はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

「遠く」って?

2007年05月30日 | ほん
 いわさきちひろについて調べていくと、どんどん面白くなってきた。この人がまた升田幸三と同じ年に生まれているんだなー。

 さて4日前のことです。本屋へ入りました。ですが気になる本はありません。小さな本屋ぐるりと2週まわってパッと目に止まった本は、『あしたはうんと遠くへいこう』 …あれーっ、いやこの本、この前図書館で借りたけどおもしろくなくて読まずに返したのにな…。で、そのまま本屋を出ました。
 さあそして3日前のこと。起床して下着を脱いで新しいものを着ようと、寝床の横に置きっぱなしの洗濯物の山に手をのばし… その時です! 洗濯物の下から文庫本が… 「あっ!!」 それは、なんと、角田光代、『あしたはうんと遠くへいこう』の文庫本。 …僕はすでにこれ、買っていたんですね! だとしたら買ったのは角田光代を読んでいた2年前だが。
 うーむむむ。これはいったい、何だ?
 気になる僕は、『あしたはうんと遠くへいこう』をぱらぱらとめくる。やっぱりおもしろくないぞ。だからたぶん2年前にも読んでいないはず。うーん、なぞだ。

 そのうち、こう思った。
 僕(の感性)が気になっているのは、この本の中身ではなく、タイトルではないか? 「うんと遠くへいこう」? エーッ、やだよ、どこにも行きたくねえよ。金ないし、仕事休めないし、体力がない。だいいち、行きたくねえんだよッ。
 しかし金とひまと体力があったとする。そしたらおれはどこへ行きたいか? いや、やっぱりどこへも…。(角田さんは海外旅行が趣味らしいが。)

 一昨日、しばらく行かなかった一人カラオケへ。3つの曲を歌う練習。そのうち2つの曲の中に「遠く」って歌詞が出てきやがる。吉田拓郎「吉田町の唄」、そしてくるり「リバー」だ。

 おいッ! 遠くってどこだよー!?


 今日の絵は安野光雄の画集『街道をゆく』から、ノサップ岬の絵の模写。安野さんは司馬遼太郎と一緒に『街道をゆく』の仕事をしていました。この絵の、丘の上にあるのは自衛隊のレーダー基地です。

虚無の瞳

2007年05月26日 | ほん
 では今日は、いわさきちひろのはなし。
 「知弘」と書く。漢字にすると男の名のようである。平仮名で「ちひろ」だとすごく女の子っぽいのに。
 生まれたのは大正7年。裕福な家庭に育ち、おとなしいがスポーツ万能。ちひろが絵を描きはじめると、私にも描いてここにも描いてと声がかかり、即興ライブ(ライブ・ペインティングという)がはじまったという。
 絵の道に進みたいと思うようになるが、父に反対され断念。花嫁修業の学校へ行き、やがてちひろと結婚したいという青年があらわれる。両親も乗り気だが、ちひろは青年を好きになれない。それで断ると、青年は真っ青な顔をしてとんできた。しかしちひろには、相手のどこがイヤというようなはっきりした理由もなく、それで「どこか外国でも行けるなら…」と言ったところ、青年は、それならと中国の大連への転勤を決めてきた。そんなふうにちひろの結婚生活が始まったが、ちひろはこの青年をどうにも愛することができない。青年は、ちひろの気持ちが自分に向くのをじっとまち何も強要することがなかった。寝室も別々だった。幼いちひろ(20歳)は相手の気持ちが追い詰められていくことに気づかずにいた。そしてある日、青年は自殺した。こうしてちひろの1年の結婚生活は終わった。

 いわさきちひろの絵は「かわいい絵」という印象がある。が、それだけではないことは絵をみればだれにでもわかる。
 ちひろの描くこどもの顔は暗めである。わらっていても、静かにわらっている。それでいて絵の全体は生き生きしている。とくに印象的なのが「瞳」である。淡いきれいな色の中で、瞳だけが、強い。

 マンガでは、少年少女の瞳には「光(ホワイトという)」が入っていて輝いている。夏目房の介がそれを「自意識の宿る瞳」と手塚治虫論の中で言っていたと記憶する。手塚治虫がそのホワイト入りの瞳を最初にはじめたという。手塚さんが、それまでは黒々としていた「少年」の瞳に、「光」を入れた時から、マンガ世界が大きく動き始めたというわけだ。
 そういう「マンガ」に見慣れていた僕には、時折見かけるいわさきちひろの絵の、光を入れない、いわば「虚無の瞳」はドキッとする気になる存在だった。バブル時代よりもすこし前、若者が「無気力世代」と言われた時期に、マンガ界でもこの「虚無の瞳」がときどき使われた。しかし主流にはなっていない。あの瞳をつかいこなすには相応の才能が必要なのだ。

 20代のいわさきちひろは絵を描くことを道として選ぶ。
 太平洋戦争が始まり、終わり、ちひろは戦争について学びはじめる。お嬢様のままで生きていてはいけない、と思ったのではないか。ちひろの描く絵の女の子の黒い瞳、あれは、知るべきことは知る、言うべきことは言う、そういう決意の瞳なのかもしれない。(だとしたら「虚無の瞳」という言い方はまちがっているかも。僕が勝手に名づけたのだが、ほかにいい呼び名がないものか…。)

 ちひろが、1度目の結婚を断りきれなかったのは、時代のせいだ、という言い方もできると思う。女は20歳くらいまでに見合いして親の言うまま結婚していく、それが普通だった時代だ。おおむね、それで世の中はうまくいっていたのだ。だけども、もしもちひろがあの時に、自分の気持ちのままに行動すれば、あるいは相手のことをしっかり見ていれば、あの不幸な出来事は起こらなかったかもしれない。
 ちひろはその結婚のことをずっとほとんど語らなかったという。たぶん、考えたくなかったんじゃないかな、というのは容易く想像できる。
 ここからあとは僕の推測だ。
 ちひろは、1度目の結婚の記憶を消去した。その相手の青年の自殺を、自分のこととして考えるほどの愛情はもともとないし、かといってもちろん無関係ではない。それについて考えることは「手に負えない」問題なのだ。考え始めたら、病気になってしまう。
 しかし、その事実を完全になかったこととするなら、それは大人ではない。彼女は、「それ」について考えるかわりに、戦争について、時代の真の姿について、社会の進むべき未来について考えることで、大人になろうとしたのではないか。ものごとの暗い面もしっかり見よう、と。ふかく考えないで時代の流れや父母の意見で結婚して起こった悲劇と、ふかく考えないで生きていつのまにか戦争に加担する人間たち… それは根っこのところでつながっているのではないか。
 それが、あの、子どもの黒い瞳の中に凝縮されているのではないだろうか。

 ちひろは30歳で2度目の結婚をする。7歳年下の青年が「僕は一生お金のたくさん入る仕事にはつかないつもりなんです」と何気なく言ったのが、この青年に惹かれた理由だという。

 ちひろの未完の最後の仕事は『赤い蝋燭と人魚』だが、その前の、完成した最後の仕事は『戦火のなかの子どもたち』。 長い戦争下にあったベトナムの子どもを描いた絵本である。10年続いたベトナム戦争は、この絵本が刊行された1年半後1975年4月に終結している。

赤い蝋燭と人魚

2007年05月25日 | ほん
 先週のことです。本屋へ入りますと、気になる本が3冊あります。第1は『別冊太陽いわさきちひろ』、第2は角田光代『あしたはうんと遠くへいこう』、3番目は『小川未明童話集』。 どれも買わず、本屋を出ました。
 が、やっぱり気になるので、一昨日、図書館へ行ってみました。角田光代はなかったので他の図書館から取り寄せてもらうことにして、小川未明をその場で読んでみました。読んだのは「赤い蝋燭と人魚」「野ばら」「しいの実」どれも短編です。「赤い蝋燭と人魚」は悲しかったです。「野ばら」は戦争の悲しさと、それから老人と青年の交流がさわやかでした。(二人は将棋を指した。) 「しいの実」はあったかい家族のはなし。
 昨日は『あしたはうんと遠くへいこう』が届いたので読もうとしたが、感情移入できず、読むのをやめ。欲求不満になった僕は、衝動で本屋へ行き、『別冊太陽いわさきちひろ』を買ったのです。2000円。

 前置きが長くなりました。今日は小川未明のはなし。(さかもと未明ではないぞ!) 僕は小川未明を昨日はじめて読んだ、と思っていたが、「金の輪」だけは前に読んだことがあると今日気づいた。(これは、子供が、死んでゆく前に見たスゴイ夢のはなし。)


 「赤い蝋燭と人魚」 これ、未明の代表作のようですね。

 人間は、この世界の中で、いちばんやさしいものだと聞いている。そして、かわいそうなものや、頼りないものは、けっしていじめたり、苦しめたりすることはないと聞いている。
 そんなふうに思って、人魚のお母さんは、わが子を人間に育ててもらおうと思い、陸でこどもを出産します。海の中はさみしい、と人魚は思っていたからです。
 ろうそく屋のおじいさんとおばあさんがそれを見つけ、大切に育てます。人魚のこどもは女の子で、黒目で、美しく、おとなしい子となりました。ただし、人魚の娘ですから半分は魚です。
 娘は、自分の思いつきで、ろうそくに絵を描くようになりました。魚や、貝や、海草を。その絵には、不思議な力と、美しさがこもっていました。娘が絵を描いたろうそくは評判になり、売れました。不思議なことに、このろうそくを山のお宮にあげて、その燃えさしをもって船に乗ると、その船はけっして災難に会わない、とうわさされるようになりました。
 ところがある日、金もうけをたくらむ香具師がやってきて、おじいさんおばあさんに、人魚の娘を売ってくれといいます。二人は断りましたが、「人魚はむかしから不吉だといわれている」というような話で香具師に説得され、とうとう娘を売ってしまいます。
 というような流れで、悲しい結末となります。


 さて、昨日のこと。
 買ったばかりの『別冊太陽いわさきちひろ』をながめていた僕は、びっくり。いわさきちひろの最後の、未完で終わった作品が小川未明作「赤い蝋燭と人魚」の絵本の仕事だというのです。読んだことのない小川未明がなぜか気になったのは、こういうわけだったのか!(こういう偶然が、本と、音楽と、将棋に関しては、僕にはちょくちょくあるんだナ。)

 不思議です。
 そうしてこの物語をみると、「絵を描いて人々の生活をあったかく燈していた少女」は、いわさきちひろと重なって見えてくるではないか!
 未完の、「赤い蝋燭と人魚」のちひろの絵本を、いま、見ています。これは子供向けとしてではなく「若い人に」という考えで描かれた絵だそうです。

 小川未明は明治15年新潟県生まれ。せっかちな人で、将棋を指すのも超早指しだったと、弟子の坪田譲治が述べています。結局、僕は『小川未明童話集』も買っちまった。460円。

歓喜の白路

2007年05月24日 | ほん
 小学2年生のとき、給食の時間に女性のM先生は、本を朗読してくれた。その中にモンゴメリー作『赤毛のアン』があって、面白かったことは覚えていたが、内容は忘れていた。あらためて小説を読んだのは30代後半の時だが、その面白さに感嘆した。登場人物、とくにオトナの性格描写がうまいのだ。
 たまたまそのときにTVで映画版『赤毛のアン』をやっていたので観たが、映画版では小説の面白さが半分くらいになっている。どこがちがうかといえば、アンを育てるおじさんマシュウの性格がまるでちがう。映画のおじさんは普通の、やさしいおじさん、になっている。しかし原作はちがう。
 僕はアンのシリーズの2作目も読んだが、3作目以降は読んでいない。それはたぶん1作目のおもしろさには敵わないと思ったからだ。なぜか。マシュウがでないから。マシュウは1作目『赤毛のアン』の最後で、心臓発作で死んでしまう。

 僕は、『赤毛のアン』は、「アンとマシュウのものがたり」だと思う。その、始まりと終わりを描いた小説、と。

 原作では、「マシュウは、マリラとレイチェル夫人のほかは女という女をいっさい恐れていた」とある。マリラはマシュウの妹で一緒に暮らしている。レイチェル夫人は近所のおせっかいおばさんである。無口な彼は、女(子供であろうとおばあさんであろうと)としゃべらないよう生きてきたのである。
 そんなマシュウも60歳になり体力も衰えてきて農場の仕事の手伝いをしてくれる「男の子」を孤児院からもらって育てようということになった。それでその男の子をむかえに駅に馬車で行った。しかしそこには「女の子」しかいない。おかしいなあ、と思いマシュウは駅員にたずねた。あの女の子はなぜあそこにいるのかと。駅員は、それは知らない、女の子に聞いてみれば、という。それで仕方なくマシュウは、勇気をふりしぼって(笑)、女の子に話しかける。
 そんなふうにしてマシュウとアンは出会った。
 アンはマシュウが一目で気に入り喜ぶ。その喜びから言葉が次々とあふれてくる。アンのうれしそうな顔を見ると、男の子が欲しかったんだ、きみはなにかの間違いで来たんだ、とは言えずマシュウはアンを馬車に乗せて家へ帰ることにした。「困ったなあ」と思いながら。

 その道中、アンはよろこびの感情を言葉にしてしゃべり続ける。マシュウは、女がニガテなはずの自分が、いつのまにか彼女の話に耳を傾けているのを不思議に思う。
 馬車はりんごの白い花が咲いている並木道をすすむ。アンはその道に「歓喜の白路」と名前をつけた。

 その後、いろいろあって、アンはマシュウとその妹マリラに育てられることになり、学校へ通うようになる。そこのところはご存知のとうり。だが映画版にはない面白エピソードに、マシュウのアンへのクリスマスプレゼントの話がある。

 マシュウはある日気づいた。アンの服装はほかの娘とどこかちがう。つまり地味なのだ。どこがちがうのかよく観察すると、他の娘の服の袖は「ふくらんで」いて華やかだ。よく考えるとアンの服はいつも地味だ。どうやらそれがマリラの考えからくるらしい。
 それでマシュウは、クリスマスプレゼントとしてきれいな、ふっくらした袖の服をつくってやろうと考えた。マシュウは女店員のいない店を選んで(女がニガテだから)、入っていった。しかし運わるくその店は新しく女店員を雇ったばかりだった。女店員ハリス嬢がマシュウに聞く「なにをさしあげましょうか」 マシュウ「ええ、そのう、そのう、、、ええ、熊手はありますかな」 こんなふうにしてマシュウは熊手を持って家に帰る。
 あとは本を読んでください。だいじょうぶ、マシュウはちゃんと服をプレゼントできました。

 りんごの白い花が咲くのは5月、今の時期なんですねー。

キッド・ナップ・ツアー

2007年05月21日 | ほん
 翌朝、おばあさんは本堂に食事を運んでくれた。脚のついたお盆に、小さなお椀がたくさんのっていた。本堂のガラス戸をすべて開け、おばあさんは入りこむ陽をさけてお盆を向かいあわせにならべて、いってしまった。私とおとうさんは向きあってすわった。ずいぶん豪華な朝ごはんだった。満月みたいな黄色いたまご焼き。あじのひらき大根おろし添え。こぶりのお椀にもられた色あざやかなサラダ。油揚げとにんじんお入ったつややかなひじき。白身魚のお味噌汁。こんにゃくをたらこであえたもの。ほうれん草のごまよごし。おひつからごはんをよそい、私たちはいただきますと声をあわせた。
       (角田光代著「キッド・ナップ・ツアー」より)

    うーん、うまそう…。

バッタみたいな奴

2007年05月19日 | しょうぎ
 高校時代、ひとりだけ将棋友達がいました。Kumaというその男と僕は、鉄道で同じ方角から高校へ通っていました。ある日の帰り、ディーゼルの車両の中で、となりの、旅の途中らしき男二人が鞄から折りたたみの将棋盤を取りだして、うれしそうに広げ、そして駒を並べはじめました。僕とKumaはニヤッとしてどんな将棋を指すのか興味津々。ああ、しかし、僕の降りる駅に着いてしまいました。「バイバイ」と僕はKumaに言って帰りました。
 次の日、Kumaはげらげら笑いながらその後のことを話してくれました。
 男たちの将棋は「升田式石田流」になったそうです。そして「それがのう、あっという間に勝負がついたんじゃ。スゲエ早指し。わしの降りる駅までに2番終わったんじゃ!」という。Kumaの降りる駅までの時間は、10分くらいです。その10分の間に2番…!!

 早石田(升田式石田流)は、せっかちな人が好む将棋、というのが僕のイメージですが、どうでしょう? 実際、玉の囲いなんてめんどくせえ、一手でも早く攻めてェ、って感じの戦法ですよね。
 この戦法は古くからあって、でも、たぶん、アマチュアのへぼが好んで指す戦法だったんです。なので「プロでは通用しない」というのがずっとあったんだとおもいます。そういう中で「そんなことはあるもんか」と(は言っていないけど)、升田幸三九段が名人戦の大舞台でこれを使い、勝ったんです。その名人戦のようすをお伝えしましょう。

 それは昭和46年の名人戦です。名人・大山康晴に、挑戦者は53歳の升田幸三。

□第1局 
 大山勝ち。 升田はこれで大山に12連敗中。絶大な人気の升田だが、その3年前の名人戦も大山に0-4で敗れており、「ああダメか…」とファンたちは思った。病弱な升田の身体も心配された。

□第2局
 ついに出た! 早石田! 先手番の升田は早石田に▲9六角の工夫で、シロウト戦法早石田をプロでも戦える戦法に仕立てたのだ。この将棋は、なんと、総手数207手。升田が勝ち、ファンは大喝采。

□第3局 
 そして後手番でも升田は早石田。ファンは大喜び。△2二飛▲2三歩△1二飛…カッコイイー!!
 △3一角と引いた時に九段のソデにひっかかって1一の香が畳の上に落ちて、はねた。バッタみたいなやつだといいながら左手で拾い上げ、そっと元に復した時ちらと時計に目をやっていたし、次の手が封じ手になりそうだ。やはり五時半まで着手がなく、加藤立会人の宣言で升田の封じ手番が決り、五時三十六分「封じましょう。はよやめて碁を打ったほうがおもしろい」とはじめての爆笑シーンが出て、一日目を終わった。 
 そして歴史に残る妙手△3五銀! 銀のタダ捨て! 升田優勢に。
 しかし二枚腰大山の本領はここからだ。熱闘は続き、210手、升田の勝ち。

□第4局 
 またも升田は早石田。朝日新聞記者「龍」氏が、これを「升田式石田流」と命名。156手、大山勝ち。

□第5局 
 先手大山、向かい飛車。86手で升田快勝。
 これで升田の三勝二敗。あと一つで升田名人が…。12年も続けて名人位に座している大山城が、落ちるのか? さあ、どうなる!?

□第6局
 でた! 四たび升田の早石田!
 終盤、升田が「ちょっと荒いかな。アラカワクマゾウ」と言いながら馬を切った手が本当に悪手で、134手、大山勝ち。 3-3。 決着は最終戦へ。

□第7局
 最後ももちろん、「升田式石田流」。 中盤、大山の金銀サバキが光る。升田にもチャンスがあったがそれを逃し、
 午後五時十八分、升田は扇子の先で盤の上に輪を描く仕草をして「だめか」と言い、やがて「や、それまで」と意外な、大きな声で投了を告げた。 
 136手で大山勝利。大山康晴、18期目の名人防衛。おそろしい強さ。

 この時、僕は小学生。まだプロ将棋界のことなど知りません。ですからこの名人戦をりアルタイムで見てきたわけではないのです。郷田真隆九段のお父さんはきっとこの名人戦に熱狂したひとりで、その興奮と喜びを息子に伝えてきたのでしょう。今回の名人戦の第3局で郷田九段が飛車を切ったときに、「ちょっと荒いかな、アラカワクマゾウ」なんて心の中でつぶやいていたとしたら面白いですね。
 今回の記事は、東公平さんの著書「升田式石田流の時代」「升田幸三物語」を参考にし、青文字の部分は東さんの原文そのままです。ほんとうに面白い本ですから、興味のある方は、買って読まれることをお勧めします。
 東公平氏によれば、升田式石田流の原点は、江戸時代の三代伊藤宗看(七世名人)の棋譜にあるそうです。


追記: もしや!? と思い調べてみました。なんたる偶然、郷田真隆九段はこの名人戦の年(昭和46年3月)に生まれています。(なんだこの話? 出来すぎだよ~!)

郷田の、早石田。

2007年05月18日 | しょうぎ
いま、名人戦第4局が北海道で行われています。戦型は相矢倉で、先手森内名人は「加藤流」とよばれる形。今日の夜、結果がでます。


 ナント、小暮克洋さんから僕のこのブログにコメントをもらいました! だれかから励まされ、それを素直に受けとることほど気持ちのよいことはありません。インターネットありがとう!
 では小暮さんの観戦記からの記事をもうひとつ紹介します。
 名人戦挑戦中の郷田真隆九段のエピソードです。郷田さんが2月1日に名人挑戦を決め、同時にお父さんを亡くした、というのはこのブログでも書きました。次の話は、そのすぐあとに読売新聞に掲載された小暮克洋さんの観戦記の中から。


「ええかっこしいのところは同じかな。僕が好きだった長島茂雄と升田幸三の影響もあるでしょうけど」
5年ほど前、酒席で話した郷田の父・克己さんは、そう言って目を細めた。

郷田が将棋の駒に初めて触れたのは3歳の時。自宅で同僚と興じる克己さんの背中から、覗き込んできたのが始まりだった。「ルールを教えた翌日、僕が会社から帰ると『パパやろう』とせがんできて。親バカだけど、この子は吸収力があるかなって思いました。」

「タイトルをかけて指したりしまして。『現在、名人はおやじ、十段は真隆』とか言って。9歳くらいになるとこっちがだいぶ取られましたが」
11歳で奨励会に合格した郷田を待っていたのは、いきなり9連敗の洗礼。父はその時、失意の息子を「長島のデビューも4打席4三振。見逃し三振じゃないところがえらい」と励ました。


 「将棋世界」誌のインタビューの中で、郷田真隆挑戦者は、父とタイトルをかけて戦っていた子供時代のことを「観戦記者の小暮さんが読売新聞に書いてくれて思い出した」と言っています。また「父は升田先生のファンだったので、子供の頃は升田先生の話ばっかり聞かされました」とも。

 そうか。それでわかったぞ!
 そうか!

 郷田将棋は「本格派」と呼ばれることが多い。それは「真っ向勝負」というような意味だが、振り飛車をよくつかう棋士にはこの「本格派」という表現はつけられない。振り飛車は「変化球」のようなイメージがあるということか。それはともかく、郷田は振り飛車を指すことが少ない。
 ところが名人戦第3局、その郷田が、振り飛車を指した! なぜ!?
 第1局、第2局と郷田真隆連勝! そして第3局、先手番の郷田は▲7六歩。森内名人の△3四歩に、郷田▲7五歩
 この戦法を「早石田(はやいしだ)」という。

 その第3局は森内が相振飛車で対抗し、郷田を完璧に抑えきった。森内のディフェンス技術が巧みだった。郷田は破れ、2勝1敗となった。「どんどん攻めるつもりでしたが…」と郷田。
 なぜ郷田九段はあそこで指しなれない振り飛車をつかったのか。だれもが不思議に思ったようだ。僕もなぜだろ、と思った。が、いまわかった。なんだ、簡単なことじゃないか。
 あれは、「父に捧げる早石田」だったんだ。

 早石田、またの名を、升田式石田流

柳美里と灰谷健次郎

2007年05月15日 | ほん
 一昨日の夜、TVをつけたら柳美里がでていて、灰谷健次郎のことをしゃべっていた。灰谷氏の暮らした跡をたずねる、という番組だった。それを見て僕は、おやっ、と思った。ずいぶんまえにあるTV番組にこの二人が出ていて、柳が灰谷に食って掛かっていた、というところを僕は見ていたからだ。
 そのTV番組は、若者を集めた座談会で、神戸の少年による殺人事件のことをとりあげていた。(筑紫哲也の番組だったかな?) ある少年は「僕は、なぜ殺人をしてはいけないのかわからない」と言い出した。すると灰谷健次郎がその少年に質問をかえしていた。その途中で柳美里が割り込んできて、「灰谷さんは子供の心の中は純真だと思い込んでいる! そんなことはないんです! 灰谷さんは…!」その番組は少年たちが主役なのに、柳が灰谷にむかってしゃべり続けるので討論は進まず、そのまま終わった。
 一昨日の番組によると、それはどうやら9年前のことのようで、それがこの2人の唯一の出会いだったようである。9年前の番組の収録後、灰谷氏が柳に「あなたはわたしの書いた本を読んでないでしょう」と言ったそうである。柳さんは「全部読んでいます。」と答えた。灰谷さんは「それであんなふうに言うんだもんなあ…。」とあとは絶句したという。
 灰谷健次郎は昨年11月に亡くなっている。

 僕は、柳美里の初期の本は何冊か読んでいる。「タイル」という本を最後に、あとは読んでいない。僕の、柳美里の小説の印象はこうだ。
 主人公(女性)のまわりで次々と妙なこと(うっとおしいこと)が起こる。状況はゆっくりどんどん気持ち悪い、イヤーな感じになっていく。しかし主人公の感情は最初から最後まで変化しない。ずーっと「灰色」なのである。なにが起ころうとも「灰色」。
 それがわかったので、僕は、柳美里の小説に、飽きた。
 僕は思った。柳さんのからだの中はきっと「灰色一色」なのだ。まるで柳さんは小説をつかって「どうだ、神様、こんなわたしをハッピーにしてみろ! できないだろう! できないなら、黙っていろ。」と無言で怒り訴えているように思えた。どこまでいっても「灰色」、そんな小説は読みたくないよねェ。

 柳さんは灰谷健次郎の熱心な読者だったようだ。灰谷氏の小説には、「優しい瞳でこどもをみまもる大人」が描かれている。少女時代に柳さんは、灰谷さんの本の中にひたりながら、「わたしにもいつかこんなオトナが現れる」と思っていたのかもしれない。けれど、現実はそうではなかった。「優しいオトナ」に出会うことなく「オトナ」になってしまった者はどうすればよいのか。「灰谷さん、あなたが描いたような大人は私の周りにはいなかった! どうしてよ!?」 
 柳美里はわりとTVによく出るので、出産のこととか、東由多加氏の死とか、作品の裁判のこととかは知っていた。今は子供向けの本も書いているらしい。それで今は児童文学作家の灰谷健次郎にも思いをよせているのかもしれない。児童文学というのは、大人向けの本とはちがって「ずっと灰色」ではいけない。「晴れ間」が少しくらいはないとね。きっと柳さんのからだの中も、いまはいくらか、晴れ間があるのだろう。
 ちょっと、ほっとした。

佐藤の、絶叫。

2007年05月12日 | しょうぎ
 昨年10~12月に行われた竜王戦はすばらしい熱戦だった。火の玉のように勝ちまくって爆走する挑戦者・佐藤康光に、受けてたつ若き竜王・渡辺明。勢いのまま挑戦者が第1、2局を連勝。第3局、優勢だった佐藤が勝ちをのがし(奇跡的な勝ちが渡辺にあった)、第4局は渡辺が穴熊で勝ち。2-2でむかえた第5局があとでふりかえればクライマックスだった。戦型は角換り腰掛銀。佐藤がいつものように積極的に攻め、優勢と思われていた。しかし実際は、渡辺の△4六歩から△4七歩成りがいい手で、きわどい勝負なのだった。佐藤は決め手をさがす… しかし時間がなくなっていく… そのとき、佐藤の口から叫び声が発せられたのである。佐藤は、自分のヨミの誤算に気づいたのだ。のこり4分。竜王戦の「流れ」が佐藤の側から渡辺の側へと移った瞬間だった。
 じつはそのときに側にいて、その様子を見ていたのが観戦記担当の小暮克洋氏だ。昨日「雁木でガンガン」の本を紹介したのは、次の小暮さんの書いた観戦記をぜひ紹介したかったからである。


読売新聞2006年12月掲載
将棋竜王戦第5局観戦記 第11譜  記者・小暮克洋

 6時40分を回った。
 ▲6六香を前に、渡辺が獲物を狙うような鋭い視線で盤をにらんでいる。(中略)
 一方の佐藤は、あごを引き、真綿をかみ締めた厳しい表情。(中略) 残り時間はあと4分。耳たぶが赤い。

 佐藤は10日前、東京有楽町「よみうりホール」で行われた日本シリーズの決勝戦で、郷田真隆九段を破り2度目の優勝を果たした。その対局が始まる前、ちょっとしたハプニングがあった。郷田九段が公開対局用の和服を、うっかり持参してこなかったのだ。そのことを伝え聞いた佐藤が真顔でなんと言ったか。
 「いやあ、郷田さんはすごい。着物を忘れてくるほど集中しているとは…。僕も見習わなくては」

 佐藤の横顔を見ながら、そんな話を思い出しているまさにその時だった。目の前で信じられない出来事が起こった。佐藤が突如、背を伸ばし、今にも泣きそうな声で「ああああーっ、あああああーっ」と絶叫しだしたのである。すると渡辺もこれに呼応するように、小さな声で「ああーっ、あ、か、うん?」 佐藤が再び、今度は脇息の上にのせてあったハンカチを口元に運び「わあーっ、そうか、いやあ、フォーッ」と叫ぶと、渡辺は顔色ひとつ変えず「えええーっ、ええ、か」とつぶやき返す。
 少年のような佐藤と、老人のような渡辺。渡辺が△2四玉と上がり勝勢を決定づけた後も、二つの魂は無意識の世界をしばしさまよい続けた。


 このようにして第5局は渡辺明が制した。小暮氏の観戦記は面白い、と評判になった。このようなおもしろい場面に出会えたのは、観戦記者小暮克洋氏の、実力と根気と運によるものであろう。
 第6局は佐藤の勝ち、そして第7局は渡辺が勝ち、竜王を防衛した。(この観戦記の全文を読みたい方は「竜王戦7番勝負」をお買い求めください)
 敗れた佐藤康光だが、佐藤は「棋聖」のタイトルを5期保持している。その棋聖戦が6月からはじまる。 挑戦者は、渡辺明だ!!

雁木でガンガン!!

2007年05月11日 | しょうぎ
 漫画「ハチワンダイバー」の中にでてくる「二こ神」というじじいキャラがいる。(昨日の画中にも描いたが。) この爺さんは「雁木(がんぎ)」という戦法を得意としている。雁木については、2月13日記事「少女の指タクト」の中でも述べたように、プロではほとんど指されない。プロがあまり使わない「雁木」を使ってアマ日本一となり、プロさえも倒したというのが、この「二こ神」老人の設定だ。そしてこの漫画の「二こ神」の指し方は、僕が書いたあの少女の指し口とそっくりだ。
 プロは雁木をつかわずに「矢倉(やぐら)」をつかう。だからプロの出す本には矢倉の本はたくさんあるが、雁木の本はほとんどない。僕が矢倉の定跡をマスターしようとしていたときに、あるおじさんに雁木を指された。僕はどうしていいかわからず負けてしまった。プロが指さないのだから、雁木には大きな弱点があるはずだが、具体的にどうすればよいのか…? そう思っているときに、雁木についての本を見つけた。
 それが「雁木でガンガン!!」だ。
 著者はプロではない。アマ強豪の小暮克洋さんだ。
 この本をよんで、僕は「これは矢倉よりわかりやすい。雁木をやってみよう。」と思い、つかってみることにした。この「雁木」という囲いは正面から攻められると弱い。しかし「角を使いやすい」という利点があり、それを生かして攻められる前に攻める、というのが小暮流雁木の特徴だ。ただ、相手が強いと攻めを封じてくる、その場合は、「相手の攻めゴマを攻める」という「B面攻撃」を用意しておく。漫画「ハチワンダイバー」ではこの「B面攻撃」を描いている。
 と、そのようなことをこの本「雁木でガンガン!!」から吸収した。
 小暮克洋さんは、東大を出てフリーの(将棋などの)ライターをしている。あまりかしこい人生じゃないなあ。人のことは言えんが。


 しかし、erikaって、何者よ? 将棋6段? 将来の夢は訪問介護事業を全国展開vv ? 前世女流棋士…はあ。 尊敬する人小池重名って…間違ってるよ、「重明」でしょ!! 尊敬してるならマチガウナ~。

ハチワンダイバー

2007年05月10日 | まんが
ハチワンダイバー」読んでますか? おもしろいねー。
柴田ヨクサル作、週刊ヤングジャンプ連載中の将棋漫画です。

「オッパイを揉んだらおまえは将棋が弱くなる」
「…!!」

なんて、少年漫画ならではのはったり。根拠もなにもないのに、「そうかも…」なんて思えてくるからふしぎ。それが漫画の力だろう。新興宗教みたいなもんだな。
 「ハチワン」というのは81の意味。将棋の81枡の盤にダイブする、ということのようです。(おれは潜ったことないなあ。) 将棋の好きな人にとっての81歳は「盤寿」という。故・木村義雄十四世名人は81歳で11月17日(将棋の日)に逝った。まさに名人芸だ。
 この漫画を読もうと思ってヤングジャンプを開くと「キャプテン翼」も載っていた。なんか、体型がすごいことになっている。宇宙人の世界のはなしかい?