はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

女の負けず嫌い

2008年02月27日 | しょうぎ
 『近代将棋』4月号の団鬼六氏のエッセイをちらと立ち読みしたら、今回は「金魚の世界」というタイトルだった。なぜ「金魚」か。美しい金魚の姿になぞらえて、女流棋士の印象を語っていたのだった。団氏らしいエロティックな表現だ。

 その中に、団さんがまだ10代の大学生だった林葉直子と対局した話があった。林葉さんの戦法は古風な「袖飛車」だったという。その後、その林葉直子と升田幸三の対局を企画しようとしたら、升田さんが「将棋を指すおなごは嫌いじゃ」と即答で断ったという。なんだかその升田節がうれしくなって、僕はその『近代将棋』4月号を買ったのである。

 団鬼六さんの仲介で、矢内理絵子(現女流名人)と大田学さんとの対局も行われたという。大田学さんはいまは故人だが、大阪の「最後の真剣師」として有名だった人だ。「真剣師」とは、賭け将棋のプロのことである。大田さんは小娘をひねり潰すつもりでいたが、逆にひねり潰されてしまい、勝った矢内さんは終局後、「愚痴る太田さんの顔を不思議そうに見ていた」という。面白い。
 矢内女流名人のことを団さんはこのエッセイで「鬼姫」と書いている。矢内さんはこの前、女流名人を3-0で防衛し、安定感を見せている。

 団さんは、かつて実力的に抜きん出ていた「女流三羽烏」、林葉直子、中井広恵、清水市代、には歯が立たなかったが、他の女流とは平手(駒落ちでないということ)で互角だったという。これはかなりの強者、といえる。
 24日には新宿将棋センターで石橋幸緒(現女流王位)と対局したようだ。この対局を団さんは「冥土のみやげ」と書いている。この将棋、どちらが勝ったかはわからないが、次号の『近代将棋』にその様子がレポートされることになっている。



 以上は前置き。ここからがメインの話になる。
 長沢千和子(ながさわちかこ)女流四段のことである。長沢さんは、女流タイトルの挑戦経験もあるし、レディーストーナメントで優勝したこともある。

 この団鬼六エッセイには、団さんと長沢千和子女流との対戦のことも書いてあった。長沢千和子さんは、長野県松本市在住の棋士で、松本から対局のために上京して団さんのところに泊めてもらうことがあったようで、その宿泊料として団さんは将棋を指せ、とせがむ。だいたい将棋は長沢女流が勝っていたが、団さんがときに勝つこともあった。そういうとき、長沢さんの機嫌がすごく悪くなる、というのである。勝ったはずみで団さんが「俺はプロに勝ったんだからな」などとからかうと大変なことになる。「先生はヘボです」と彼女にどやしつけられたこともあったという。

 それを読んで僕には思い出されることがあるのだ。実は僕は、20年ほど前になるが、東京将棋会館で、長沢千和子さんに指導対局をしてもらったことがある。

 その指導対局は「三面指し」といって、長沢女流が同時に三人を相手に指導対局をするのである。彼女はレモン色のスーツを着ていた。赤い唇が印象に残っている。
 僕は「香落ち」でお願いした。これは、上手(強いほうの人、この場合は長沢女流)が左の隅にある「香車」のコマを抜いて、それをハンデとする将棋である。これは、わずかのハンデとなる。
 僕はこの対局のための作戦を立てていった。香落ちの場合、ほとんど上手は振り飛車にする。それは間違いない。よし、こちらも飛車を振って、「相振り飛車」にしよう。そして、浮き飛車に構える。そして相手(長沢さん)が、3三桂とはねるのを待つ。そのときの1点に狙いを絞ってコマ組みをする。
 そして、僕の思惑どおりに長沢女流は△3三桂とはねたのである!

 チャンスだ!!  オレはこれを待っていたのサ!!

 上手には1筋に香車がない。だから3三桂とはねると1筋には「歩」だけになる。その1筋を狙うのである。あらかじめ1筋の歩をすすめ、飛車を浮いていた僕は、1筋から攻め、▲1六飛と飛車をまわって敵陣に成り込み、計画どおりにすすんだ。そして、勝ったのである! 作戦がきれいにヒットしたのだ!
 終わって、長沢さんは僕のその作戦をほめてくれた。そして女流との指導対局はそれが初めてだった僕は用意してきた色紙を出して、長沢さんにサインをお願いした。長沢さんは了解して、別室でそれを書いてもってきてくれた。その色紙は、実は、いまはもっていない。たしか油性マジックペンで『努力』と書いてあったと思う。その色紙を受けとって瞬間、僕が思ったことは、こうだ。

 「えっ、へたくそ…」

 いや、下手というより、真面目でまったく味気ない文字だったのだ。よく言えば素朴といえなくもないが…、もうすこし、かっこよく、あるいは、面白く書いてほしいなァ、というのが正直な思いだった。色紙ってそういうものだろう…。
  
 何年か前に、将棋雑誌で、長沢さんの書いた色紙を見た。それは、とても色紙らしい、華のある字体で書かれていた。それを見て「アッ、やっぱり!」と思ったのである。そうだよ、色紙てのは、こうだよな…。 …じゃあ、あの時の色紙は??
 僕はあの対局の後、ずっとこう感じていたのだ。長沢さんは、負けたことが悔しかったに違いない、だから僕にまともにイイカンジの色紙を書いてくれなかったのだ、と。それに、あのときの長沢さんの態度は、すくなくとも明るくはなかった…、と思えるのである。

 それは僕の思い込みなのかもしれない。本当のところは不明である。彼女も覚えていないだろうから、真相は藪の中、である。ただ、僕は、またあるとき奥山紅樹氏(観戦記者)の書いた本のインタビューで、ある女流棋士(名前はふせてあった)がこう言っていたのを読んだ。
 「指導対局を、香落ちで挑んでくるアマには絶対負けたくありません。きっとそういう人は、女流棋士の実力をその程度だろうと思っているのでしょう。それがくやしいんです。平手で指したいという人の気持ちはよくわかりますから、それはいいんです。でも、香落ちだけは、負けたくない。絶対に勝とうと思って指します!」
 それを読んで、うーん、とうなりつつ、僕は長沢さんの書いた色紙を思い出したのであった。あの頃の僕は、会館道場で二段で指していた。この棋力で、長沢女流に「香落ち」で勝ったのは奇跡に近い。彼女が、「三面指し」でなかったら、勝てるはずもないほどの実力差の筈なのだ。あの色紙はきっと、そんな彼女の「負けず嫌い」の表情だったのだ。取っておけばよかったなと思うのである。
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賢治のシャープペンシル

2008年02月25日 | はなし
 宮沢賢治が、山を歩き、そのときに、手帳とシャープペンシルをぶら下げていたと知ったのは10年位前、鳥山敏子著『賢治の学校』を読んだときだった。その時から、えっシャープペンシルってそんなに昔からあったの?と気になっていた。最近、賢治のことを調べ始め、その出所は草野心平編『宮沢賢治研究』にあると判った。たしかに「シャープペンシルを首からぶらさげ…」と書いてある。草野心平(詩人)は賢治の文通の友人である。宮沢賢治の記念館かなんかに行けば、そのシャープペンシルは見れるのだろうか。

 いま、小学校ではシャープペンは使ってもよいのだろうか。中学ではどうなのだろう? 
 僕のときは、小学生時には、シャープペンなど見たこともなかった。中学でそれを見るようになったが、値段が高く、学校では使用禁止とされた。高校になると千円以下の値段になってだれでも買えるようになり、ほとんどの人が使うようになった。
 僕はといえば、流行に一歩でも乗り遅れるとガンコに見向きもしないという老人的な性格のため、教室でひとり、鉛筆を使っていた。休憩時間などに鉛筆を削っている姿が、クラスメイトの眼に焼きついていたらしく、3年生になって、誕生日か何かでもらったシャープペンシルを使っていると、「あっ、○○がシャープペンを使っている!」と、いちいちたくさんの人が驚いていたという思い出がある。

 そんなふうなので、「シャープペンシル」が発明されたのは、僕の子ども時代だと思っていた。ところが、大正時代、宮沢賢治はそれを使っていたという…。
 どういうことだろうか?

 調べてみよう。wikipediaしか資料がないが、それでもずいぶん新発見があったので紹介してみよう。

 なんと、「シャープペンシル」の「シャープ」は、家電メーカーの「シャープ」だったのだ! シャープの創業者である早川徳次という人が金属製繰出鉛筆を発明しこれを「シャープペンシル」と命名して売り出した。1915年のことである。
 すると賢治が持っていたものはこの「早川式」なのだろう。賢治が山を歩いて詩を書いていたのは1920年代だから。

 1922年、早川徳次は過労のため一度死にかけたが血清注射(当時はめずらしかった)により命拾い。翌年1923年9月の関東大震災の際、本人は九死に一生を得るが、家族を失い、工場も焼けてしまう。それで「シャープペンシル」の権利を日本文房具に売却。(そういうわけで、今、シャープという企業は「シャープペンシル」を作ることができないわけだ。)
 早川徳次は、その後、大阪で早川金属工業研究所を設立。初めは日本文房具の下請けの仕事をしていたが、アメリカ製の「ラジオ」というものを見て、ラジオ製作にチャレンジ。1925年日本のラジオ放送が始まった年、この国産第一号の鉱石ラジオは爆発的に売れたという。早川徳次はこの製品に「シャープ」というブランド名を付けた。(それだけ「シャープ」って言葉に愛着があったってことかな…)
 というながれで現在の家電メーカー「シャープ」がある。
 
 そうすると、シャープペンってのは、日本人が発明したのか!? ってことになるが、それは違う。もともとこのアイデアは古くからあって、1822年イギリスで発明、とwikipediaにはある。早川徳次の100年前だ。それに彼なりの改良を加え日本での特許をとったのが「シャープペンシル」というわけだ。だから外国では「シャープペン」ではない。ただし韓国では「シャープペン」だそうだ。

 日本でシャープペンが流行ったのは1970年代で、それまで流行らなかったのはやはりコストの問題だろう。何千円も出すのなら、万年筆を買うものね。
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アア自分ハナゼコウモ

2008年02月23日 | はなし
怠ケ者ナノカ、と…   長々と、思案してきたが

  いよいよ、

     あと二十年くらいで結論が出せると思う。
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フィッシャー再び、1992

2008年02月20日 | はなし
 チャンピオン戦でボビー・フィッシャーは「賞金の額」にこだわった。彼のおかげでチェスの賞金額ははねあがった。にもかかわらず、彼はチェスの公式戦をあっさり捨てた。もし彼がお金にこだわる人間であるなら、チェスを指し続けるはず…。賞金を吊り上げた彼の価値観が、金銭を中心にしていたわけではないのは明らかである。理由はわからない、とにかく「天才」を有したままボビー・フィッシャーは表舞台から消えた。
 そうしてボビー・フィッシャーの名前は伝説になった。伝説とは、遠い過去の話のはず… ところが、その伝説のボビーが再び現われたから、世界は驚いた。

 1992年、対局の場所はユーゴスラビア。ある富豪が賞金を出し、フィッシャーとスパスキーの対局を企画したのである。フィッシャーはその対局に勝利し、そのニュースは世界に流れた。僕もTVか新聞でそのニュースを聞いた。「フィッシャーってほんとにいたんだ」と思ったものである。なにより、6億円というその賞金の額に驚いた。
 僕はその対局の内容を知らないし、見たとしてもわからない。羽生善治の言葉を借りよう。羽生さんは、その対局について次のように述べている。

 〔私が舌を巻くのは、フィッシャーさんは二十年ぶりの公式戦にもかかわらず、その実力、才能が色褪せていなかったことです。(中略) おそらく沈黙を守った二十年間、チェスの研究を怠らなかったのだと思います。〕

 1992年のユーゴスラビア…そこはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が始まり、アメリカの経済制裁下にあった。その下での対局での賞金獲得は商業行為に当たるとして、対局前、アメリカ合衆国はフィッシャーに警告書を送った。するとフィッシャーは記者会見でその警告書にツバを吐いてみせた。そして対局に臨み、6億円の賞金をかっさらい、その後アメリカに帰国せず、消えた。
 フィッシャーはアメリカ政府から制裁違反で起訴された。それから10年以上の間、フィッシャーは東欧の国を転々としていたという。


 いま、ユーゴスラビアという国はない。ヴァルカン半島にあるこの、いわゆる「旧ユーゴ」は、次々と民族独立の動きが起り、今もそれは続いている。つい数日前には、セルビアからコソボが独立を宣言し、それを承認するとかしないとかを各国が発表している。だいたい最近までセルビアはセルビア・モンテネグロと言っていたと思うが、いつのまにか分かれているし。(このときはすんなり世界に承認されたようだ。)
 僕が生まれたときには「ユーゴスラビア」があって、1992年まではやっぱりあった。ところがソ連の解体後、いきなり消滅して、次々とこまかく分かれている。マケドニア、クロアチア、スロベニアも元「ユーゴ」だ。
 サッカーのストイコビッチ氏は1994年に日本にやってきた(名古屋グランパス在籍)。ストイコビッチの国はセルビアだ。 オシム前日本代表監督は、ボスニア・ヘルツェゴビナ。
 なんとややこしい地域だろう。


 1992年のその対局でフィッシャーの対戦の相手は、72年と同じスパスキー。だとすれば、その対局に勝ったこと自体は驚きに値しない。スパスキーもまた、フィッシャーと同じだけ年齢を重ねているのだから。ただしスパスキーのほうはチェス・プレイヤーとして現役で腕を研ぎ澄まし続けてきたわけだし、それにその対局の内容が素晴らしいものであるということは上記のようにわれらが羽生善治が保証してくれている。そしてなにより注目すべきは、「ボビー・フィッシャー」という名前のニュース価値である。その名前を聞くだけで、何故、チェスを知らない僕まで、心ときめくのだろう。ふしぎな男である。
 フィッシャーはかつて「ソ連」とたたかい、次は「アメリカ政府」にツバを吐いた。2001年の9・11テロ… フィリピンにいたフィッシャーは「なんていいニュースだ」と発言したという。(ボビー・フィッシャーはシカゴ生まれ、ニューヨーク育ちである。)

 ボビー・フィッシャー、次に現われたのは2004年、日本。
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精霊

2008年02月19日 | はなし
   きしししし。 きししし。  ぴゅいぇえぇええ~。 きしィーっ。    ぷるるるるっ。 くう。   くう。
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市松模様

2008年02月17日 | つめしょうぎ
お釜Y「なにこれ~」
お釜Z「詰将棋。」
お釜Y「詰将棋!? 知ってるわよ~バカにしないで。でもこれ、駒、多すぎ~!」
お釜Z「大丈夫大丈夫、考えるのよ。ほら、初手は?」
お釜Y「初手~? んー、▲7七角かしら?」
お釜Z「やだー、よくわかったわね、テンサーイッ」
お釜Y「でも2手目を考えるのがいやだわ、だって合いゴマってめんどうくさいのよー」
お釜Z「それがそうでもないのよ。盤に並べてみればわかるわ。いい…? ほら…」
お釜Y「あっ。ああーっ。 そうか! 後手の持ち駒って歩しかないのねー」
お釜Z「そうなのよー、そうなのー!!」
お釜Y「歩が5つだけ。じゃあ合いゴマないじゃな~い。2手目は△8八歩成ね。」
お釜Z「3手目は?」
お釜Y「3手目は、う~ん…う~ん…」
お釜Z「なにも考えていないわね。」
お釜Y「ばれた? ヤダー、なにもかもお見通しーッ。」
お釜Z「あとは答え見て、並べますか」
お釜Y「並べましょ。並べましょ。」

▲7七角△8八歩成▲8九飛△9八玉▲9九歩△8九玉▲7八銀△同玉▲6八金△8七玉▲7九桂△同と▲8八歩△7六玉▲6五馬△同玉▲5五と△同歩▲6六金△7四玉▲8六桂△同香▲8三銀不成△同玉▲8四銀△7二玉▲6四桂△同と▲7一と△同玉▲6二金まで31手詰

お釜Z「詰んだわ!」
お釜Y「詰んだわね!」



お釜Y「なにこれ~!」
お釜Z「市松模様だわ~」
お釜Y「いちまつ~!? すごいわ、いちまつ~!」
お釜Z「作ったのは市松じゃないわよ」
お釜Y「じゃあ、だれよ? いち○つ?」
お釜Z「ヤダー、げひーん!」
お釜Y「ああ、森の市松?」
お釜Z「それは石松!」
お釜Y「だれよ?」
お釜Z「桑原君仲…ですって。江戸時代の人らしいわ」
お釜Y「くわはらくんちゅう?」
お釜Z「そう、クンチュウ?」
お釜Y「クンチュウ?」
お釜Z「ウイ、クンチュウ。」
お釜Y「ブラボー、クンチュウ!!」
お釜Z「ブラボー!! クンチュウ! ブラボー! アニョハセヨー!」
お釜Y「クンチュウ! おお、くわはらよ、クンチュウよ!!」
お釜Z「くわはら、くわはら」
お釜Y「くんくん、ちゅう、ちゅう」
お釜Z「… こんなところかしら」
お釜Y「そうね、こんなところじゃないかしら」
お釜Z「フーッ。 詰将棋って、最高ね…。」
お釜Y「ね。…ん、えっ、江戸時代? エーッ、すごくなーい?」
お釜Z「遅ッ!」


◇王将戦(7番勝負)
  羽生善治 2-1 久保利明

◇棋王戦(5番勝負)
  佐藤康光 0-1 羽生善治

◇朝日オープン
  行方尚史八段が優勝!  おめでとうございます!

◇女流名人戦(5番勝負)
  矢内理絵子 2-0 斎田晴子
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螺旋の塔

2008年02月16日 | ほん
 北欧には「ルーン文字」という古代の文字があるという。北欧神話にも魔法の文字としてでてくるが、この文字は空想上の文字ではなく、ちゃんと実在する。「古代の」とはいってもエジプトやギリシャの文字ほど古くはない。もともと北の民族たちは、地中海やメソポタミアほどは文字を使わないようだ。
 「ルーン文字」は、木にナイフで刻むような文字である。タテの線が多く、横線がまったくない。横線があると、木目と重なってわからなくからそれを避けたということらしい。なるほど。 この文字はオーディン神が発見したということになっている。


 その「ルーン文字」で書かれた謎の古文書をドイツの鉱物学者リーデンブロック教授が発見し、その暗号解読に夢中になる。
 と、これは小説『地底探検』の中の話だが。
 リ-デンブロック教授は、古本屋で見つけたそのルーン文字の暗号文書が古いアイスランド語で書かれたものであり、200年まえ、16世紀のアイスランドの学者サクヌッセンが書いたものであると、甥のアクセルに興奮して語る。だが、どうしてもそれ以上暗号の解読が進まない…。暗号で書いたということは、そこには重大な秘密が書いてあるはず、と教授は言う。
 若者アクセルは、この叔父であるリ-デンブロック教授のことが大好きであった。だがこの教授は、たしかに、たいへんに変わり者であった。
 アクセル本人はそれほどその暗号に興味は抱かなかったが、なんとなく考えていると、その暗号を解くカギが突如ひらめいた! それをリ-デンブロック教授に教えると、二人は古文書を解読していく。その古文書には、サクヌッセンがかつてアイスランドの火山の火口から地球の中心をめざして降りたことが記されていた。
 リ-デンブロック教授、すぐに旅行の準備をせよ、という。「地球の中心」に行くつもりなのだ! この教授、好奇心のためなら、こわいものなし、なのである。それだけでなく「アクセル、おまえも一緒にいくのだ」というのだ!! 古文書の暗号は二人で解読したのだから、お前もこのすばらしい冒険旅行へ行く権利があると。
 「冗談じゃない!」 アクセルのほうは常識人である。(そして、ビビリでもある。) 「地球の中心」へなんて行けるわけないじゃないか、と、なんとかこの叔父である教授の旅行をやめさせようとアクセルは思う。彼はその悩みを、婚約者のグラウベンに話す。アクセルは、彼女も一緒にリーデンブロック教授のこの無謀な旅を中止させる方法を考えてくれると思っていた。ところが、なんと、彼女は「なんてすばらしい!」とその冒険旅行に興奮する。そしてアクセルに、こんないい話はない、行ってらっしゃい、この旅行から帰ったら結婚よ、という。
 もちろんグラウベンはアクセルのことが好きだ。だが、男としてアクセルは、なにかが物足らない、と彼女は思っていたのかもしれない。そして、この冒険旅行から帰ってきたときに、きっとアクセルは一人前の立派な男になるだろう、そう予感して、それが彼女を喜ばせたのであろう。
 アクセルのほうは、困ったことになった。そんな冒険になど行きたくない。「地球の中心」になんて、死んでしまうではないか。地底に25メートルごとに約1度温度が上昇するという。それなら、地球の半径は6千キロだから、地球の中心は20万度… 焼け死んでしまう!! それに、火山の火口から降りるなんて、途中で火山が爆発したらどうするんだ!?
 だがリーデンブロック教授は言う。その科学の常識がまちがっているのだ。それを確かめるために、探検に行くのだ。ぐだぐだ言わず、さあ、準備せよ!
 必死でこの探検旅行をやめさせようとがんばるも、アクセルは、こわいもの知らずの教授に引っぱられ、恋人に後押しされて、アイスランドの火山へとむかうのであった。

 リーデンブロック教授とアクセルがデンマークのコペンハーゲンでアイスランド行きの帆船の出港を待つ間に、アクセルに、その臆病な気持ちを鍛えるために教授が登らせたのが、フレルセルス教会の螺旋階段。(下図) これは、教授が言うには、「深遠をのぞく訓練」なのだという。 この教会、たぶんこの小説が書かれた当時は実在したのだろうが、今はわからない。
 だが僕は図書館のデンマークを解説した本の中に、コペンハーゲンの救世主教会の尖塔の写真を見つけた。それを描いてみた。(上図) 螺旋階段があって、展望台になっている。
 ひぃ~、(登ったら)怖いだろうな~。
 


 北欧神話もすこし読んでみた。


 オーディンは、妻のフリッガに言った。
 「わしは、じぶんのもっている知識を、知恵にかえたいのだ。」
 「ミーミルの井戸へいらっしゃりたいのでしょう。」と、フリッガ。
 「そう、わしは、ミーミルの井戸にいくもりだ。」
 「さあ、おいきなさい。」

 そして、オーディンはミーミルの知恵の井戸の水を飲んだ。そのために彼は「右目」をそのお礼としてはらわねばならなかった。


 読んでみると、オーディンという神は、ずいぶん、人間くさい。ギリシャの全能神ゼウスのように、なんとしても欲しい女を手に入れる(でもって目的を達成したあとは知らん顔)、というのとはまるっきり違う。オーディンは、知恵の水を飲んだあとでさえもも、けっこう判断ミスをしているし、常に、これでいいのかと迷いながら生きている。オーディンは、神話の中の神だが、実在した人物なのではないか、そう僕は感じた。
コメント (2)
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デンマーク

2008年02月14日 | はなし
 ジュール・ベルヌ作『地底旅行』の原題は「地球の中心へ」というようなタイトルで、アイスランドの火山の穴から地底にもぐって本気で「地球の中心」をめざす旅を描いたストーリー。主人公はドイツ・ハンブルグに住むリーデンブロック教授とその甥である若者アクセル。二人はドイツから列車に乗ってバルト海の沿岸の町キールまで出て、そこから蒸気船に乗ってデンマーク・コペンハーゲンに行く。そこでアイスランド行きの船を待つことになる。
 アイスランドという国はデンマークから独立したのだが、この本が書かれたのは19世紀なのでまだデンマークの属領だったことになる。
 リーデンブロック教授と若者アクセルは、コペンハーゲンから帆船ヴァルキーリに乗ってアイスランド・レイキャビクに行くのであるが、この「ヴァルキーリ」というのは北欧神話の主神オーディンのもとで働いた神の名前である。この二人のドイツ人は、アイスランドでケワタガモ猟師ハンスを道案内人として紹介され、三人でスネッフェル火山に登りその火口から「地球の中心」へと降りていく…。


 さて、デンマークの地図を描いてみた。
 僕はデンマークの国の形なんて、全然知らなかった。けど、こうしてみると、なかなか面白カタチをしている。アンデルセンが生まれたのはオーデンセ。これはオーディン神からきている名前らしい。オーディンという北欧の片目の神様もよく知らないが、なんだか魅力を感じるので、そのうち調べてみるとしよう。


 「ベーリング海峡」のベーリング(探検家)はデンマークの出身らしい。デンマークに生まれロシアのピョートル大帝につかえた。ピョートルの命を受けてシベリアの東を探査した。「アメリカ大陸を調査せよ」というのだ。
 ベーリングはその海の島で、死んだ。18世紀のことだ。


  いわさきちひろ オーデンセのスケッチ画
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ケワタガモ

2008年02月13日 | はなし
 ケワタガモ、というカモがいるらしい。
 それを知ったのは先週読んでいたある小説の中に、ハンスという男(アイスランド人)が出てきて、その男が「ケワタガモ猟」によって生計を立てている猟師だというのだった。その本のタイトルは『地底旅行』。SFの父とも呼ばれるジュール・ベルヌ(1828-1905、フランス人)の作品である。
 そして今週はまた図書館で借りてきたべつの本の中にこのケワタガモが出てきた。その本は『ノーザンライツ』。ノーザンライツとは「北極光」という意味で、この本の著者はアラスカの写真で知られる星野道夫。この本のはじめの3分の1を読んだところで「この本、欲しい!」と僕は思った。それでネット書店のアマゾンで買おうと思ったが、まてよ、近所の本屋にありそうな気がする、と本屋に行ってみたら、まるで僕を待っていたかのように(笑)そこにあったので買ってきたのだった。

 では、ケワタガモの話。
 「ケワタ」とは「毛綿」である。日本にはいないのに日本名が付いている。英語ではeider(アイダー)という名のようで、北極圏に生きる渡り鳥だ。
 アイスランドや、ノルウェーには、初夏にこのケワタガモがやって来て、フィヨルドの岩場に巣を作る。巣が完成するとメス鳥が、自分の柔らかい羽毛をむしりとって巣の中に敷きつめる。するとすぐにケワタガモ漁師がやってきてその巣を奪い取り、「羽毛」として商品にする。羽毛をとられてしまったケワタガモはまた一から巣をつくりなおすことになる。つくったらまた猟師がとる。これが何度かくり返される。ついにメスが赤裸になると、今度はオス鳥が自分の羽毛をむしる。ところがオス鳥の羽毛は硬くて粗く商品価値がないので、猟師はそこまでは奪わない。そうして巣は完成して、メスが卵を産み、ヒナがかえって、翌年また「羽毛」の収穫がくり返されるわけだ。だから「ケワタガモ猟」といっても、この場合、カモを獲るわけではないのだ。
 以上は『地底旅行』に書いてあった。これを読んで僕は、日本の『鶴の恩返し』を思い浮かべたのであった。カモの立場に立ってみれば最初からオスが羽毛をむしりゃあいいのだが、もしそれをしたら、ケワタガモ猟師はおまんまの食いあげだ。猟師はケワタガモによって生かされているというわけだ。
 僕は「ケワタガモ」という名が妙に記憶に残って、よし、どんな姿のカモかあとで調べよう、と思っていたのだ。このカモの巣の「アイダー羽毛」は、羽毛の中でも最高級なんですってよ。

 『ノーザンライツ』は素敵な本だ。この本の中には、アラスカに関わる個性ある人々のことが語られている。数十年前のことが記されているのだけれど、まるで数百年前の神話の中に生きる人々のように感じられてくる。
 この中に、アラスカを核実験場にするという計画がかつてあり、それと戦ったアラスカの人々の歴史が書かれているのだが、「ケワタガモ」の話はその中に数行、登場する。
 ある一人の村人がケワタガモを撃って逮捕されるという事件が起った。なぜ逮捕されたかというと、1961年にアメリカ、カナダ、メキシコの間で、国際渡り鳥条約というものが施行され、獲ってはいけないことに決められたからである。しかしこの条約は、その地で暮らすエスキモーの人々のことを無視して、白人のスポーツハンティングのことを考えてつくられた条約であった。それが生活に直結する彼らにとってはたまったものではない。彼らは、怒っていた。1961年11月15日、極北の原地に散りぢりに生きてきたエスキモーの人々が、その歴史上初めて、一つの目的のために集まったのであった。ケワタガモの事件と、核実験計画問題がそのきっかけだった。
 そういうことがこの本に書かれていた。ケワタガモについてはそれ以上は書かれていないが、どうやら20世紀のアラスカ北極圏では、「アイダー羽毛」は、ケワタガモを銃で撃ってとるらしい、とこれを読んで知る。とって羽毛をむしるのだろう。それにくらべ、上の19世紀のジュール・ベルヌの時代のアイスランドのケワタガモ猟はほのぼのしていてユーモラスだ。カモが自分で羽毛をむしるのだから。人間も崖を登るわけだから実際はたいへんなのだけれど。



 佐藤康光・羽生善治の対決、将棋棋王戦が始まりました。
 第一局は羽生の勝ち。ずっと羽生さんが形勢の良さそうな将棋で、そのまま押し切ったのですが、佐藤さんには終始勝つチャンスのない(ように見えました)、その意味では「勝負」としてはハラハラするような内容とはおもえません。にもかかわらず、不思議と感動させられるような美しい将棋に思えました。攻める羽生と守る佐藤__。羽生さんの激しい攻めは、まるで「ブリザード」のようでした。佐藤さんは、羽生さんの「暴風」にじっとがまんして黙々と生き続ける極北の人のようでした。巣が壊わされたらまたせっせとつくりなおす…ケワタガモのようでもありました。
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ロスチャイルドの娘

2008年02月10日 | はなし
 この娘の名は、アルミナという。これは少女時代の姿だが、21歳で結婚する。その結婚相手というのが10歳年上のカーナヴォン伯爵であった。今日ここで語りたいのはこのカーナヴォン卿なのだが、彼の姿を描くよりも、アルミナを描いたほうが読者受けしそうなのでそうしてみた。カーナヴォン卿のことに触れるまえに、まず、このカーナヴォン伯爵夫人アルミナについて書いておこう。
 結婚前の名はアルミナ・ウォンベルという。父はジョージ・ウォンベル、そして母はマリー(ミナ)・ウォンベル。このマリーは結婚前、アルフレッド・ロスチャイルドと長い恋愛関係にあった。どうやら娘アルミナはマリーとアルフレッドの間に出来た子どもであるらしいのだ。アルミナの「アル」はアルフレッドの「アル」であり、「ミナ」は「マリー」である。つまりこのアルミナという女性は、ロスチャイルドの血をひく娘なのだ。
 このブログの1月30日記事「絵のない絵本」でロスチャイルド家についてふれた。マイアー・ロスチャイルドの5人の息子の三男ネイサン・ロスチャイルドがイギリスで大富豪となったことはそこで述べた。その巨大金融会社を受け継いだのが息子ライオネル・マイアー・ロスチャイルド。このライオネルには三人の息子がいて、それがナサニエル、レオポルド、アルフレッドである。この三男アルフレッドがアルミナの父親である。
 なぜアルフレッド・ロスチャイルドがマリーと結婚しなかったのか、不明である。アルフレッドは一生、独身であった。魅力的でダンディーな男だったようだ。ロスチャイルドの共同経営者であり、十分すぎるほどの財産を持っている。
 ところで、アルフレッドの兄ナサニエル・ロスチャイルドの長男ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドについて触れておくと、1917年に書かれた世界史上たいへんに重要な「バルフォア宣言」という書簡があるが、これはライオネル・ウォルター・ロスチャイルド宛に書かれたものである。英国が、エルサレムへのユダヤ国家の建設を承認するという内容がそこに記されている。
 このことをここに述べたのは、ロスチャイルドの財産の力がいかに大きいものだったかを表したいからである。それほどの冨をロスチャイルド家はもっていた。

 そんなロスチャイルドの血をひく娘アルミナが、カーナヴォン伯爵と結婚した。第5代カーナヴォン伯爵である彼は、若いときから、競馬、ヨット、自動車に情熱を燃やしていた。と書けばカーナヴォン伯爵もお金持ちとわかるが、ところが、アルミナと結婚するときには、彼は破産状態だった。アルミナと結婚することとなり、カーナヴォン伯爵はアルミナの実父アルフレッド・ロスチャイルドのところに行き、借金の返済に当てる金を要求し、さらにアルミナとの結婚生活が続く限りは財産的保証を約束するという契約を結んだという。

 その第5代カーナヴォン伯爵は1901年にひどい交通事故を起こしほとんど瀕死の状態となった。彼は常軌を逸しているといわれるほどのスピード狂で、その事故は、ドイツ南部の森の中の一直線の道路を走っていて、妻アルミナと待ち合わせの途中だった。この事故が、彼の運命をエジプトに導くことになる。イギリスで、カーナヴォン卿は治療を受け、めざましく回復した。しかし肺の機能が弱まりイギリスの冬の寒く湿った空気の中では呼吸困難になるのだった。そこで、かかりつけの医師にすすめられ、彼は、毎年冬になると暖かく乾燥したエジプトで療養することになったのである。
 そうするうちに、カーナヴォン卿は古代エジプト遺跡のコレクションを充実させることに興味をもち始めた。発掘許可を得て、自分で遺跡発掘を始めた。ところがシロウトではどうにもならない。6週間の発掘の成果は、猫のミイラ一体だけだった! 自分の力だけでは限界があると感じたカーナヴォン卿は、知識と経験のある人物が必要だと感じるようになる。そうして出会ったのがハワード・カーターというイギリス生まれの男だった。
 カーターの父は動物画を描く水彩画家だった。カーター自身もその父の才能を受け継ぎすぐれた画を描いていた。17歳のとき、カーターのその画力を必要とされ、エジプトの遺跡発掘を手伝うようになった。1891年のことである。その後もエジプトに留まり発掘の手伝いを続けた。1904年、経験を十分に積んだカーターは見込まれてエジプト北部を担当する主任検査官に任命される。ところがある酔っぱらいのフランス観光客と乱闘さわぎをおこし、解任されてしまう。職を失った彼は、エジプトを題材にした水彩画を描き、それを観光客などに売ることで生計をたててくらしていた。そんな時期にカーターはカーナヴォン卿と出会ったのである。
 発掘の仕事を失ってしまったカーターと、事故によってエジプトに縁をもったカーナヴォン卿。その偶然が二人にタッグを組ませることになった。カーナヴォン卿が発掘許可をとり資金を出す。カーターは発掘する。カーターは、「王家の谷」をねらっていた。彼はすでにいくつかの墓を見つけた実績があり、「王家の谷」の詳細な地図を作っていた。ツタンカーメンの墓がこの「王家の谷」にあるのではないかとカーターは考えていた。
 そして、たしかにそれはあったのである!
 しかし簡単に出てきたわけではない。3シーズンかけての発掘の結果、「王家の谷」からはなにも見つからなかったのである。焦れてきたカーナヴォン卿はあきらめようと思った。しかしカーターは、せめてあと1年やりたい、カーナヴォン卿が手を引いても自己資金で続けると言った。カーターがそこまで言うのならとカーナヴォン卿はあと1シーズン資金援助を続けることに同意して、二人は握手した。
 そして…!!
 1922年11月5日日曜日、その入り口は発見されたのだった。
 ツタンカーメンの墓、エジプト考古学最大の発見であった。狂喜したカーターはカーナヴォンに電報を打ち、カーナヴォン卿のエジプト到着を待って、11月26日、ついに二人はそこへ入ったのである。

 「室内の細部がゆっくりと霧の中から浮かびあがってきた。かずかずの奇妙な動物、彫像、黄金。いたるところに黄金のきらめきがあった」(ハワード・カーター『ツタンカーメン発掘記』)


 ツタンカーメンは、正しくは「トゥトゥアクアメン」だそうだ。そのように表記してある本もある。この「アメン」というのが重要なところで、アメン神という古い神の名前である。この発見の驚くべき点は、それが発見されたことよりも、3200年以上の長い間、だれにも発見されることなく保存されていたいう点である。

 ところで、僕はあまりツタンカーメンには興味がなかった。ミイラにそれほど興味がわかないからであるが、このツタンカーメンの墓の発見に関して、大いに僕の気を惹いたのは、その日付である。1922年11月5日。
 僕がこのブログでエジプトを調べはじめたのは、ただ単に、アインシュタインが大正時代に日本にやってくるそのときに、スエズ運河を通ったはずだ、というのが理由である。すでに書いたが、アインシュタインは1922年10月8日にフランス・マルセイユを出発している。するとスエズ運河を通るのは10月15日頃だろうか。
 ということは、ア博士がエジプトを通過し、その約3週間後に、この世紀の大発見がうまれるのである。ア博士とツタンカーメンはなんの関わりもない。ただ、アインシュタインとロスチャイルド家とがユダヤ人であることが、妙なつながりをしていて、おもしろい。そんなわけで、この記事を書いた。
 スエズ運河を英国が手に入れるための資金がロスチャイルドから提供されていることはすでに書いたが、ツタンカーメンの発掘資金もロスチャイルドから…。ついでに書くと、これより前、日本がロシアと戦争することになったとき(日露戦争1904年)、その戦争資金も(表向きには断っているが実際は)ロスチャイルドから出ているのだという。
 …言葉もない。どんだけ金持ちなのよ~!!
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ボビー・フィッシャー、1972

2008年02月08日 | はなし
 1975年、チェスの世界チャンピオン、ボビー・フィッシャーは闘わずして、消えた。賞金総額は15億円(勝者に10億円、敗者に5億円)だった。
 「なにを考えているんだ、フィッシャー!?」


 それが、彼の魅力でもあった。フィッシャーは、そのチェスの盤上のプレイで専門家を魅了した。だがそれだけではなかった。彼は、その「言動」で世界の注目を集めた。だがとても「魅力ある言動」とは言いがたい。「なにを考えているんだ、フィッシャー!?」といいたくなるような、理解不能の男、それがフィッシャーだった。そういうフィッシャーの『個性』が、チェスをまったく知らなかった人々まで引き寄せた。フィッシャー人気とともにアメリカではチェスブームが来た。デパートなどのチェス・セットが飛ぶように売れ、メーカーの在庫不足をもたらした。
 1967年、チュニジアで行われたインターゾーナル大会、フィッシャーは断トツのトップを走っていた。ところが大会主催者と問題が起き、意見が衝突し、なんとフィッシャーは途中棄権してしまった。「じゃあ、俺はチェスやめた。」 フィッシャーとはそういう男なのである。以後3年間、フィッシャーは一切の大会に出なかった。
 1970年カムバック。この頃のフィッシャーの闘い方は「破壊的」だったようだ。ある対戦相手はこう言う。「ボビーには対戦者を精神的にまいらせてしまうような、なにか不思議な誘導力がある。」 相手の自我をボロボロに粉砕してしまう。

 チェスの歴史は長い。その長い歴史のなかで常に愛されてきた。しかしその大会は、いつも地味なものだった。
 その少数の熱烈な愛好者の中に、「国家力」をもって参加するようになったのが大国・ソビエト連邦だ。ソ連は、このゲームに大金を投じ組織で研究し、選手を育てた。そういう中から、ボトビーンニク、タリ、ペトロジアン、スパスキーが現われた。チェスという個人のゲームに「セコンド」を付けるようになったのもソ連がはじめた。第二次世界大戦後は、ずっとチェスの世界は、ソ連のものだった。
 そこに出現したアメリカのひとつの輝く『個性』がフィッシャーだった。こうして観ると、フィッシャーという強烈な『個性』は、一部のもの達だけが囲いこんで独占していたチェスの「宝」を、世界にぶちまけて、「ほーら、だれでも拾ってみな!」とやったようにも思えてくる。チェスに勝つにはふつう「冷静な判断」が必要だが、そのような落ち着いたキャラではできないことをフィッシャーはやったのだ。もちろんフィッシャー氏自身はそんなつもりはないだろうが。


 1972年、世界選手権の挑戦者にフィッシャーが名乗りを挙げた。むかえうつチャンピオンはソ連のボリス・スパスキー。この闘いはソ連対アメリカの代理戦のようにもなった。スパスキー対フィッシャー、世界が注目した。開催地には多くの国が名乗り出た。調整の結果、前半戦をベオグラード(ユーゴスラビア)、後半戦をレイキャビク(アイスランド)で行うといったん決まった。ところが、ユーゴスラビアとフィッシャーとがさっそくもめ、我慢の限界を超えたユーゴスラビア側はついにあきらめ、そうした面倒の一切をアイスランドが抱え込むこととなった。
 フィッシャーの要求する「無理難題」は、「戦術」だったのだろうか? それとも単に「幼児的」だったからか? とにかく、フィッシャーは謎だ。その謎の言動が人の関心を呼ぶ。フィッシャーは常に自分と周囲を、ハラハラさせるような緊張の中においていたように思える。それが彼にとっていちばん居心地のよい、戦いやすい環境なのかもしれない。

 第一局、フィッシャーは予定されていた飛行機に乗らなかった。「賞金を上げろ。そうしないなら、行かない」 交渉の末、遅れてフィッシャーはレイキャビク入り。第一試合はスパスキー勝ち。将棋と違ってチェスは引き分けが多いから、この「勝ち」は大きい。スパスキー一歩リード。
 ところが第2局では、今度はフィッシャー、TVカメラにケチをつける。「音がうるさくて集中できないからカメラ撮影をやめろ。それができないなら、チェスははじめない」 結局、第2戦はフィッシャーの不戦敗となる。その後、「もうやめる」とフィッシャーは帰国の飛行機に乗ろうとする。関係者は必死で引きとめ、TV撮影は中止にするということで決着。アイスランドは、TVの契約料を失うことになった。
 欧米の新聞は、その、予測のできない勝負を毎日、第一面でとりあげたという。(日本はまったく無関心) 第3局、対局場を個室に移し、フィッシャー快勝。やっと1勝をあげる。第4局目は舞台を大会場へもどし、「シシリアン・ディフェンス」と新聞は書いた。するとそんなチェス専門用語を初めて聞いた人は「チェスとはマフィアのやるゲームか?」などと言った。フィッシャーは深遠な知的ゲームを、世界の見出しにし大衆受けさせたのである。フィッシャー以前とフィッシャー以後では金銭の報酬は10倍以上になった。第4局は引き分け。
 その間にも、フィッシャーは次々と新たな「要求」をする。フィッシャーは毎回、遅刻してやってきた。彼は大会中、少なくとも3度、帰国の飛行機を予約した。運営者とアイスランドは忍耐強くこのフィッシャーの自己中心的な性格に応対した。「この駒では指せない」「椅子が気に入らないので変えてくれ」 主催者は、以前フィッシャーがブエノスアイレスで使い回転させてお気に入りだった椅子を空輸させた。
 この大会が成立したのは、奇跡である。これほど、忍耐強くフィッシャーのわがままを受け止めた人々がいなかったら… 彼らは、チェスを愛していたのだ。アイスランドのチェスの歴史は1000年あるという。チェスの好きな国なのだ。
 ソ連のスパスキーもまたすばらしかった。教養があり優雅で、ユーモアをもつ男だった。筆者のまったくの空想だが、スパスキーはフィッシャーのハチャメチャな『個性』が好きだったのではないか。ソ連の組織的な教育の中で育ちながら、その厚い壁をぶっ壊そうとするフッシャーに、内心で快哉を叫ぶようなところがあったのではないか。国家ぐるみでチェスを闘っているソ連、その堅固な城をくずすためには、フィッシャーのような強烈な『個性』が必要だったのかもしれない。それほどの『個性』を支えるためには、アイスランドのような寛容で我慢強い国が必要だったのかもしれない。

 勝負は、徐々にフィッシャーのペースになっていった。2ヶ月におよぶ白夜の国での闘いも最終盤が近づいていた。
 第21局、引き分けで十分のはずの試合をフィッシャーがミスしスパスキー有利に。しかしスパスキーの集中力も疲労でマヒしていたか、フィッシャーが盛り返した。もはや不利はくつがえせない… スパスキーは、2日目がはじまる日の朝、電話でついに投了を告げた。その瞬間、観客はどっとわいた。フィッシャーは見物人たちに一瞥をおくり、会場からすばやく消えた。その後、スパスキーがやってきてこう言ったという。
 「さあ、新しいチャンピオンです。わたしのほうは、散歩でもして新しい空気に触れなければ」


 チェスの世界選手権は3年ごとに行われる。3年後1975年、チャンピオン・フッシャーへの挑戦者として現われたのは、ソ連の新星カルポフ。場所はフィリピン・マニラ。またしても関係者と対立したフィッシャーはあっさりチャンピオンの座を投げ出した。なに考えているんだフィッシャー!? 場所がアイスランドでないことが気にいらなかったか。あるいはどうしてもまたスパスキーと戦いたかったのかもしれない。
 謎を残して、フィッシャーは消えた。 


 そして1992年、再び現われる。
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位取り

2008年02月04日 | しょうぎ
 昨日雪が降って、今朝のアスファルトの上はつるつるでした。わずか20分の間に、僕は滑って転ぶ子どもを二人見て、転びそうになってバタバタッとしてふみとどまった二人の大人を見ました。大人が急にバタバタうごくのがおもしろい。
 中倉姉妹(女流棋士)は昨日、大国魂神社で豆まきですか。このブログではけっこう「豆」が登場していますが、中倉姉妹に豆をぶつけられる鬼の気持ちはどんなだろう、などと妄想。


 さて、今日は昨日放送されたNHK杯将棋トーナメントのはなし。羽生善治王座・王将VS長沼洋七段戦です。

 上の図のようになりました。先手の羽生善治のような陣形を「位取り(くらいどり)」といいます。
 戦国時代の合戦で、たとえば平地で敵と向かい合ったときに、その中間地点に「小さな山」があったとします。すると、そこをまず取って、その山を拠点にしてたたかう…これを「位取り」とよびます。
 将棋の場合は、五段目まで「歩」をのばして相手を圧迫する、それを「位取り」というのです。上図の場合は「6筋7筋位取り」です。位をとってもそのままではまだ優勢にはならないのですが、戦いがおこって「手駒」が手に入ったときに「位」が火を噴きます。右辺で後手長沼七段が行動を起こし、成角(馬)をつくりました。右辺だけみると長沼優勢です。が、羽生さんの手には「桂歩」の駒が入りました。ここから羽生さんの攻めがはじまりました。
  ▲8五歩△同歩▲8四歩△同銀▲7四歩△8三金
 あっという間に長沼陣が乱れました。
  ▲7五桂△7四金▲6三桂成△7五桂▲5七銀△5五歩▲6四歩… 
 羽生、優勢。後手の金銀はバラバラ、先手の羽生さんは遊んでいた右銀と飛車を活用します。だれがみても先手優勢、しかも相手は羽生、「将棋は終わった」と思うところ。

 だが。
 この将棋は長沼が勝つ! 
 実はそれを僕は知っていました。僕だけではなく、おそらくインターネットを使う将棋ファンの半分は、羽生が長沼に敗れることを放送前に知っていたのではないでしょうか。
 僕はこのブログで先月、「羽生10連勝!」と書いたことがあります。羽生さんは深浦八段との王位戦の最終局以来、ずっと負けていなかったのです。棋王戦の挑戦者にもなりました。そういうわけで羽生さんの連勝がどこまで続くのか、僕は注目していました。ところが、羽生さんは年が明けても勝ち続けているのに、日本将棋連盟の記録には「連勝継続者」のところから羽生善治の名前が消えている、それなのに羽生の対局に「黒星」は記録されていない…。 これはどういうことか? その答えは…、ちょっと考えればだれにでもわかります。
 NHK杯で負けたのだ、と。
 NHK杯はTV棋戦なので楽しみにしている人が多い。でもあれは生放送ではありません。あらかじめ放送日より以前に対局は行われています。けれども結果がわかっていてはつまらないから、新聞や雑誌やホームページなどでは、わかっていてもその結果は(放送されるまでは)書かないことになっています。
 ところが、世の中いろいろな人がいて、勝ち星の数と対局数を調べて「はは~ん、NHK杯、○○が勝ったな」とやっている人もいるようだ。たいていの人は知らないほうが楽しめるから、むしろ気づかないように気をつけていたりする。僕もそうなのだが、今回は知ってしまった。 なんとも、わかりやすすぎた!
 ただ、今回の場合、「羽生が長沼に敗れた」という事実を知ってしまったからこそ、このNHK杯羽生-長沼戦を、僕はよりたのしみにしていました。長沼さんはどうやって今の好調な羽生さんに勝つのだろう? これは絶対見なきゃ、と。なにしろ羽生さんの王位戦以後の星はこうです。
  ○○○○○○○○○●○○○○○○○
 この唯一の●が長沼戦の黒星なのだ。 

 NHK杯戦には予選があって、羽生さんのようなトップ棋士はそのままシードされるけれど、下位の棋士は予選を勝ち抜かないとTVに映る本戦に出ることができない。長沼さんは、今期がNHK杯初出場だそうだ。そして、プロ棋士になって、羽生さんと対戦するのもプロ22年目これが「初」なのだった。
 今期のNHK杯は、棋士の顔がよく映るよう工夫がされていて、そうしたなかで長沼洋七段の「顔」はとっても味があって、それだけで楽しめた。それだけでなく、長沼さんの勝ちっぷりはどの対局も素晴らしかった。ハラハラするような終盤を制してかっこよく勝ってきたのです。たとえばこの前の松尾歩七段戦。松尾七段は今期勝率部門のトップ争いをしているほどの好調さなのですが、長沼さんはその松尾七段の攻めをしのいで勝ちきったのだ。見ていて僕は「強い!」と感動した。

 羽生-長沼戦。
 こんな不利な局面から、羽生を相手にして、どうやって長沼七段は勝つのだろう!? 
 なんと、羽生さんは、指しきってしまった! 「指しきる」とは、「攻め続けなければ負ける」という状況において「攻める手段がなくなってしまう」という状態に追いこまれてしまうことである。追い込んだのは長沼七段だ。長沼七段の駒台にはたっぷりの持ち駒がある。どこかで、羽生さんは間違えたのです。
 それにしても、あの羽生さんが「指しきる」なんて!!!
 アマチュアは「指しきる」なんて、しょっちゅうある。攻め好きの人は好きなだけ攻めて、攻めて、気づいたら持ち駒がなくなって…、それがヘボの「指しきり」だ。
 「負けました」と頭をさげて羽生さんは投了した。長沼さんも深く頭を下げた。そのあと、「いや、ひどい…」という羽生さんの言葉で感想戦がはじまりました。
 なんどもいうが、長沼洋七段の表情は豊かで、おもしろい。今期のNHK杯の主役は、まちがいなく長沼洋だ。


 「位取り」は昭和40年代に流行した戦術です。
 昭和の「不沈艦」大山康晴名人は振り飛車で王座に君臨しました。それに挑んだ、山田、二上、加藤、内藤という攻めのとくいな棋士の「急戦」はことごとくはね返されました。どうも急戦では歯がたたない、理論的には優勢になっても大山名人の強靭な終盤力でひっくり返されてしまう…。
 そこで登場したのが「持久戦」としての「位取り」戦法です。序盤では攻めを急がずにじっくりと「位」を取り、終盤への貯金にしようというのである。これが優秀だったので、こんどは「振り飛車党」が困りました。位取りをやられるとどうにも苦しいのです。
 その位取りへの対策の一つとして流行したのが「穴熊」でした。(居飛車穴熊ではなく、振飛車穴熊) 位取りの圧迫に、穴熊で対抗しようというのです。大内延介(現九段)、西村一義(九段、引退棋士)らがその使い手。大山名人も、使うようになりました。
 位取りを得意としたのは、米長邦雄(現将棋連盟会長)、中原誠(同副会長)、有吉九段など。
 「位取り」はある程度棋力がないと指しこなせない。僕は若い頃(棋力は初段くらい)よく位取りを指したが、たいてい、負けている。位取りで負けるときは、一方的に攻められてそのまま負けるので、まったく面白くない。こっちはまだお城造りをしているのに、なんで攻めてくるんだよー、みたいな。
コメント (2)
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