上は、布団の中で描いたラクガキ。
僕は一年の内、三分の一は横になって過ごしている。眠くてしようがない。昨日も一昨日も。 ま、ま、ま、これが、オレノジンセイ、なのさ。
足尾銅山のことについて書くとかいたが、それは後回しにして(それを期待している人もいないだろうしなあ)、昨日の将棋名人戦の事などを。
森内-羽生の今期名人戦第2局は、羽生さんが勝ちましたね。今期の羽生さんは「攻めるゼ!」という感じです。
対局の場所は大阪市堺市でした。ここは坂田三吉の生誕の地。明治3年、生まれた当時は舳松(へのまつ)村といい、今は協和町だそうです。
昨日の対局は、立会人が谷川浩司(17世名人の権利をもつ)、そして久保利明が副立会人でしたが、この二人、坂田三吉の「ひ孫弟子」なんですね~。
さて、この対局の戦型は「(後手)一手損角換り」となりました。
数年前からタイトル戦にもよく現われるようになったこの戦法、じつは「どシロオト戦法」としてプロでは指されることのなかった戦法です。おそらく、シロオトの間では400年前から指す人がいたでしょう。しかし、プロは使わなかった。なぜか。「そんなの、いいわけないじゃん」と思っていたからである。
この「一手損角換り」についてかんたんに解説してみる。
将棋には「先手」と「後手」がある。先に指す「先手」のほうがやはり少しだけ(ほんのわずかだけれど)指しやすい。「後手」は一手遅れているので、先手と同じように進めた時に、先手優勢となるカタチがある。後手はそれを避けなければならず、だから作戦の幅が後手の方が狭くなる。
で、「一手損角換り」というのは、その一手遅れている「後手」が、さらにもう一手損をする、つまり先手が指した瞬間には「二手」ほど遅れているというカタチなのだ。「そんなの、理論的に、いいわけない」はずで、だから、ずっと「どシロオト」戦法だったわけ。プロの将棋というのは、考える時間がたっぷりあるので、小さな有利を拡大して「勝ち」に持っていく、そういう将棋になりやすい。アマチュアと違ってそれでメシを食っているのだから、序盤そうそうあえて「損」をするなんてありえないわけだ。
そのありえないと思われていた戦法が、「ん? よく考えたら利点もあるぞ」と、5年くらい前から流行り始めたというのだから、面白い。(でも、流行ってはいても実際はこの戦法、後手の勝率、良くないそうです。)
で、この戦法をプロ棋士として歴史上一番初めに指した棋士はだれか?
坂田三吉なのです! (←おそらく、ですが。今日の記事はこれを言いたかったのです)
90年前に!
時は1917年(大正6年)10月16日。
坂田三吉・土居市太郎戦。 東京有楽町。
この一戦で、後手番の坂田は「一手損角換り」を用いたのです。この対局は余興ではありません。坂田にとって、重要な、勝負将棋でした。ジンセイを左右するほどの。
大正のこの時期、おそらくは坂田三吉の実力は、関根金次郎を上回っていたと思われます。関根金次郎よりも坂田は2歳年下ですが、その坂田ももう48歳です。ですが、坂田三吉のおそるべきところは、この年齢にしてまだ、強くなろうとする意志が見られるところでした。どうも坂田という男、常人とちがう。その異様な「馬力」が関根金次郎を圧倒していたのです。大阪には敵はいない。関根とも対等以上。名人になるためには、坂田三吉は、「自分が一番強い」という証明をきっちりしておく必要がありました。
実はこの時期、一番強かったのは、あるいは東京の、若い30代の土居市太郎ではなかったかと思われます。ですから、坂田が名人になるには、この土居に勝っておく必要があったのです。坂田は土居に対局を申し入れました。
土居は「平手なら」と、その対局を承知しました。(段位は坂田が八段、土居が七段だった) 土居市太郎は、関根金次郎の弟子でした。(出身は愛媛県) 将来、師の関根金次郎が名人になることに、坂田が異を唱えることのできぬよう、土居はこの勝負に勝つことが求められていました。土居にとってもプレッシャーのかかる勝負です。
先手土居市太郎、後手坂田三吉。そして、坂田、後手番ながら、あえて一手損をして角を換えたのです。そう、「一手損角換り」!! この重要な勝負に、わざと一手遅れるという…!! 坂田将棋のふところの深さを表すところです。
その将棋は、相腰掛銀となりました。先手土居市太郎がガンガン攻めます。後手坂田三吉が受けます。そしてどうやら、坂田の受けがまさりました。
坂田、△2五角。 (←でました! 坂田得意の、角打ち!)
「どうやっても勝ちが見つからない」と、土居は観念しつつ、さらに攻めました。坂田も「一手勝ち」を意識して攻めを返しました。ところが、その優勢な坂田の読みに、「抜け」があったのです。
土居▲4一飛。
「これで勝ちや」と思っていた坂田は、愕然としました。勝ちと思っていた局面が、負けになっていたのです。
土居市太郎が勝ちました。
もしこの対局で坂田三吉が勝っていたら、坂田名人が誕生していたかもしれない、そう言われています。
その後、小野五平12世名人が亡くなり、関根金次郎が13世名人を襲位しました。さらにそれから16年後、関根名人が名人の座を退いた後に、実力制名人戦の制度が始まりました。そうして生まれたのが木村義雄名人(この人も関根の弟子)。木村は、「木村時代」を築き、その後14世名人となりました。
関根が名人であった16年間、一番将棋の強かったのは土居市太郎です。もし、制度が今と同じであったなら、土居も永世名人になっていたと思われます。名人を手にするには実力と、それに加えて、十分な「天運」が必要なようですね。(土居市太郎には「名誉名人」が贈られています。)
僕は一年の内、三分の一は横になって過ごしている。眠くてしようがない。昨日も一昨日も。 ま、ま、ま、これが、オレノジンセイ、なのさ。
足尾銅山のことについて書くとかいたが、それは後回しにして(それを期待している人もいないだろうしなあ)、昨日の将棋名人戦の事などを。
森内-羽生の今期名人戦第2局は、羽生さんが勝ちましたね。今期の羽生さんは「攻めるゼ!」という感じです。
対局の場所は大阪市堺市でした。ここは坂田三吉の生誕の地。明治3年、生まれた当時は舳松(へのまつ)村といい、今は協和町だそうです。
昨日の対局は、立会人が谷川浩司(17世名人の権利をもつ)、そして久保利明が副立会人でしたが、この二人、坂田三吉の「ひ孫弟子」なんですね~。
さて、この対局の戦型は「(後手)一手損角換り」となりました。
数年前からタイトル戦にもよく現われるようになったこの戦法、じつは「どシロオト戦法」としてプロでは指されることのなかった戦法です。おそらく、シロオトの間では400年前から指す人がいたでしょう。しかし、プロは使わなかった。なぜか。「そんなの、いいわけないじゃん」と思っていたからである。
この「一手損角換り」についてかんたんに解説してみる。
将棋には「先手」と「後手」がある。先に指す「先手」のほうがやはり少しだけ(ほんのわずかだけれど)指しやすい。「後手」は一手遅れているので、先手と同じように進めた時に、先手優勢となるカタチがある。後手はそれを避けなければならず、だから作戦の幅が後手の方が狭くなる。
で、「一手損角換り」というのは、その一手遅れている「後手」が、さらにもう一手損をする、つまり先手が指した瞬間には「二手」ほど遅れているというカタチなのだ。「そんなの、理論的に、いいわけない」はずで、だから、ずっと「どシロオト」戦法だったわけ。プロの将棋というのは、考える時間がたっぷりあるので、小さな有利を拡大して「勝ち」に持っていく、そういう将棋になりやすい。アマチュアと違ってそれでメシを食っているのだから、序盤そうそうあえて「損」をするなんてありえないわけだ。
そのありえないと思われていた戦法が、「ん? よく考えたら利点もあるぞ」と、5年くらい前から流行り始めたというのだから、面白い。(でも、流行ってはいても実際はこの戦法、後手の勝率、良くないそうです。)
で、この戦法をプロ棋士として歴史上一番初めに指した棋士はだれか?
坂田三吉なのです! (←おそらく、ですが。今日の記事はこれを言いたかったのです)
90年前に!
時は1917年(大正6年)10月16日。
坂田三吉・土居市太郎戦。 東京有楽町。
この一戦で、後手番の坂田は「一手損角換り」を用いたのです。この対局は余興ではありません。坂田にとって、重要な、勝負将棋でした。ジンセイを左右するほどの。
大正のこの時期、おそらくは坂田三吉の実力は、関根金次郎を上回っていたと思われます。関根金次郎よりも坂田は2歳年下ですが、その坂田ももう48歳です。ですが、坂田三吉のおそるべきところは、この年齢にしてまだ、強くなろうとする意志が見られるところでした。どうも坂田という男、常人とちがう。その異様な「馬力」が関根金次郎を圧倒していたのです。大阪には敵はいない。関根とも対等以上。名人になるためには、坂田三吉は、「自分が一番強い」という証明をきっちりしておく必要がありました。
実はこの時期、一番強かったのは、あるいは東京の、若い30代の土居市太郎ではなかったかと思われます。ですから、坂田が名人になるには、この土居に勝っておく必要があったのです。坂田は土居に対局を申し入れました。
土居は「平手なら」と、その対局を承知しました。(段位は坂田が八段、土居が七段だった) 土居市太郎は、関根金次郎の弟子でした。(出身は愛媛県) 将来、師の関根金次郎が名人になることに、坂田が異を唱えることのできぬよう、土居はこの勝負に勝つことが求められていました。土居にとってもプレッシャーのかかる勝負です。
先手土居市太郎、後手坂田三吉。そして、坂田、後手番ながら、あえて一手損をして角を換えたのです。そう、「一手損角換り」!! この重要な勝負に、わざと一手遅れるという…!! 坂田将棋のふところの深さを表すところです。
その将棋は、相腰掛銀となりました。先手土居市太郎がガンガン攻めます。後手坂田三吉が受けます。そしてどうやら、坂田の受けがまさりました。
坂田、△2五角。 (←でました! 坂田得意の、角打ち!)
「どうやっても勝ちが見つからない」と、土居は観念しつつ、さらに攻めました。坂田も「一手勝ち」を意識して攻めを返しました。ところが、その優勢な坂田の読みに、「抜け」があったのです。
土居▲4一飛。
「これで勝ちや」と思っていた坂田は、愕然としました。勝ちと思っていた局面が、負けになっていたのです。
土居市太郎が勝ちました。
もしこの対局で坂田三吉が勝っていたら、坂田名人が誕生していたかもしれない、そう言われています。
その後、小野五平12世名人が亡くなり、関根金次郎が13世名人を襲位しました。さらにそれから16年後、関根名人が名人の座を退いた後に、実力制名人戦の制度が始まりました。そうして生まれたのが木村義雄名人(この人も関根の弟子)。木村は、「木村時代」を築き、その後14世名人となりました。
関根が名人であった16年間、一番将棋の強かったのは土居市太郎です。もし、制度が今と同じであったなら、土居も永世名人になっていたと思われます。名人を手にするには実力と、それに加えて、十分な「天運」が必要なようですね。(土居市太郎には「名誉名人」が贈られています。)
終局間近は「丸山さんの将棋?」と思われるくらい羽生さん激辛だったそうです。
羽生さんの「勝ちたい」「勝ってやる」執念が見えた将棋でした。
森内さん対羽生さんの対局、先手勝ちが続いているそうですが、次局で羽生さんが勝ってこの記録が終わればと思います。
○ ▲1八香