不成 ▲2四角 △3八銀不成  ▲3四歩 △7五銀
 升田の苦しい将棋になった。しかし――
 升田〔 大山君に△7五銀という悪手が出た。 〕


▲3三角成 △4二金打 ▲8九飛 △8六桂 ▲8八金 △3六角  ▲4二馬 △同金
▲3七金 △2七角打
 升田〔 すかさず▲3三角成と乗じて△8四銀と飛車を取っているひまがない。 〕
 この瞬間の3三角成を大山名人は見落としたようだ。3三角成は5一飛以下の詰めろになっている。大山、4二金打。

 
▲3三歩成 △4九銀打 ▲同飛 △同銀不成 ▲6九玉 △3三金 ▲2二飛 △3二歩 ▲3九桂
 逆転したか――とも思ったが、そうではなかった。
 升田〔 私などは悪手を指すと、とたんに顔に出してしまうが大山君はポーカーフェイスだ。何くわぬ顔で指し続けるものだから、相手は自分の読みに自信をなくしてしまうらしい。私は大山君の子供の頃から面倒をみていて、彼の性格は知りつくしているから、顔色にだまされて形勢判断を誤るというようなことはないが…。 〕
 ▲3三歩成では、▲5六歩と突くべき、それでも後手良しだが、▲3三歩成は負けをはっきりさせた、と升田は言う。


△3八角成 ▲3六金 △3九馬 ▲2一飛成 △7六桂  ▲4一銀 △6二玉 ▲5一角 △6一玉
▲3三角成 △5八銀成  まで102手で後手の勝ち
 升田〔 この将棋は持時間の十時間をいっぱい使って頑張ったが、どうも読みが空転している。 〕

投了図

 という内容で、まず大山十段が1勝目。



(2)升田幸三‐大山康晴 1964年 十段戦七番勝負 第5局

 これは「9六歩型相横歩」とはまったくつながりのない、中飛車の戦型になるのですが、内容が面白いので紹介したくなりました。

 大山3-1のスコアで迎えた第5局です。升田幸三の先手番。
 この七番勝負では升田幸三が中飛車にする将棋が多いです。振り飛車では中飛車と向かい飛車が多かったのが升田幸三。
 升田〔 前局は大山君にではなく、完全に自分に負けた。終了後の当夜はなかなか寝つけなかった。しかし十日間の休養で体力も若干回復して気力も戻ってきた。借りは必ず返す固い決意だった。それも同じ中飛車で破るつもりであった。 〕

升田幸三‐大山康晴 1964年 十段戦5
 序盤に変化をつけるのが好きな二人。升田はわざと玉の移動を後回しにする。6五歩とやってきても大丈夫、とみている。そう升田が読んでいるとわかっていて大山は6五歩。誘いに乗って、それで升田が負けたら、ダメージはでかい、ということだろう。
 6五歩、同歩、8八角成、同飛、2八角。
 そこで升田、1八香。 1九角成、3九玉。


 これが升田の予定の受け。もちろんこの後も読んでいる。
 4四歩に、3六歩。これは次に3七角と合わせて大山の馬を消す狙い。後手の馬が消えれば、先手に「歩得」が残る。これは必勝に近い。
 ということで、5五歩、同歩、4五歩、同歩、5五馬と進む。


 升田、7七角と角を合わせる。同馬、同桂、5五角。
 升田〔 (7七角に対して)△4五馬なら、▲5六銀左△4四馬▲5五銀△3三馬▲5四歩で問題にならない。 〕
 後手5五角に、先手は、7八飛などと受けると8六歩があるし、6八金では飛車の横利きが止まってしまう。
 升田は5九角と受ける。
 大山の1九角成に、3七角。


 このあたりまですべての変化を読みに読んで升田幸三元名人は、大山の仕掛けを誘ったわけです。「序盤の升田」の凄さです。ただ、これだから終盤でエネルギーが切れる。この将棋も大山が仕掛けを見送っていればこれらの読みはすべてまぼろしに終わっていた。大山が仕掛けたのは升田への“やさしさ”か、それとも一度はやさしくしておいて後でダメージを与えるという、高等な悪魔的戦略か。
 3七同馬、同桂、5七角、4八金、2四角成、5七角。


 升田〔 大山君としては、▲5七角に対しては△3三馬と引きたいところだが、それなら私は▲6六角と出る。△同馬▲同銀△6七角は▲5八角と合わされ無意味なので、△4四歩とでも打って頑張るよりないが、そこで▲5八飛と回って、歩切れの大山君は抵抗しようがないのだ。 〕
 ということで、大山は1四馬。仕方ないとはいえ、これはつらい。つらいけれども、それでも平気で指し続けるのが大山康晴という怪物。


 大山名人は馬をつくってはいるが、働きが悪い。先手の生角のほうが明らかに働いている。
 それになんといっても先手は「二歩得」である。
 形勢は大差。
 序盤で将棋をつくり、優勢を築いて、あとは相手の抵抗を粉砕する、というのが升田将棋。ただし大山相手の場合は、しばしば失敗するのであるが。
 ということで、「升田ほぼ勝ち」という形勢ではあるが、だからこそ慎重にと升田は駒を進めた。「将棋は我慢」なのである。


 升田〔 ここで頭に血がのぼると、とんでもないポカをやることになる。とにかく一手一手に少考を重ね、慎重に指した。 しかし悪い癖というのはそう簡単に直らないようで、再度の6四歩に対する5五角は軽率だった。 〕
 図では、9一と、6五歩、9三角成でよかったという。
 実戦は、5五角、6五歩、7三と、6四飛…


 升田〔 ここまできたら何手かかっても勝つつもりだ。大山君とやるときには、焦りは禁物なのである。 〕
 3六桂、4二と、同金、5六金、4六馬、同銀、6九角、2三銀、同玉、4五角
 升田〔 5六金が受けの決め手である。 〕


 王手飛車取り♪


 139手、升田幸三の勝ち。

 これで十段戦七番勝負のスコアは大山の3-2となりました。

 この将棋は、大山が升田の誘いに乗って仕掛け、升田の読み通りに中飛車優勢となり、そのまま先手が押し切って勝利しました。升田幸三の快勝でした。
 しかし、全盛期の大山康晴の“余裕”も感じられる、という気もしました。3-1なので、升田の誘いとわかっていて仕掛け、不利になってもそれでも勝つチャンスをうかがっている。こういう将棋で升田の集中力が切れてポカの出た将棋が何局もあるわけですから。
 まあでも、升田の用意した序盤の角打ちのやりとりは面白かったですね。「面白い」ということになると、やっぱり升田幸三の勝局になるんですね。

 この1964年度の十段戦は次の第6局を大山が勝ち、4-2で防衛しました。



(3)升田幸三‐塚田正夫戦 1965年

升田幸三‐塚田正夫戦 1965年
 1965年十段リーグの一局。
 この将棋は先手の塚田正夫さんが、「9六歩型相横歩」を誘って、升田幸三がそれに乗ったのですが、「後手升田の模範演技をご覧下さい」というような将棋です。
 7五角をあらかじめ防いで先手が5八玉とした図。
 ここから2六飛、2八歩、7二金、3八金、8三歩が後手の抜かりない手順。
 2六飛の前に先に7二金だと、3八金、2六飛、2七歩で、これは後手「一手損」になってしまう。


 2六の飛車が追われる前に、8三歩で、先に相手の飛車を追うのがよい。このタイミングでは先手は「8六飛」とできないから。


 後手は素早く左銀を進出させ、4五銀。ここに銀がいると、先手は3六歩と突くことができず、先手の右の金銀桂が固まったまま使えない。
 後手は7四歩から銀を進出させることもできるし、7五歩もある。
 こうなると、後手にだけ楽しみのある将棋になる。


 ということで、先手の塚田正夫、こういう駒組を。先手の苦労がうかがわれる。


 先手は7四歩、同飛と、一歩をつかって、5六角と打つ。しかし、歩切れである。
 無理っぽい攻めだが、先手は攻めの糸口をつかまないと後手に完封されそうなのだ。
 升田の8四飛に、塚田7八飛。
 升田、8三角。塚田、6五歩。
 以下、8六歩、7五飛、8七歩成、6四歩、5六角、同金、6四飛、7四歩、6九飛成、7三歩成、同銀、3六角。


 3六角に、8九竜、6四桂、同歩、7二角成。
 塚田の「華麗な攻め」だが…。
 7四歩、7六飛、8六と、6六飛、3五桂、3六歩、3七歩。
 「優勢になったら平凡な手でよい」とよく言う通り。


 3七同玉、2九竜、3五歩、3六歩、まで後手升田の勝ち。


 ということで、今回で「9六歩型相横歩」の研究を終了とします。
 この「9六歩型相横歩」は、先手が望んで仕掛けるのですが、後手が手得するので、結局先手が苦しくなるように思われます。それでは敢えてこれをやる意味がないわけですが、後手番の立場で、先手側にこれを仕掛けられた時にどう対処するのがベストかを知っておく、という意味では意義のある勉強であったかなと思います。


 ちなみに、1965年の十段戦は二上達也さん(羽生善治の師匠、大山の9つ年下)が挑戦者となりました。4―3で、五冠王の大山十段の防衛に終わりました。
 この時期、最強はもちろん五冠王の大山康晴でしたが、二番手はだれかといえば、二上達也だったでしょう。三番手が升田幸三で、あとは「その他」という感じ。
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「9六歩型相横歩」の研究(3)

2013年02月03日 | 横歩取りスタディ
 渡辺明竜王が表紙の、『将棋世界』1月号。 2か月前に出たものです。
 この中に「双龍戦」という良い企画があるのですが、この1月号に載った「清水上徹‐永瀬拓矢戦」が面白かった。清水上さんは有名なアマ強豪で、永瀬さんは昨年秋に、新人王戦、加古川青流戦と2つの棋戦で優勝したばかりの若手実力者。

清水上徹‐永瀬拓矢
 こういう出だしでした。初手より、7六歩、3四歩、9六歩。
 これはお互いに振飛車党の場合、割とある出だしなんですね。先手の清水上さんも、後手の永瀬さんも振り飛車が得意です。


 ところがその後が違った。永瀬の4手目1四歩に、清水上9五歩。
 これはつまり、徹底的に「居飛車と振飛車の対抗形にはしないぞ」という清水上さんの考えてきた方針なんです。後手の永瀬さんが「対抗形」を得意としているとみた清水上さんは、向こうが振り飛車なら自分も振って「相振飛車」にする、向こうが居飛車でくれば「相居飛車」でと、そういう作戦を立ててきたわけです。
 端歩を突いた場合、この場合は居飛車が得、この場合は振飛車が得、といった細かな損得が生じますが、それが勝敗に直結する場合も、こういうトップの実力者同士ではあるのです。


 結局、後手永瀬拓矢さんは、6手目に8四歩とし、そこで清水上さんは予定通り2六歩から相居飛車の「相掛かり」の戦型となりました。
 この観戦記には、永瀬さんが「△7六飛」と横歩を取るのは、「2二角成、同銀、3四飛の相横歩をやられて損だと思った」と言ったことが書いてあります。
 ということでこの「清水上徹‐永瀬拓矢戦」は、後手が横歩を取らず8四飛と引き、図のようになります。お互いに浮き飛車です。この後も面白い展開になるのですが、興味がある方は図書館などで『将棋世界』1月号をお読みください。(結果は清水上さんの勝ち)

 ちなみに、後手の永瀬さんが8四歩とせずに、「1五歩」だったら、先手の清水上さんの予定は、2六歩だったとのことです。その場合、後手が振り飛車にすれば“対抗形”になるのですが、すると居飛車の「9五歩」と振り飛車の「1五歩」とでは、玉に近い「9五歩」のほうが働いている、というのが清水上さんの主張だと思われます。
 永瀬拓矢さん、先月の順位戦の対局(牧野光則戦)では振り飛車ではなく、相居飛車で闘っていました。「横歩取り」の後手番でしたが、この将棋は永瀬五段が勝ちました。あるいは、この清水上さんとのこの対局の経験があって、「居飛車も指しこなせないとだめだ」と思ったのかもしれませんね。



 さて、「9六歩型相横歩」の棋譜を調べています。その第3回目。
 今日は次の2つの棋譜を紹介します。
  (1)塚田正夫‐大山康晴 1962年 棋聖戦
  (2)塚田正夫‐升田幸三 1963年 順位戦

 実はこの(2)の将棋は「9六歩型相横歩」にはならなかった将棋ですが、冒頭で紹介した「清水上徹‐永瀬拓矢戦」と同じオープニングで始まる将棋だったのです。


 
 (1)塚田正夫‐大山康晴 1962年 棋聖戦
 まず、こちらから。
 これは第1回の「棋聖位」を決めるためのリーグ戦(塚田、大山、升田の三者によるリーグ戦)の一局。


 おそらくはこれがプロ公式戦初の「9六歩型相横歩」。仕掛け人は塚田正夫だったのですね。
 ここから、8八飛、7二金、3八金、2六飛、2七歩、と進みます。
 8八飛と先手が引いたのは、後手からの7五角を避けるためで、この手の代わりに5八玉も考えられます。
 後手は「7二金、3八金」としてから、2六飛と回りましたが、これは後手一手損になります。


 というのは、先手はすでに3八金としているので、2六飛に、「2七歩」と打てる。「7二金、3八金」の手の交換の前に2六飛なら、先手は2八歩とするしかない。この形は2筋を守るため、2七歩とする手が後で必ず必要となるので、2八歩と打たせる方が結果的に一手、後手は得になるのです。
 まあ、後手の大山康晴は序盤のその程度の損得は気にしていないかもしれません。
 大山康晴はこの時、名人、十段、王将、王位とすべてのタイトルを保持していました。結局、新しくできたタイトル、棋聖位も収めて五冠王になるのですが。


 先手の塚田元名人は、「6六歩~6七銀型」に構えました。
 このように、この「9六歩型相横歩」の戦型は、後手の銀が前進して先手が受け身になりがちです。後手大山名人の「4五銀」は、飛車の横利きを通すとともに、先手の指したい「3六歩」という手を指させない、という意味があります。
 ということで、先手は指す手がないように見える。塚田さんの次の手は?


 塚田、4九飛。 対して、大山、4四飛。
 塚田さんは4九飛として、次に4六歩であの銀を後退させようとしましたが、大山さんは、そうはさせませんよと、4四飛。意地悪ですね~。
 ということで、塚田さんはここで2六歩~2七銀とします。
 後手は7四歩~7五歩。
 この戦型、先手に苦労が多いように見えます。


 後手の7六歩を防いで、先手は6五角と、角を手放しました。


 角を打っている分、それが目標にされて先手がつらい感じ。


 銀交換になりました。
 ここで7五角と大山も角を打ちます。先手の玉頭が寒すぎる!


 先手も攻め合ってと金ができました。
 図から、6六歩、5五歩、4四歩、5六歩、同角、5七銀、4九玉、3七歩。


 4五角、3八歩成、同玉、4四飛、5三銀、同角、同と、同玉、3五角。


 塚田、王手飛車を敵玉にかけました!
 まあでも、これは大山名人の読み筋なのでしょう。
 4六銀打、5六桂、3五銀、4四桂、同銀、7二角成、4二玉。


 5四馬、4五桂、8二飛、5二歩、8一飛成に、3七歩、同桂、同桂成、同玉、4五桂、3八玉、3七金、2九玉、2七金。
 「4五桂」と打つのが早い寄せになるんですね。

投了図
 2七金まで、大山康晴の勝ち。

 棋聖リーグの結果、あらためて大山・塚田の五番勝負が行われて、大山が制し、第1期棋聖位に就きます。五冠王です。もちろん、当時のタイトルの全てです。


 どうも「9六歩型相横歩」、先手がうまくいきませんねえ。「9六歩」と突いた手があまり有効手になっておらず、後手の左銀に中央で威張らせてしまいます。
 永瀬さんは「(7六飛は)相横歩をやられて損だと思った」と言ったのですが、「9五歩型」だと状況が変わるのでしょうか。


 
(2)塚田正夫‐升田幸三 1963年 順位戦
 
塚田正夫‐升田幸三 1963年 順位戦
 この将棋は『升田幸三選集』に解説があります。
 升田〔 角筋をお互いに開けて▲9六歩。塚田さんは先番のときによくこの手を指す。△8四歩か△4四歩かの様子見だ。手将棋を得意とする塚田好みの一手である。それならこっちもで△1四歩。するとまた▲9五歩だ。これ以上はつき合い切れんから△8四歩とした。△1四歩はともかく、△1五歩はちょっと早い。 〕
 上の「清水上徹‐永瀬拓矢戦」とまったく同じ手順です。しかし図から、8四飛、2八飛、3三桂と進み、ここでは別れています。


 升田〔 私は塚田さんの▲9五歩をとがめる手はないかと思いながら指し手をすすめていたが、手拍子に△2五歩と打ってから気づいた。次の順である。▲9四歩△同歩▲9六歩△同香▲8六飛(参考図)。このあと▲8二歩△同銀▲9三歩成△同桂▲同香成△同香が予想されるが、香を持てば△2六歩(▲同飛は△2五香)などの筋が生じるからこっちが優勢だ。塚田さんはこの筋に気づいていなかった。 〕
 参考図
 升田〔 チャンスを見逃したために将棋はがらりと変わって塚田ペース。 〕


 こうなりました。先手の塚田さんが将棋を楽しんでいる感じです。


 4四歩が後手升田のミス。塚田に7五金と出られて6四の歩を取られてしまう。4四歩では先に3四飛が正着。


 7四飛に、8六飛、3六歩、5六金、5四飛。


 7五歩、6二銀、4四歩。
 塚田の7五歩が大胆な手で、後手からの4六角、同金、5七飛成は、5八歩で大丈夫と見ている。升田はそれが予定だったが、塚田に「やってこい」とされると行く気がしなくなった。しかしそれが失敗だった。
 升田〔 それにしても△6二銀は手拍子としかいいようがない。 〕


 6六歩、同飛、8四飛、7八銀、7四歩。
 升田〔 ▲7八銀がしゃれた手である。 〕
 塚田正夫、好調。


 升田〔 △7四歩は盤上この一手。歩切れを補い△7三桂の活用を図った。 〕
 升田もなんとかバランスを取って、勝負形になってきた。


 升田〔 狙いはわかっていた。△6四銀で△5四銀とすればこの狙いは消せたが、それでは勝負所どころを失う。 〕
 塚田の「狙い」とは、4三歩成、同銀、3三角成、同金、6六桂。


 升田の飛車が死んだ。 わかっていて打たせるのがプロの技。
 升田、6三角。
 しかし取った飛車を打ち込まれて、升田陣、大丈夫か。


 升田〔 ▲1一飛成で私に手番が回ってきたが、△2七歩成が突っ込みに欠けた手で、せっかくの好機を取り逃がしてしまった。単に△1五角である。▲1六歩は△2七歩成▲1五歩△3八と。これは私のほうがよい。だから△1五角には▲6八玉であろうが、そこで△2七歩成▲同歩△7六桂▲5八玉△5六角▲同歩△6八金▲4七玉△5九角成となる。途中、△5六角と切らずに△5五銀もあるから有力な順だった。 〕
 実戦は2七歩成を塚田が「同金」と取って、升田の1五角に4八歩と受けた。以下4六桂、4七銀、5五銀、1六歩。
 歩をなる前に1五角なら、先手が4八歩と受ければ、4六桂が金取りになるので全然違ったということです。実戦は2七歩成を同金と取って、4六桂が空を切ったわけです。


 1六歩に、升田5一角と退却。
 升田〔 まったくもってどうかしている。これで勝負どころをなくした。 〕


 7二金、同玉、5二竜、まで119手で塚田正夫の勝ち。


 この期、1962年度のA級順位戦は二上達也(羽生善治の師匠)が優勝し、名人挑戦権を獲得。二上の名人挑戦はこれが2回目でした。二上さんは32歳で絶好調の時期でしたが、大山康晴名人はさらに強く、4―2で大山名人の防衛となっています。


内藤国雄‐大山康晴 1969年
 さてこれは1969年の内藤国雄‐大山康晴戦。先手番の内藤国雄の「空中戦法」になっています。(本来は「空中戦法」は後手番)
 一般には、「空中戦法」は1969年12月の中原誠対内藤国雄の棋聖戦五番勝負第2局で誕生したということになっていますが、実際にはこのように、それよりも半年ほど早い同じ年の5月に、内藤さんは大山名人との対局で「空中戦法」を指しています。
 でも、どうして先後が逆になっているのか。また、なぜ大山さんが「横歩取り」を指しているのか。


 その内藤‐大山戦の出だし。初手から、7六歩、3四歩、9六歩。
 内藤さんも、大山名人も、「何でも指す」というタイプです。ですがどちらも「あまり好きではない」という戦型があり、それが内藤さんの場合は「矢倉」、大山さんの場合は「相振飛車」。
 ということで、先手の内藤さんは大山名人の嫌がる「相振飛車」をさそい、後手の大山名人はそれを感じ取って、ここで8四歩と指します。
 この頃の大山内藤戦はだいたい「どちらかが飛車を振る」という将棋だったのです。
 ところがこの日の内藤さんは2六歩…。


 となって、後手大山の横歩取り、先手の内藤は「7七角」で空中戦という流れです。
 結果は内藤勝ち。大山名人に分の悪かった内藤国雄ですが、この対局の経験で、「横歩取り、いけるで!」と思ったかもしれません。(はっきり確証はとれていないのですけど、これが内藤さんの対大山戦7戦目での初勝利ではないかと思います。)


 ところで、こういう「端歩のかけひき」はもっと昔からあります。

塚田正夫‐大山康晴 1948年 名人戦4 
 これはあの「高野山の決戦」で、大山康晴が升田幸三に勝って、名人の塚田正夫に挑戦した時の第7期名人戦、その第4局。
 「相掛り」の先手番で、塚田正夫がここで「1六歩」と突いています。
 これはどういう意味でしょうか。当時の観戦記によれば、これは塚田が「考えてきた作戦」とのこと。その観戦記を読むと、これは塚田正夫の考えたオリジナルの作戦のように思えるのですが…。

大山康晴‐塚田正夫 1948年 名人戦1
 ところが妙なことに、その同じ名人戦の第1局で、この7手目の「1六歩」は大山康晴の手によって、先に指されているではありませんか!
 最近出た『大山康晴名局集』にこの将棋の大山自身の解説があります。それを読むと、
 〔 ▲1六歩も早い感じだが、当時の流行手で、急戦含みの指し方といえるものだった。 〕
 とあります。
 僕なりにこの手の意味を考えてみますと、この早い「1六歩」は、先に2四歩から飛車先交換をしてしまうと先手は「2六飛型」にするか、「2八飛型」にするか選択しなければならない。その選択を保留にして「1六歩」とし、相手の態度をみたのかと思います。
 まあ、こういう駆け引きがこの当時(戦後まもなく)、流行っていたということです。(しかしこの時期は振り飛車はほとんど指されていなかったので、初手から7六歩、3四歩、9六歩の出だしはありませんでした。)


 この将棋(第7期名人戦第1局)は、先手の大山がこのような戦術を取ります。
 後に戦法に名前を付けるのが大好きな加藤治郎氏が、この浮き飛車で右銀を3七~4六と繰り出して3五歩からの仕掛けをねらうこの戦法を「大山式」と命名したのですが、今ではこの指し方、「中原流」と呼ばれていますね。実は大山康晴が「中原流」の創始者だったのです。(世相を反映して「殴り込み戦法」などと当時は呼ばれていたと大山自戦記には書かれている。当時はみんな心が荒れていたということでしょうか。他の誰かがこう指しているのをみて、大山さんが採用したのかもしれません。)
 以前から、「相掛かり」で4六銀から3五歩をねらう仕掛けはあったのですが、戦前のそれは5筋の歩が「5六歩」と突いてありました。そこを突かずに4六銀から3五歩、というのが新しい形なのでした。

 この第1局は大山勝ち。 名人位は、4―2で塚田名人が防衛しました。



深浦康市‐羽生善治 1996年 王位戦1
 「初手9六歩」という将棋もいくつかありまして、タイトル戦で現れたのはこれ。
 1996年王位戦、羽生善治王位を相手に、挑戦者深浦康市(当時五段、24歳)が初手9六歩!
 以下、3四歩、5六歩、8四歩、5八飛、6二銀、5五歩。
 これは漫画つのだじろう作『5五の龍』で、主人公が得意としていた「5五龍中飛車」というやつ。深浦さん本人は漫画の方は知らず指していたそうですが。
 しかしタイトル戦初登場で「初手9六歩」とは、深浦、やりますな。 当時の羽生さんは六冠王でした。


 おもしろい将棋でした。結果は後手の羽生王位の勝ち。



【追記】 『升田幸三選集』をよく読めば、(2)塚田‐升田戦の序盤について、次のように説明が書いてありました。
〔 △7六飛を誘っているのがわかった。以下▲2二角成△同銀▲3四飛△3三銀▲3六飛の交換強要だ。飛車を持てば▲9四歩から▲9二歩で▲9一飛がある。 〕とあったが、これはどうなのだろう?

 ▲3六飛以下、飛車角交換するとこの図になる。
 現代の定跡手(端歩の突いていない型の場合)は△6四角だが、この△6四角からの激しい将棋になれば、先手からの▲9四歩~▲9二歩はとても間に合う展開にはならない気がするが。(この『升田幸三選集』の発行は1980年代後半である。)  
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芹沢博文、“曲水流”と闘う

2013年02月01日 | 横歩取りスタディ
 本日は、1981年のB1級順位戦の対戦「谷川浩司‐芹沢博文戦」の棋譜鑑賞をします。

 芹沢さんは、米長邦雄、内藤国雄両氏の才能を高く評価していまして、はっきり自分よりも上でうらやましいという意味のことを述べていたと記憶しています。そして、谷川浩司の才能はそのさらに上を行くものとして、「将棋界の宝」であると大いに宣伝していました。

 芹沢博文は自信の著書『八段の上、九段の下』(1983年 講談社)の中で、谷川将棋を次のように評しています。

 〔 中原の将棋は、水が高きから低きへ流れるとうとうたる大河だと述べたが、どうも谷川名人の将棋は、その大河が大海にそそぎ、やがて水蒸気となって、その名の通りもとの谷川へもどり、また大河になって流れ出す、といった永久運動のようなところがある。 〕

 〔 あえて名付ければ曲水流、あるいはお寺の息子だから、輪廻流といったところか。なにしろ、いままでの将棋の概念をはみだしてしまっている。将棋の表現のしかたがまるで違う。踏みこみの輪が大きく、スケールが大きい。末恐ろしいとはこのことだ。 〕


 後に谷川将棋は、「光速の寄せ」というネーミングが冠せられるようになるのですが、芹沢氏の“曲水流”はまた、まったく違う見方で面白いですね。

 その谷川浩司との順位戦での対局が決まった時、芹沢博文は、これは全力を尽くさなければいけないと思い、しっかり準備して臨みました。準備といっても、戦術的なことではなく、心身の充実だと思いますが。(「一生懸命指します」と宣言すること自体、へんなことではあります。普段はあまり“本気”で戦っていない、ということになりますからね。芹沢さんは社交の才能がありすぎて、その分、将棋に集中できていないところがありました。)


 僕はこの将棋「谷川浩司‐芹沢博文戦」を、この当時に、雑誌に載った棋譜をみて将棋盤に並べたのですが、華々しい将棋で感嘆したことを覚えています。名局と思います。

 変則的な「横歩取り」の将棋になりました。


初手より
▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金  ▲2四歩 △同歩
▲同飛 △2三歩 ▲2六飛 △6二銀  ▲7六歩 △8六歩 ▲同歩 △同飛
▲9六歩  △3四歩
谷川浩司‐芹沢博文 1981年
▲2四歩 
 「相掛り」の将棋になりました。この戦型を選んだのは谷川。受けたのが芹沢。
 芹沢はこの時45歳で、谷川は19歳。


△2四同歩 ▲同飛 △5四歩 ▲3四飛 △4一玉  ▲7七桂 △7四歩
 ここで後手の芹沢が3四歩としたので、谷川はすぐに2四歩と再び歩を合わせた。‘横歩取り’が狙いだろう。先手が3九銀を動かす前に後手が3四歩と突くと、先手としては、この歩の合わせからの‘横歩取り’をやりたくなる。(3九銀を、たとえば4八銀とした形であれば、2八に歩や角を打たれる可能性があるので、3四飛はやりにくい。)
 「横歩取り、来るなら来い」と芹沢が誘って、谷川がそれに乗ったかたち。


▲3六飛 △4四角 ▲2四歩 △3三桂  ▲8七歩 △8二飛 ▲6五桂
 それに対し、後手芹沢は、2四同歩、同飛、5四歩、3四飛、4一玉、7七桂、7四歩と進んでこの図。
 ここ、解説がないのでさっぱりだ。相掛りで「5四歩~4一玉」というのは、形としては昔もあるが、実際には横歩を取りに行かない場合がほとんどなので、こういう実戦例がほとんどない。なぜここで5四歩を突くのか、とか、手の意味は不明。5四歩を取らせて乱戦にもちこむ、ということだろうか。


△8八角成 ▲同銀 △2二歩  ▲3四飛
 谷川浩司、6五桂! 決戦だ。


△8五飛 ▲3五飛 △8三飛 ▲7五歩 △6四歩  ▲4六角 △8二角 ▲7四歩 △6五歩
 この谷川の3四飛は、次に5四飛の意味だろうか。
 芹沢、8五飛。桂取り。 谷川は、3五飛。


▲8二角成 △同飛  ▲6四角 △9二飛 ▲6五飛 △6三歩 ▲4六角 △5五桂
 後手、桂得だが、歩切れ。


▲5八金 △7二飛 ▲5六歩 △8四角 ▲6六歩 △7四飛  ▲7五歩
 桂馬を打って、角の利きを止める。これは4七桂成の先手になっている。


△7五同角 ▲7六歩 △4二角 ▲5五歩 △7三桂  ▲7五飛
 以下、このようになった。なんて面白い飛車角の動き。
 7五同角に、 7六歩と打ったが、この手で5五歩はどうなるか。6六角、7五歩、同飛、同飛、同角。これは銀取りが残って、先手気に入らないか。


△7五同角 ▲同歩 △同飛 ▲7六歩 △5五飛
 後手7三桂に、先手7五飛。


▲5五同角 △同歩 ▲7五角 △3五角 ▲8一飛 △7一歩  ▲9一飛成 △5六歩
▲3六香 △4四角 ▲4八桂
 こうなって、5五角、同歩。
 これで飛車角総交換だ。先手は桂馬も手持ちにしている。しかし歩切れであり、8一飛には、7一歩が堅い。
 先手7五角は、次に5三桂が狙い。後手はそれを防ぎつつ3五角と打って5七ににらみを利かす。


△5七歩成  ▲同金 △3五歩 ▲5六桂 △5五角 ▲3五香 △2五飛
 先手は竜をつくって「香得」。7五角も後手陣を睨んでいる。パッと見は先手が良さそうに見えるが…。 
 4八桂もいい手に見える。次に5六桂と歩を取りながら、これがまた角取りになる。
 ところが実際はそうではなく、この4八桂も、その前の3六香も、後手の芹沢が「打たせた」というのが正しいらしい。打たせることで攻めを限定させ、後手は相手の手が読みやすくなっている。


▲2三歩成 △同歩 ▲3三香成 △同金 ▲2六歩 △同飛  ▲2八歩 △5一香
 芹沢は「2五飛」。これがねらいの一手で、好手。
 対して谷川の手は、2三歩成、同歩、3三香成、同金、2六歩、同飛、2八歩。
 谷川が苦しい。

 

▲9二龍 △3八歩 ▲7四桂 △5三銀  ▲3八銀 △2八飛成 ▲5四歩 △4二銀引
▲4八玉 △3六歩  ▲4六金
 芹沢、5一香。
 谷川、9二竜。この竜が働かないと話にならない。
 そこで後手の「3八歩」。 これは、受けがない!? (3八歩が打てるのも、先手に‘横歩’を取らせたから。)
 谷川は7四桂。 芹沢、5三銀と逃げる。
 以下、3八銀、2八飛成。 とうとう飛車成りが実現した。


△4六同角 ▲同歩 △5四香 ▲4五角 △4四金  ▲4二角成 △同 銀 ▲3二銀
  △5四香で、先手の5六の桂馬がいなくなると谷川玉は詰む。 


△5一玉 ▲2三角成 △3九角  ▲5九玉
 3二銀は、取ると4四桂がある。芹沢は5一玉と逃げる。
 2三角成で、先手は後手玉に“詰めろ”(一手詰)をかけた。


△2三龍 ▲同銀成 △5六香 ▲6九玉 △5七角成  ▲2一飛 △3一桂
▲6八金 △5九角  まで130手で後手の勝ち
 しかし△3九角~△2三龍で芹沢の勝ち。

投了図
 7七銀と受けても、先手玉は詰み。


 この40期順位戦で、谷川浩司は10勝2敗でA級に昇り、すぐに名人挑戦者となって、21歳で名人になっています。
 逆に勝った芹沢博文は2勝10敗でB1からB2へと降級。芹沢八段はA級陥落以来ここまで18年連続でB1の位置を保ち続けてきたのでしたが。
 芹沢博文さんはこの1年後、入院して胃を半分切るという手術をしました。その後はすぐ復帰しましたが、その5年後、51歳で亡くなりました。お酒の飲み過ぎで肝臓がいけなかったようです。

 この将棋を見ると、飛、角、桂、香が主役の将棋で、「空中戦」と言っていいような内容です。別の言い方をすれば、「金銀の前に出ない将棋」です。
 現代においても、「横歩取り」の多くがそういう将棋になりますが、升田大山の時代までは、金銀をじっくり前進させる将棋が多かった。そういう中で、70年代、内藤国雄の「空中戦法(横歩取り3三角)」が異質な輝きを放って活躍を始めた。80年代、やがて谷川浩司が「横歩取り」の将棋をたびたび指し始めた。80年代後半から90年代になると、「中原流相掛り」で、飛、角、桂、歩で一気に攻め倒してしまう将棋が登場した。(塚田泰明の「塚田スペシャル」もそうした流れの中にある。) さらに「中座流(横歩取り8五飛)」の出現で、その傾向の将棋ははますます増加した。
 そうして21世紀の今、「ゴキゲン中飛車」や「早石田」の流行なども加えて、飛角桂乱舞の将棋は、いまや“見慣れた景色”になってきています。
 しかしそれでも、この「谷川‐芹沢戦」ほどの面白い飛車角の動きは、そうそう見られるものではありません。




 さて、もう一つ、今度はずっと古い棋譜を。
 「5筋の歩を突いた横歩取り」の将棋です。


 1941年の「小泉兼吉‐木村義雄戦」。朝日番付戦。大東亜戦争開戦の数か月前の対局。
 小泉兼吉は木村義雄の兄弟子で、4つ年上。さらに4つ上の兄弟子が花田長太郎で、花田は「自分の棋風に似ているのは小泉君」と言ったことがあるそうだ。木村はそれに同意し、しかし「花田さんの将棋には小泉さんにない迫力がある」とも述べている。

小泉兼吉‐木村義雄 1941年
 子供の頃より対戦してきた二人だが、これは木村がすでに名人になった後の36歳の時の対局。
 この将棋は、初手より、2六歩、3四歩、2五歩、5四歩、5六歩、8四歩、7六歩、8五歩という手順で幕開けです。
 この当時は「相手に5筋の位を取らせてはいけない」と考えるので、「5四歩、5六歩」というようになります。


 ということで、お互いに5筋を突いた形の「横歩取り」になりました。類似形のほとんどない形です。


 5筋の歩突きは違いますが、「内藤流3三角戦法(空中戦法)」のカタチはこの頃からすでにあったということです。内藤国雄は1939年生まれなので、この対局の2年前に生まれたばかり。


 5筋の歩が突いてあるので、そこに角打ちのスキがある。お互いに「馬」をつくった。


 こんな将棋に。 後手木村名人、5五銀とぶつける。金銀交換に。


 先手小泉、2二銀と打つ。
 これは、ない。 いくらなんでも、この銀はダメだろう。(と、僕の感想)
 木村名人もこの手は意外であった。2二銀では、5八飛、5六歩、5四歩を木村は予測し、これは容易ならざる局面と気を引き締めていた。


 木村、5一飛で、小泉の銀を取りに行く。


 取った銀を、8三に打つ。次に7四銀とすれば、後手は歩切れも解消できるし、必勝だろう。「もう負けない」という手。
 小泉も「米長玉」で頑張る。(ちなみに、米長邦雄が生まれるのはこれより2年後。芹沢博文はこの時5歳。)


 4五歩に、木村名人、2七歩成。 決めに行った。

投了図
 小泉兼吉、投了。


 小泉氏は趣味の多い人で、特に「長唄」がうまいことが有名で、宴会では人気者だったそうです。師匠の関根十三世名人は、地方へ行くときには必ず小泉氏を連れて行った。もちろん唄わせるために。




 中平邦彦『棋士・その世界』にこうあった。
 〔 芹沢。市川中車丈からぜひ芝居に出てくれと頼まれた。弓張月を国立劇場で。張り切って立ち回りのけいこ。役は「イカの化け物」。 〕

 ほんとうにやったのだろうか。


 おっと、芹沢博文と谷川浩司ということでは、あの話を書き忘れてはいけない。

 若き谷川の将棋を宣伝する芹沢さんはこう言った。
 「谷川の才能がダイヤモンドなら、俺の才能は河原の石ころだ。」
 それを聞いた升田幸三、ひとこと言わずにおれなくなった。
 「石には良いものもある。おまえはコンクリートのかけらじゃ。」
 この話、実は芹沢さん自身が面白がって酒席などで喋って広まったようです。「あの爺さん、うまいこと言いやがる」と。
 芹沢さんと升田さんとは、口喧嘩友達のような関係だったみたいですね。実際に升田さんがそう言ったかどうか、それはわかりません。
コメント
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