『近代将棋』4月号の団鬼六氏のエッセイをちらと立ち読みしたら、今回は「金魚の世界」というタイトルだった。なぜ「金魚」か。美しい金魚の姿になぞらえて、女流棋士の印象を語っていたのだった。団氏らしいエロティックな表現だ。
その中に、団さんがまだ10代の大学生だった林葉直子と対局した話があった。林葉さんの戦法は古風な「袖飛車」だったという。その後、その林葉直子と升田幸三の対局を企画しようとしたら、升田さんが「将棋を指すおなごは嫌いじゃ」と即答で断ったという。なんだかその升田節がうれしくなって、僕はその『近代将棋』4月号を買ったのである。
団鬼六さんの仲介で、矢内理絵子(現女流名人)と大田学さんとの対局も行われたという。大田学さんはいまは故人だが、大阪の「最後の真剣師」として有名だった人だ。「真剣師」とは、賭け将棋のプロのことである。大田さんは小娘をひねり潰すつもりでいたが、逆にひねり潰されてしまい、勝った矢内さんは終局後、「愚痴る太田さんの顔を不思議そうに見ていた」という。面白い。
矢内女流名人のことを団さんはこのエッセイで「鬼姫」と書いている。矢内さんはこの前、女流名人を3-0で防衛し、安定感を見せている。
団さんは、かつて実力的に抜きん出ていた「女流三羽烏」、林葉直子、中井広恵、清水市代、には歯が立たなかったが、他の女流とは平手(駒落ちでないということ)で互角だったという。これはかなりの強者、といえる。
24日には新宿将棋センターで石橋幸緒(現女流王位)と対局したようだ。この対局を団さんは「冥土のみやげ」と書いている。この将棋、どちらが勝ったかはわからないが、次号の『近代将棋』にその様子がレポートされることになっている。
以上は前置き。ここからがメインの話になる。
長沢千和子(ながさわちかこ)女流四段のことである。長沢さんは、女流タイトルの挑戦経験もあるし、レディーストーナメントで優勝したこともある。
この団鬼六エッセイには、団さんと長沢千和子女流との対戦のことも書いてあった。長沢千和子さんは、長野県松本市在住の棋士で、松本から対局のために上京して団さんのところに泊めてもらうことがあったようで、その宿泊料として団さんは将棋を指せ、とせがむ。だいたい将棋は長沢女流が勝っていたが、団さんがときに勝つこともあった。そういうとき、長沢さんの機嫌がすごく悪くなる、というのである。勝ったはずみで団さんが「俺はプロに勝ったんだからな」などとからかうと大変なことになる。「先生はヘボです」と彼女にどやしつけられたこともあったという。
それを読んで僕には思い出されることがあるのだ。実は僕は、20年ほど前になるが、東京将棋会館で、長沢千和子さんに指導対局をしてもらったことがある。
その指導対局は「三面指し」といって、長沢女流が同時に三人を相手に指導対局をするのである。彼女はレモン色のスーツを着ていた。赤い唇が印象に残っている。
僕は「香落ち」でお願いした。これは、上手(強いほうの人、この場合は長沢女流)が左の隅にある「香車」のコマを抜いて、それをハンデとする将棋である。これは、わずかのハンデとなる。
僕はこの対局のための作戦を立てていった。香落ちの場合、ほとんど上手は振り飛車にする。それは間違いない。よし、こちらも飛車を振って、「相振り飛車」にしよう。そして、浮き飛車に構える。そして相手(長沢さん)が、3三桂とはねるのを待つ。そのときの1点に狙いを絞ってコマ組みをする。
そして、僕の思惑どおりに長沢女流は△3三桂とはねたのである!
チャンスだ!! オレはこれを待っていたのサ!!
上手には1筋に香車がない。だから3三桂とはねると1筋には「歩」だけになる。その1筋を狙うのである。あらかじめ1筋の歩をすすめ、飛車を浮いていた僕は、1筋から攻め、▲1六飛と飛車をまわって敵陣に成り込み、計画どおりにすすんだ。そして、勝ったのである! 作戦がきれいにヒットしたのだ!
終わって、長沢さんは僕のその作戦をほめてくれた。そして女流との指導対局はそれが初めてだった僕は用意してきた色紙を出して、長沢さんにサインをお願いした。長沢さんは了解して、別室でそれを書いてもってきてくれた。その色紙は、実は、いまはもっていない。たしか油性マジックペンで『努力』と書いてあったと思う。その色紙を受けとって瞬間、僕が思ったことは、こうだ。
「えっ、へたくそ…」
いや、下手というより、真面目でまったく味気ない文字だったのだ。よく言えば素朴といえなくもないが…、もうすこし、かっこよく、あるいは、面白く書いてほしいなァ、というのが正直な思いだった。色紙ってそういうものだろう…。
何年か前に、将棋雑誌で、長沢さんの書いた色紙を見た。それは、とても色紙らしい、華のある字体で書かれていた。それを見て「アッ、やっぱり!」と思ったのである。そうだよ、色紙てのは、こうだよな…。 …じゃあ、あの時の色紙は??
僕はあの対局の後、ずっとこう感じていたのだ。長沢さんは、負けたことが悔しかったに違いない、だから僕にまともにイイカンジの色紙を書いてくれなかったのだ、と。それに、あのときの長沢さんの態度は、すくなくとも明るくはなかった…、と思えるのである。
それは僕の思い込みなのかもしれない。本当のところは不明である。彼女も覚えていないだろうから、真相は藪の中、である。ただ、僕は、またあるとき奥山紅樹氏(観戦記者)の書いた本のインタビューで、ある女流棋士(名前はふせてあった)がこう言っていたのを読んだ。
「指導対局を、香落ちで挑んでくるアマには絶対負けたくありません。きっとそういう人は、女流棋士の実力をその程度だろうと思っているのでしょう。それがくやしいんです。平手で指したいという人の気持ちはよくわかりますから、それはいいんです。でも、香落ちだけは、負けたくない。絶対に勝とうと思って指します!」
それを読んで、うーん、とうなりつつ、僕は長沢さんの書いた色紙を思い出したのであった。あの頃の僕は、会館道場で二段で指していた。この棋力で、長沢女流に「香落ち」で勝ったのは奇跡に近い。彼女が、「三面指し」でなかったら、勝てるはずもないほどの実力差の筈なのだ。あの色紙はきっと、そんな彼女の「負けず嫌い」の表情だったのだ。取っておけばよかったなと思うのである。
その中に、団さんがまだ10代の大学生だった林葉直子と対局した話があった。林葉さんの戦法は古風な「袖飛車」だったという。その後、その林葉直子と升田幸三の対局を企画しようとしたら、升田さんが「将棋を指すおなごは嫌いじゃ」と即答で断ったという。なんだかその升田節がうれしくなって、僕はその『近代将棋』4月号を買ったのである。
団鬼六さんの仲介で、矢内理絵子(現女流名人)と大田学さんとの対局も行われたという。大田学さんはいまは故人だが、大阪の「最後の真剣師」として有名だった人だ。「真剣師」とは、賭け将棋のプロのことである。大田さんは小娘をひねり潰すつもりでいたが、逆にひねり潰されてしまい、勝った矢内さんは終局後、「愚痴る太田さんの顔を不思議そうに見ていた」という。面白い。
矢内女流名人のことを団さんはこのエッセイで「鬼姫」と書いている。矢内さんはこの前、女流名人を3-0で防衛し、安定感を見せている。
団さんは、かつて実力的に抜きん出ていた「女流三羽烏」、林葉直子、中井広恵、清水市代、には歯が立たなかったが、他の女流とは平手(駒落ちでないということ)で互角だったという。これはかなりの強者、といえる。
24日には新宿将棋センターで石橋幸緒(現女流王位)と対局したようだ。この対局を団さんは「冥土のみやげ」と書いている。この将棋、どちらが勝ったかはわからないが、次号の『近代将棋』にその様子がレポートされることになっている。
以上は前置き。ここからがメインの話になる。
長沢千和子(ながさわちかこ)女流四段のことである。長沢さんは、女流タイトルの挑戦経験もあるし、レディーストーナメントで優勝したこともある。
この団鬼六エッセイには、団さんと長沢千和子女流との対戦のことも書いてあった。長沢千和子さんは、長野県松本市在住の棋士で、松本から対局のために上京して団さんのところに泊めてもらうことがあったようで、その宿泊料として団さんは将棋を指せ、とせがむ。だいたい将棋は長沢女流が勝っていたが、団さんがときに勝つこともあった。そういうとき、長沢さんの機嫌がすごく悪くなる、というのである。勝ったはずみで団さんが「俺はプロに勝ったんだからな」などとからかうと大変なことになる。「先生はヘボです」と彼女にどやしつけられたこともあったという。
それを読んで僕には思い出されることがあるのだ。実は僕は、20年ほど前になるが、東京将棋会館で、長沢千和子さんに指導対局をしてもらったことがある。
その指導対局は「三面指し」といって、長沢女流が同時に三人を相手に指導対局をするのである。彼女はレモン色のスーツを着ていた。赤い唇が印象に残っている。
僕は「香落ち」でお願いした。これは、上手(強いほうの人、この場合は長沢女流)が左の隅にある「香車」のコマを抜いて、それをハンデとする将棋である。これは、わずかのハンデとなる。
僕はこの対局のための作戦を立てていった。香落ちの場合、ほとんど上手は振り飛車にする。それは間違いない。よし、こちらも飛車を振って、「相振り飛車」にしよう。そして、浮き飛車に構える。そして相手(長沢さん)が、3三桂とはねるのを待つ。そのときの1点に狙いを絞ってコマ組みをする。
そして、僕の思惑どおりに長沢女流は△3三桂とはねたのである!
チャンスだ!! オレはこれを待っていたのサ!!
上手には1筋に香車がない。だから3三桂とはねると1筋には「歩」だけになる。その1筋を狙うのである。あらかじめ1筋の歩をすすめ、飛車を浮いていた僕は、1筋から攻め、▲1六飛と飛車をまわって敵陣に成り込み、計画どおりにすすんだ。そして、勝ったのである! 作戦がきれいにヒットしたのだ!
終わって、長沢さんは僕のその作戦をほめてくれた。そして女流との指導対局はそれが初めてだった僕は用意してきた色紙を出して、長沢さんにサインをお願いした。長沢さんは了解して、別室でそれを書いてもってきてくれた。その色紙は、実は、いまはもっていない。たしか油性マジックペンで『努力』と書いてあったと思う。その色紙を受けとって瞬間、僕が思ったことは、こうだ。
「えっ、へたくそ…」
いや、下手というより、真面目でまったく味気ない文字だったのだ。よく言えば素朴といえなくもないが…、もうすこし、かっこよく、あるいは、面白く書いてほしいなァ、というのが正直な思いだった。色紙ってそういうものだろう…。
何年か前に、将棋雑誌で、長沢さんの書いた色紙を見た。それは、とても色紙らしい、華のある字体で書かれていた。それを見て「アッ、やっぱり!」と思ったのである。そうだよ、色紙てのは、こうだよな…。 …じゃあ、あの時の色紙は??
僕はあの対局の後、ずっとこう感じていたのだ。長沢さんは、負けたことが悔しかったに違いない、だから僕にまともにイイカンジの色紙を書いてくれなかったのだ、と。それに、あのときの長沢さんの態度は、すくなくとも明るくはなかった…、と思えるのである。
それは僕の思い込みなのかもしれない。本当のところは不明である。彼女も覚えていないだろうから、真相は藪の中、である。ただ、僕は、またあるとき奥山紅樹氏(観戦記者)の書いた本のインタビューで、ある女流棋士(名前はふせてあった)がこう言っていたのを読んだ。
「指導対局を、香落ちで挑んでくるアマには絶対負けたくありません。きっとそういう人は、女流棋士の実力をその程度だろうと思っているのでしょう。それがくやしいんです。平手で指したいという人の気持ちはよくわかりますから、それはいいんです。でも、香落ちだけは、負けたくない。絶対に勝とうと思って指します!」
それを読んで、うーん、とうなりつつ、僕は長沢さんの書いた色紙を思い出したのであった。あの頃の僕は、会館道場で二段で指していた。この棋力で、長沢女流に「香落ち」で勝ったのは奇跡に近い。彼女が、「三面指し」でなかったら、勝てるはずもないほどの実力差の筈なのだ。あの色紙はきっと、そんな彼女の「負けず嫌い」の表情だったのだ。取っておけばよかったなと思うのである。